林産学科に籍を置く私は、学生さんに木材利用の高度化と利用促進を教示することが求められています。そして今、木材利用を推進する上で、地球環境保全と木材利用促進の整合性を明示することは避けて通れません。
私がこの問題に関心を持ったのは、確か平成元年の夏、神戸市で開催された建築学会年次大会で行われたPanelDiscussion“建築と環境”に参加したことがきっかけであったと思います。
このPDでは建物の工法別種類が環境を汚染する程度について議論が進められていましたが、議論が進められる中で、木造(W)、鉄筋コンクリート造(RC)、鉄骨造(S)が比較され、木造建築では先ず最初に山で木材が伐採されることからRC造、S造に比べて環境への負荷が大きい(マーク方式でW造マイナス2点、RC造、S造マイナス1点)とされたのです。
私はこの議論の展開に憤懣やるかたなく、環境保全と木造住宅建設の整合性を強く主張したい気持ちを抑えるのに大変だったことを思い出します。当時、このような感覚的で乱暴な主張を押し返すだけのデータが我々木材サイドで準備が出来てなかったのです。
次の年、木質構造に関する国際会議(1990ITEC東京大会)が私どもの講座の杉山英男教授を中心とする組織委員会の下で開催されましたが、この国際会議で報告されたNew Zealand カンタベリー大学のA.H.ブキャナン教授の論文「地球温暖化防止と木材工学」に私は強く感銘を受けました。
この論文では、製材品を始め種々の建築に使われる材料が資源原料から材料に製造・加工されるときに消費されるエネルギー量を求め、これを大気中に放出される炭素量に換算して材料間で比較して、木材製品、ひては木造住宅建設の環境への低負荷性を指摘したものでした。
私は、これこそ我々が今必要としているデータであると確信しました。それと同時に、このような研究を我々木材サイドではなく、土木建築のプロフェッサーが手がけられていることに驚き、また我々木材研究者の創造性の無さに深く反省させられ
たものです。
図1に住宅1棟(136m 2 )を構成する主要材料の製造時炭素放出量の工法別比較を示します。
木造住宅の地球環境保全性が明確に示されています。
自己紹介のページで書きましたように、私は大学は機械工学科に進学することに決めていました。ところが受験の成り行きから東大理科2類に入学したのです。これが間違えの始めでした。皆様ご承知のように、理2からの進学先は医学部と生物系学科です。2年次の進学振り分けで(私の駒場での成績では)農学部へ進むほかありませんでした。
高度成長時の当時、附中卒の皆さんで農学部へ進学した方が居られるでしょうか。私は農学部で最も農学から遠い学科、林産学科へ進学しました。当学科は紙パルプ、木材加工利用に関する分野の教育、研究を担当しております。機械屋さんになるつもりが木材屋になってしまったのです。卒業後名古屋のボード工場へ就職しました。この工場でこの年入社の大卒7名、将来を悲観し、それでも楽しく仕事に励んでおりました。
入社後4か月経ったある日、私は工場長から電話で呼び出されました。工場長室に入るとそこに東大研究室の北原先生が居られました。この会社を辞めて大学に戻り、助手になれ、とのお話でした。この時、私の頭に浮かんだことはこれで東京へ戻れるのだな、ということだけでした。この日が私の生き様を変えた日でした。私は昭和35年9月15日付けで文部教官助手になりました。現在では学位なし、論文を1報も書いてないものが助手に採用されることはありません。
この時から東大37年、そのあと九大3年、計40年の大学生活を送りました。その後、宮崎県木材利用技術センター、国の森林総合試験場の所長、理事長などの研究所執行部、日本農学会会長を務め80歳で全ての役職から身を引きました。
さて、私は40年間大学教官を務めました。以下、当時のことを思い出して書きます。
大学教官は学生に講義をしなければなりません。私は学生相手の講義が苦手でした。普通、先生方は時間をかけて講議のためのノートを作り、それに基づいて講義を行うのですから年度を重ねるとともに講義の完成度は高まってゆきます。しかし、私は応用数学や材料力学などの基礎科目は仕方なくこのようなノート作りをしましたが、木質材料学のような講座の主要科目については、毎学期同じことを繰り返すのは苦痛であり、また準備する律義さに欠けるので、行き当たりばったりで気の向くままに進めました。
ただしそこには、大学教育で最も大切なことは学生に自分でものごとを考える素地を与えることだ、との思いがありました。講義はモデルとしての教官自身の生き方、考え方、行動、体験を述べる機会として重要です。毎回の講義を学生さんがのめり込むような魅力あるものに出来れば別ですが、小心者で自分の講義に自信が持てない私は彼らの反応を知るのが恐ろしく、真正面から学生の顔を見て話をする勇気がなかなか出てこなかった。学生は私の話を喜んで聞いているわけではなく、単位を取るために仕方なく講義に出ているのであろう、との気持ちが先に立ってしまいます
そういう中でごくたまに自分で凄く良いことを言っているな、との感を強く抱き、背中がぞくぞくし涙が出そうになることがあります。自分で感動しているのです。他の世界でもこのようなことがあるかとは思いますが、気心の知れた少人数の学生に、気兼ねなく自由に思うことを述べ、しかもたまには感動まで得られる大学教官は良い職業だと言えましょう。
大学の外で行われる種々の講演会等に呼ばれてお話をさせられる機会も多かったが、確かにこの場合は大いに気が入り、楽しく立ち向かう気持ちが出てきたものです。聴講者の方々が学生に比べてはるかに熱心に耳を傾けてくれることが私を勇気付け、奮い立たせてくれたのです。この基本には、大学人という行政や企業の方々に比べてはるかに自由にモノが言える立場を十分に生かすことが自分の役割である、との意識がありました。そしてそのことを楽しく思ったのです。 (2024.3.13 つづく)
私は浅草橋場で生まれてその後目黒区柿の木坂に移り、八雲小学校を卒業しました。梁瀬さんのおうちの傍に住んでおりましたので、やなせ自動車社長様のその広いお屋敷のお庭で種々遊ばせていただいたのを思い出します。
私は小さい時から機械いじりが大好きで、大学は工学部へ入ることに決めていました。学芸大附属中学から都立大学付属校を卒業して大学は東京工業大学機械工学科を受験し、あっという間に不合格になりました。1年間駿台予備校に通い、次の年は早稲田、慶応の工学部、そして東大理科2類を受けたのです。工学部は理1なのですが理2の方が合格点が低いとのことでこちらを受験しました。これが大失敗でした。
目出度く理2に合格したのですが、2年時の進学振り分けで理2は生物系、工学部へは飛び切り好成績でないと行けません。私の成績では農学部へ行くしか道はありませんでした。仕方なく私は農学部で最も工学的で定員の少ない林産学科に進学しました。この学科は紙パルプ・木材加工・利用の分野です。当時日本は高度成長の時代、成績優秀な附中生で農学部へ進学した方はいないのではないでしょうか。
私は化学は性に合わないので5人の仲間と木材材料学研究室に入室、卒論は木材パネルのせん断性能実験をやりました。新しい試験方法を開発し、まあまあの卒論だったと思います。卒業して名古屋の木材会社に入社しました。工場生産現場に配属され、きつい毎日でした。こんな中小企業で働かざるを得ない現実に同時入社の仲間と嘆きあったものです。
入社後5か月経った8月のある日、私は工場長に呼び出され、出かけてゆくと大学で教えを受けた北原先生が居られ、教室に戻って助手になれ、と厳命されたのです。その瞬間、私は東京へ戻れるなと思い、この会社と縁が切れるのですか、との変な質問をしたことを覚えています。私は1960年9月15日付けで文部教官助手になりました。現在では学位を持たない、論文を1報も書いていないものが助手になることはできません。
この時から私は東大に37年間、そのあと九大に3年間、合計40年間教官、研究者として勤めました。この間、木材材料研究室に木造建築・木構造技術を導入し大きな発展を促し、農学部設立100周年次に寄付金を集めて「弥生講堂」を建設しました。また生物資源である木材を育成・使うことによるSDGs実現の方向を探り、日本農学賞、紫綬褒章をいただきました。農学部進学、大学教授生活、そして我が人生に悔いはありません。
新設された宮崎県木材利用技術センターにて
大熊幹章(オオクマ モトアキ)
1936年8月 東京浅草生まれ、87歳
1960年3月 東京大学農学部林産学科卒業
1960年4月 日本ハードボード工業(株)(現・ニチハ)入社
1960年9月 東京大学農学部助手
1971年9月 CSIRO建築研究所(オーストラリア)客員研究員
1972年7月 東京大学農学部助教授
1986年6月 東京大学農学部教授・木質材料学講座担当
1997年3月 東京大学定年退職、東京大学名誉教授
1997年4月 九州大学教授・木材理学講座担当
2000年3月 九州大学定年退職、
2000年5月 宮崎県林務部顧問、木材加工研究所開設準備室
2001年4月 宮崎県木材利用技術センター所長(初代)
2003年7月 (財)日本住宅・木材技術センター特別研究員
2005年4月(独)森林総合研究所理事長
2007年5月 (財)日本住宅・木材技術センター客員研究員
2009年1月 日本農学会会長
2014年1月 同会長任期終了、現在に至る
2018年11月出版