去る4月の誕生日を機に運転免許の更新を受けた。高齢者特別研修などを経て、新しい免許証を実際に受け取ったのは2月6日。意図した訳ではないが、3月からの改正道路交通法の施行前の駆け込み更新となった。高齢者には、認知症の惧れがないかに始まり、ハンドルやブレーキの操作の機敏性など様々なテストが課される。5点満点で3点台、可もなし不可もなしの合格だった。年齢の割に好成績だったのは「視野」の広さ。長年政府・日銀でマクロ経済を見ていたためかと思ったが、そういうこととは関係ない。ネコ科の動物のように左右の眼の間隔が開いていると視野は広くなるらしい。しかも、テスト結果を記した紙に、この数字は本人の申告に基づくもので、試験官が保証するものではないとの添え書きがある。
初めて免許を取ったのは昭和41年の10月。ほぼ五十年前のことである。この免許はパリのノートルダムの向かいにあるパリ警視庁で交付を受けた。「駆け込み」ではないが、厳しい日本の免許制度をかい潜って受けたという点ではちょっとウマイことをした感は拭えない。翌年帰国に際しこの免許を国際免許に切り替え、帰国後鮫洲に赴いて日本の免許に替えて貰った。4月に更新したのは、これが脈々と続いているものである。フランスで5年近く運転し、帰国後の運転歴は(途中2年間の米国勤務を挟み)40年余。この間天祐も味方して無事故の実績を重ね、今や代々ゴールド免許を続けている。勿論81歳になった今でも運転は現役。片道175キロ程の八ヶ岳東山麓の山荘モドキに年5,6回行くのは専らクルマ。都内でもコンサートホールやスポーツクラブなどに行くのに度々クルマを使う。車好き、運転好きではないし、天性の不器用ゆえ細かい運転技術は下手糞だと自覚しているが、必要に応じ週に5日程は運転して今のところ何の問題も無い。日本流の厳しい試験をクリアしなくても、己を知り謙虚に振る舞えば大丈夫ということなのだろう。ただ、高速道路を逆走したり、歩道に乗り上げ通学中の児童をナギ倒したり、高齢者運転の事故は信じられないような被害を生む。世の大勢は、少なくとも高齢者に対しては日本流の厳しい規制を更に強化する方向のようだ。小生の場合、三年後の更新が極端に難しくなれば、挑戦する意欲を失うかもしれない。五十年続いた運転免許は、そんなに珍しいことではないだろうが、この鈍骨にとってはそれなりの達成感がある。今振り返ると、五十年前フランスで免許を取ったのは、日本に居続けてはあり得なかった飛躍だったような気がする。当時の記憶には曖昧な部分もあるが、思い出すことの出来る範囲で「飛躍」の実態を書き綴ってみたい。
1.ソー公園
昭和41年の7月、小生は生れて初めて飛行機に乗り、パリに旅立った。その少し前、フランス政府の「技術留学生(ブルシエ・テクニーク)」の試験に合格し、勤務先の大蔵省から長期休暇を得てパリに渡ったのである。「技術」留学とは、典型的には電力会社の社員がフランスに来てフランスの電力会社で使われている技術や作業法などを実地に学ぶというようなこと。昭和41年頃はフランスは日本よりかなり進んだ文明国という認識があったのか。その認識はさて措き産業の分野で味方を増やすことが当時のフランス外交の大方針だったようだ。やや押し売りの感無きにしも非ずだが、それでも選考試験を必要とする程希望者が殺到したのは、フランスの文化発信力の強さの反映だろう。小生の場合、学ぶべき「技術」は財政金融。当時の大蔵省や日銀がフランスに学ぶことが多いと考えていたかどうか定かではないが、早い話、国費を使わずにフランス語を多少喋れる人材を幾人か育成しようという敗戦国の習い性も尾を引いていたに違いない。(その後5年程でこの習性は改まり、「国費留学生」制度が発足。5年以上後輩の連中は遥かに良い条件でフランスにも留学するようになった。)
話が長くなったが、「技術」研修は秋にスタートするから、7月にはパリ南郊のカシャンにある寮に留学生は集められ、フランス語のダメ押し研修を受けるかたわら、日帰りのバス旅行でパリ近郊の名所を見学するなどしてフランスに慣れるよう仕向けられる。小生は出発が遅れ、寮に入ったのは7月下旬。アルミ合金?で外装を固めた4階建ての瀟洒な寮で、各人に個室があてがわれ、小生は4階の住人となった。1階には談話室があり、ここで附小・附中を通じて2期先輩のYさんのお話を聞いたのが物語の始まりである。Yさんは、ご専攻は何か分らなかったが、典型的なエンジニアの技術留学生だった。談話室でお話を聞いたのは2回程、何処で運転免許の話になったのか記憶がはっきりしないが、ここでタラタラ研修を受けている間に思い切って免許を取ったらどうかとアドヴァイスして下さったような気がする。そして、オートエコールと呼ばれる免許の教習所、試験のあらまし、中古車市場関連の情報などを伝授していただいた。
「オートエコール」、字義通りに訳せば自動車学校。フランスでは初歩から路上実習だから、日本の教習場のような広い敷地は持っていない。幸いなことに、カシャンの最寄り駅地下鉄ソー線のバニューの目の前に小さなオートエコールが一つあり、寮から歩いて5分程だった。間口5メートル程の店構えで正面にカウンターがあり受付や記録を行う。近くの路上に何台もの車が置かれ、受講生はそのうち1台を選び、横に教官が乗ってその指示で運転を始める。因みにソー線はパリ市交通局が運営する地下鉄(メトロ)の一つの路線で、パリ南郊の住宅地とパリを結ぶ長い編成の通勤列車が走っていた。東京の半蔵門線と同じで、郊外に出ると専ら地上を走る地下鉄である。ソー線とは、バニューの一つ先の「ソー公園(パルクドソー)」の名をとったもの。ソー公園は小さいながら立派なシャトーを備えた緑豊かな公園で、その周辺は起伏に富み車が余り通らない小道が巡っている。当時のフランス車は大多数がフロアシフト、「坂道の発進」が運転免許の重要な試験項目だったこともあって、小生が通ったオートエコールの路上実習はソー公園周辺を廻ることが多かった。
オートエコールは全国至る所にあり、規模は大小さまざまらしい。人口がさほど多くないカシャン・バニューの我がオートエコールは、家族経営の零細企業だった。主人は赤ら顔の痩せた男で自身指導員を務め、マダムは金髪の小太りで小柄、巻き舌で勢い良く喋る人。いつもカウンターに陣取り受講生の受付、記録、会計などを担当していた。ほかに指導員のピエール。彼は所謂メカニシャン(技師)で使用人のようだった。昔観た映画で題名は忘れたが、プチブル一家で母親の言いなりのおとなしい息子がおもちゃの競馬か何かに夢中になり、母親と一緒にハァハァ言って騒ぐ。シモーヌ・シニョレ扮する美人妻が苛々してそれを眺めているうちに、筋骨逞しいトラックの運転手(ラフ・バローネ)との出会いがあり、やがて道ならぬ恋に堕ちるという筋だった。我がオートエコールの主人は、体型から物腰からこのダメ息子にそっくり。指導員としても余りキツいことは言わず、小生がギヤを入れ間違えてギーと鳴らすと、商売ものの車が傷むのを気遣うらしく、身をよじって「ドゥースマン、ドゥースマン(優しく、優しく)」と叫ぶのが常だった。一方ピエールは、アルジェリアからの引揚者で、向うでは軍人か技師か相当の地位のある人だったようだ。小さなオートエコールのメカニシャンに身を落して糊口を凌ぐことに鬱屈した想いを禁じ得ない風情を漂わせていた。人物としても指導員としても、彼は主人を圧倒する貫禄。さほどキビしいということもないが、要点はしっかり教えてくれたように思う。
9月に入って或る日曜日、画期的な出来事が起った。同期の畏友T君がアイヴォリーホワイトのピカピカの新車、ドイツフォードのコルチナ?を運転してカシャンに小生を訪ねて来てくれたのである。T君は当時国際機関の職員でパリの西南セーヴルの集合住宅風の大きなアパルトマンに居を構えていた。小生が当時の国際空港オルリーに降り立ったときわざわざ迎えに来てくれ、小生はカシャンに移るまで3日程お宅に泊めて貰って、メトロの切符の買い方などパリ生活の初歩の伝授を受けた。オルリーからお宅に行くのはタクシー。未だ運転免許は持っておらず実習を受講中と聞いていた。芽出度く免許を取って早速小生に披露してくれた訳である。アトで分かったことだが、彼は当時熱烈恋愛中。ピカピカの新車の助手席に座る麗人のイメージが彼の免許取得の大きな起動力になったことは想像に難くない。因みにその麗人とは、現在の育代夫人その人である。そういう事情は兎に角、小生も大いに発奮して実習に励むこととなったのは言うまでもない。
2.オンディーヌ
パリの運転免許試験は、日時と場所を指定した通知を受け、指導員が同乗する車に乗って受けに行く仕組みである。その車は実習に使われていたものを使って差し支えないこととされていた。場所はパリ市内の街路の交叉点。小生の受験場はモンパルナスの南、街外れではあるが或る程度交通量もあり坂道もあり、実地試験には打ってつけの場所だった。我がオートエコールでは長いこと受講しているのに未だ合格しない初老のマダムを合格させるのが優先課題。バニューから4,5キロの道をピエールが付ききりで彼女に実習の最後のツメをアレコレ教えていた。小生は後部座席に乗ってそれを見るだけ。受験場に着くとキビしい目つきの試験官が乗り込んで来て早速試験が始まる。マダムが受けている間、小生は路上で待つよう言われたが、程なくマダムが大泣きに泣きながら帰って来た。コースの始まり近く、坂道の発進で失敗したらしい。「モン・マリ(私の主人)はもう絶対におカネを出してくれない。今日が最後のチャンスだったのに」と言ってシャクリ上げている。彼女を路上に残し愈々小生の番である。助手席に試験官が乗り後ろのピエールに向かって「ヒドい女だ。あんなに泣いてもどうしようもないのに。」と、試験の間中悪口を言い通し。小生の運転はよく見ていないようだった。試験の最後は縦列駐車(クレノー)。これさえ通ればと欲が出たのか僅かに車輪が歩道に乗り上げてしまった。試験官に「もう一回」と言われ、南無三宝、丹田に力を入れエイヤッとハンドルを切ると、歩道から25センチ程の理想的な位置にピタリと決まった。これで合格である。
バニューへの帰り道、「一人が笑い、一人が泣くか」とピエールがポツリと呟いた。マダムは泣き止まず、こっちも笑うどころではない。アトのことはよく覚えていないが、何日か先に警視庁で免許の交付を受けることになったのは前述の通りである。
免許を取った10月には、カシャンの寮を引き払い、パリ市の東の外れ、ヴァンセンヌの森と境を接するサンマンデ(市?)の素人下宿に引っ越した。女あるじダネル夫人は高名な海洋関係?の技師の未亡人で、空いている寝室に代々日本人の留学生を住まわせているので有名だった。小生は10代目位になるのか。2年前が大蔵省一期上のK氏、直前が日銀同期のM氏。K氏は特に夫人のお覚えが芽出度かったようで、入省当時理財局で斜め下にいた小生がパリに行くのを喜んでくれ、行ったら是非ダネル邸に入れと強く推奨されていた。免許取得後パリ市の東端12区の大きな中古屋に車を買いに行った時は下宿に移る直前だったのだろう。選んだ車はルノーのドーフィンの上級車種オンディーヌ。ドーフィンはオートエコールで試験を受けた車。オンディ-ヌ は前進5段のギアチェンジが出来る高級仕様?である。初めて自分の車に乗ってドライヴした行く先はパリ東の小都市モーである。ハイエンドにギアを入れ快調に飛ばしていると、後になり先になりしているシムカ・アロンドが気になって来た。この車は「007シリーズ」の中で、ボンドガールが乗りフランスの西に向かう川沿いの道で猛烈なカーチェイスを演ずる名車、オンディーヌとは格が違う。果敢に追い抜いたが先方がこれに気付き、アッと言う間に先を越され消えてしまった。
カシャンの寮に戻り、或る夕方、用も無いのにカルチエ・ラタンに行ってみようと思い立った。ラッシュアワーに掛かったのか国道20号は大混雑。パリ市街に入ってからは一方通行の道に5台程横に並んでジリジリ動く。フランス人はケチと言うか合理的と言うか、家の中でも街中でも明かりは暗くしてガマンする。日本の信号は、はっきり見えるよう交叉点の上に青黄赤と横に並んで付いているが、パリ市の信号は道路の右、歩道の端に立つ細い電柱のような柱にタテに青黄赤と並んでいる。それがたいへん暗く、古い街並みと調和しているのかウスぼんやりして良く見えない。前が空いたのでスルスルと出るとピーと笛が鳴り交通巡査に止められた。信号無視の現行犯である。あぁ免許もおしまいかと一瞬呆然となったが、堂々たる体格のパリのお巡りさん、免許証を取り上げ暫く眺めて「貴方の国には信号は無いか」と一言。免許証は直ぐ返してくれた。東洋の君子国を侮辱されたようで複雑な心境だったが、当時のパリで東洋系の貧し気な男と言えばインドシナ3国出身が断然多い。「信号は無いのか」と言われるのもムリからぬところがある。カルチエ・ラタンに無事着いたか、何をしたのか全く記憶が無い。ホロ苦い第二の冒険である。
第三の冒険はT君への答礼、セーヴル訪問である。日曜の午後だったか、オンディーヌに彼を乗せ、サン・クルー橋を越し坂の上の方までぐるぐる回った。そろそろ暗くなって来たので彼をアパルトマンまで送ろうと細い路地から玄関口の方へ左折しようと頭を出したとき、左から火の玉のような猛スピードでアルファロメオが突っ込んで来て我がオンディーヌに激突。助手席のT君は一瞬息が停まる程の勢いで座席に叩きつけられた。幸いオンディーヌは(ドーフィン同様)リア・エンジンなので運転席の前はガラン胴。クシャクシャに潰れたがそれがクッションになって運転席、助手席には大きな被害は無かった。アルファロメオからは若い男が二人、「糞ッ(メルド)」を連発して降りて来た。フランスでは物損だけだと交通巡査を呼ばない。車に備え付けられたコンスタという書式に事故当事者が合意してサインする、それをそれぞれの保険会社に送って損害賠償等の処理をして貰う仕組みが定着している。コンスタには簡単な平面図が描かれるようになっており、事故当事者がどの道をどっちに向け走っていたか明記される。アルファロメオが走って来た道に優先権は無く、オンディーヌは右側から出て来たのだから「右側優先(プリオリテ・ア・ドロア)」のルールが適用され、先方が100パーセント悪いことになる。アルファロメオのお兄ちゃん達はその責任を自覚する風もなく、車から引っ張り出したワイヤーを近くの電柱に巻き付け、ヒン曲がった前のバンパーをエンジンの力で元に戻すと、ブルルンと轟音を残して走り去って行った。扨、背中を強打したT君が気になったが、見たところ大事ないらしい。将来この事故の後遺症でヨイヨイになったら俺が面倒をみると大口を叩いて一先ず別れることとした。後日譚になるがアルファロメオのお兄ちゃんが一向にコンスタを出さないので賠償金が下りず、アトの車が買えない。ダネルさんの妹婿がパリ警視庁に務めていたので調べて貰ったら、問題のアルファロメオはパリ南郊の小都市の八百屋の車だと分った。「八百屋風情が車に乗るなんて」と慨嘆するダネルさん。当然地元警察署から注意が行き、程なくコンスタは提出された。アルギュスという中古車専門の週刊誌に掲載されている相場では、我がオンディーヌには買った値段を1割程上回る賠償金が支払われることとなった。薄幸のオンディーヌは身を捨ててあるじに幾ばくか報いた訳である。
オンディーヌの後継車は、並みのドーフィン、それも10数年経ったボロ車だった。これを買った経緯、売り手の意外な素性など、事実は小説より奇なりを地で行く物語になる。又、このドーフィンを廻る苦労話も語り出すと尽きない。しかし、余り長くなってはお退屈さま。技術留学生時代の話はこの辺で打ち止めとしよう。
3.疾走するジェット機
パリから帰ったのが昭和42年。昭和46年に「お礼奉公」で再度パリに渡った。このとき4年程主としてフランス国内を運転して回ったのも、先に述べた「飛躍」の延長だったような気がする。2回目のパリは「俄か外交官」としての出向だった。車はオンボロ中古とは縁が切れ、プジョーの404(キャトサン・キャトル)の新車を買った。「俄か外交官」のお勤めは、国際機関の日本政府代表部勤務、簡単に言えば会議屋である。会議には東京の各省から出張者が大勢来て、訓令に基づき発言したり、コミュニケ等の文書を纏めたりする。ただ、出張先が華のパリだから余暇には地元の勤務者が出張者の希望を容れいろいろ「ご案内」するのが一種の不文律だった。日程の関係で余暇が週末に当ると、郊外に遠出するのが普通となり、「地元民」は出張者を満足させるよう、日頃の体験を活かすことになる。
「いやーパリで大須君の車に乗せて貰ったらね、凄いスピードでガタガタ揺れる。丁度ジェット機が着陸して暫くの間滑走路を驀進する、あの感じなんだ。」こう言っているのは大蔵省同期のI君。彼が友人の誰彼に喋っていることだから、小生が聞いている筈はない。にも拘らず、喋っている彼の表情や言葉遣いがリアルに目、耳に浮かぶのは不思議というほかない。彼がそういう感想を抱いたのは「あのとき」の経験からだろう。心当たりがある。週末彼を乗せてノルマンディー地方を案内した。古都ルーアンの大聖堂など見どころは皆見て、かなり時間を余している。折角だからドーヴァー海峡を見るかと水を向け、彼も喜んだので一路北へ驀進した。ルーアンまでは高速道路があるが、ドーヴァー海峡の方に行くのは一般道を走るしかない。「すごいスピードでガタガタ揺れ」たのは、多分このときの印象だろう。運転はちょっとキツかったがどうと言うことはない。夕方にはパリに帰って、大使公邸だったかの彼の予定にアナを開けることはなかった。
このエピソードで想起するのは、出張者などの案内にどの程度「サービス精神」を発揮するかという難しい論点である。「サービス精神」とは小生が勝手に使っている言葉だが、例えば睡蓮や太鼓橋で有名なジヴェルニーの「モネの家」に行くのに、高速を一つ手前の出口で降りて、セーヌ川を南から見下ろす「トサカ道(ルート・ドゥ・クレスト)」を通ると、大抵の人は見事な景観に驚いて喜んでくれる。(中には、旅の疲れで眠りこけてしまう輩もいないではないが。)昼飯をご馳走するにしても、春酣なら、リラの花が上から下までびっしり咲き誇っている生け垣が裏庭にあるレストランを選べば、食後腹ごなしに庭に出たとき、満足は倍加する。しかしサービス精神は、反面、己の好みを押し付けることにもなる。また、案内役が先に喜んでしまって、ワインを飲み過ぎたり、ホロ酔い運転でお客をハラハラさせたり、反省のタネは尽きない。
パリのお礼奉公は4年に及んだ。3年目が終ろうとするとき、大蔵省の人事当局から、東京へ帰してもいいがどうする?と内々の打診があった。アト1年でも足りない位ですとは言わなかったが、もう少しこちらで勉強したいと殊勝に答えた。この4年間、ゼロ歳の長男を連れて行き、パリで娘と次男が生まれた。普通ヨーロッパに4年も滞在すると、この際ということで、イギリスやスペイン・ポルトガルはもとより、ギリシャ、トルコ、北欧、南伊、モロッコなど大いに足を延ばして探勝する人が多いが、小生は赤子を抱えているので遠出は難しかった。勢いクルマでフランス国内を廻ることになったが、隅々まで、時には同じ所を何回も、せっせと廻ったものである。良く言われることだが、フランスの田舎は道(線)の左右ばかりでなく、「面」として美しい。運転免許五十年のハイライトはフランス国内のドライヴだった。30歳とちょっとの働き盛りでフランスの風光と文化に触れたことは幸運だったと思っている。
これぞ Essay に収録
(20170801)
福島君、おっしゃる通り附小時代は欠席が多かったと思いますが、「やらせ」の挙手だけではない、立派な存在感がありました。
それは、「簡易楽器」のコンサートの郭公ワルツ、その出だしから間もなく「ピッピピー」或いは「プップクプー」と響く金管の音、福ちゃんの独壇場です。
附小は知育に偏重し感性を伸ばす方では不十分だったとのご感想ですが、それはやや望み過ぎではないか。
加藤先生は、あの物資欠乏の時代に簡易楽器で全員参加のコンサートをやらせようと、ご自分で選曲し、編曲し、更にガリ版で譜面までお作りになった。こんなことをして下さった先生は、他にはちょっと想像が出来ない。
生徒の感性に訴える、或いは感性を伸ばす素晴らしい教育だったと今でも痛感しています。
Essay あの頃 に収録
(20161130)
確か五年生の夏だったと思う。園田(エンデン)を師匠格に相棒一人と小生の三人、昆虫採集をしようと高尾山を目指した。相棒が誰だったか、末田のような気もするし亀山だったかもしれない。
師匠の家は戦災に遭わなかったためか捕虫網を含め装備は万全。相棒と小生は加藤先生にお願いして教材用?の捕虫網を拝借して恰好を付けた。戦時中の作らしく、白い網の生地は人絹。何処かへ引っかけたら切れるに違いない。網を振るときは細心の注意が必要と肝に銘じた。
省線の浅川(現在の高尾)で降り、甲州街道を西に。やがて 藪の中の脇道に入った。藪を棒で叩くとオオムラサキなどが飛び出して来る、それを捕虫網で捕るという師匠の教えに従ってしきりに藪を叩いたが、オオムラサキはおろか、バッタ一つ飛び出して来ない。そのうち胸突き八丁の急登になり叩くのは断念。そうこうするうち頂上に着いた。
まずまずのお天気だったが、その頃は山登りに出かける余裕も無かったのか我々のほか誰もいない。そして蝶は、子供の眼に捉えられる程には飛んでいない。師匠が小屋の壁に止まって休んでいるヒョウモンらしき蝶を一匹(正しくは一頭と言うそうだ。)見つけ、セミ捕りの要領で上から網をかぶせて捕獲に成功。冴えないへっぴり腰だったが一応昆虫採集の目的は成就した。しかし、その後は蝶の気配はゼロ。日が傾いて来たので琵琶滝口へ下山した。
案内川沿いに浅川に向かっていると、年の頃20歳前後の数人のお兄ちゃんが河原を見下ろして何か騒いでいる。一緒になって覗き込むと、体長70センチ程の中型のマムシがうねうねと移動中。我々に気付いたお兄ちゃんの一人が、「おい、坊や。網を貸せ」と言う。捕虫網でマムシを掬い上げようと考えたらしい。「これは学校から借りた物ですから絶対にダメです。」と叫んで、一目散に浅川まで逃げ帰る羽目になった。
帰宅して夕飯のとき、昆虫採集の成果が大笑いの的。小生の 唯一の「釣果」は角ばったやや大型のカナブン一匹。拙宅から道一つ隔てた林が旧近衛師団の騎兵聯隊の駐屯地だったから、虫は無尽蔵。夜灯火に集まるスズメガ、カナブンの類は数知れない。
しかし、そういう地元のカナブンは皆撫で肩で小型。山で捕まえた奴は図体が大きいし、角張っていて威厳がある。こういうのは山にしかいないと小生が陳弁すると、三歳上の兄貴が「何言ってやがる。そんなのいっくらでもいらぁ」と大声でケリを付けた。今思うと兄貴はなかなか立派な男だったが、少年時代は弟の情熱には殆ど理解が無く、クサしてばかり。それで鍛えられて弟もマトモな稼業に進んだのかもしれない。
Essay あの頃 に収録
(20161121)