🔳酒々井町 成田街道の酒々井宿 (2024-11-22)
~宿場町として栄えた成田街道筋~
編/さくら道26
~宿場町として栄えた成田街道筋~
編/さくら道26
酒々井宿は、徳川家康が関東入りした翌年の天正19年(1591)、徳川家康の命により千葉氏の本佐倉城下を宿場町として再編したのが始まりです。
江戸時代の宿場町は、南北に伸びる成田街道の一里塚付近(旧成田信用金庫跡付近)から酒々井麻賀多神社付近まで、上宿・仲宿・下宿・横町の町屋が続いていました。また、成田街道から東へ伸びる銚子道や芝山道がそれぞれ宿内で分岐しており交通の要衝でした。
酒々井宿は継立場でしたが最盛期には10軒弱の宿屋を有する宿場町として、成田山などの参詣者や旅行者で賑わったほか、小見川藩などの参勤交代にも使われました。
また、周辺地域には江戸幕府の広大な佐倉牧があり、野馬取りのための施設を備えた野馬会所や牧士達が宿泊に使用する施設などがあったことでも知られています。
① 京成佐倉駅前
京成酒々井駅行きバスで本佐倉バス停まで。
② 莇(あざみ)吉五郎家
莇吉五郎家は明治時代中期以前に建てられた成田街道の景観を形成する象徴的な建物で、国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。
③ 酒々井の八坂神社
上宿と仲宿の間にある八坂神社は、創建年代等は不詳ながら、徳川家康が天正18年(1590)に関東入国し酒々井に宿場町が形成された際、宿と市場の守り神として牛頭天王社が勧請されたという。江戸期は勝蔵院が別当を勤め、祭礼に際しては勝蔵院に仮屋が設けられていたという。明治維新後、八坂神社と改称し、字天野の熊野神社を合祀している。
④ 島田右衛門家・島田政五郎家
仲宿の島田長右衛門家(本家)・島田政五郎家(分家)は酒々井町登録有形文化財に指定されている。家人によると現在の建物は明治時代に建てられたもので、その後文化財として保存しつつ改築が加えられて現在に至るという。道路に面する店舗は南北棟、住宅棟は店舗と直交する町家づくりになっている。
④ 島田家屋敷の鳥瞰図
「日本博覧図千葉県編」(第九編 明治27年刊)に掲載された島田家屋敷の鳥瞰図である。
島田家本家(図の左側)は、江戸時代に幕府野馬御用を勤めていた家で、広い敷地を有し、嘗ては宅地裏に野馬会所と野馬払い場を有していた。分家(図の右側)は、やはり宅地裏に野馬払い場が続いていた。
⑤ 處寶山勝蔵院の仁王門
仲宿と下宿の境に位置する處寶山勝蔵院 ((処宝山)しょほうざんしょうぞういん)の仁王門である。
⑤ 仁王門の仁王像
仁王門には高さ6尺の二体の仁王像が納められている。
⑤ 勝蔵院の本堂
真言宗智山派。創建年代等は不詳ながら、佐倉藩主戸田能登守忠真(たださね)が元禄12~ 13年(1699~1700)頃に建立したとされる。本堂の不動明王坐像は町指定文化財で ある。
⑤ 勝蔵院本堂の額
本堂に掲げられた「處寶山」の額は戸田能登守の揮毫による。
⑥ 円福院神宮寺
真言宗智山派寺院で山号は酒々井山という。創建年代は不詳ながら残っていた下総板碑(「伝説酒の井碑」脇に移設)から中世の創建と推定されている。江戸期には下宿の麻賀多神社の別当を勤めていた。
⑥ 円福院の酒の井
円福院は、地名酒々井の起源となった孝行息子の伝説で有名な「酒の井」がある寺として知られる。
⑦ 酒々井麻賀多神社
酒々井の麻賀多神社は、千年以上前に建立されたと伝わる。祭神は稚産霊命(わかむすびのみこと)。例祭は10月で、以前は安政6年(1859) 江戸で作られた貴重な人形の山車巡行が見られた。
⑧ 下り松(中川台)からの眺望
酒々井宿の北のはずれを印旛沼の方に向かって下りていくと「下り松」と呼ばる眺望の良い場所にでる。江戸時代は細い道の両側に樹々が生い茂り昼でも薄暗い場所でしばしば追剥ぎが出没したとか。
街道際に石塔が三本あり、一番大きな石塔は出羽三山碑。
⑧ 下り松の案内板
浮世絵「下総印旛ぬま」は元治元年(1864)安藤広重(二代)によるもの。 説明文には「下り松からは印旛沼に浮かぶ高瀬舟や漁師の小船、遠くには筑波山まで眺めることができた」と記載されている。
⑨ 築山
戦国時代には築山の眼前に印旛沼が広がり、沼を通る船を監視する見張り台があった。江戸時代には佐倉藩の御林(藩の木材の供給地)であった。明治初期に払下げられ、木内家が購入して庭の一部とし桜山と呼んだという。
⑩ 京成酒々井駅
今日の散策の終点、京成酒々井駅で解散しました。