一月 暖冬は優し病院前の川
(妻が通う病院前のせせらぎ)
二月 道隔て紅白の梅相対す
(我が家と向かいの家の塀の上)
三月 川口のわずかな砂地の潮招き
(東京東部の河口の風景)
四月 葉桜で反対側の人見えず
(枝が道路を低く覆っています))
五月 松伸びて一際高き鳥の巣
(母校の跡地に辛くも残る松の木)
六月 青梅の転げ来て今晴れ間なり
(庭の梅の幹が太くなりました)
七月 「暑いよね」と聞く言葉さえ暑い朝
(長く続いた猛暑でした)
八月 病持つ人いかならむ蔓たぐり
(庭のつる草が茂り放題)
九月 緑道に急に吹き出た彼岸花
(突然伸びて来る赤い花))
十月 街角で落ち葉掃く人笑い声
(毎日近所を掃いてくれる奇特な人))
十一月 小春日にくじで当たった万円札
(スーパーで予期せぬ当籤)
十二月 伐採の跡地のホーム師走の日
(母校の跡地の一角に高齢者住宅)
一月 平凡に暮らす幸せ年新た
(平穏な年でありますように)
一月 流行り風邪 やっと下火か 鳥の声
(オミクロンも沈静化)
二月 物価高 梅かたくなに 咲かぬまま
(上旬は寒い日が多かった)
三月 コンクリと 早咲き桜 増えた町
(周辺の緑が消える中でなぜか河津桜が)
四月 コロナ去り 桜に集う 人が増え
(目の前の公園の桜を見にくる人々)
五月 芽吹くころ 人さまざまに 思うこと
(少し活動的になって考え出す)
六月 南風 潮路あらわに 光る海
(久しぶりに広い海を見る)
七月 鉢破り なお咲き続く ハイビスカス
(根が大きくなって鉢を割った)
八月 木も山も 日本の夏は かくありき
(コンクリの見えない場所に来て)
九月 秋風も 吹かぬ東京 過密都市
(東京各地でものすごい再開発)
十月 新記録先月からの 暑さかな
(十月九日連続真夏日新記録、秋の季語が使えません)
十一月 霜月と いえども摂氏 二十五度
(十一月上旬の東京都)
十二月 公孫散る 学び舎跡の 開発地
(中学校跡地が有料老人ホームに)
(20240101)
一月 オミクロン 近づき合はぬ 睦月かな
(公園にニメートル間隔との表示)
二月 福は内 小袋のまま 豆を蒔く
(コロナの中、豆を汚さないため)
三月 春風の 中ウーバーに 追い抜かれ
(コロナで増えたウーバー自転車)
四月 任地へと 機影消えゆく 春霞
(息子がまた海外赴任)
五月 揺れ動く 緑白雲 きらめきて
(きれいな空気が一番です)
六月 歴史聞き 味わい深き 新茶古茶
(茶の歴史を老舗から聞く一期一会)
七月 せせらぎと あの日の蛍 懐かしき
(昔の光景が思い出されます)
八月 何十年 過ごした家か 蝉しぐれ
(周辺が建て替えて我が家だけが古く)
九月 客去りて 太陽光の 秋灯
(陽光を吸収して夜光る製品キャリーザサン)
十月 風怪し 時雨来る前 豆の種
(物価高に備えてサヤエンドウを蒔く)
十一月 救急車 桜紅葉の道を 行く
(昌子が八度目の卒倒)
十二月 師走故か ここも混雑 MRI
(幸い大きな異常はなかったようです)
今年もコロナに終始した年でした。早く終息してほしいものです。
一月切実に平和を願う年新た(みんな平穏で幸せに)
(20230101)
鈴木審平
一月 初日の出 苦楽こもごも年を経る
(昨年暮れからコロナが話題に)
二月 さえずりやコロナウイルス気にかかる
(囀りはツイートでなく季語のつもり)
三月 モリカケを食って確定申告す
(中産階級も不安な現代です)
四月 パンデミックの中ひっそりと桜咲く
(孫たち進学でも登校できず)
五月 雲切れて揺るる大木青嵐
(入力したら「句も切れて」と出て来たので苦笑)
六月 梅雨とは呼べぬ列島水浸し
(地球温暖化のせいなのでしょうか)
七月 コロナ禍やキャベツ丹念に洗ひけり
(何事も気をつけて)
八月 暑いねとただ一言の暑さかな
(会っても長く話す気がわかない)
九月 にべもなく秋の虹出ず無線塔
(雲の加減から期待したのに)
十月 Go toも無縁に過ぎし秋の暮
(我が家には全く無縁のキャンペーン)
十一月 声かけてくれる人あり落葉掃き
(たまにしかやらないのですが)
十二月 冬の朝一直線の飛行雲
(あれが新航路かな)
コロナに終始した年でした。世界のコロナが早く終息しますように。
一月 今年こそと願う令和の三年目
(元年風水害、二年はコロナ、三年は?)
皆様と同様だと思いますが、一年中コロナを懸念しながら、慎重に過ごし、何とか恙なく新年を迎えることができました。
息子夫婦や孫たちとさえ接触をせず、リモート・コミュニケーションに終始しました。コロナ下で人と人とが離れて暮らそうという傾向が強まる中でも、心をつなぐコミュニケーションはできるかぎり大切にしたいと考えております。
ネットや電話を通じていろいろ教えていただいた方々にも深く感謝しております。
(20210101)
私の集団疎開は附小に入る前の国民学校3年生の時でした。長野県の山之内温泉卿にあった宿舎で、一つの部屋に6年生から3年生までが二人ずつ、計8名が一緒に寝起きする生活でした。ぼくは一番下級生でしたから、かなりきつい目に遭いました。いつもお腹が空いていましたが、それでも盗みだけは絶対にしなかったのが、心の中の誇りでした。
いつも食事時間が待ち遠しかったことを覚えていますが、食事は大広間で部屋ごとに一つの長テーブルに向かって座り、どんぶり飯かうどん、ふかし芋の主食に味噌汁、野沢菜の漬物か梅干しといったようなものでした。
「しけ食いをするな」と、よく上級生から言われました。「しけ食い」とは、「しけた食い方」つまり「けちけち食うこと」で、それは「他人よりも遅く食べて見せびらかして食うから罪悪だ」ということだったのです。上級生は早く食べ終わって下級生がまだ食べているのを見ていることが多く、そういう時によく、「しけ食いするな」と言われて足を軽く蹴られました。要するに、「遅くなってまだ食えないのなら寄こせ」というサインでもあったわけです。そうならないように慌てて飲み込むのですが、ふかし芋などは急ぐと飲み込みそこなってむせるようになる小さい子がよくいました。そういう時に、残った芋は上級生から「食ってやる」と言って取り上げられてしまうことがありました。
食事の時間以外でも、いつもお腹が空いていて、食い物のことばかり考えていました。道端に生えているスイバという雑草は噛むと酸っぱくて、見つけては、よく口に入れていました。晴れた秋の午後、自由時間で宿舎を出て山の方へ歩いていた時、同級生の一人、B君と会い、「秘密を守るならいいところを教えてやる」と言われて、雑木林の中を歩いてついていくと、雑木の中に栗の木が何本か生えているところがありました。そこでかなり大きな栗が拾えるのです。栗は部屋に持ち帰ったら上級生にとられてしまいますから、その場で工作用の小刀で殻をつついて剥いて生のままガリガリと食べるのです。生であっても、渋みの中にかすかに甘みも感じ、お腹がすいているときは結構、ごちそうです。「あまり、たくさん生で食うとおなかをこわすから、ほどほどがいいのだ」とB君は言っていました。
そのあと、しばらくたったある日、一人でその秘密の場所へ行ってみましたが、もう栗も少なく、見つかりにくくなっていました。大きな栗の木の下に地面から小さく古い藁屋根みたいなものが地面からいきなり三角形に建っている場所があったのですが、その屋根のような建造物のてっぺん近くに、いがの中で大きな栗の実が日に輝いているのを見つけました。
しめたとばかり、その藁屋根に取り付いて近づいていったところ、突然、藁屋根に穴があいて体が落ち、肩から上だけが藁屋根の上に突き出ているような状態になりました。あわてて這い上がろうとすると、屋根は藁や落ち葉が腐って濡れて柔らかくなった状態で、這い上がろうとすると、ばさっと更に大きな穴が体のまわりに空きました。
その穴から覗くと、下は大きな暗がりで、下の方で水がかなり流れているような音がします。あたりは真っ暗ですが、右手にほのかに明るいところがあり、そこから水が流れ出ているようです。暗さに目が慣れて少し暗がりの様子が見えるようになって、ぞっとしました。横に渡された一本の丸太の上に僕の兩足が乗っており、その下数メートルのところに水面があるようです。偶然、ちょうど丸太の上のところに穴があいたので助かったものの、わずかでもずれていたら、水の中に落ちていたというわけです。水の深さはどのくらいあるのかわかりません。また、出口は柵が何本もあって、落ちたら、たとえ浅くても暗がりから外へ出られそうもありません。
「一体、何だろう、これは?」と、周りを調べてみたのですが、水が屋根の下の暗い穴から流れ出てくるだけで、屋根状のものの周囲はほかに開口部も何もありません。柵の内側から絶え間なく出てくる水はしばらく小川として流れて、やがて樹林の斜面を澤になって流れ落ちていき、その先をたどることができません。
足のすくむような思いで、とにかく、上によじ登ろうと思うのですが、体重をかけると、藁と落ち葉が腐って柔らかくなったような屋根は、ボロボロと崩れてしまいそうです。その穴が大きくすぎると、胸や背を支えてくれる周囲の支えがなくなって体が落ちてしまいそうです。上がって崩れるようなら、むしろ,足を載せている丸太にそった方向に少しずつ崩していって、丸太の端の方まで近づいて行ったら脱出できるだろうと考えて進んでいこうとした時、再び、ぼくは凍りつきました。大きな蛇が屋根の上をぼくの方に向かって斜めにそろそろと近づいてくるではありませんか。
信州には蛇が多く、特に水辺では蛙などの餌が多いからか、よく見かけます。珍しいことではないのですが、この時は半身藁に埋まったようで身動きのとれないピンチにありますから、蛇はそういう状態のぼくを狙ってやってくるのではないかと一瞬、感じてしまいました。この状態では噛みつかれても防ぎようがないなと思って立ち尽くしていると、蛇は近づいてから方向を変えてスルスルと屋根から降りていきました。でも、どこへ行ったのかわかりません。ひょっとすると屋根の裏側の方から足を狙って近づいてくるのかもしれないなどと考えました。
そこで、脱出を急ごうとしたのですが、今度は、そう簡単の穴が丸太にそって崩れていってくれません。目指す方向の屋根藁はそんなに腐ってはいないようです。力任せに落とそうとしても、へたをすると狙いよりも大きく崩れて、その勢いでぼくが水の中に落ちてしまうかもしれません。日はだんだん傾いてきて、山中の木々の枝が揺れるようになってきました。焦る気持ちで、這い上がった方がいいか、何とか崩していこうかと思案しているところ、思いがけず、人影が現れました。B君が、彼も久しぶりに、栗を拾いにきたのでした。
「どうしたの?」と尋ねるので「落ちてしまったんだよ」と言うと、B君はすぐに屋根に上って助けてくれようとするから、「屋根が抜けて落ちる、落ちる、穴があく」と伝えると、「ちょっと待ってて」と言って林の奥に消え、しばらくして長い木の枝を持ってきて、その細い方を差し伸べてくれました。
それにつかまれば、穴の中に真っ逆さまに落ちるということはなさそうですから、片手で枝につかまって、屋根によじ登って脱出することがきました。
「地面から壁もなくて屋根だけなんて変だよね。何だろう?」「意地悪なやつが俺たちを捕まえようと思って落とし穴を仕掛けたのかもしれないな」、「蛇も出たんだよ。妖怪の住み家かな」などと言いながら見回ったのですが、もとより何の証拠もみつかりませんでした。その後、その場所には近づきませんでした。
成人になってから考えると、多分、湧水の水源を落ち葉や土砂やごみなどから守るために覆って保護するための仕掛けだったのではないかと思いますが、信州の自然の中で過ごした少年時代のちょっとした冒険心やロマンをくすぐるような思い出として忘れられない体験の一つです。
Document 集団疎開 に収録
(20200425)
鈴木審平
一月 安泰で平平凡凡雑煮食ふ
( 穏無事なお正月でした)
二月 急ぎ買い身に釣り合わぬ防寒着
(身体が少し縮んだか?)
三月 雨の中力込め掃く桜しべ
(早く咲いて長持ちしましたね)
四月 新芽多種植物園のキュレ―ション
(狭い敷地に実に沢山の植栽)
五月 花椎や米中のごと競ひ合う
(トランプと習近平のような二本の樹)
六月 海近き寺あじさいも海の色
(梅雨の晴れ間の一瞬)
七月 帰国後の住居訪なふ鰻飯
(息子一家が帰国赴任)
八月 森の沼耳に纏はる小さき蚊
(小さくても刺されるとかゆい)
九月 秋晴れやご無沙汰同士の同窓会
(本当に久しぶりが多い)
十月 列島の山河崩し去る台風禍
(加えて東京は連続二十日の雨)
十一月 繁華街まともに戻るハロウィーン
(そういうゴミこそ環境汚染)
十二月 冬晴れの心を乱すまつりごと
(耳障りなニュースがいっぱい)
2020年元旦
一月 年明けて今年は何をしようかな
(20200101)
―――今年の4月1日には平成に続く年号の公表がありました。その含意について様々な意見が出ています。諸外国ではこの『令和』という文字は「order and peace(秩序と平和)」を意味すると受け取られたので、外務省は各国在外公館に対し「令和」は「Beautiful Harmony(美しい調和)」との英訳で統一する方針を定めたそうです。
〇〇:私は「令和」と聞いて、すぐに「明和」時代を連想しました。1764年から1772年までの足掛け9年間です。「明和」の元号は『書経』の「九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和万邦、黎民於變時雍」から取られています。後の1926年になって、同じ出典から「昭和」の元号が制定されたということです。
―――確かに「明」の前に「昭」がありますね。その明和時代には何があったのですか?
〇〇:っcがありました。これは江戸三大火の一つとして数えられている大火事です。この年は災害が相次いで起こり、その年の暮には「安永」と改元されたのですが、「明和九年は迷惑年」と言われて、改元直後の落首にも詠み込まれています。
「年号は 安く永くと 変れども 諸式たかくて いまにめいわ九」とありました。
―――「明和九」を「迷惑」と重ねるなんて見事ですね。それにしても、世の中に不満があると狂歌・落首の類が出回るとは、ある意味洒落ていますよね。今の世では、なにか不満・不平があると直ぐにネット(SNS)に直接ぶつけるのが普通になってしまいました。気に入らないと直ぐにX Xハラスメントとして訴えますし、世の中はギスギスしてしまいましたね。むかしみたいなウイット、エスプリの効いた風刺でチクリという風潮はなくなってしまって残念です。
〇〇:でもね。今と違ってその時代は自由に物が言えなかったのですよ。許されなかったのです。明和4年に不敬罪として江戸幕府によって死罪になった甲斐国出身の山県大弐は、江戸で大義名分に基づく尊王思想を鼓吹したためです。政権は自分にとって不都合な言論には、死を以て報いているのです。ですから、大衆は不平不満を無記名の狂歌・落首に託すしかなかった時代です。自由にものの言える今の時代のほうが、はるかに良いのではないですか。
―――火事は江戸の華と言われるくらい頻繁にありましたね。
〇〇:江戸の民家の殆どの屋根は、こけらぶき(杮葺)といって木材の薄板だったのですよ。こけらぶきは本来は瓦を乗せる下地ですが、あまりにも火事が頻繁にあるので、いっそ燃えるならすぐに燃えてしまえという考えだったのでしょうね。ほら、落語に横丁の裏店住まいがでてくるでしょ。江戸のほとんどの町民は、大家さんが家主で建てた借間で、たった一間の仮住まいだったのです。
ここに、明和大火の絵図があります。「明和9年江戸目黒行人坂大火之図」です。国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができます。
出典:https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/F1000000000000049888
―――でもね、地図が東を上にして描かれているのは良いにしても、図は説明の文章と上下逆になっていますよね。読みにくいのに、どうしてなのですか?
〇〇:たしかに地名などが天地逆になって表示されているのが目立ちますが、よく見ると正しい向きになっている地名、屋敷名の表記もあり、左向き、右向きのものもあって混在しています。そういう書き方をしたこの時代の地図は時々目にしますが、多くの文字が逆向きになるこの地図をなぜこの向きで使ったのかということですよね。
私の感じですが、江戸城を中心にして、火元と延焼していった先などが動きでよくわかるように、また火が燃えていく様子を表すのにふさわしいと考えたのではないでしょうか。つまり、向きさえわかれば、細かい文字は読まなくても、当時の人は江戸の街並みを見当がつけられたのでしょう。
―――これを東京に当てはめて大体の感じはわかりますが、町が大名屋敷の名前で書かれているみたいですね。
〇〇:現代人が見ると、この江戸の地図ではどこがどこという見当はつけにくいですよね。東西南北のような方向感も距離感も、現代のように正確に測量された地図が頭に浮かぶ我々とはかなり違っています。道筋よりもむしろ著名な屋敷名で街並みを表現している点も特徴ですよね。消火の時にも、日常的にも、誰のお屋敷なのかを判断して動くのが習慣的になっていたのかもしれません。
江戸幕府は川を変える技術が優れていましたから、流れを変える工事も行なわれて、川の流れ方も今とは変っています。中央付近に大きな池があるのですが溜池です。今はそんな池はありません。わたしたちが勤め始めた頃には、もうそんなものはありませんでしたが、大雨が降ると水がどこからかあふれてくるようなビルがまだこのあたりにはありました。今では巨大な地下街などの地下空間が設けられている区域で、その面影もまったく見られません。当時の人が地図を見る時には、この池は大きな目印だったのでしょう。地図の見方の感覚が、当時の人と我々現代人とでは大きく変っているのでしょう。
―――火事は目黒の大圓寺から始まったそうですがそこから南西には広がっていないので、強い南西風に煽られて火事が北東へと燃え移っていったのがわかりますね。
〇〇:明和九年(1772年)2月29日(陰暦ですから、3月末です。南風の吹くこともあるでしょうが、この日は西南の風だったとのこと)大園寺(目黒川のほとりの雅叙園の隣が今でも崖になっていますが、その上の寺から出た火は、今の目黒駅近くまで続く急坂を燃え上がり、白金、三田新網町へ、麻布、狸穴(まみあな)、飯倉(東京タワーの近く)と燃え、一緒になって幅が広がったり、また分かれたりしながら、桜田、虎ノ門、丸の内、日比谷、馬場崎門、和田倉門、神田橋,常盤橋、日本橋に入った火は(今はない町名が列記されていますが、その界隈を焼き)、神田に入ったものは小川町、駿河台,昌平橋、外神田、神田明神、湯島天神、上野、車坂、広小路、御徒町、入谷、箕輪、小塚原、吉原、千住ときて、大橋向かいの掃部(かもん)宿まで燃え移りました。
その夜、別に、本郷で失火があり、駒込、白山、千駄木口、根津、谷中、根岸などに燃え移りました。翌日、風向きが北、東へと変って、焼け残っていた大伝馬町、馬喰町、浜町、小網町、 室町、京橋も延焼し、そのあと大雨になって風もやみ、火が鎮まったということです。
―――江戸の三分の一が燃えて、町の6割が燃えて死者数万人と言われる明暦の大火(俗に振袖火事)に次ぐ被害が出たと言われていますが、「明和9年江戸目黒行人坂大火之図」を見ると、焼けた区域はもっと少ない感じですね。
〇〇:この地図が明和の大火で延焼した全域を表しているのか、当時、何日にもわたって風向きも変わりながら燃えていったこの火事の最終的な延焼地なのか、その途中なのか、火消 の仲間の管轄地域のいくつかのうちの一部なのか、目黒の大園寺の長五郎坊主の放火を火元とする最初の出火で燃えた部分だけを示しているのか、翌日に本郷から出た別の失火による消失部分を含んでいるのか、よくわかりません。この地図では中仙道添いに焼けていっている長い部分があるのは「街道沿いに燃える物があったけれども、周囲は空き地が多かったのかな」とも思われ、興味深い地図ですね。
ただ、私の感覚ではもっと広く燃えたのではないかという印象を持っています。熊田葦城篇、『江戸懐古録』(誠文堂書店、大正7年)には明和の大火で燃えていった過程を、町名ごとに克明し記していまして、今では知らない町名も沢山出てきますが、だいたいの延焼経路の見当がつきます。
―――いくら火事は江戸の華と言っても、大量の家が焼けたあとの再建で江戸の人たちは大変なことだったでしょうね。
〇〇:その年の11月になって、改元があり、明和は安永と変りましたが、その時、先ほど示した落首があったのですよ。今のツイッターのようなものでしょうが、当時はうっかりつぶやけば,ご公儀に文句をつけたということで処罰されるおそれが多分にあったと思います。それでも、そういう落首が人目にさらされるということは人の口に扉は立てられないことを表しているのでしょう。
大火事の後の庶民の生活が物資の不足と物価の上昇で困窮したまま、いまだに回復しない。年号だけ変えても、復興は遅れているよという庶民の気持ちが表われているように感じます。
産経新聞が発行した『東京風土記』では、この火事で江戸八百八町のうち六百三十町をなめつくし」とありますから、うだとすると当時家があった町のほぼ4分の3は燃えてしまったということになります。かなり広い範囲の地域が燃えたわけですが、この地図で色がついていないところは、上記のうちの一部の火事だけ図示されているのか、偉い人の家屋敷は表示されているが密集した庶民の居住地は除かれているのか、このころはまだ家がなかったかのどれかなのかもしれません。
―――第二次大戦ではアメリカ軍の空爆で特に東京の下町は徹底的に焼き尽くされました。家が木と紙でできている弱点を突かれたわけです。今は家の建築時の耐火基準が高くなったので、このような大火は起きないでしょうね。
〇〇:今の東京だったら、建造物の耐火機能は格段に向上しているでしょうが、人口の密集度はもっと高くなっていますし、ガソリンやガスなどの可燃物を貯蔵する施設や設備の数も増えています。だいぶ前のことですが、附小の南西のやや高台にあったガソリンスタンドから出火して消防車が何台もきて鎮火したはずだったのに、翌日、坂下の数カ所の下水溝に流れてきた油に火が付き、上のコンクリートを跳ね上げて住民を驚かせた事件もありました。
落下する危険物も江戸時代の当時と比べてたくさんあります。太平洋戦争時の空襲と比べても、格段に危険物は増えているでしょう。テロにせよ、戦争にせよ、原爆でなくても通常のミサイルの誤射にせよ、地震などの天災にせよ、大事故にせよ、大火に結びつくような事態が生じないように、太平洋戦争の戦火を身近にあびた我々の世代の体験も参考にしてもらいながら、明和ではない令和が平和に保たれて発展していくことを切望します。 太平洋戦争時の空襲の火の色を知っていたり、空襲による死傷の実話を直接聞いたりしている我々の世代がそれを伝えないと、安易に「戦争して領土を取り返せばいい」と無暗に発言してしまうようなゲーム機世代、スマホ世代の人たちがたくさん出てきてしまうことになりそうです。
明和でもう一つ、先ほど触れていましたが、有名なものに明和事件に儒学者で兵学者、山縣大弐が、講話の題材として幕府に刃向かうような仮の事例を取り上げたとして、一人は死罪、もう一人はそれより重い磔(はりつけ)にされています。幕府に対する不敬の罪を問われたのでしょうが、言論弾圧の典型のような、暗さの伴う事件で、これも考えると、どうも明和のイメージはよくありません。
改元のおめでたいムードに水をさし、さらに冷やして冷和にしようという意図で記したわけではないのですが、いつまでもムードだけに浮かれていないで、考えられる災害に関する現実のむずかしい問題点を着実に見すえて、考えられる危険性をよく検討して、地道に取れる対策の努力をしていくことが、今の日本人にはもっと必要なのではないでしょうか。
―――とても勉強になりました。〇〇さん、お忙しいところをいろいろとお話しくださってありがとうございました。ところで、先程の明和時代の狂歌の真似をしてみました。
『美しい 調和をめざす 令和でも 米中冷戦 ヘイセイならず』
〇〇:ハハハ。急いで作ったにしてはトリマですね。
―――なんですか?そのトリマっていうのは?
〇〇:「とりあえず、まあまあ」というギャル語です。わたしたちが今を元気に生きていくには、ギャル語にも精通しないとね。
―――はあ、ヤババ。
FORUM-1 に収録
(20190515)
今年、4月の晩春と5月の連休明けに薬師池公園を散策した。都内でありながら比較的簡単に季節の自然を満喫しながらウォーキングできるスポットだと思う。
小田急線町田駅北口を出て90mほど行くと左手にバス停が見える。西口の大きなバス停とは違うので注意が必要。バスはコンビニの向かい側から、平日の10時台、11時台は各時12分おきに出ている。野津田車庫または鶴川駅行きに乗る
町田の市街地を抜けて鎌倉街道を進む。菅原神社を過ぎ、ひなた村というバス停がある。そのあたりだけ、昔の農村風景をちょっぴり残している。町田から二十分ぐらいの薬師池で下車。左手後方に薬師池公園の裏口がある。正門に回る必要はなく、この入り口から入ったほうが、雰囲気がいい。木の間がくれに薬師池を右手に見下ろしながらゆっくり回るように池面のへりへと降りていく。晩春に来た時は池のほとりの赤いツツジの植栽が青い池とのコントラストとなってきれいだった。途中、小さな滝が道を横切って池の方に流れ落ちていた。晩春に来た時は傾斜地のシャガの群落がよく花をつけていた。
鶏小屋のところで道は大きく方向を変えて進み、菖蒲田のほとりを歩く。鴨がさかんに水中の餌をとっている。「三脚を利用した撮影は禁止」との標識がある。右手に水車小屋があり、苔むした木製の水車がゆっくりと回る。それを動かしている水流は、先ほどの小さな滝の水を引いているらしい。この水車は、もともとは別の場所で米搗きに使われていたのを移設したのだそうだ。水音と水車のきしむような音はタイムスリップしたような感覚を呼び起こす。すぐそばに井桁があるが、中は埋められていて水はない。
歩くにつれ池は大きくなってくるが、池のくびれたところに二連につながる太鼓橋がある。池に垂れた新緑がきれいだった。めぐっていくと茶屋があり、晩春に来た時は、茶屋の前のやや大きな藤棚の薄紫色の花が香っていた。5月中旬に再び来た時には、その花はもう衰えていた。今年は咲くのが早かったようだ。
茶店の前で地場の野菜や竹の子を売っている。春には「のらぼう菜」という茎が甘い葉物野菜を1束200円で菜の花つきのまま売っていたが、たまたま直後にテレビ番組で昭島市の「のらぼう菜」が紹介されていた。5月にはもう売っていなかった。池のほとりから上がる斜面を利用した梅林があり、散策路となっているが、階段の間の土に張ってあったはずの芝がはげてタンポポ、スギナ、ヒメジオンなどの野草が好き放題に生えていたり、本来は植えていない路面に勝手に芝が進出して繁茂しているのが、この土地の人工を乗り越えた自然な感じを強めている。手入れをしていないわけではないが、広いので作業が追いつかないのだろう。モグラが土を持ち上げた跡があちこちに走っている。梅林の中はベンチが多い。
起伏のあるところだが、道路がうまく作られていて、ちょっと脚の悪い人でもかなりの部分は歩けるように出来ている。梅林の上にも小さな池が作られていて、静かな水音が心地よい。小松と楓、何種類かの羊歯植物があり、この小池の裏手の道は険しく、竹やぶの中に入っていく。それを抜けたところに大きな三つ葉の化け物のような植物があり、三つ葉に似た葉の先端はとがっていて、葉の巾は40センチぐらいはある。その株元から大きな芽が伸びようとしているが、まるで蛇が鎌首をもたげているように見える。帰って図鑑で調べたらヤマシャクナゲに似ているようだが、確かではない。
外周道路に出て緩やかに下がっていくと、「奉納 秘仏薬師如来」と書かれた赤い旗が何本も並んでいるのが見えてくる。その前を進み、左手の参道の石段を登って野津田薬師堂の境内に入る。「開山 行基菩薩」とある。それが本当なら、奈良時代聖武天皇の頃で、全国に国分寺、国分尼寺が建造されたころである。このお堂自体は何度か建て替えられた物である。行基は大阪の河内出身と言われるが、最初は「僧としての正当な資格もないのに民衆を惑わすような手段で怪しげな布教をする」として、当時の佛教界の本流や政権側から「小僧行基なる者」と名指しで非難されたが、治水土木、医療などの知識や窮民救済活動などによって大衆への人気は高かったという。のちに許されて正式の僧と認められ、東大寺の建設では土木技術の見識や、働き手の動員力などで大きな貢献をして、最後には僧職の最高峰、大僧正になって尊敬を集めるようになったという。
佛教は、その本来の宗教の力のほかに、多分、当時の先端技術や情報力が布教の力に大きく寄与し、それによって人々の敬意を集めたのではなかろうか。為政者も宗教の力を活用しようとしたのは理解できるが、当時の天皇、皇后が仏教に帰依して、優しい気持ちで民衆の医療や治水に取り組んだことが大衆の尊敬を集めたとも考えられる。そんなことを妄想のように考えながら境内にしばしたたずむと、鬱積していた心がリフレッシュされてくる。
このお堂は、その後何回か戦火や盗賊による被害を受けて再建されてきた経緯が説明板に出ている。春来た時には、薬師堂には紙風船のような模様のカラー提灯が左右に吊るされ、そのそれぞれに奉納者の氏名が書かれている。堂の前に、提灯五千円、のぼり旗一万円と、奉納料が明記されているのは、いかにも現代的な感じがした。拝殿前の道路の真ん中には立派な大イチョウが道の両側を越えるほどにまで枝を広げている。
このあたりは北条氏照の支配地域だったという。大石の姓も名乗った氏照は、八王子あたりの城を守り、小田原城落城のあと北条氏政らと共に切腹した一人で、北条氏の主戦派の重鎮だった。このあたりは武蔵野の薪炭林の面影を残していると書かれた説明を見て、改めてあたりの木々を見上げると、吹いてくる風がさわやかだ。神社の脇から更に階段を登ると公園の外に出るが、公園出口の外のあたりもまだ樹林が続いている。人家が点在するが、自然がまだ十分に残っている。神社を出てダリア園まで11分とあるが、開園期間は7月から11月までということなので、まだ早すぎるので行かなかった。ボタン園も近いようだが、これはもう終ってしまっていた(4月14日から5月8日まで)。えびね苑も近いが、4月19日から5月6日までだから、これは終了していた。周辺にもいろいろな見どころがあるらしい。
拝殿前の右手の建物には大きな白い象の置物があり、その付近に右采女(うねめ)霊神という祠がある。髪結職の創始者だそうで、理髪業界関係者の信仰を集めているようだ。 斜面には多数のツバキが植えられていて、その中のくねくねした、起伏の多い小道を巡ることができ、名前を見るとカタカナ名のものも含めて相当な種類が集められている。でも、五月に訪れた時は、夏ツバキすら一輪も咲いていなかった。その道はアジサイ園につながっている。アジサイもまだ大方が固いつぼみの状態であった。
池を過ぎると、フォトギャラリーがあり、地元の人たちの作品が展示されていた。春行った時にはサクラなどの春の花、夏行った時には鳥や虫などの写真が展示されていたから、展示作品がひんぱんに変るのかもしれない。更に進んで行くと自由民権運動を記念した造作がある。自由民権運動にも種類があるらしいが、ここでの自由民権運動は豪農を中心とした農民の参政権への希求と税制への不満を表現する運動だったらしく、全国的に見ても運動が盛んな地域だったとのことである。
更に、そこを過ぎて正門の方に向かうと、また水辺になり、大賀ハスが植えられているところがあるが、開花は7月中旬から8月中旬らしい。わずかに黄菖蒲の花がところどころに咲いていたが、カルガモや鯉が退屈そうに泳いでいるばかり。ちょうどいろいろな花の端境期に訪問したわけだが、人があまり居らず、特に5月中旬の訪問は水と緑だけの静かな公園であった。そのかわり、まさに万緑、一面の緑だった。
バス停まで戻って、道路を渡ると、リス園がある。老人は300円の入園料。入り口のデザインや飾り方から見ると子供向きの公園かなと思ったが、入ってみたら、結構、大人も老人も多かった。多数のタイワンリスが放し飼いにされている。餌代100円でヒマワリの種が入った小袋を買う。必ず両手に分厚い手袋をはめて餌を与えることになっている。
はっきり場内に警告が出ているわけではないが、ネズミやリスなどに嚙まれると発熱や震えが止まらなくなり、一旦直っても何度も繰り返す厄介な病気にかかることがあるので、多分、それを防止しているのであろう。手にもリスが乗ってくることがあって、可愛いのだが、私は気味が悪いので、柵の柱の上などに餌を置くとリスの方も安心して近づいてくる。巣箱が何十も建てられていて、質問してみたら、だいたい個体ごとに自分の巣が決まっているが、中には数匹が共同利用することもあるのだそうだ。活発なリスは場内をすごい勢いで走り回ったり、時々高くないたりする。スペースがあるだけ、元気に暮らすことができるのだろう。
5月に行った時は、リス園を出てから、まだ時間があったので、来た時と同じバスで、もっと先の野津田公園にまで行くことにした。野津田車庫で降りると、そこは薬師池以上に広い公園で、二つあるうちの右側の入り口を入って行くと、広い敷地の中にスポーツ施設が点在していて、その間が広く空いている。雑草が深々と生えている広いくぼ地や、その周りに樹林や小さな丘があったりする。友人と3人で行ったのだが、一人は樹林の丘を登る木製の荒れた階段を登りかけたところで、「足にもう自信がない」と言う。もう一人は歩き足りないようで、「行こう、行こう」と言う。あまり地理がわからない、こんな広い公園ではぐれたら、探すのが大変だから、妥協して、もっと広い舗装路を迂回して進むこととなり、丘の向こう側に出たが、そこもまたあたりは一面の緑だった。その中で遥かにテニスコートらしいものが見える。バラ園や湿生植物園までまだ遠そうだから、もう帰りたいと一人が言う。
80代となると、体力にも個人差が出てくるのだろう。人気(ひとけ)のないところで、転んだり、卒倒することになっても困る。もう一人は少し残念そうだったが、バス停にまで戻ることとなった。
本当は、更にバスで先まで行き、綾部入り口という駅で降りて2分のところに西山美術館まで行く手がある。地元出身の事業の成功者が大金をかけて集めたロダンの彫刻とか印象派の絵画などの美術品もあるが、多数の紫水晶がびっしりと内部に生えているのを見せるように切断された大きな岩石とか、赤やピンクや白やブルーや緑の大小の岩石、黒字に白い菊の花が満開に咲いているように見える岩石など、珍しい石や岩の見事なコレクションが豊富に見られる。入場券を買う際、小さな水晶の粒が多数小皿に入れて置いてあって、一粒、持ち帰ってもいいことになっている。それを大切に財布に入れておくとお金が貯まる御利益があるという。3度ほど、この美術館に行ったことがあるが、何だか確かに御利益があるような気がする。そのかわり、その水晶の粒を紛失すると、心なしか懐が寒くなってくるような気がする。
この美術館はバス停から2分で門まではいくが、門を入ってから急坂をかなり登った山の上に、展示場の建物がある。小山の上なので、晴れた日には見晴らしがよい。ここまで来たら、バス停からは町田に戻らずに終点の鶴川駅まで行って帰るのがいい。鶴川は小田急線で、町田よりも普通電車で2駅、東京寄りである。
ちなみに、このバスは神奈川中央交通だが、町田市内での乗降は東京都内だから、上記のコースは東京都のシルバーパスを持っている人は無料で乗れる。5月の時は上記の事情で予定よりも早く終わったので、帰路は町田から小田急で成城学園まで280円、そのあとは渋谷行きのバスでゆっくり帰ったから、交通費は280円×2=560円しか掛からなかった。野津田公園にはもう一度出直して行ってみたいと思っている。
Essay 紀行文 に収録
(20180613)
秀吉が小田原城を攻囲した時に小田原城を見下ろす山上に城を築いたあと周囲の樹林を伐採して突然、北条方に城を見せて士気を砕いたという、一夜城に行ってきた。
小田原からJRで1駅の早川から2.5キロの道のりで、一方的な登りである。藤沢で友人の絵画展を見たついでに行ったので、早川に着いたのはちょうど昼時だった。駅の真ん前の漁港に面した店で散らし寿司を注文した。飯の上にやたらと色々な種類の魚片を無造作に並べてあり、すごく大雑把な感じの店だった。「前のお客様に出し忘れたのですが食べてください」と、からごと煮た大きなつぶ貝を付け足してくれたのには驚いた。
東海道線の線路の下の小さなトンネルを抜けて複雑な小道を抜けるとすぐに舗装された農道になり、これが単調な登り調子が2キロ強、最後まで続く。最初に出てきたのは、ほとんど激しい戦いをせずに持久戦となったこの戦いで、病気を押して参陣していて陣没した堀久太郎秀政を祀った海蔵寺がひっそりと右側に建っていた。海蔵寺の墓地がつきるあたりに堀秀政に関する簡単な説明板があり、振り返ると相模湾が青く大きく広がって見える。小田原城の再建された天守閣と海の風景がよく見えるのはこのあたりだ。もっと登っていくと海の展望はより広く大きく見える風景が展開されるが、小田原城の位置からは遠く離れていくので周囲や背景のビル群や市街に呑みこまれて城は見えにくくなっていく。
夏みかんの畑越しに高速道路がおもちゃのプラレール○Rのように見下ろせる。その先は広い青い海。快晴だったが沖の方に白い雲がいくつかぽっかり浮かんでいた。「猿に餌をやらないでください」という標識を小田原氏野猿対策協議会が出している。
曲がりくねった道なのに、時折だが、すごいスピードで走り下ってくる自動車には注意を要する。老人の農業関係者が多いようだ。ここも「自動車を見たら老人と思え」と言われるような場所だなと思いながら、やや単調な道を登る。右手は早川の谷で、対岸を箱根登山鉄道に湯元でつながる連結車両がゆっくりと走っているのが小さく見えた。
左手に伊達政宗の説明板が現れる。この山では秀吉と伊達政宗が主役だ。我々が小学校の4、5年生で、まだ戦後の物資不足のため本も少なかったころ、父の書棚にあった菊池寛の「日本武将譚」を何度も読みふけったが、その中に伊達政宗単独の章があるほか、最後にもう一度、「秀吉と政宗」という章が出てきて、菊池寛がこの二人のしたたかなやり取りを描写している。小田原攻め参陣に遅れた政宗が秀吉になかなか会ってもらえず、箱根底倉温泉に待機を命ぜられ、このまま城が落ちれば切腹を命じる使者が来るかもしれないと従者たちが恐れる中、政宗は悠然としていて、あえてそういう立場にもかかわらず秀吉に仕える茶人、千利休に茶道の教えを請い、狙い通りそれを契機に秀吉に目通りを許されるというような経緯を詳細に綴っている。そしてついに対面を果して、会津は削られたが他の領地は安堵されたのが、この石垣山の上だった。その準備段階で、国許を発つ前から想定問答を家臣に秀吉役を演じさせて練り上げていく政宗のしたたかな姿を描いた菊池寛の文章を思い出しながら、なおも登り続ける。文芸春秋の創立に携わった一人と言われ、「生活第一、文学第二」とまで言い切ったと伝えられる菊池寛のこの著書は、したたかに生きた戦国武将たちの生き方を描いていて興味深い。
学生時代にアルバイトで校正などを手伝った出版社は雑司が谷の菊池寛の屋敷跡にあった。毎晩、遅くまでいた社員に夕飯が供されるのが、この会社の経営上の特徴で、その時には社長からアルバイトまで全員が車座になって一緒に食べるのだが、真ん中にとても大きな蜆汁の鍋があってお代わり何杯でも自由ということだった。その時は家族のような雰囲気があって社長と社員が直接言葉を交わす。社会人になる前に仕事の世界を垣間見たことは後々貴重な体験となった。そんなことも思い出しながら、一本調子の長い坂をなおも登り続けた。
イチジクの新芽が勢いよく吹いているところを過ぎると黄色い実をたわわにつけた夏みかん畑、路傍の赤いツツジ。振り返ると青々とした海は更に大きく、遠くまで見えるようになっている。長く横たわる三浦半島は少し霞んでいる。白い船が悠々と動いていく。
宇喜田秀家の看板が出て来る。攻囲に加わっていた秀家が篭城していた北条氏房に慰安の酒を贈って講和を勧め、氏房からも伊豆の酒を城中から宇喜田へ贈り返したという説明が出ていたが、単調になりがちな上り坂の途中にあるこうした看板は、手短かな説明だが、うまく人の心を捉えると思う。
右手に送電線の鉄塔が現れ、そのあたりは両側コンクリートの壁となり、急に殺風景な光景に変るが、そこを通り過ぎるとがけの両側の上に木立が茂っていて、初夏の日差しから守られる影に入ってちょっとほっとする。次の看板は徳川家康。秀吉と小田原城に向かって小便をしながら、戦後の家康の領地を関東にするということに合意したという、本当かウソか分からないが、いわゆる「関東のつれ小便」の逸話を思い出すが、そんなことは看板には書いてない。
老朽化したトタンの屋根と屋根の農業倉庫を過ぎると左手に大きく海が見える。ここまで登ると駿河湾の幾筋もの潮の流れが駿河湾にうねっているのがよく見え、同じ快晴の海でも高さによって少しずつ表情を変えるのがよくわかる。高速道路のインターチェンジはもう本当に小さくなって足元近くに見える。東海道線の列車が通っていくのも本当におもちゃのように小さく見えるのだが、そのゴットンゴットンというような列車の音が風に乗って以外に大きく聞こえるのが不思議な感じだった。
羽柴秀次の看板が出て来る。のちに秀吉に切腹を命じられて哀れな生涯を閉じた秀次もこの時は元気に参陣していたわけだ。人の運命のはかなさを思いながら、さらみ歩いていくと上の方から走ってきた青いきれいな乗用車が突然停まって、降りてきた人が海に向かって立小便を始めた。考えてみると、このコースは沿道にトイレが見当たらなかった。「でも、歩いているのではなくて車なのだから我慢して下まで降りられないものかなあ」と内心憤慨しながらも、無視して通りすぎた。
さらに登っていくと、左側の農地が途切れて深い谷となるが、青竹が群生していて谷底は見えない。さらに登ると谷は浅くなり、ふたたび小さい農地になって、いろいろな作物が植えられたごく小さい畑がる。自家用の作物なのかもしれないが、菜の花と赤い豆の花、大根の白い花、ジャガイモの若い葉などに目をやりながら登ると淀君の看板があり、その先に数本の大きな山桜があり、赤い花房の間から葉桜がどんどん伸びていこうとするところだった。看板を見ると、淀君が秀頼と大阪城で自害した時は、彼女はアラフォーが終ってアラフィフになろうとする頃だったのかなと考えるような表示になっている。
その先に、右手に無造作に土塀や石積みの見本が置いてある所があり、小田原庭園業組合が出しているのだとのこと。小田原オリーブモデル園があって、小田原市のオリーブ栽培の試みが推進されていることがわかる。
城址公園に到着だ。公園の前に駐車場があり、その中に公衆トイレがある。宗教法人の施設の門と道路の方が立派で、公園は一見目立たないが、石垣山一夜城歴史公園と書かれた石碑がたっていて、園内の案内図が掲出されている。けばけばしいものは何もなく、きわめて素朴で地味な公園であまり派手な標識などはない。売店などの施設も一切見当たらなかった。
杉木立の下の階段を登っていくと、シャガの群生地帯があるが、シャガが繁茂しすぎたので刈ってあるという表示があった。石垣保存のための工法の説明板があり、二の丸跡,馬屋跡などなどが出てくる。広い芝生があり、その先に白とピンクの遅咲きの桜の木が目立っていた。青々とした芝生を見ていると、菊池寛が描いた政宗と秀吉の対面の場面の描写を思い出す。すでに事前に前田利家や施薬院全宗、和久宗是の詰問にうまく答えていた政宗が秀吉から「遅参の義は許す」と言われ、「会津は取り上げるがその他はその方の心のままにせよ」と伝えられたあと、用意してきた砂金を緞子(どんす)の袋でいくつも無造作に広蓋の上に空けて、こぼれた砂金を拾おうともせぬ豪快な献上ぶりだったとその場面を思い出す。緞子は絹織物の特殊な織り方で当時は唐でしか織れなかったらしいから、いわば舶来で超ハイカラで高級な入れ物だったということになるのだろう。すっかり気に入った秀吉に連れられて二人きりで斜面を登り、小田原城を陸海から囲んで手前の早川口から彼方の酒匂川口にかけて展開する配下の諸部隊を得意げに紹介する秀吉の姿を菊池寛は描いている。陸上に展開する隊の一つを「右府殿のご子息の信雄(のぶかつ)じゃ」と秀吉が言ったと記述しているが、右府殿とはかつての主君、織田信長で、そのご子息と言いながら信雄と呼び捨てにしているあたりが面白いし、陣没した堀正秀が生きていたら会津に入れてそちと取り組ませたいところだったと釘をさしているところも、したたかな両者のやり取りとして見事に描かれている。そういう描写を思い出しながら、このあたりの風景を見ているとそれなりの納得が得られる。
二の丸跡の広場から急坂を上がった本丸の展望台からは、秀吉と政宗当時と同じように手前の早川口から、はるか向こうの酒匂口まで広がる海陸を見晴らすことができ、そこに展開する全国から集まって武将の諸軍の位置を想像することはできるけれども、肝心の小田原城の位置はマンションや大きな建物が無数に建つ周囲の市街地に呑まれてはっきりしない。むしろ、通ってきた道路の途中の方が、お城のよく見える場所があった。
本丸跡そのものは大きな樫の木々が茂っていて展望台以外では展望がほとんどきかない。「まむしに注意」などという標識もある。どちらかというとあまり手をかけずに、自然のままにしてある感じである。
本丸跡とは反対側の展望台もあったが、そこには小田原城跡を指し示す矢印があったが、その方向には、芽を吹いた若木の枝が伸びて来ていて、海も城もあまりよく見えなかった。むしろ、ここからは、二子山、駒ケ岳、神山、早雲山、明星、明神などの箱根の山々や丹沢までが晴天の中ではっきりと見えたのがすばらしかった。
その近くにある淀君の化粧水と言われた井戸跡は「さざゑ井戸」とも呼ばれているが、本当にサザエの殻のような感じのするらせん状の石の道を降りて行くのだから、滑らないように足場に十分気をつける必要がある。山腹にあった泉水を、自然の山腹の崖を利用して下方の二方向を高い長い石積みで遮断して囲って守り、水をためたものだ。当時、大変な工事だったことだろう。その道ですれ違った人が「これだけぜいたくなことをして、この城は結局、使い捨てだったのですよね。もったいないなあ」と語りかけてきた。同感でもあるが、この城で威嚇したおかげで、北条方は氏政、氏照と重臣一人の切腹だけで、その他は軍民共に多くの人命が戦火の犠牲にならずに済んだのだとも考えればそれなりの役割を果したのだとも言えよう。
早雲に始まる後北条五代は概して善政だったと言われる。北条早雲と言えば、我々が小学生の頃は、どちらかというと悪巧みに長けた評判が悪い武将だった。鹿狩りにかこつけて領土を奪ったとか、強いけれども油断のならぬ寧人のように言われていたようだ。
その後、中央公論社の「日本の歴史」(最新のものよりも一つ前の版)には、杉山博さんの「早雲の見方は戦後の研究で随分変わって来るだろうし、これからも変わるだろう」という主旨の記述があった。最近では伊東潤さんの「戦国北条記」は北条氏側にあえて立つと書かれているが、きわめて北条氏に同情的な見方が多数紹介されている。他の領主よりも税や賦役が軽く、善政を布いたから住民の支持が強く、当然、攻められても兵糧の調達や敵方に関する情報提供にも進んで協力するだろうから、守りは堅くなるだろう。
江戸時代から太平洋戦争までの時代の雰囲気の中では、早雲のような油断のならない、したたかなやり方は為政者にとっては不都合なものであっただろうし、天下の大勢に最後まで盾ついたような行為も愚鈍な抵抗と見たほうが為政者にとって都合がよかったのかもしれない。この点についても、伊東潤さんは、北条氏が頑迷だったというよりも、北条氏や各地の北条氏協力者の領地を奪って論功行賞のために使うことを目的とした秀吉の計画の前では仕方がない成り行き、運命だったとしている。
領民の協力があってこそ、強い国が作れる。税金をだらしなく使って、あとで物価が上がれば国の借金も返しやすくなるなどと、万一、考えているような政治だったら国はまとめられないだろう。もっとも、今の税金は、まともなところ、高齢化対策や所得の再配分、インフラなどの必要性に伴って使われている部分が多いから、あまり激越なことは言うつもりはないが、無駄遣いと見られることに国民が怒るのは当然だろう――などと考えまがら、帰路につく。
入生田に抜ける別の道を帰る手もあったが、あえて同じ道を選んだ。それは正解だったようだ。帰りは振り返らなくても下界の海と陸を見下ろして十分楽しみながらの快適な下り坂だ。農道を抜けたところで、本来は白亜の本体だが夕日に頬を赤く染める厄除け魚篭観音を拝み、駅前の土岩という専門店のかまぼこを買って帰宅した。
1.7キロのこのコースは全国ウォーキングコース100選に入っている。自動車で史跡公園に行っただけだったら、「何だ、手入れもしていなくてこれだけか。つまらない」と言うことになるかもしれない。立って歩かず、自動車では見逃してしまうスポットごとの風景がたくさんあるから、ウォーキング向きのコースだと思う。歩けるうちはできるだけ、しかも無理なく歩いた方が肉体的にも精神的にも健康を保てる。きつくなったら、どこで引き返しても、それなりにいいコースだ。トイレがないこと、お弁当を必ず持っていくことが要注意点だ。
北条早雲が81歳のころには、のちに油壺湾を血に染める殺戮戦で三浦義同(よぢあつ)を攻めて三浦半島を平定する戦いに取り組んでいた。我々も、早雲のその元気さにはあやかりつつ、殺戮戦ではない別のことに関わり続けていきたいものである。
Essay 紀行文 に収録
(20180418)
{蛇足}
鈴木さんの紀行文「 石垣山一夜城まで歩く」をお読みになって、この城や歴史についてもっと知りたい方は、インターネットで検索されると良いと思います。
中でも、歴史については:
http://www.geocities.jp/qbpbd900/ishigakiyamajo.html
一夜城公園内部については:
https://akiou.wordpress.com/2015/12/14/ishigakiyama-p3/
https://akiou.wordpress.com/2015/12/14/ishigakiyama-p4/
が、お薦めです
山形さんから「とぼけた味のエッセイを書いて」と言われました。「と」の字を文字通りとっ払って、「ぼけたエッセイ」の状態になっているかもしれませんが、最近感じていることをつづります。
『不死身の特攻兵』
最近読んだ本で興味深かったのは、『不死身の特攻兵』、講談社現代新書です。特攻隊に組み込まれながら、できれば死なずに何回でも出撃した方が役立つはずだと信じて、8回、数え方によれば9回も特攻機から生還した元隊員の記録とインタビューです。
付属中に通った方は覚えていらっしゃると思うのですが、私たちは、元特攻隊員、インパール作戦の生き残り、学徒動員の元新兵さんだった各先生がたから直接、当時の体験談を間近な時点で聞くことができましたし、それぞれ強烈な印象を受けたものでした。ところが、この著者は昭和33年生まれですから、「その当時のことなどは実感としてわからないだろう」と考えながら読み始めたのでしたが、この本では私たちだったら普通質問できなかったような、世代が違うからこそできるインタビューをしています。
「もう来ないでくれ」と元特攻兵から言われても訪問し,死の二週間前にさえ面接して、永遠に失われるはずだった記録を残しています。質問内容も「特攻機内では大小便はどうしたのですか」というようなことまで聞いて、それによって出撃前夜の食事の状態とか当日朝の最後の食事はバナナだったということも聞き出しています。戦争終了後とは言え、人によっては「そんなの敵前逃亡字ではないか」と当時なら言われかねなかったような行動、我々の中学校時代には遠慮して聞けなかったし、語ろうとも思わなかったような事実まで淡々と取材しています。我々が当時、先生の話から聞きたがったのは「何機撃墜したのですか?」、「どうやって小銃で河岸から輸送船を沈めたのですか?」というようなことが主だったですよね。時がたち、インタービューアーの世代が違うからこそ残せた記録なのかもしれないと思うのです。
これほど、すごい体験ではなくても、我々の世代の戦時体験もほっておけば消えていくでしょう。元気なうちに伝えたいことは何らかの形で残しておけば後世の人たちにとって参考になる素材になるかもしれません。
この元特攻兵のように、能力が人並み外れて高く、運にも恵まれて、最後まで活動をしたあと生還することができれば、テレビドラマだったらハッピーエンドのストーリーでしょうが、この方の場合は生還後も厳しい人生が続いたようです。戦争がいかに多くの個人やその家族の生活を無慈悲に奪ってしまうものかを感じ、戦争という紛争解決手段は、極力避けたいものだと強く感じました。
『小池小泉「脱原発」のウソ』
『小池小泉「脱原発」のウソ』飛鳥新社は題名が個人攻撃のような激越なタイトルのため、一見ゾッキ本のような印象を受けましたが、エネルギー、外交、核燃料サイクルと、分野が違った3人の専門家の共著で、書かれているのは、まじめで具体的な論証を積み重ねたな内容です。
それによると、日本は原発停止を補うための追加燃料費年間約3兆円をこれまで何年も外国に支払ってきたとのことです。さらにそれによる経済的影響や波及効果を考えると日本は膨大な損失をしてきて、それをみんなで負担してきたことになります。「原発には便所がない」とよく言われる放射性廃棄物の処理についても、この著書では地層処理で大丈夫だとしており、仮に火山の噴火があってもこの方法ならまず大丈夫だとして、その根拠を詳しく記述しています。
地層処理については、最近、NHKの元記者がやはり「原発には便所がないのがまず第一の問題だ」と原発反対論を始めたので、「放送大学の原子力利用の講座では地層処理と言っていたではないのか?」とたずねて答を待ったら、講座内容を知らなかったようなので、ちょっと驚きました。
この著書は、広大なジュンク堂東急本店内店舗には平積みで置いてありました。平済みされているということは、その書店で売れると期待しているか、力を入れて売っているかのどちらかです。ところが新聞関係者を中心にマスコミ関係者がよく集まる日比谷のプレスセンター内の同じく広大なジュンク堂店舗には、反原発の書籍はたくさん並べてあるのに、この著書『脱原発のウソ』は平積みはおろか、背表紙を向けた陳列さえ探しても見当たらず、「ほぼ同時期に同系の書店店舗なのになぜだろう? プレスセンターの書店では売れないのだろうか?」と不思議に思いました。
原発賛否の議論の背景には関連する業界別の利害の対立、国際間の利害の思惑、政界・学会等も含む組織内の論争や対立など、さまざまな経緯(いきさつ)や利害、抗争などの要素もからんで複雑な展開を見せてきたのではないでしょうか。中には情緒的、感情的な訴求や哲学・宗教的な見解もあるようですが、そうではなくて、また政治利用のための反論でもなくて、専門家たちの科学的・具体的な事実に基づくきちんとした議論とかその結果を勉強したいものです。そうした科学的、客観的論証こそが必要なのだと思います。
その意味では、この著書の題名は個人攻撃を目的にした本のようにみえてしまうので残念です。小池さんは今は逆風状態ですが、これも原発と同様、ムード的情緒的反感の対象とはしたくないです。今後、都知事として、何人かの元知事たちと比較してすぐれた実績を着実に残すことを期待したいと思っています。
ここまで、書いていたら、伊方原発再稼動反対の広島市民の訴訟に対して広島高裁が再稼動停止を命じる判決が出たというニュースが出てきたのでびっくりしました。報道によれば、9万年前の阿蘇山の噴火のような大規模噴火があって火砕流が押し寄せるという事態が考えられないとは言い切れないというのが主な根拠のようです。素人目には、「9万年も前に起ったそのような噴火が再稼動予想期間の40年間にどのぐらいの確率で起きるのだろうか?」という気がします。また、仮にそのような火砕流が九州と四国の間の海を乗り越えて伊方にまで達するようなことがあるのだとしたら、原発の有無に関わらず大変な被害をもたらすはずで、そこに原発の存在が加わることによって、どれだけ被害が拡大するのか、この判決の根拠として、それをどう計算しているのかということが、これまでのニュースではよくわかりません。
熊本地震を引き起こした二つの大きな断層が伊方の方につながっているということが、意識されているのかと思いますが、科学的に本当にどう専門家の大多数が考えているのか、そのような専門家たちの議論を素人にもわかりやすく解説するような、科学的な報道をしてほしいなと思います。ただ、旗を持って勝訴と喚声を上げている人々とか、困っている事業者とか表面的な現象だけを大きく報道するだけではなく、専門家の論議を深く、しかもわかりやすく報道してほしいと思います。原発に関する、やや情緒的なあるいは哲学的な、あるいはオーバーな「社会的怪談」は、ある時期、警戒を強める意味で有益な効果ももたらしたかもしれませんが、逆に有害な影響もあったと思います。これからは科学的な論議とその結果の紹介が大事だと思います。
また、今後40年間に伊方原発を壊すほどの阿蘇の火山爆発の可能性が、軽視できないぐらいに高いのだったら、原発がなくても避難路の確保等の回避努力をはじめさまざまな事前施策や措置が早急に必要になるはずです。もし、本当にそうなら、早急にその対策を進めるべきでしょう。
再稼動差し止めの判決は高裁では初めてのことです。異議申し立てで別の高裁裁判官によってくつがえされる可能性があるとはいえ、高裁でさえそのような判決が出たということは、原発問題に関する国論の分裂の深さを感じさせます。それにも関わらず、この問題は日本国民にとって大きな問題です。再稼動の是非を国民投票によって決めたらいいではないかとい意見がありますが、私は簡単には賛同できません。リップマンというジャーナリストが「ファントム・パブリック・オピニオン」と言ったとおり、世論は幻のようなところがあり、直前のちょっとした出来事や有力な人物のふとした発言等で意外に大きく変ったり、ゆらぐことがあります。世論は決して無視してはいけないのですが、機械的にある一時点の世論調査に硬直的・永続的に準拠することは間違いのもとです。「だから、こうして意思決定したらいいじゃないか」ということについては、私見はありますが、荒唐無稽なところがあり、それこそ「あいつ、ぼけた」と言われるおそれがありますから、もう少しよく考えてから発言するなら発言することにしたいと思います。
山形さんの寄生虫に関する記述、興味深く拝見しました。世界で唯一の寄生虫専門の博物館が目黒にありますが、私も時々、行きます。かねてから若いカップルのデートスポットになっていて、寄生虫入りのペンダントとかボールペンなど、寄生虫に関連したグッズも置いてあって思わず笑わせられます。そんな見方しかしていなかったので、山形さんの文章を拝見して「そうなんだ!」と感じ、展示で紹介されている諸研究の価値と研究者の努力に気づかされた思いです。
そんな見方しかしていなかったので、山形さんの文章を拝見して「そうなんだ!」と感じ、展示で紹介されている諸研究の価値と研究者の努力に気づかされた思いです。
寄生虫館の展示の中に、象皮症という寄生虫由来の病気で陰嚢が異常に大きくなり、自分の一物を布にくるんで天秤棒につるして、自分の肩でその一端をかつぎ、前に立つ人にその片棒をかついでもらって運びながら移動している図がありました。もちろん、それほどひどくはなかったけれども、来年の大河ドラマの中心人物、西郷隆盛がこの病気だったとのことです。寄生虫病の怖さを印象的に表している展示だと思います。
私が関心を持っているのは、館内にある数々の人獣共通症の説明です。本来は家畜も含めた動物の病気なのに、人にも感染してやっかいな病気になることがあるということですが、それも実にいろいろなものがあることがわかります。テレビでもSNSなどのネットの世界でも ペットブームが華やかですが、こうしたペットブームの裏面も考えてほしいものです。
私個人としては、家の目の前に公園があるため、そこへつれて来られたたくさんの犬や、放たれたネコたちが垂れ流す頻尿にやブラッシングの獣毛などに毎日悩まされています。寄生虫館の展示と合わせて考えると、腹立たしくてしかたがありません。
でも、昨今のことですから、すぐキレる人がいるので、面と向かって苦言を呈するのは危険です。面と向かって直接苦情を言うと相手も対応を逃れられない局面となりがちなので、切れることになりやすいのでしょう。
そこで一計を案じたのが鼻歌を歌って、直接的ではないが、やや激越なコミュニケーションを行なう手段が有効です。「菜の花畑に犬が糞し」という歌い出しのものや、「人んち(人の家)の方まで来てイヌのくそ」というような歌詞を、例えばヨドバシカメラの「まあるい緑の山の手線」のコマーシャルソングのようなよく知られたメロディーに乗せて歌うのです。この元歌は米国の南北戦争の少し前のジョン・ブラウンの乱で刑死した奴隷開放派のテロリストの死骸が腐っていき、魂だけが空を飛んでいくという歌詞がついていて、南北戦争時には北軍の兵士が行進する時などに歌ったのだそうです。メロディーは美しいが、歌詞は最大級に汚いというので、のちに歌詞を変えて歌われるようになったようです。そのためか、どこかイヌの糞も歌にふさわしいところがあります。それを聞いた相手はもちろん不愉快になるでしょうが、直接言われているわけではありませんから、言い返してはきません。「ここへ来ると、せっかくの散歩なのに気分が悪い」、「ここへ来ると意地悪なおじいちゃんがいるから行こ」などということで、あまり来なくなります。それこそ、こちらの狙いどおりの効果です。少しは反省してもらわければいけない人たちがたくさんいるのです。
そんな中で、ソニーがロボット犬を再発売するというニュースがあります。将来、よくできたAIつきの犬のロボットが久しぶりの日本発ヒット商品になればいいなと思います。「AIの発達でホワイトカラーはもちろん、医師さえロボットに職を奪われるかも」というような時代が来ると言って、1930年のシンギュラリティ(技術的特異点)の悲観的な未来図を警戒する声もありますが、イヌのロボットの話はAIの活用の未来に関してほほえましい要素を含んでいると思います。
イヌのロボットなら糞もしないし、「貧乏人の子供の食料を金持ちが何匹もの犬に浪費してやりたいほうだい」ということもなくなります。1月15日ごろ店頭に並ぶようですが、従来よりも進歩した犬ロボットのようです。事前に一部報道されているような画像をみると、最近出ている人型のロボットと同様、金属的な外見のロボットのようです。私たちの幼少期には田河水泡さんが描いた「のらくろ」を愛読しましたが、田河さんの別の漫画で、ロボットが主役の作品があったのをご覧になったかたがいらっしゃるでしょう。そのロボットは「カネセイ(金製)」、「ゴムセイ」という名前だったと記憶します。昭和初期に描かれた、この漫画のカネセイは四角い顔のゴツゴツした印象のロボットでしたが、ゴムセイが今、事務所や店頭などの案内ロボットの多くによく似ていると思います。そうしたロボットの登場する『漫画の缶詰』の復刻版が昭和44年に講談社から出版されています。どうもロボットの形というと、そういうものをみんな思い浮かべるのでしょう。
事前PRで見る限り、新しい犬ロボットには毛が生えていないようです。生きている犬猫の弊害をなくしてくれて心の癒やしを実現する新製品に期待する者の一人としては、心の癒やしのためには毛が生えていることが必要ではないかと、何となく思います。
人の会社の製品についていらざることを含めて、くだらぬことを長々と書いている自分は、やっぱり本当にぼけてきているのかもしれません。
Essay-これぞエッセイ に収録
(20171218)
鈴木 審平母校の跡地は、その後順調に整備が進み、子供たちの運動や遊びの場として利用者が増えています。イヌの糞をばらまいていく無責任な手合いも少なくなって静かな環境が保たれています。学校跡から南側2本目の太い道路、から環状7号線、小学校正門と郵便局があったバス道と裏側の野沢龍雲寺交差点に抜けるバス道路の4本の道路に囲まれたエリアは「ゾーン30」となって、自動車に時速30キロ以下のスピード制限がかけられています。
ところが、最近立て続けに2度ほど、自転車で十字路を横切った際に横1m以内で自動車が急停車する、あわやの事態を体験しました。最近、学芸大学付属高校裏のイチョウ並木の通りに「危険 自転車の飛び出し注意!!」という派手な大きな看板が出たのを目にしました。私もマークされている一人かもしれません。自転車族の一人として、認知症運転者と言われないように注意しようと思います。
このWebsiteへの投稿を促された日には、眼底出血の予後の検査で目があまり見えず、応答が遅れました。せっかくみんなのためのフォーラムをつくっていただいているわけですから、「こんなこと、みんなどう思っているだろうか」というようなことを書いてみました。どれも「つれづれなるままに」綴ったようなもので、それほど真剣に思いつめているわけではなく思い浮かべたことを率直に記したものです。間違っている点があればご指摘いただければと思います。
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トランプ大統領、早くから土方さんが、その分析と予測を記述されていらっしゃいましたが、私が今、興味を持っているのは、「伝統的な旧型メディアとあれほどあからさまに対立して、うまくやっていけるのかな」という点です。
ツイッターなどのデジタルメディアは伝え手としては伝えたいことをそのまま伝えられ、メディア側の解釈とか見方の影響を受けず、ゆがみなく伝えられるから使い勝手がいいですし、新しいメディアをうまく利用することは為政者にとって効果的な手段となりますから、さかんに利用するわけです。ナチスは当時の新しいメディアだった超小型レコードで歌やメッセージを流して効果的な宣伝をやったということです。
広告の世界では、現在伸びている大きなメディアはデジタルメディアだけで、テレビはほぼ横ばい気味、新聞、雑誌、ラジオの広告費は、もはや全部合わせてもデジタルメディアに追いつかない状況になってしまいました。それだけ強力なメディアをコミュニケーション手段の中軸に置こうとする戦略は理解できます。
しかし、旧型メディアには、視聴者がことさらに情報を取ろうとしなくてもひとりでに、ある意味では強制的に飛び込んでくるという特徴があり、それなりの力があります。使い勝手がいいデジタルメディアに傾き、旧型メディアを相手にしない態度をあからさまに示し続け、フェイクメディアと決め付けたり、取材・応答を拒否する態度を続ける広報戦略が、もしうまくいったら、ますます旧型メディアは劣勢に追い込まれていくことになるでしょう。トランプ政権がこの傾向を変えないとすれば、旧型メディアも必死に反撃するでしょうから、この勝負は見ものです。
もちろん、旧型メディアもデジタル技術の活用は推進していくでしょうが、やはり、その形態としてはスマホやパソコンに入った新聞であり、テレビです。旧型メディアとデジタルメディアが融合してAbemaTVのように、視聴者が無料で見ることができる新しい番組ができたり、有料で見られるマージャンなどの実況が見られるような、新しい試みも出て来るので、事態をもう少し複雑に考えなくてはいけない部分はありますが、基本的にはツイッターなど送り手が自在に送ることが出来るメディアと、一旦プロの解釈や要約などの過程が入る旧型メディアが対比される状態は続くでしょう。その勢力図が今後どうなっていくかという問題は今後も続くと思います。
短くとも、整理されていなくても、雑多でも、生の声がそのまま伝わってくるメディアを重視し、それを取り巻くデジタルの世界のコミュニケーションの世界に軸足を置いて、情報をとって仲間たちと活用していく人たちと、経験や知識・素養などに裏打ちされた情報のプロたちのフィルターを経てある程度整理された情報を評価し、活用していこうとする人たちの、どちらの勢力が強くなっていくかが、この勝負の行方を決めるのではないかと思います。デジタルメディアと旧型メディアは、それぞれを支える組織や事業体、プレヤーが違っている傾向が今のところ強く、それぞれ強力な組織となっています。トランプ大統領と旧型メディアの勝負の行方を見守っている関係者は多いと思います。
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ミサイルが日本に飛んでくる懸念については、恐ろしくなってくるばかりです。軍事については何もわからないのですが、素人なりにニュースを見ていると、空母の艦隊のデモンストレーションと、そんなものはいつでも撃てるし、報復できるぞというデモンストレーションとがせめぎあっている宣伝合戦の段階のように見えます。
宣伝合戦という点だけで言うならば、もし本当にミサイル発射をやめさせたいのだったら、ミサイルの撃てる潜水艦を多数配置して、時々さまざまな所に浮上するというデモンストレーションの方が発射の抑止に役立つのではないかと思ってしまいます。ミサイルを試射してそれらの小さい潜水艦の一つにでも当ったら、たちまち激しい報復を受けるでしょうから、そう安易には撃てないのではないかと思いますが違うのでしょうか。
「米軍基地以外の日本にもミサイルを落とすぞ」と言う宣伝を聞くと、我々の世代では、すぐに太平洋戦争の空襲体験を思い出します。「出てこい、ニミッツ、マッカーサー」などと歌って虚勢を張っていたころの戦中体験は、我々よりも3歳ぐらい若い世代だと、もう完全には伝わりにくいようです。
あのころの防空壕よりも、今のシェルターは優れているでしょうし、水や非常食などの備蓄も今の方がずっと便利で優れたものが作られています。そういう手段は進歩しましたけれども、空襲の破壊力はそれよりも格段と大きくなっています。「そんな時、そんな備えをしても何の役にも立たないから、何もしないさ」という人もいます。「地震もあることだし、やはり非常事態への備えをしておこう」という人もいます。皆さん、個人レベルではどう備えているのでしょうか?
今後、事態が更にエスカレートして、突然、ショッキングな報道があると、それをきっかけに物不足パニックが起るおそれがありますが、それは避けたいものです。東北関東大震災の直後には首都圏でも、一時、パニック症状的な動きが出て、それと似たような現象が見られました。やはり、緊張があまり高まらない、今のうちから、みんな徐々に備えておくようにしたほうが、みんなのためにも賢明ではないでしょうか。
個人レベルでも、シェルターをつくるという人がいます。お金がある人はそれができるでしょう。米国の竜巻多発地域では、死傷被害を受けるのはシェルターを持たない、特にトレーラーハウスなど簡易な住宅に住んでいる人たちの被害が多いそうで、ここにも所得格差があるようです。もっと被害が深刻になると公共シェルターなどの論議が起ってくるかもしれません。
今、俄に慌てふためくのは、むしろ滑稽(こっけい)ですらありますが、今からゆだんなく個人レベルでも、缶詰や水などの備蓄も含めて、それぞれが備えておくことは必要なのではないでしょうか。それが、いざという時に、「助けてください」の他人依存一辺倒を軽減し、パニックを起こさない歯止めになるのではないかと思います。
なーんちゃってるけど、自分自身を振り返ってみると、あまり備えができていません。これからやるつもりです。
イメージはインターネットから借用
Essay-これぞエッセイ に収録
(20170601)
山形さんのブログを見ていたら、淡路町まで行って落語を聴いて笑ってきたそうで、この歳になるまで落語を観に行ったことがないなんて驚きですが、それでも結構なことで、何となくほのぼのとした感じでした。いやなニュースや先行きの見通せない事象の中で、笑いはいい処方かもしれません。同時に、人を笑わせることができればもっといいのかな。
でも、世の中、けしからぬことや不合理だと思うことが目につきます。多分、「最近、けしからんと思うこと」というアンケートを出したら、相当な反応があるのではないかなと思ったりします。
人は怒っていたり、逆境にあるときは、笑いの素材がなかなかないのでしょうね。でも、ちょっとその気になって探せば身の回りにも、何かあるかもしれません。最近、小生の周辺でも、こんなことがありました。
よく家まわりの修理などで面倒を見てもらっている大工さんが、「最近、下馬ではネズミが増えましてね」と言うのです。下馬とは我々の学んだ小学校のあった町で、かなり周囲に広がっている大きな町です。結構、外観が立派なお宅でも、出没して悩まされているお宅が多いのだそうです。
「うちは見たことがないなあ」と言っていたのですが、先日、私の書斎というよりは物置化している部屋に持ち込んでおいた紅茶用の砂糖のスティックが1本破れて砂糖が少し飛び出していました。
血糖値が要注意なのであまり使わなくなっているのに、そう言えばなんだか本数が減っていくような気がしてきました。砂糖の代わりにキシリトールのチューインガムのボトルのふたを開けっぱなしにしておいたら、これも数が減ったようです。 USA TODAYのホロビッツという食品分野に強いコラムニストが10年前に予想したのが当たって、ガムは機能性ガム(オペレーショナルガム=何かの効能があるガム)の人気が高いそうです。
ネズミも「このガムは歯にいいそうだ、チュー」とか言ってこのチューインガムを食べているのかなと考えたりします。サプリ米とかいうビタミン、ミネラルが入っている黄色い米の小さな袋も、もしかしたら狙われたのかもしれません。
イメージはインターネットから借用
友だちと「ネズミもサプリを食ったら健康になるのかな」、「チューインガムをネズミは噛むのかなあ。飲んだらフンはどういう形になるのだろう」などと電話で雑談していたら、かみさんが聞きつけて「本当にネズミ、いるの?」と、電話の後すごい剣幕で聞いてきたので、「いや、オータナティブ・ファクトだよ、まあ虚構だ」と煙に巻いて逃げたのですよ。 でもね、追い打ちが来て「そういう、ありもしないのに無くなった、無くなった」というのは認知症の始まりよ。病院に行ってみてもらってちょうだい」と迫ります。なかなか、ネズミのように速足でサッとは逃げられないのですよ。 以上、お粗末でした。
Essay-これぞエッセイ に収録
(20170218)
鈴木 審平
一月 続落にシュンとして今朝寒の入り
(年初は下がりましたよね)
二月 春節の爆買いの波 地上地下
(当時の銀座周辺)
三月 芽吹く中 保育園児は楽しそう
(公園に囲まれた保育園)
四月 群雀の踊るがごとし花吹雪
(窓辺から見る公園の桜)
五月 日を追ひて緑濃くなる遊歩道
(蛇崩川緑道・中目黒高架下に至る)
六月 心読む人不思議なり梅雨晴れ間
(そういう方に会いました)
七月 世界中奇言奇行の暑さかな
(××旋風××離脱など)
八月 夕凪に濃すぎる色の百日紅
(暑い夏の日々でした)
九月 草の実をズボンにつけてポケモンゴー
(よく歩いたようですね)
十月 事件ありし池復旧す蛍草
(バラバラ事件の碑文谷公園の池)
十一月 手作りの干し柿 心にしみる味
(福島から安全検査証付きで届く)
十二月 怒り鎮めれど師走の風荒ぶ
(年金減額、医療費負担増の可能性)
2017年元旦
一月 初御空 変化の年を生き抜かん
(前向きにがんばります)
(20170103)
我々の小学校の跡地は、すっかり公園と保育園に生まれ変わり、子供たちにさかんに活用されています。
学芸大学駅から来る道がまっすぐそのまま、公園に入る門に突き当たり、保育園を左に見て、ゆるやかな斜面を登っていく両側は草地で、正面は高いネットを張った広場となっています。
かつての野球グラウンドとの境はコンクリートの壁で仕切られてはいますが、小さな子が安心してボールを思い切りけったり、キャッチボールをしたりすることができます。固いボールは禁止されていますが、それでも、小さい公園ではできない球技が少しのびのびと楽しめる広場が、この公園のメインとなっています。
保育園は制限人数いっぱいまでの児童が通っていて大人気で、昼間はいつも賑やかです。ほとんどのところが整備されて新しくなりましたが、一部に残るコンクリートの外壁だけは従来と同様で古いおもかげを残していますけれども、かなりきたなくなってはげた部分に応急の上塗りをしている箇所が目立ちます。ごく一部残されたこの壁面だけが我々の追憶をよみがえらせてくれるものです。
付属高校(我々のいたころの学芸大学の本校)の校舎は昔とあまり変ていません。先日の校内暴力事件の報道でテレビにも正門の風景がさかんに登場しました。周辺の主婦たちは高齢化した人たちが多いのですが、事件のあとしばらくは、数人で群れて、校舎の方を見ながらひそひそと話すような姿があちこちに見られました。普段、あまり立ち入らない広大な敷地なので、そこで何が起こったのだろうと、薄気味悪く感じる人が多かったようです。駅に通う道から数本はずれた裏道で、帰路にアベックとなって抱き合ったり、キスをしたりする生徒は、このところ見かけなくなりました。
高校を含めた敷地は、我々がいたころよりもイチョウが大木に成長し、あとから植えられたものも含めて、イチョウが非常に目立つ敷地になっています。
特に付属高校の裏手(グラウンドのそば)の道のイチョウは見事で、故川上哲治巨人軍元監督が好んだ散歩道でした。この道をたどって2ブロック学校から晴れた坂の中途に川上家があったのですが、相続したご遺族がその跡地を今、売りに出しています。その数軒先のアパートの3階に、例の碑文谷公園バラバラ事件の犯人がいたのですが、中丸小学校の門前です。
小学校旧校舎跡地の公園もイチョウの木が多く、今年は特に黄色が晴天に映えて見事です。地面いっぱいに降り積もったイチョウの葉を子供たちは雪合戦のようにつかんで投げ合ったりしてはしゃぎます。自然が少なくなった近隣の中で、子供たちにとっては貴重な体験なのでしょう。
「付記」
保育園と公園については、3回ほど前だったか、同窓会で、区が考えていた公園の計画段階で配布していた絵図と小生の撮ったそのころの現状の写真をご覧に入れたので、だいたいの感じがわかっている同級生が多いと思いますが、ほぼその時の絵図どおり完成しています。 要は付属小学校の敷地一杯が広場のような公園となり、そこに保育園が小さく真ん中に食い込んだような形になっています。
保育園の門は付属小学校の門があった所と同位置に設けられていて、坂と階段の二つがあります。公園への出入り口は、この保育園を挟んで両側にあり、その一つはかつての付属小学校正が駅から通った道がつきたたったところにあります。公園の出入り口は、このほかに角を直角に曲がった道にそっても2つありまして、すごく出入り口の多い公園になっています。
広い敷地のうち学芸大学付属校(かつてのわれわれが呼んだ学芸大学本校)のグラウンドは健在で、そこと講堂があった場所に接する四角い西北の隅を大きく切りとる形で高いネットが張られ、子供がボールを思い切って投げたり、けったりすることができるように囲ってあるだけで、あとは基本的に広場で、特に案内板はありません。