加藤嘉男先生は1937年(昭和12年)に東京府青山師範附属小学校の教導に任命された。1942年(昭和17年)3月卒業の男子1組の担任となった。これは戦前のこのクラスの担任のときの話である。
いつも音楽では困らされる。当時は、附属といえども教員数が少なく、首席訓導(今の教頭)を除いては、全部の教員が学級担任をしていて授業を持っていた。
音楽も専科がいなくて、堪能者との学課交換であった。しかも、音楽の二時間あるうち、一時間は自分で持てという。
自分で一時間持ったところが、子供が、
「先生のピアノの音少ないね。」
という。当たり前である。専門に音楽をやっている先生と、伴奏を左オクターブ打ちしているのとでは違いがはっきりする。それにしても音が少ないとはうまく言ったものだと感心する程であった。よし、もうそれならピアノは弾くまい、何か変わった方法はないかと器楽をやることにした。
音楽の専門家ではないので、新しく楽器を買わせるわけにもいかない。家にある楽器、音が出るものならなんでもよい、学校に持って来るように、と言うわけで、いろいろな音の出る物が集った。ハーモニカは昔吹いたことがあるので、多少自信があったが、子供に吹かせてみると、音が違う。確かにハ調とト調のハーモニカがあるに違いない。ハーモニカを持ってきた者に音階を吹かせ、何かしるしがないか調べさせた。すると、C、L、Gというしるしが付いていることがわかり、Cは確かにハ調のハーモニカであることが分かった。
それで、これからはCのハーモニカを持って来るように、買うならCを買うようにと、それとなく暗示を与え、Cを揃えるようにした。
ところが問題は演奏する曲である。今のように、歌唱曲を吹く事は冒涜であると考えられるので、何かよい行進曲はないものかと考えていた時、丁度その頃流行していた「国民行進」という曲があったのでレコードを何時となくかけ、遂におたまじゃくしに写しかえることができた。ピアノで弾いてみると、どうも音階が違う。そこで音楽の専門家である勝田先生にお聞きすると、
「原譜はへ調で、君のはハ調だから違うのだ。」という。
「へ調だのハ調だのどうして違うものを作るのか。」
とお聞きすると、言下に
「これはむずかしいことなので、君に説明しても解るまい。」
と、はねつけられてしまった。
ハーモニカがハ調なので、曲趣は違うがハ調のもので押し通すことにした。
ピアノは子供の伴奏ではオクターブ届かないので、五度とした。大太鼓は初め、やりたいと言う希望者が多かったが、わずかな時間のずれでいつも叱られるので、だんだん子供の中で専門化されていった。
青山外苑にある日本青年館で学校の音楽会が開かれ、堂々と国民行進と、校歌、歌唱をアレンジした接続曲を演奏して大喝采をあおいだ。それにしても、ガリ版でおたまじゃくしを並べ、印刷するのは大変だった。
この子供たちが
「先生ラジオの音楽はきれいだね」
と、音楽に耳を傾ける様子を見て、私の音楽教育は成功したと思った。なおこの子供たちは卒業してもなにがしかの楽器を持って楽しんでいた。
終戦後担任した子供達にも器楽合奏を指導し、今日程上等ではなかったが、戦後の新しい音楽教育の走りとして、演奏の情景が文部省から出版された器楽という本(主としてクラブ活動用)の一ページを飾るまでになった。もうこのときは、バイオリン、フルート、たて笛、木琴、鉄琴、大太鼓、小太鼓頭を使っていた。協力一致と言う精神も地についたものとなっていった。
器楽合奏は共鳴を呼び、専門家ではない学級担任が次々と踏襲して一時期を画したものであった。
加藤嘉男 「わが道を行く」1985年私家出版 第四部「教員熟期」より抜粋
Essay あの頃 に収録
加藤嘉男 「わが道を行く」
1985年出版 第五部「集団疎開」より抜粋
戦争が激しくなるに及んで、学童は田舎へ移ることが奨められた。それでも田舎のない東京が故郷である者は、どうしようもなかった。学校が寮を用意して集団疎開が始まった。
昭和十九年八月に始まった集団疎開も、二十年三月になると、いよいよ東京都にある学校が閉鎖され、田舎のない者は、学校が面倒を見てあげて集団疎開に合流することになった。
一年生は募集しなかったので、四月に二年生が集団疎開に参加して、東京の学校は、疎開地の連絡員と、教頭しか残らなかった。
私は兄が応召し、母親が脳溢血で半身不随であったのを慮ってか、最後まで東京に残されていたが、四月にはいると、いよいよ集団疎開に参加することになった。
在京中は、既に集団疎開に参加している先生方の家族の疎開の荷造りの手伝いをやったり、校庭を使っての食料の増産に励んだりしていた。
いよいよ学校閉鎖となるに及んで、めぼしい教材を疎開地に送った。
教材としてミツバチを一群にまとめて、継箱付で、大風呂敷につつんで、客車の車掌の控室になる空部屋に置いて新宿を出た。
ところが客車の座席の方から、「痛い。」と言う悲鳴があがった。まさか自分の運んで来たミツバチとは思わなかった。なぜなら、蓋も出入り口も構造上、板を降ろして釘付にするようになっているので、厳重に閉めてきているからである。
「あっ、ハチだ。」
と、乗客が叫んだので、犯人はこの箱の中にいる。髪に蜂がとまっても、そっとしておけば危害は加えないのである。「ハチのようですが、髪にでも止まったら、手を加えないで、そのままにしておけば逃げていきますよ。」とハチを持っていることを白状するわけにもいかない。とうとう被害者は五人ほど出てしまった。一体どこから出たものだろうか。でも疎開地に無事運ぶことができた。取った蜂蜜は病人に配給をした。
私がはじめ疎開の宿舎に着いたのは、浅間温泉の井筒であった。最初の宿舎群と違って新年度の四月からは旅館が変わった。これらは一切が世田谷区役所が温泉協会と相談して決めていた。私の学校は世田谷区にあったため、区の指導下で動いていた。
この井筒のには新三年生を配置し、後にバイオリンでグランプリを取った鈴木秀太郎君がいた。広場の真ん中にバイオリンを置きっ放しにして、よく野球をしていた。
疎開地変更
浅間温泉が特攻隊の中間基地になるに及んで、飯田から二時間半も南アルプス山中にある上久堅村に再疎開したのは、五月に入ってからで三年生は興禅寺にはいった。山の中では二十年五月だと言うのに未だ灯火管制もしていなかった。
禅宗のお寺で子供達は本堂で起居をし、先生は脇の部屋を本部として使うようにした。新潟へ機雷を運ぶB二九が頭上を飛んでいった。ある日豆台風が来て、はじめ南からの風雨が強く、本堂を囲んでいた障子がすっかり濡れた。風向きが東に変わったので、雨戸、ガラス兼用であった大障子の紙がすっかり吹きとばされ、戸なしの宿舎になってしまった。夜の帳が明けるとともに、翌日は晴天にめぐまれ、濡れた布団類を乾かすのに大わらわな日を迎えた。
この疎開地に立って、
1.子供達、大人、老人を相手にして、初等教育については一歩も引かないで話ができること。
2.全く教材がないところに、子供と一緒に放り出されても、自分で教材を作り、教育ができること。
の二項目を師範学校卒業時に建てたのであるが、この第二項目の教材のないところにまさに立たせられたわけである。
各学寮(四カ所に分かれていた)とも舎外の掃除の箒が足りないと言う。
そこで、裏庭の谷から手頃の竹を切って来て、掃くところの笹竹には、既に切って捨てられている笹竹を使い、締める紐は日常村のアルバイトで作っている桑の皮を使った。試作品を使って掃いてみると、先の笹竹が抜けてしまう。本物を分解してみると、1十本位笹竹の元が親竹の節のところにレの字につけてあり、これが後からさした笹竹を安定させるように、レの字の一部をまず紐で締めて固定してから、笹竹を別の紐で締めてある中に差し込んでいった。今度は笹竹も抜けないで、良い出来となった。ところが、穂先になる笹竹がぽきぽき折れてしまう。竹を切る時期が問題で、時期が悪いと折れてしまうのであるそうだ。いつの時期に来ればよいのか、見当がつかなかっ
私は三年生と一緒に興禅寺にいたが、ノミとシラミには参ってしまった。でもシラミのほうは、衣服を熱湯につけることで、今着ているもの以外は殺せたが、肌をぞろっ、ぞろっと這う感触は、今思い出してもぞっとする。
ノミのほうは、本堂に上ると、待ってましたとばかり、足から体へ入り込んでくる。養蚕地帯なので薬品は使えない。そこで敷布を縦に二つ折りにして二辺にミシンをかけ、首の入る所に紐をつけて、いざ寝るときになると、この袋の中に入って、紐で首を絞め、寝かせることにした。これは大成功であった。でも何かの拍子で、この袋の中に入ったノミは、翌朝になると腹一ぱい血を吸うためだろう、まるまると太って、なかなか跳べないのですぐ捕えられた。
ノミ対策はこのほかに幾通りか試みられたが、皆うまくいかなかった。あるときは三十センチ高い組立式の机の上に載せて寝かせが、ノミは三十センチ位ジャンプするのは平ちゃらで、とても効果はなかった。
上久堅のガダルカナル
育ち盛りの子供達に、動物性の蛋白質を補給しようとしても月にニボシが一人に五〜六本配給になるだけである。そこで手に入り易い動物蛋白質はないかと、イナゴに目をつけた。しかし、人口の二割しか稲の収穫がないところだけに、田は僅かでイナゴもたいしていないと思ったがそれでもイナゴがいたので、皆でとったら、すぐに全滅である。そこで今度はコオロギに切替えた。コオロギは県の指導もあったので、大変とれた。一晩脱糞せたらと思い、五十センチ角の木作りのごみ箱に百匹位入れて、翌日蓋をとってみると、一匹もいない。その代わり跳びはねる長い脚が累々と残っている。共食いしたのだ。それなら一匹がいるはずだと思って探して見たがいなかった。
今度は捕えるとすぐに鉄鍋に入れて煎った。ガマの油ではないが、鉄鍋に油を敷かないでも、コオロギが自身の身から出る油で煎れてしまう。これを一匹一匹子供たちに分ち与えたが、コオロギの腹から出て来る白い汁がクリームのように甘くて、喜んで食べていた。しかしコオロギも尽くして、他のものを探さなければならない。了解。
そうだ赤蛙を焼いて食べようと、赤蛙を探したが、居そうな草むらがなく、あきらめるよりほかになかった。そうだ、赤蛙が食べられるなら、トノサマガエルだって食べられるはずだと、太ったのを捕えて皮をむき、焼いて試食したが結構食べられる。そこでトノサマ蛙をとって、すべて皮をむき、一斉に炭火でやいて少々の塩をかけ、全部の子供に配って食べさせた。評判はそんなに悪くはなかった。
次に考えたのはヘビであった。シマヘビだのマムシだの上等なものはいない。アオダイショウ、ヤマカガシ、ツチムグリ、カラスヘビなど、あらゆるヘビを取って皮をはぎ、串(竹串はたくさんできる)にさして焼き鳥のように照り焼きにして、子供に順番に食べさせた。
「先生この蛇なに。」
「アオダイショウだ。」
「アオダイショウは旨くないからな。」
と、子供達はヘビの種類によって旨い旨くないを見極めていたようであった。
今度は少し甘いものを提供してやろうと、野菜などの荷物を入れる大ざるをかついで単身山にはいり込んだ。沢とまではいかないがやや水が流れるところに、立木にからんだ、アワビが生えていた。つるをひっぱってたぐり込み、熟した青ずんだアケビを取ってはざるに入れた。実がひとつひとつしかならないアケビ、いちか所に味が四個から五個なり、中が薄紫色のモチアケビ(実はこの方がうまい)を大ざるいっぱいにとって帰り、子供達に一つ一つ配って食べさせた。子供達は久しぶりに甘いものを口にして大喜びであった。種子も一緒に呑み込むので盲腸にならないかと心配したが…。
応召
ある日突然東京から召集令礼状が来て「7月7日、佐倉に入隊せよ。」とのことであった。
中略
つぐみ
八月十五日の終戦を迎えて、集団疎開も終了して、東京へ引揚げることになった。私は幅員して再び集団疎開地に戻り、引揚げ体制を整えた。
十一月はじめにいよいよ全員東京に戻ることになった。お寺の前の百姓家のおやじが、
「先生、ご苦労だったなぁ。今日は、つぐみを食いに行くべえ。」
ということで、カスミをかけ、おとりを仕掛けた山へつぐみを食べにいった。一匹一円であった。
さて、十一月はじめに学校再開しても、児童数も学級数も定数を欠いたため、余分の教員(過剰教員)は、この際今までできなかった研修をしてもよいということになり、私は日本放送協会(NHK)の技術研究所にはいることを許されて、NHKの幹部職員と一緒になってラジオの受信機の勉強をした。
NHKの研修を終わっても、なお暇があったので、同僚三名とともに、芝浦の梁瀬の自動車工場にいって、エンジンの組み立てについて研修をした。梁瀬では日米のばかりでなく、外車の修理をしていて、エンジン関係の勉強は一応終了して、この研修も終わりを告げた。
Essay 集団疎開 に収録
(20191231)