フェイスブックで旧友の写真を見つけた。
眠っていた昔日の記憶が目を覚ます。獅子ではないから起こしても取って食われることはない。でも寝た子くらいなら瞬時に起こせるパワーをこの写真はもっていた。
撮影者と僕は縁もゆかりもない。だがこの写真は、僕にとって示唆や啓示や含みの多い不思議なエネルギーを秘めていた。パンドラにはほど遠いが、ドラの箱くらいは開いた感じである。僕が旧友なら、俺の葬式にはこの写真を使え!と遺言状に遺すに違いない。
海は見えない。でも潮の香りがする。カタカナが見える。でも日本は感じない。
何の脈絡もなくキーウェストかサンチャゴあたりの街角だろうと考える。どちらもヘミングウェイが後年の半生を過ごした土地である。だが撮影は昨年、場所は尾道と解説が付いていた。そもそもサンチャゴなんか行ったこともない。
しかしデジャブみたいな現実感がある。唐突だが、僕にとってこの景色はヘミングウェイの世界。
あの Hardboiled Realism の神髄 ”老人と海” から切り取った一場面に見える。
なぜだろう? たぶん原因は二つある。
一つめは旧友の風貌だ。道を究めた人間の静かで重い存在感が漂ってくる。
二つめは僕自身の卒業論文。テーマはヘミングウェイだったし、青春との決別の印 ... のつもりだったし。
きっと Happy Golden Days への飽くなき郷愁なんだろう。
旧友は作家じゃない。かの文豪を意識しているはずもない。だが追想に耽る僕の目には写真の旧友がヘミングウェイの髭面に映る。おまけに彼が身に纏う海の男オーラのせいで、老人と海の漁師サンチャゴにも見える。
友人の名は須賀次郎。小・中・高の同級生だが腐れ縁はそこまで。僕は陸の道を歩き彼は水の中へ潜った。そして60年余が過ぎ、彼は伝説のダイバー。押しも押されもせぬ日本スキューバダイビング界の重鎮である。僕はと言えば早々に現役を退き、ウォーキングに励み、物理的歩行は止めていない。
この1月に彼は82才を迎えた。いまだにバリバリの現役である。お気に入りの仲代達也や佐藤愛子もそうだが、生涯現役を貫く高齢の人たちは例外なくセクシーだ。美しく年を重ねるには現役であり続けることが必要条件なのかもしれない。
最近簡単に風邪を引くらしい。加齢に伴う免疫低下は自然の摂理。気に病むことじゃない。彼は毎度泳いだり潜ったりの荒療治で風邪退治をする。きっとリンパ液の巡りをよくして免疫力を高めているに相違ない。血液には心臓があるがリンパ液用のポンプはない。身体ごと頻繁に動かさなければ液はうまく循環しない。道理に適った荒療治である。自然界に生きるもの、須く自力でほとんどの病気に勝てるよう創られているのだ。彼はそれを知っている。
人間に限らず凡そ地球上の生きものなら、自然界の秩序や法則に従わずして生命の維持存続は不可能だ。わかりきったことなのに、この大原則を親も学校も教えない。そのせいだろう、巷は生きているのが当りまえと思い込んでいる平和ボケでいっぱいだ。ある女性冒険家が、九死に一生を得た後で言っていた。『私たちが生きていること自体奇跡なんです。死を覚悟して気付きました。生きているんじゃない、生かされているんです。』
彼女の真意を僕が正しく理解しているか否か、それは確かめようがない。でも大自然との真剣勝負の中で生かされてきた人間の、本物の逞しさや謙虚さや寛容さや誇らしさは十分伝わってきた。
彼女同様、須賀次郎も自然に生かされてきた強運を片時も忘れない人間だ。彼のブログやSNSの投稿を見ればよくわかる。生きているのは当たり前などと呆けたことは考えようもないだろう。
金属にレアメタルがあるように、人類にもレアヒューマンがあっていい。生涯賭けて道を究めた極道で、自然界の法則・秩序を遵守し、多様な生態系の持続に尽力し続ける人間のことである。
それなら、須賀次郎は十分過ぎるくらいレアヒューマンじゃないか?
今年2月、彼は震災後日本人で初めて福島原発沖の海に潜った。4月初め、そのドキュメンタリーがTBSで放映された。『 変わらないで海は在った。よかった ... 』。
番組のラストシーンで物静かにそう呟いた彼は、食物連鎖の頂点に相応しいレアヒューマンに見えた。僕は何やらとても誇らしい気分だった。
友人を誇らしく感じたのは80年来初めてだ ... いや、違うな、もう一人いる。
四十数年前の記憶が蘇る。才色兼備を絵に描いてカナをふったようなひとだった。以来、僕の中ではずっとかけがえのない守護天使なのだが、異性だから友人と定義していいものか、よくわからない。
さて、フェイスブックの写真が老人と海の一場面に見えた二つめの原因。即ち卒論で決別したはずの青春とその懐古へ話題を変える。
80才になれば、誰だって今だから言えるとか言いたいってことはヤマのようにある。これもその一つ。どうやら自分の大学時代は、生涯を通じ文句なしに楽しく刺激的でスリルと希望に満ちた日々だったのだ。もし神さまが人生のやり直しを許してくれたら、ためらうことなく教養学部の門前で自分の受験番号を見つけた場面からスタートする。大学時代をやり直したいのではない。繰り返したいからだ。
僕にとってその終わりの証し、つまりモニュメントもどきが卒業論文だった。
教養課程を経て僕は英米文学を専攻した。特段の必然性はなく、何となく取っつき易かっただけのことだ。そして卒論のテーマにはへミングウェイをを選んだ。考え抜いた末の選択ではなく衝動的に決めてしまった。
自分でいうのもどうかと思うが、僕は大切なことほど直感頼りに即断する傾向がある。その方があとで悔やんでも諦めやすいからなのか? 生来の怠け者、あるいは脳天気なだけなのか? つまるところ、ケセラセラが僕の本性なのだろう。
ヘミングウェイがノーベル文学賞を受賞した時、僕はまだ大学生になっていなかった。でもそのニュースは知っていた。短編 ”老人と海” が高く評価された結果の受賞だという報道記事を憶えている。でもヘミングウェイという作家に特別な関心があったわけでもなかった。
それから数年が経つと僕も大学生になっていて、Happy Golden Days の真っ只中にいた。これも今だから言えることだ。そんなある日、あの映画に出会った。”老人と海” である。この出会いがなければヘミングウェイとの縁は100パーセントなかったと思う。一期一会である。なぜその映画を観たか? もちろんヘミングウェイに惹かれたわけではない。スペンサー トレイシーのファンだったからでもない。デート相手のリクエストだっただけだ。
この映画について話し始めると必ず長くなる。だから結論だけにする。
文字どおり青天の霹靂だった。映画を見終わった僕は、ショックでしばらく座席から立ち上がれなかった。誇張ではない。連れの不審げ、不安げ、不満げで奇妙な表情は今も忘れない。
娯楽の少ない時代だったから映画館へは足繁く通った。たぶん洋画ならあらかた観たと思う。しかしこの日の老人と海ショックは初体験だったし特別だった。
問題はショックの正体である。未だにうまく説明できそうにない。化石しか見たことがないザウルスみたいなものだ。
言えるのは、ショックは3段階あったこと。最初は映画を観た日。まるで心の準備がないまま、いきなり ハードボイルド・ザウルスに襲われた初体験ショックである。この第一次ショックを受けたまま、卒論はヘミングウェイに決めた。
ヘミングウェイ初期の短編集に『 Winners Take Nothing. 』というのがある。
その日僕を襲ったザウルスを因数分解すると、答えはそれに近かった。そのドライでタフでフェアな無頼の美学が何ともはや震えがくるほど感動的で、腰が抜けたのはむしろ自然の成り行きだったと思う。未知との遭遇の瞬間とは須らくそういうものだろう。
それから卒論完成まで、暫くヘミングウェイは僕にとり憑いた。結果的とは言え想定外の対象だ。とにもかくにも先ずは質より量。翻訳版で彼の作品を読み漁るしかない。何事もフローは誤魔化しが効くが蓄積はムリだ。インスタントが通用しない世界は厳しい。じきに馬脚が現われた。起・承・転から先へ論文が進まない。頭を抱えていたある日、『ヘミングウェイ、ショットガン自殺!』の訃報が世界を駆け巡った。ただ呆然である。1961年のことだった。
これが第二次ショックである。不謹慎だが、卒業論文的観点からすればこれで僕は救われた。
ヘミングウェイの自死ショックは、僕に自らの戦略的瑕疵を気付かせてくれた。自分が論ずべきだったのは、ヘミングウェイの創り出したザウルスは何かではなく、ザウルスはなぜヘミングウェイを自爆させたかだった。
当りまえの話だが、当時これは最新中の最新テーマである。定説や常識があるわけもない。言ったもん勝ち。僕向きだ。わが道を往けるのは何よりありがたかった。振り出しには戻ったが、そこから論文は一気にゴールへ突き進んだ。
恙なく卒論は完成し、担任のN教授の評点はAマイナスだった。これでめでたく卒業、僕の青春はハッピーエンディングである。よせばいいのに調子に乗って、僕はなぜマイナスが付くのか教授に聞き正しに行った。実は内心自信作でもあったのだ。教授は苦笑交じりに説明してくれた。『最初から最後まで Hardboiled の綴りが間違っていたからだよ。ダブルエルじゃない。シングルエルだ。』 想定外の指摘に虚を突かれ素直に引き下がらざるを得なかった僕は、ヘミングウェイもショットガン自死もザウルスも、そのまま丸ごと忘れてしまうことにした。何せ青春時代は終わりなんだから ... ね。
この話は珍しく他言した覚えがない。あってもせいぜい2~3人。ネタ話の大好きな次女と何でも話したくなる守護天使くらいだろう。なぜか極々限られた範囲での共有情報になっていた。別に隠したいことでもなかったのだが。もちろん第三次ショックとかいう大袈裟な代物でもない。むしろできの悪い落語のオチみたいなものだ。卒論が青春との決別記念碑だという謂れのない思い込みが、実は単なる気のせいに過ぎなかったという日常茶飯事的誤算にも似ていた。
ところが、僕とヘミングウェイとの縁は切れることなく脈々と続いていた。意識になかったから不思議な気分になる。
還暦を過ぎた直後くらいの頃だった。ザウルスの亡霊が忘れたころにやってきた。それもふた桁の平成になってからだから虚を突かれ、一瞬パニックになりかけた。ようやく自分を取り戻した僕は、40年越しで改めてN教授の苦笑の真意を忖度し、我ながら何とも気恥ずかしくて独り赤面することになった。それが第三次ショックである。
結果だけ解説する。
ある親しかった英文科の後輩が以下のような情報を送ってくれた。
『ヘミングウェイ一家は、1928年に拳銃自殺した父親クラレンスを含め、遺伝的に重度の躁鬱病家系だった。1961年に本人、その後1966年に妹アーシュラ、1982年に弟レスター、1996年に孫娘マーゴ、がそれぞれ自殺している。いずれもクラレンス同様、重度の躁鬱症状から始まる諸々の既往症発症経緯を辿り自死に至った。』
ヘミングウェイの自死は遺伝子の為せる業だった ... 知恵と想像力を総動員した僕の卒論は、結局詭弁と屁理屈を寄せ集めたゴミじゃないか ... 僕の青春自体が笑えないブラックジョークになってしまいそうだった。
我に返った僕は、反射的に文庫本『老人と海』を読んでいた。あの日のザウルスは変わらないでそこにいた。
これぞEssay に収録
(20170623)