―――今年の4月1日には平成に続く年号の公表がありました。その含意について様々な意見が出ています。諸外国ではこの『令和』という文字は「order and peace(秩序と平和)」を意味すると受け取られたので、外務省は各国在外公館に対し「令和」は「Beautiful Harmony(美しい調和)」との英訳で統一する方針を定めたそうです。
〇〇:私は「令和」と聞いて、すぐに「明和」時代を連想しました。1764年から1772年までの足掛け9年間です。「明和」の元号は『書経』の「九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和万邦、黎民於變時雍」から取られています。後の1926年になって、同じ出典から「昭和」の元号が制定されたということです。
―――確かに「明」の前に「昭」がありますね。その明和時代には何があったのですか?
〇〇:っcがありました。これは江戸三大火の一つとして数えられている大火事です。この年は災害が相次いで起こり、その年の暮には「安永」と改元されたのですが、「明和九年は迷惑年」と言われて、改元直後の落首にも詠み込まれています。
「年号は 安く永くと 変れども 諸式たかくて いまにめいわ九」とありました。
―――「明和九」を「迷惑」と重ねるなんて見事ですね。それにしても、世の中に不満があると狂歌・落首の類が出回るとは、ある意味洒落ていますよね。今の世では、なにか不満・不平があると直ぐにネット(SNS)に直接ぶつけるのが普通になってしまいました。気に入らないと直ぐにX Xハラスメントとして訴えますし、世の中はギスギスしてしまいましたね。むかしみたいなウイット、エスプリの効いた風刺でチクリという風潮はなくなってしまって残念です。
〇〇:でもね。今と違ってその時代は自由に物が言えなかったのですよ。許されなかったのです。明和4年に不敬罪として江戸幕府によって死罪になった甲斐国出身の山県大弐は、江戸で大義名分に基づく尊王思想を鼓吹したためです。政権は自分にとって不都合な言論には、死を以て報いているのです。ですから、大衆は不平不満を無記名の狂歌・落首に託すしかなかった時代です。自由にものの言える今の時代のほうが、はるかに良いのではないですか。
―――火事は江戸の華と言われるくらい頻繁にありましたね。
〇〇:江戸の民家の殆どの屋根は、こけらぶき(杮葺)といって木材の薄板だったのですよ。こけらぶきは本来は瓦を乗せる下地ですが、あまりにも火事が頻繁にあるので、いっそ燃えるならすぐに燃えてしまえという考えだったのでしょうね。ほら、落語に横丁の裏店住まいがでてくるでしょ。江戸のほとんどの町民は、大家さんが家主で建てた借間で、たった一間の仮住まいだったのです。
ここに、明和大火の絵図があります。「明和9年江戸目黒行人坂大火之図」です。国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができます。
出典:https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/F1000000000000049888
―――でもね、地図が東を上にして描かれているのは良いにしても、図は説明の文章と上下逆になっていますよね。読みにくいのに、どうしてなのですか?
〇〇:たしかに地名などが天地逆になって表示されているのが目立ちますが、よく見ると正しい向きになっている地名、屋敷名の表記もあり、左向き、右向きのものもあって混在しています。そういう書き方をしたこの時代の地図は時々目にしますが、多くの文字が逆向きになるこの地図をなぜこの向きで使ったのかということですよね。
私の感じですが、江戸城を中心にして、火元と延焼していった先などが動きでよくわかるように、また火が燃えていく様子を表すのにふさわしいと考えたのではないでしょうか。つまり、向きさえわかれば、細かい文字は読まなくても、当時の人は江戸の街並みを見当がつけられたのでしょう。
―――これを東京に当てはめて大体の感じはわかりますが、町が大名屋敷の名前で書かれているみたいですね。
〇〇:現代人が見ると、この江戸の地図ではどこがどこという見当はつけにくいですよね。東西南北のような方向感も距離感も、現代のように正確に測量された地図が頭に浮かぶ我々とはかなり違っています。道筋よりもむしろ著名な屋敷名で街並みを表現している点も特徴ですよね。消火の時にも、日常的にも、誰のお屋敷なのかを判断して動くのが習慣的になっていたのかもしれません。
江戸幕府は川を変える技術が優れていましたから、流れを変える工事も行なわれて、川の流れ方も今とは変っています。中央付近に大きな池があるのですが溜池です。今はそんな池はありません。わたしたちが勤め始めた頃には、もうそんなものはありませんでしたが、大雨が降ると水がどこからかあふれてくるようなビルがまだこのあたりにはありました。今では巨大な地下街などの地下空間が設けられている区域で、その面影もまったく見られません。当時の人が地図を見る時には、この池は大きな目印だったのでしょう。地図の見方の感覚が、当時の人と我々現代人とでは大きく変っているのでしょう。
―――火事は目黒の大圓寺から始まったそうですがそこから南西には広がっていないので、強い南西風に煽られて火事が北東へと燃え移っていったのがわかりますね。
〇〇:明和九年(1772年)2月29日(陰暦ですから、3月末です。南風の吹くこともあるでしょうが、この日は西南の風だったとのこと)大園寺(目黒川のほとりの雅叙園の隣が今でも崖になっていますが、その上の寺から出た火は、今の目黒駅近くまで続く急坂を燃え上がり、白金、三田新網町へ、麻布、狸穴(まみあな)、飯倉(東京タワーの近く)と燃え、一緒になって幅が広がったり、また分かれたりしながら、桜田、虎ノ門、丸の内、日比谷、馬場崎門、和田倉門、神田橋,常盤橋、日本橋に入った火は(今はない町名が列記されていますが、その界隈を焼き)、神田に入ったものは小川町、駿河台,昌平橋、外神田、神田明神、湯島天神、上野、車坂、広小路、御徒町、入谷、箕輪、小塚原、吉原、千住ときて、大橋向かいの掃部(かもん)宿まで燃え移りました。
その夜、別に、本郷で失火があり、駒込、白山、千駄木口、根津、谷中、根岸などに燃え移りました。翌日、風向きが北、東へと変って、焼け残っていた大伝馬町、馬喰町、浜町、小網町、 室町、京橋も延焼し、そのあと大雨になって風もやみ、火が鎮まったということです。
―――江戸の三分の一が燃えて、町の6割が燃えて死者数万人と言われる明暦の大火(俗に振袖火事)に次ぐ被害が出たと言われていますが、「明和9年江戸目黒行人坂大火之図」を見ると、焼けた区域はもっと少ない感じですね。
〇〇:この地図が明和の大火で延焼した全域を表しているのか、当時、何日にもわたって風向きも変わりながら燃えていったこの火事の最終的な延焼地なのか、その途中なのか、火消 の仲間の管轄地域のいくつかのうちの一部なのか、目黒の大園寺の長五郎坊主の放火を火元とする最初の出火で燃えた部分だけを示しているのか、翌日に本郷から出た別の失火による消失部分を含んでいるのか、よくわかりません。この地図では中仙道添いに焼けていっている長い部分があるのは「街道沿いに燃える物があったけれども、周囲は空き地が多かったのかな」とも思われ、興味深い地図ですね。
ただ、私の感覚ではもっと広く燃えたのではないかという印象を持っています。熊田葦城篇、『江戸懐古録』(誠文堂書店、大正7年)には明和の大火で燃えていった過程を、町名ごとに克明し記していまして、今では知らない町名も沢山出てきますが、だいたいの延焼経路の見当がつきます。
―――いくら火事は江戸の華と言っても、大量の家が焼けたあとの再建で江戸の人たちは大変なことだったでしょうね。
〇〇:その年の11月になって、改元があり、明和は安永と変りましたが、その時、先ほど示した落首があったのですよ。今のツイッターのようなものでしょうが、当時はうっかりつぶやけば,ご公儀に文句をつけたということで処罰されるおそれが多分にあったと思います。それでも、そういう落首が人目にさらされるということは人の口に扉は立てられないことを表しているのでしょう。
大火事の後の庶民の生活が物資の不足と物価の上昇で困窮したまま、いまだに回復しない。年号だけ変えても、復興は遅れているよという庶民の気持ちが表われているように感じます。
産経新聞が発行した『東京風土記』では、この火事で江戸八百八町のうち六百三十町をなめつくし」とありますから、うだとすると当時家があった町のほぼ4分の3は燃えてしまったということになります。かなり広い範囲の地域が燃えたわけですが、この地図で色がついていないところは、上記のうちの一部の火事だけ図示されているのか、偉い人の家屋敷は表示されているが密集した庶民の居住地は除かれているのか、このころはまだ家がなかったかのどれかなのかもしれません。
―――第二次大戦ではアメリカ軍の空爆で特に東京の下町は徹底的に焼き尽くされました。家が木と紙でできている弱点を突かれたわけです。今は家の建築時の耐火基準が高くなったので、このような大火は起きないでしょうね。
〇〇:今の東京だったら、建造物の耐火機能は格段に向上しているでしょうが、人口の密集度はもっと高くなっていますし、ガソリンやガスなどの可燃物を貯蔵する施設や設備の数も増えています。だいぶ前のことですが、附小の南西のやや高台にあったガソリンスタンドから出火して消防車が何台もきて鎮火したはずだったのに、翌日、坂下の数カ所の下水溝に流れてきた油に火が付き、上のコンクリートを跳ね上げて住民を驚かせた事件もありました。
落下する危険物も江戸時代の当時と比べてたくさんあります。太平洋戦争時の空襲と比べても、格段に危険物は増えているでしょう。テロにせよ、戦争にせよ、原爆でなくても通常のミサイルの誤射にせよ、地震などの天災にせよ、大事故にせよ、大火に結びつくような事態が生じないように、太平洋戦争の戦火を身近にあびた我々の世代の体験も参考にしてもらいながら、明和ではない令和が平和に保たれて発展していくことを切望します。 太平洋戦争時の空襲の火の色を知っていたり、空襲による死傷の実話を直接聞いたりしている我々の世代がそれを伝えないと、安易に「戦争して領土を取り返せばいい」と無暗に発言してしまうようなゲーム機世代、スマホ世代の人たちがたくさん出てきてしまうことになりそうです。
明和でもう一つ、先ほど触れていましたが、有名なものに明和事件に儒学者で兵学者、山縣大弐が、講話の題材として幕府に刃向かうような仮の事例を取り上げたとして、一人は死罪、もう一人はそれより重い磔(はりつけ)にされています。幕府に対する不敬の罪を問われたのでしょうが、言論弾圧の典型のような、暗さの伴う事件で、これも考えると、どうも明和のイメージはよくありません。
改元のおめでたいムードに水をさし、さらに冷やして冷和にしようという意図で記したわけではないのですが、いつまでもムードだけに浮かれていないで、考えられる災害に関する現実のむずかしい問題点を着実に見すえて、考えられる危険性をよく検討して、地道に取れる対策の努力をしていくことが、今の日本人にはもっと必要なのではないでしょうか。
―――とても勉強になりました。〇〇さん、お忙しいところをいろいろとお話しくださってありがとうございました。ところで、先程の明和時代の狂歌の真似をしてみました。
『美しい 調和をめざす 令和でも 米中冷戦 ヘイセイならず』
〇〇:ハハハ。急いで作ったにしてはトリマですね。
―――なんですか?そのトリマっていうのは?
〇〇:「とりあえず、まあまあ」というギャル語です。わたしたちが今を元気に生きていくには、ギャル語にも精通しないとね。
―――はあ、ヤババ。
(20190515)
銀行や郵便局にある個人口座で10年以上使われた形跡のないものは休眠口座とよばれている。毎年、850億円発生しているといわれている。銀行はこの口座の金を自由に使うことができるが、もちろん払い戻しには応じている。わたしも先日三つの銀行を回って、30万円近くを回収してきた。
放置された預金口座のお金を「社会のために有効活用する」観点から、2018年1月に「休眠預金等活用法」が施行されたという。法律ができる前は各銀行の管理だったが、来年2019年1月からは10年以上取引がない預金は、休眠預金として預金保険機構に移管される。
預金保険機構がこのお金を「社会のために有効活用する」とは、「子どもおよび若者の支援」、「日常生活を営むのが困難な人への支援」、「地域活性化等の支援」などにかかわる活動を行う民間公益活動に助成金を出すことだそうだ。
結構な話である。個人の資産でも不要と思われていると公に認定されれば、公共のために使える、使ってよいのだという考えには大賛成である。それで思ったのが、このごろ話題になっている日本全国に大量に発生している空き家のことだ。これも有効利用できないか。
日本は2010年をピークにして、ついに総人口が減少に向かっている。政府は移民を増やしていくようだが、しばらく総人口は減少が続くだろう。
2013年の国土交通省の発表によれば、空き家が、全国におよそ820万戸あって、住宅全体の13.5%を占めているという。しかし一方で、新築住宅の数は増え続けている。国土交通省が2018年1月31 日に公表した2017 年の全国における新設住宅着工戸数は、前年比0.3 %減の 96 万4,641 戸だそうだ。一戸建て、集合住宅、貸家全て含めての数で、それが需要で多少埋まるにしても、820万戸に加えて総計では毎年100万戸近い空家が増えていくことになる。
休眠預金が増えても一般庶民はちっとも困らないが、空き家が増えるとこれは近隣の安全に脅威となって深刻な社会問題になってくる。今は空き家に行政は全く手がつけられないが、これも休眠口座並みに、公共のために使おうという発想を提案する。
さらにこの考えを推し進めて、持ち主が明らかであっても、中古住宅に10年間使用の実態がないなら(これは納税の状態でわかるはずだ)、その中古住宅およびその土地を自治体が自由に使って良いことにしたらどうだろう。空き家になって10年間、利用の実態がないならという基準で、空き家とその土地に対して行政が利用権を持つというシステムにする。
現時点で社会的に問題にされている空き家とは、持ち主が不明なものを指している。しかし、ここの議論では空き家の概念を広げて、空き家イコール中古住宅としよう。持ち主が不明の空き家以外の、持ち主がはっきりしていても売る(貸す)意志がない、あるいは売り(貸し)たくても売れ(貸せ)ない中古住宅も対象にして論じている。
居住しない中古住宅が発生して人が居住しなければ、まず税金をかなり高くする。しかも10年間居住者がいなければ、その時点で中古住宅とその土地の利用権は自治体に移る。
こうなると、中古住宅を持つ人は、高い税金を取られた上にただで自治体に巻き上げられては敵わないと言うので、積極的に貸家にするだろう。高齢者には家を貸さないという大家が減るという大きな収穫となるに違いない。大家はあるいは中古住宅として積極的に売りに出すだろう。そうなれば中古市場が活性化するというものだ。Suumo を見て計算してみたが、首都圏で中古市場に出ているのは空き家率から計算した中古住宅のほんの1−2%に過ぎない。もちろん税制を改めて、今は残存価値がないとされている築20年以上でも家の残存価値を認めるのだ。
売りたくても売れないから空き家になっているものは、つまり持ち主にとっては価値がないに等しいわけだから、公共のものとして役立てたらどうかという発想である。
その10年間規制を避けるために、名義だけでも貸家にする人がいるかも知れないが、収入の確定申告をしなかったらそれで嘘がバレてしまう。
このように10年間使われていない中古住宅を公共のものにするシステムを作ると、次の利点が生まれるだろう。
日本では大都会の真ん中はともかく、一般庶民の住む住宅地の道路は狭く、公園は少ない。空家になった土地をそのまま公園にしてもいいし、保育園、学童保育、老人ホーム、地域住民の集会場の用地に当ててもいい。中古住宅を公共のものにするということは、自治体の財源が豊かになるということだ。
道路予定地など何十年も机上計画のままで道路建設が進まないのは、公共投資に必要な土地に現実に住んでいる人が等価の家が見つからないから動いてくれないからだ。空き家と土地が増えれば、現在居住中の住民の家の移転のための候補が増えるわけで、道路建設を進めやすくなる。これは大きな公共の利益になるだろう。つまり、このような空き家と土地は住民のための街の再建計画に積極的に利用できる。
高度成長期が過ぎ、バルブの時期も過ぎ、さらに富裕層と一般庶民の二階層に分化して停滞した日本経済の中でわたしたちほそぼそと生きているけれども、空き家とその土地を公共のために使うことによって、日本の美化計画、日本列島の改造、強靭化計画に、今やっと落ち着いて取り組むことができることになる。
どうだろう、こういうのは。乱暴かもしれないが、いい提案ではないだろうか?個人資産への侵害として反対されるかも知れないが、売れない資産など持っていても仕方ないはずだ。だれもが、生前いくら稼いだとしても死ぬときに金を持っては死ねないのだ。それくらいなら、公共の役に立てたらどうだろう?
(20180731)
P.S. 2018年7月31日 インターネットに住宅型有料老人ホーム「介護の王国」が「全国で増え続ける空き家問題… 介護施設への転用が解決のきっかけになる!?」という記事を出していた。
111 音合わせはA音、つまりラ音、で合わせる。ピアノは調律師が行うが、素人のギタリストは様々な方法で、第5弦をA音にする。そして残りの5つの弦を合わせて行くのだが、微妙に音がずれる。素人だから仕方がないのだが、それにしても音の調整は微妙で難しいと感じる。
222 僕は、絵画展や書道展を観賞する際、部屋の真ん中に立って、一つ回転し、何となく呼び掛ける絵や書が有ればそこに近づいて、該当の作品を鑑賞し、又次の部屋に行く。呼び掛ける作品が無ければ次の部屋に行く。
333 今はゴルフはやめているが、盛んにやっていた時は、ボールがどうスイングするか僕に教えてくれる気がしていた。7番で打てとか4番ウッドで打てとかボールが教えてくれる感じがしたのだ。ゴルフのルールは2つだ。テイーアップからホールアウト迄、ボールを動かしてはいけない、もう一つはマナーというか礼儀正しくする、一緒の仲間だけでなくキャディさんにも食堂の従業員にも、ということだ。結婚と同じで、結婚相手を其の儘在るが儘に愛すること、あれこれ自分好みに改造しないこと、そして死ぬまで相手への敬意を持ち続け、優しい態度で接することである。
444 僕は料理が好きで時々台所に立つ。先ず色彩で、赤(人参やトマト)そして緑(胡瓜、葉物、オクラ など) 最後に黄色(パプリカ レモン など)、油は基本的に国産の菜種油を大匙1杯。調味料は生姜を主体に酒、醤油、砂糖(茶色)とブランデー。中華は中国の十三香というスパイスを使う。他には豆板醬、大蒜。蛋白質は手許のあるもの何でも、大体は冷凍してあるベーコンを使うことが多い。
僕は今自律神経失調症の傾向にある。漢方の代表的な150種類の処方の内、100処方は生姜が含まれている。だからるなるべく何にでも生姜を入れるようにしている。
どんな料理を作るかも、ある材料に聞いて、彼らのやって欲しい料理を作る。
555 目があまり良くないのでーー右目の網膜の黄斑部に変形ありーー
あまりテレビは見ない。読書もぼつぼつである。最近のヒットは「Poetry Pharmacy 」で自分の気分に合わせ該当のページの詩を読むのである。BBCが取り上げていたので買って見たが面白い。時々読む。
ご参考までに、ペルシアの詩人、ハーフェイスの英訳の詩。
I am in love with every church
And mosque
And temple
And any kind of shrine
Because I know it is there
That people say the different names
Of the One God.
因みに、この詩が効くのは
Condition: Living with Difference そして isolation, mistrust of others, prejudice にも効くと。
結言
それなりの生き方を一人一人それなりに生きるしかない。それは自分の感覚をある程度迄信用して生きることで、そして時々反省して又回路を組み替えることだろう。
(20180727)
今までの人生でギックリ腰を経験したことがあるだろうか?
欧米では「魔女の一撃」(ドイツ語のHexenschuss)と言うそうだ。経験したことのない人には伝えようのない激痛である。図はWikipediaから借用(文献1)。
私は30歳代で一度、70歳代で二度経験した。いずれのときも痛みに身動きならず、トイレに這って行く以外は三日間寝たきりだった。
このギックリ腰は専門的な言葉では椎間板ヘルニアと言って、腰痛の代表的なもののようです。腰を曲げて重いものを持ち上げようとしたり、無理な体勢で運動をしたりするときにゴチする。脊椎骨の間の緩衝をしている椎間板の中の髄核が圧力に耐えかねて背中側に押し出されて、脊髄神経を圧迫する。(コルセットを付けて動きを抑制し)安静にしてそれがもとに戻るのを待つか、重い症状のときには手術で取り除くかするが、患者は社会復帰するまで痛みに苦しみ抜く。
この症状を改善する新しい療法がこの8月から保険薬として承認された。
このクスリの本体はコンドロイチナーゼという酵素で、なんと私が給料をもらう研究者として独立して始めた最初の研究で見出したものなのだ(文献2)。細胞外の組織にあるプロテオグリカンの性状を決める成分はグリコサミノグリカン(GAG)と呼ばれていて、このコンドロイチナーゼはGAGのうちのコンドロイチン硫酸、デルマタン硫酸、ヒアルロン酸を分解する(文献2,3)。椎間板の中にある髄核の成分がコンドロイチン硫酸、デルマタン硫酸であることも、見つけている(文献4)。
文献2と3の論文を発表してから私たちの研究に加わった名古屋大学医学部の、当時は大学院学生だった岩田久先生(その後、名古屋大学整形外科教授、今は名古屋共立病院。文献4の共著者)、さらにその後は彼の仲間やお弟子さんたちがこの酵素を使って椎間板ヘルニアの治療に使えないかと研究を続けてきた。そのほぼ40年にわたる治験の努力が実って、厚生省の被験治療薬として承認されたのである。解説がyomiDrに載っているので、詳しくはそれを参照のこと(引用5)。
私は1960年秋に学部学生として卒業実験を始めてから2014年夏に瀋陽薬科大学を辞任するまで、ずっといわゆる基礎研究に携わってきた。世間の注目や期待が集まる応用研究ではないので研究費にも恵まれず(特に中国ではほとんど無視)、何時かはきっと何かの役に立つだろうと人にも自分に言い聞かせていた。
研究人生後半の20年は、細胞表面の糖鎖(特にGD1aというガングリオシド)ががんの転移を抑えていることを見つけてその機構を追求してきたが、とうとう機構の全貌がわからないままに研究生活が終わった。残念な気持ちで研究と教育生活を引退したが、研究人生初期の研究がその後の多くの先生たちの努力により、腰痛に悩む人の一部を実際に救えることになって、素直に喜んでいる。長生きしてよかったと思っている。
自分の研究がやっと人の役に立つことになった。ぼくの四度目のギックリ腰の治療にも使えるわけだ。
(20180724)
文献1.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A5%E6%80%A7%E8%85%B0%E7%97%9B%E7%97%87
文献2.Yamagata, T., Saito, H., Habuchi, O., and Suzuki, S.,
Purification and properties of bacterial chondroitinases and chondrosulfatases.
J. Biol. Chem., 243, 1523-1535 (1968)
文献3.Saito, H., Yamagata, T., and Suzuki, S.,
Enzymatic methods for the determination of small quantities of isomeric chondroitin sulfates.
J. Biol. Chem., 243, 1536-1542 (1968)
文献4.Habuchi H, Yamagata T, Iwata H, Suzuki S.,
The occurrence of a wide variety of dermatan sulfate-chondroitin sulfate copolymers in fibrous cartilage.
J. Biol. Chem., 248, 6019-6028 (1973)
引用5.椎間板ヘルニアの新しい注射薬、1回で高い治療効果…8月発売 Yomiuri Online
または
先日用事があって会った能崎章輔さんに「星の王子さま」の再読を薦められた。そのときに、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」の名前も言及されたのだった。たしかそんな本があったかなというくらいの遠い記憶しかない。
「なんだっけ?」「彫像になった王子が身に着けた宝石や金箔を貧しい人たちに与えていく話だよ」。
うちに帰って、こういうときはネットに限るとわかっているのでネットで検索してみた。すると、その本の文庫本の宣伝などに並んで、実際にその話がネットに載っているのが見つかったので、さっそく読んでみた。石波杏訳オスカー・ワイルドの「幸福の王子」である。
http://www13.plala.or.jp/nami/happyprince.html
短い話だ。冬が近づいて仲間たちは温かい南国に去ったのにひとり残ったツバメが、自分の身から宝石を取り外して貧しい人たちに与えようという王子のメッセンジャーになる。このツバメの心情がいじらしくて、途中から涙そうそうとなった。
王子は身につけた宝石も金箔もみんな貧しい人たちに与えてしまってみすぼらしい灰色の像となり、ツバメは厳しい寒さに凍えて王子の足元で死んでしまう。最後に登場した神様はこの王子とツバメを顕彰しようとする。しかし最後の一行のこの神様の言葉が傲慢で、それまで感動で震えていた心が凍りついてしまった。
簡単な読後感を能崎さんに送ったところ、「幸福の王子」の翻訳はいくつか出ていて、能崎さんはそれら全てに目を通しているとのことだった。そして曽野綾子の翻訳では最後の一行が原文とは変えられているという。
まだ曽野綾子の翻訳を見ていないし、能崎さんのメイルをここに勝手に引用することもできないので詳しくは書けないが、経験なキリスト教徒の曽野綾子ですら、オスカー・ワイルドの原文のままでは神の言葉としてあまりにも傲慢すぎて今の世に合わないと思ったのだろう。アメリカ合衆国では大統領の就任宣誓のとき聖書に誓う場面があるくらいキリスト教が社会生活に浸透しているが、教会に通わない人が増えているということだし、世の中は変わっていく。
神が存在すると思っている人たちを否定する気はないし、何にせよ信じることは人を幸せにすると思っているが、傲慢は人であれ神であれ私には受け入れることはできない。と、思っているのも、一つの傲慢さの表れなのだろうか。
(20180713)
歳をとって運動不足だと足腰の筋肉が弱ってしまう。近年はこれにロコモと名付けて、ロコモにならないように日頃の運動に努めましょうと盛んに言われている。ロコモとはロコモティブシンドローム(運動器症候群)のことで、通称ロコモで通用している。
高齢者の脚の筋肉の衰えはやがて介護の要支援に繋がる。骨折して寝たきりになると認知症になる人が多いと言われている。要支援は認知症と相性がいいようだ。認知症の多くを占めるアルツハイマー病の原因は未だに特定されていないが、自分にとって恐ろしいのは認知症になることである。
認知症になってそれが進めば、毎日がバラ色の天国に暮らしているようなもので、それはそれなりに幸せかも知れないが、自分が自分でなくなっていくという過程を考えると恐ろしさに身がすくむ。
というわけで、『できることはやりましょう。足腰の筋肉が衰えないように、歩きましょう。』
今日の日経の夕刊を見ると『大股「速歩」で手軽に筋力アップ 歩幅目安は65センチ 正しい姿勢もポイント』という記事があった。
それによると、『速歩で重要なのは歩調(テンポ)をあげることでなく歩幅を広くすることで、目標の歩幅は65センチ。中高年になると筋肉の衰えに加えて、脳機能が歩幅の広さに影響する』のだそうだ。
『東京都健康長寿医療センターが高齢者666人を対象に歩行状態を4年間かけて追跡調査をした。歩幅を「広い」「普通」「狭い」の3グループに分けて調べたところ、「狭い」グループは「広い」に比べて認知機能が低下するリスクが3.39倍も高いことがわかった。一方で、歩くテンポでは、「遅い」グループは「速い」グループに比べて認知機能の低下リスクに差がなかった』という。
ところで私は、中国に足掛け15年いたが、その間、日本にいたときみたいなクルマを運転する生活から遠ざかっていた。日常の移動にはバスに乗るか、歩いていたのである。
4年前に日本に帰ってきたときはそのように歩く習慣が身についていた上に、ボーダーコリーという元気で疲れを知らない牧羊犬を飼い始めたので、お天気の日は一緒に歩いている。自分の歩幅を計ってみると85 cmで、60分に5 Kmくらいの速さで、今の時期だと朝の5時から1時間半くらい歩くのだ(雨の日はホッとして休むけど)。
この新聞記事に照らし合わせてみても、私の歩き方は立派に及第していることになる。実際、日常の立ち居振る舞いで不自由を感じたことはない。しかし、実はこの頃、それでは足の筋肉を正常に保つには足りないことを自覚し始めた。
こういう運動をやってみると如実に判る。
1)布団に背を下にして寝て、両足を揃えて持ち上げる運動。脚を60度から70度位に保つ。高校の頃は体育の時間にやらされていた運動だった。これをやってみると、数秒で太ももの表側の筋肉(大腿四頭筋)が引き攣ってしまう。続けていると腹筋がヒクヒクしてくる。
2)立って、腿を下方に伸ばしたまま(膝を身体より前に出してはいけない)、片足の膝を曲げて足の裏が尻につくようにする。もちろん、付かないができるだけ近づけて、この位置を保つ。これをすると腿の裏側の筋肉(ハムストリングスと言われる大腿二頭筋)が数秒で引き攣ってしまう。
二三年前はこんなことはなかった。しかし80歳を越えると、一日置きに速歩で6 Kmの距離を歩いても、脚の筋肉の働きを正常に保つには足りないのだ。
皆さんは、どうでしょうか。人には個人差があるので、歩いているだけで脚の筋肉は大丈夫という方もあるでしょう。でも、足腰に不安を感じる方は、まずはぜひ歩いて見てください。そして、今はネットですぐに調べられますから、良い運動法を見つけて、そしてそれを毎日行ってください。歳を取ると、毎日続けるというのが大事みたいですよね。
引用:
日本経済新聞夕刊20180711
https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20180711&c=DE1&ng=DGKKZO3281746010072018KNTP00
『大股「速歩」で手軽に筋力アップ 歩幅目安は65センチ 正しい姿勢もポイント』
(20180711)
このごろ、以下のような惹き句を持った広告をよく目にする。
1.『ずっと続く健やかな歩みに「プロテオグリカン」 希少成分「プロテオグリカン」を贅沢に配合しました』
2.『軟骨成分の品質と含有量を極限まで追求した感動できる「プロテオグリカン」とは』
3.『軟骨成分をまるっと補える新しい軟骨成分「プロテオグリカン」配合 希少な極生だから期待できる素早い実感 1グラム3000万円以上した希少成分』
4.『「プロテオグリカン」驚きのはたらき うるうる美肌』
「プロテオグリカン」は軟骨の主成分なので、軟骨が大事な働きをしている関節の滑面がすり減ってきて、歩くと膝が痛む人には、この広告は大きな福音に聞こえるはずだ。
広告では希少成分とでているが、プロテオグリカンはII型コラーゲンと並んで軟骨の主成分だ。ただし、これを分解しない形で抽出するにはグアニジン塩酸などを使う必要があり(ほかにもタンパク質分解酵素を阻害する試薬などが必要)、1グラムを抽出するのに3,000万円の費用が掛ったというのは、その通りで嘘ではない。
この広告で使われている「プロテオグリカン」は捨てられてしまうサケの鼻骨から酢酸抽出で取られているので、昔ほど高価ではないのは事実だけど。もちろん抽出法には問題があり、これは後で触れる。
いかにも高価だった天然物質が、今はありがたく飲むことが出来て、膝の痛みが治るんだ、となると「じゃ、飲もう」飛びつく人もいるだろう。上に書いた広告の1から3までは飲み薬である。
問題は、軟骨の主成分である「プロテオグリカン」を飲んで、じゃ、すり減った軟骨が元通りになるの?ということにある。
これらの広告の内容を支える学術論文が一つあった(弘前大学の友人の先生に助けて戴いた)(文献1)。
それを読むと、平均年齢52歳の男女からなる被験者を集めてきて、無差別に二つに分け(無差別にというのは科学的実験・検証では必須の方法)、一つのグループにはサケの「プロテオグリカン」、そしてもう片方にはプラセボ(偽物、つまりべつのもの)を、それとはわからないようにして服用してもらう。さらに二重盲検法と言って、被験者がどちらを飲んでいるかわからないだけでなく、実験者も、被験者に与える時「プロテオグリカン」を与えているかどうかわからないようにすることで、得られた結果の信用性が高まる。
読んでみると色々と調べているが、II型コラーゲンの分解が遅くなったことだけが、これらの二つのグループの間で有意に異なっていた。有意というのは、これが正しくない確率は5%以下だという意味である。つまり、このサケから取り出した「プロテオグリカン」を飲むと、II型コラーゲンの分解が抑えられるといっても間違は少ないだろう、ということだ。被験者が歩くときに痛みが減ったという声もでているが、これはその傾向があるだけで統計的には有意ではなかった。
このサケから抽出された「プロテオグリカン」の化学的性状は他の研究者が詳しく調べていて、抽出のときにかなり分解していることが報告されている。もちろん、それでも服用して実際にすり減った膝が治るのなら良いが、このような高分子は食べると、必ず胃と腸内で徹底的に素材まで分解されてから、改めて身体に利用されるのだ。つまりタンパク質はアミノ酸かジペプチドまで、多糖類は構成している単糖まで、分解されてから小腸で吸収され、身体はそれらをさらに分解して栄養とするか、それらを使って身体に必要な高分子(たとえば、自分の身体のプロテオグリカンとか)を作るのだ。食べ物を消化するのは体内に異物を取り込まないためだし、異物が入り込まないかどうかは身体の免疫機構がしっかりと見張っている。
つまり、サケの「プロテをグリカン」を食べても、それがそのまま自分の膝の軟骨の中に入り込むことは決してない、もちろん広告でも、飲んだプロテオグリカンがそのまま壊れた膝軟骨を修復するとは言っていない。そのような印象を読んだ人に巧妙に与えているだけである。
ひところ流行った、コラーゲンを食べると肌が若返る、コンドロイチン硫酸が膝の痛みに効く、グルコサミンを飲むのがいい、という宣伝と同じなのだ。つまり高価な投資に、全然見合わない。
いや、きちんとした科学論文があるじゃないか、という向きもあるだろう。でも、科学的権威が高いと言われる科学のジャーナルに載る論文だって、オボカタさんの例(Natureに掲載された、どんな細胞でもp Hを変えると万能細胞になるというインチキ論文)を持ち出すまでもなく、その一部は追試できない、つまり間違いか偽物ー捏造ーなのだ。サケの「プロテオグリカン」を飲んだら効くという研究も、他の人達が追試して確認できるまでは簡単に信じることは出来ない。サケの「プロテオグリカン」には、他に低分子の不純物が含まれている可能性があり、それが効いて、軟骨の分解が抑えられたのかもしれない(もしそうなら、それはそれで大発見となる)。
この広告が宣伝するようには運ばないよと私はここで主張しているが、でも、「病は気から」と言うのも本当である。気の持ちようで人の体調は変わる。「信じる者は救われる」というのも事実だ。サケの「プロテオグリカン」が膝の痛みを治すのだと信じて飲み続ければ、効き目を味わう人があるかもしれない。
この私の文章を読んでしまった人は半信半疑で飲むことになるから、そうなると効かない可能性が高い。高いお金を払ったのに、効かなくてごめんね。
ただし、4.『「プロテオグリカン」驚きのはたらき うるうる美肌』は、もし皮膚に水溶液を塗るならば効くはずだ。保水力はヒアルロン酸には及ばないが、塗れば皮膚がしっとりするというのは信じて良い。でもそのためには、「プロテオグリカン」を含む高額商品でなく、ヒアルロン酸を含むもので十分だ。
文献1.Tomonaga, A., et al., EXPERIMENTAL AND THERAPEUTIC MEDICINE 14, 115-126 (2017).
(20171215)
放送大学の講義で「寄生虫病」を受けている。講師はもとは麻布獣医大学の先生で、大学では1年かかって教える内容をたった12時間で教えるのだといいつつも、楽しげに私たちに講義をしている。講義の大半が済んだところで、映画「地方病との斗い」を観ることになった。
講義では、寄生虫病の一つとして日本住血吸虫についても学んだ。この吸虫に取り付かれると最終的に肝硬変を起こし、往時の人々は悲惨な最後を遂げることになった。日本で明治から大正時代にかけてこの病態を解明し、この寄生虫の生活環も明らかにして、昭和時代になってこれを断ち切ることに成功した物語が映画「地方病との斗い」である。この映画を観ての感想を書きたい。
筑後川流域、広島県片山地方、そして甲府地方の三箇所に、この日本住血吸虫症は限られている。今ではそれはこれら3つの地方にのみミヤイリガイがいるためであったことがわかっている。そして、古来からこの風土病はあったのだろう。映画が取り上げているのは甲府なので話を甲府に限るが、今では東南アジアに広く行き渡っていることが知られている「日本」住血吸虫が、大昔にどうして、どのように日本にも入って来て、そして特に甲府に、ミヤイリガイと共に定着したのか不思議である。日本にもミイラが保存されて残る気候があれば、昔のミイラを調べてその謎が解けるだろうが、発掘される骨を調べるのではわからないし、この経路は謎のまま残るのだろう。
甲府地方の農民が長い間苦しんできた地方病に焦点が当てられたのは、日本が幕末に開国して以来富国強兵に努め、徴兵制を敷いたおかげである。つまり日本の近代化とともに、この地方病に照明が当たったのだ。1874年に初めて村から「お上に」嘆願書が出された。それを受け取った山梨県令(知事に当たるか)はそれを握りつぶしたが、1886年に幸い徴兵制で壮丁の検査に当たった軍医が甲府地方の若者の発育不全とこの病気に気づいた。これが、この地方病が世に知られて関心を集めるきっかけとなった。日本の近代化への目覚めのおかげである。
映画では、多くの人たちがこの病気の解明に関わったことを紹介している。1897年には杉山某氏は遺体を解剖して虫卵を見つけている。三上三郎は十二指腸虫でもなく、肝ジストマでもなく、新種の寄生虫病であることまで突き止めた。そして1904年には桂田冨士郎は虫体を発見、藤浪は死体から成虫を発見。
映画はそこから話が急展開していく。この寄生虫がどうやって人に取り付くかを調べることになる。つまり感染源、感染手段探しである。犬のグループを二つに分け、一つには汚染地域の水を飲ませ、もう一つのグループではその水に犬を漬けたのだった。後者では100%感染が成立して、だから接触感染であることを結論づけたことを見せている。
これは実に見事な論理の展開で、現代の科学を観ているみたいだが、このようにスルスルと進める事のできる裏付けがあったのだろうか。しかも虫卵では感染が成立しないことを見つけたので、中間宿主を疑って、中間宿主探しを始める。これだって、虫卵を見つけてもそれがこの虫の卵であることを証明する手続きが必要であり、それは実際大変なものだったはずだが、ここでは省略されている。
そして多くの人たちが中間宿主を懸命に探したのだろうが、1913年(大正2年)、今名前の残っているのは鈴木実と宮入慶之助の二人で、彼らがカタヤマガイが中間宿主であることを見出した。この中間宿主探しの人たちは汚染地域の水に浸かって中間宿主候補を探したはずだが、よくぞ感染しなかったものだ。幸い宮入氏は発見の功を讃えられて、カタヤマガイはミヤイリガイと呼ばれるようになった。
これで日本住血吸虫による病気は、この虫の生活環を断てば良いことになった。だがこれは今の目で見ればこうなるが、そのときは、中間宿主の発見で直ちに、このような考えになったのだろうか。大正時代の8年間にミヤイリガイを採取して米俵96俵になったというから、ミヤイリガイの駆除をかなり早くから目指したみたいだ。この新しい目標が直ぐにできたのか、いろいろと紆余曲折、試行錯誤を経たのか、科学的観点がどのように応用されて、この地方病撲滅に役立ったかに、私は興味がそそられる。
1925年(大正14年)広島県知事から山梨県に移った本間知事は、広島県片山地方での撲滅の成功体験(石灰をまくことでこのミヤイリガイを駆除できたらしい、効果的な駆除剤としての石灰に行き着くまでの過程も知りたかった)があった。それを使って山梨でもミヤイリガイを駆除してこの病気を克服することに、県を挙げて取り組んだ。
支那事変から太平洋戦争へと突き進む日本としては、健康な壮丁を用意するために、この病気の克服に必死だったに違いない。本間知事は汚染地域だった片山地方の数十倍にもなる汚染地域を指定して、石灰を撒くことでミヤイリガイの駆除を命じたのだった。実際にこの作業の当たったのは地域の人達・農民であった。
しかし戦時中にはミヤイリガイの絶滅は実現せず、進駐軍(アメリカ占領軍のことだ)も甲府に置いた列車に研究拠点を設けて熱心に駆除剤の開発に取り組んだ。新たな駆除剤の開発だけでなく、住環境の改変も行われた。田んぼの土地を固めただけの水路をコンクリートの水路に変えることで、ミヤイリガイの住みにくい状況に変えるプロジェクトも始まった。
石灰とそれに替わる〇〇粒剤を住民が総出で撒き続ける作業と並んで、水田に泥を盛って栽培作物を変えてしまうという(その結果ミヤイリガイの棲み家がなくなる)壮大なプロジェクトも行われ、とうとう1978年(昭和53年)山梨県では日本住血吸虫の病害が根絶した。まだミヤイリガイは甲府に生息しているものの、日本住血吸虫を人から追い出すことに成功したのである。
甲府地方に広く広がっている地方病の根絶に成功した物語を見て、まさに近代文明の勝利を感じたが、それは一つには「時の利」であった。1)西洋医学が日本に根付いて、科学教育も始まり、物事を科学的に観察することで、仮説を立ててそれを検証するという科学的な手法に人々が馴染み始めた時代であったこと。2)顕微鏡が行き渡って医学で使われるようになって虫卵を観察できるようになったこと。3)日本が近代国家を作るべく富国強兵策をうちだしたために、甲府の発育不全、早死の若者をなんとか病気から救わないといけなかったこと。4)それを受けて行政、研究者が強い意志と熱い情熱をもってこの病気の解明に打ち込んだこと。つまり、近代化されつつある日本のこの時代だからこそ出来たことだ。
その結果日本住血吸虫の生活環が日本で日本人の手によって明らかにされ、この吸虫の侵襲から逃れるには中間宿主を根絶すればいいという目標ができた。音頭取りは行政であっただろうけれど、数十年にわたるこの駆除の中心になったのはその地域の住民だったことが、この映画で示されている。
WHOと日本の団体によるフィリピンにおける日本住血吸虫の駆除の努力の様子を、この映画の後に続けて観たが、住民の意識が低ければ決してそれには成功しない。翻って、甲府で駆除に成功したのは、住民の教育程度が高く、この病気を根絶するにはどうしたら良いか、何が必要なのかを住民が理解して、進んでそれに向かって邁進したからである。甲府地方における日本住血吸虫の根絶には、この因子も実は非常に大きなものであったことを改めて認識した。先に書いた、「時の利」に相対して付け加えるなら、この住民の意識の高さは「地の利」(日本だから出来た)というべきであろうか。講師の内田明彦先生の解説にもあったが、江戸時代から連綿として行われてきた一般住民の子供をも対象とした寺子屋教育の成果に、この意識の高さは帰せられるだろう。
以上、「地方病との斗い」の筋を追いながら、この映画を観ての感想を述べた。見事な映画である。これを観ることが出来てよかったし、これはつまり放送大学の講義「寄生虫学」を受講してよかったということである。
なお、この映画はインターネットの科学映像館サイトで見ることができる。
http://www.kagakueizo.org/movie/medical/355/
(20171204)
左は公益財団法人目黒寄生虫館
毎晩ベッドに潜り込んでから文庫本を読んでいます。
終戦の年に焼け出されたことをふと思い出し、内田百閒の「東京焼盡」という日記集を引っ張り出しました。百閒の小説は三島由紀夫が「作家論」で取り上げるほどでしたが、晩年になってからのこの随筆には冴えが感じられません。酒、麦酒が手に入ったの、駄目だったのと身の周りの下らぬことばかりで全然面白くない。
不満が募ったので、時代は異なりますが、永井荷風の「断腸亭日乗」を読み始めたところです。こちらは世間の情景描写にも優れていて、興味をそそります。関東大震災の時、仮小屋が散在した日比谷公園を散歩する一節などは、短くても当時の惨状が目に浮かぶようです。生前に刊行されたものですが、よくもこの様な個所まで活字にさせたものよ、と思わせる部分が所々に見受けられます。
例えば大正7年12月22日の文章ですが、ご興味をお感じの向きは、岩波文庫にありますので、本屋での立ち読みをお薦めします。
(20170318)
Forum 読みました。何時も学ぼうとする心構え、立派です。以下は小生の雑感です。
(1)新入社員だった頃、大先輩から、人生に必要なのは、哲学、歴史、そして心理学、だと教わりました。人間とは、人間関係であり、その為にも心理学が必要だ、という事でしょう。
(2)小生が現役で仕事をしている時、大事にした事は、自分の立ち位置でした。それも状況を芝居と考えてのことでした。
(3)脚本は誰が書くのか、演出は誰か、主役は誰か、脇役は、そして劇場はどこで観客はどのくらいいるのか。という事を考えました。
(4)仕事は大体チームワークなので、主役ばかりやりたがるのは問題です。全体を見て進行させる管理者が必要で、其れが時には、その管理者が一番危険を見分ける事が出来るので、その時は立場を離れ、火消しの人間として、現場に飛び込まねばなりません。
(5)一度豪州で800万豪ドル(約 32億円) 引っ掛かりが起きました。課長の小生は原因がすぐ分かったので、「32億円の引っ掛かりあり、兎に角現場にに行く」と言う稟議書1枚書いて、課長の仕事を置いて、一月シドニーに滞在し、訴訟して、何とか解決しました。
(6)課長や 部長であっても、課員に適任者がいたら、その人に現場を渡さなくてはいけません。面子に拘っては駄目です。
(7)結論的に言えば、学ぶ舞台は現場が一番です。小生は、日々老いを感じています。言うなれば、今日が一番若いのです。明日は間違いなく、今日よりは一日だけ老人になっているからです。
(8)学ぶのも大切ですが、瞑想し、静かな生活をすることも重要です。祈れる人は祈るのが良いと思います。
(20170224)
79歳の春、思い立って放送大学の学生となった。心理学の勉強をするためである。
それから一年経って、今は80歳の春を迎えている。
その間、2016年の7月には前期の試験があり50年ぶりに試験勉強をして、弘明寺にある神奈川学習センターで4科目の試験を受けた。後期には、面接授業というのがあり茗荷谷の元教育大学敷地にある放送大学文京学習センターで、心理学実験、心理学英語原書講読を経験し、さらには今年の1月末には9科目の試験(一部は記述)を受けた。
一年経ってどんな具合なのか、興味をお持ちの方もあるだろう。ぼくは今80歳で、心身共に元気である。ここが肝心なところなのだが、一年前よりも元気である。実際、一年前に中断したブログも再開して、今は書きまくっている。
さて、学生となって勉強をしたから、元気なのだろうか。勉強をしてきたことと、元気になったことに因果関係があるだろうか。
A) 放送大学の学生になって、一年間勉強を続けた
B) 今は一年前よりも元気である
ここで、A)とB)を独立の事象としよう。そのとき、『B (一年前よりも元気である)のは、A(放送大学の学生になって、一年間勉強を続けた)からだ』と言いたいけれど、そう言えるだろうか。
これをA)とB)から導かれた結論としよう。
A)とB)からこういう結論を出すと、心理学を勉強した身としては、そりゃないでしょ。それは「前後論法」っていうんですよ。時系列に沿って、事前の状況と事後の状況を比較して安易にその二つをくっつけているじゃないの、ということになる。
「前後論法」であるとみると、この場合はA)がB)の原因だと結論するのは、ほかの原因を考慮しないでその原因を帰属する安易な思考方法なのである。
真の原因としては「平均への回帰」「自然な要因」「同時発生の原因」「欠落したケース」などがあるかもしれないのに、それを見落として、前後を安易に結びつけるのが普通に陥りやすい思考なのだ。
しかし、若い時ならともかく、心身ともに衰える一方の年令で一年前よりも元気というのは、「平均からの回帰」でも「自然な要因」でもないだろう。「同時発生の原因」としてはZophieとよく歩くことが挙げられるだろうが、これは二年前からやっていることだ。
つまり、B (一年前よりも元気である)のは、A(放送大学の学生になって、一年間勉強を続けた)からだという可能性が、とても高いといえるだろう。
というわけで『学問のススメ』である。頭を使うのは頭と身体の健康によいと言うが、実際、その通りですよ、という身近な例を提供しているつもりである。
ありあまる時間の一部と僅かなお金で、健康が保証されるのだ。「面倒くさい」なんて言っていないで是非試して欲しい。「面倒くさい」と思うのは老化の明確なサインですよ。
(放送大学で)勉強を続けると、心身ともに活発さを保つことが出来る!!!
ちなみに、2017年4月入学の第2回募集は3月1日〜3月20日。
URL:http://www.ouj.ac.jp
(20170224)
先日、エアコンが壊れて、寒い日々を過ごした。修理屋さんが来て部品を交換したのだが、その部品が不良品だったので、又交換ということで10日も掛かったのだ。
(1)
芳沢光雄先生の「中学数学」という本を今年通読する機会があって、久し振りで「三平方の定理」のユークリッドの「原論」に載っている証明法を勉強した。一旦、本を離れ、自力で最初から証明をやってみると、意外に時間が掛かり、数日を消費した。自力で証明出来た時の快感は忘れられない。便利とか簡単とかでは得られない物が世の中には沢山あるものだ。又、伝聞だけで物事を判断する愚かさも感じた。
(2)
先日、バスの中で94歳の男性とお話をする機会があった。偶々バスを待つ順番を譲ったのでそれが有難いとされ、話が車中で弾んだ。内田先生という医学博士だった。世の人の役に立ちたいと医者になったが徴兵でレイテ島に派遣され、生きるか死ぬかと言う中で何とか生き延びてこられたそうだ。息子さんもお医者さんだそうだ。順番を譲るというそれだけで、このような貴重な巡り合いがあった。
(3)
2011年の被災地の豆腐屋さんで、釜を熱するのに薪を使っている方がおられる。もう二度と電気やガスに頼らないというもので、一つの見識であろう。
(4)
44年も経つ弊屋の物置には当時から木炭と七輪が置いてある。小生もあまり文明というものを信用していない。文明が進めば進むほど、一旦、それが不調になると、取り返しがつかなくなる。何事にも実感を大切にする日々の生活態度が大切だと思う。
(5)
百合の花が好きだ。百合は開花の際、大量の水を吸い上げるので油断をすると花が萎れてしまう。そう言う時、ぬるま湯をたっぷり花器に注ぐと一日で回復する。要は愛情の問題である。
愛情と言い、謙譲と言い、日常生活の尊重と言い、自分の手でやるという実感の尊重、等々は、安易に便利さを追求する文明社会の現状とは合い入れないようだ。
(完)
(20170220)
2016年も終わろうとするこの頃、幾つか考えていることを書いてみよう。
(1)昭和20年9月半ば、疎開から帰京した小生は両親と共に、早朝、 東横線渋谷駅のホームに居た。目の前の一面の焼け野原を、一台の自動車が代官山方面から原宿の方へ疾走して消えた。それがジープを見た最初の瞬間だった。それから、何も無かったが、平和が一杯の幸せな年月が数年過ぎて行った。
(2)所謂、BGMが気になっていた時。BBCのホームページにRoger Scruton (イギリスの哲学者、音楽家)がBGM無しの静かな番組 作りが出来ないものか、と言っていたので、我が意を得たりであった。その後何かの折に、電子音楽で作られたBGMのアーカイブがあるようだいうことをしらされた(未確認だが)。不必要な電子音楽によるBGMは不快である。しかし、現代人は無を恐れるようだ。ぼんやりすることを恐れる。電車に乗れば無数の広告の空間があり、車内放送があり、乗客たちの飲食から化粧に至る、そして、スマホの自由奔放の世界が広がる。
(3) 中華鍋と野菜と菜種油と少量の調味料でそれなりの野菜炒めが出来る。数枚の白紙と鉛筆と定規で数時間、数学を楽しむことが出来る。三畳の畳の上で天井を見ながら俳句を作ろうとすると、言葉がどこからか滲み出て来る。Alex Bellos の幾つかの本を(翻訳あり)を読むと数学や物理学の進歩にとり人間の自由な発想がとても重要だと いうことを知らされる。今科学はお金の消費額に頼っている感じ。
(4) 人と会う時、先入観を先ず捨てることが大切である。世の中の事象を見る時、一歩、二歩、引いてみる事が重要である。唐突だが、 不幸 とは、物に頼る人生、幸せとは物に頼らない人生と言って良いかもしれない。 (完)
(20161220)
アメリカの大統領選からかなり日が経ちいろいろトランプ氏の選挙前と後の公約の修正も出ています。日本のマスコミ、海外のマスコミでも紹介されておりますが此処にFWDするBBCの記事はよくまとめてあると思いますので紹介いたします。(画像はインターネットから収録)
トランプ氏の態度は彼が予備選、大統領選中に再三自分で述べていた”I am flexible!” と云う様にかなり便宜的に流動的ですが、11月23日米国東部時間の正午の段階では此処に書かれてあることは大体正しいと思います。
記事は英語なので済みませんが、比較的易しい英語で書かれていますし、外国語に親しむことはボケ防止に役立つとも聞いておりますので興味があれば読んでみてください。面倒な方は下にトランプ氏が 選挙前と後で軟化した事項、変化なしと明言している事項、現段階では態度が不明な事項 を掲げておきますので一瞥してください。
いずれにしろ 私の印象では 選挙前と後の約束をある程度変更しても米国のマスコミ、大衆の受け取りは方は案外あっさりしていると思います。寛容とも、鈍感とも無責任とも取れますがどうでしょうか?日本ならほぼ公約として述べた事にこの位の変化があればはかなり大きな批判が出てくると思います。
アメリカでも下記の12事項の内で一つのことが気に入ってトランプに投票した、或いは気に入らずに投票しなかったとする人がかなりいるはずですがその為の批判はソシアルメデイアで散見するぐらいで今の所あまり見当たらない様です。
(選挙後に態度が軟化した事項)
1;ヒラリークリントン 告訴問題
2;オバマケアー 問題
3;国境に壁を;
4;モスリム入国禁止問題
5;地球温暖化問題ーーパリ協定
6;不法移民国外追放問題
7;テロリスト尋問方法、拷問問題
8;同性結婚問題
(選挙後でも態度を変えないと明言した事項)
!;人工中絶問題
2;TPP撤退
(選挙後には態度を明言してない事項)
1:NAFT撤退問題、?再交渉 これに関しては1、2のコメントが出ている
2:外国の為替操作の問題、特に中国。 日本もある程度標的
大体以上の様です。
興味ある方はhttp://www.bbc.com/news/world-us-canada-37982000をクリックして見てください。
(20161124)
(1)
小学校教育が小生にどのような影響を与えたのか、曖昧である。小生の精神的成長においては中学校生活と高校生活の占める割合が高い。
(2)
一般的な区切りとしては、20歳前後までの勉強期、その後40年間の職業生活、そして残り20年の引退生活、計80年の人生というのが標準設計であろう。小生は遂に80歳を超えたので、これからは未知の世界に入り込みつつある。
(3)
世の中と擦れ違っている感覚が強くなっている。昭和から平成になり、世の中の(たが)が緩んで来たように思える。約束も守られない。
こぼれ萩たがの緩みしワイン樽
実柘榴や約束事は破られる
(4)
洋間に何時もオリエンタル種の百合(白、黄色、赤、ピンクなど)を二本飾り浮世を忘れているこの頃である。雑感まで。
(完)
(20161027)
附小S24の2組の加藤学級が、小学校4年生の時から5年生のはじめにかけて分団ごとに発行した雑誌から選んだ文章を、加藤嘉男先生がまとめて、技報堂から1947年12月に発行された「子供の町」はれっきとした本です
先日、スキャナーで取り込んだので、Yahoo Box でその内容を公開しています。(2016年末まで公開)
https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer
加藤嘉男先生のまえがきの最後をここに引用します。
ーーーーーーーーー
「このぐらいの文ならぼくにも書ける」
「この位の絵なら私にも画ける」
という方があるでしょう。一つ書いて下さい。もっと良い「子供の町」を作って下さい。そうして新しい希望と、勇気に燃えて、毎日毎日の生活を楽しく送って下さい。「子供の町」が「大人の町」 になる頃の日本は、きっと生まれ変わったような世界の日本となって、世界の人達から、日本人の働きが喜ばれ、世界の人々のために、日本がなくてはならない国となるようにしましょう。
ーーーーーーーーー
私たちは加藤先生のまえがきに書かれているように、その通りに、大人になって、「日本は、生まれ変わったような世界の日本となって、世界の人達から、日本人の働きが喜ばれ、世界の人々のために、日本がなくてはならない国」となることに貢献しました。
この本は日本の敗戦後の混乱期に育った私たちの宝です。私たちは、このお陰でその後文章を書くことが日常当たり前にできるようになりました。
いま、この「子供の町」の先にくるものを、2組の人たちだけではなく同期の人達と共有できないかと言う思いで、この同期会HPを立ち上げることを同期会に図って賛同を得ました。
(20161024)
子供の町」の定価は110円でした。昭和22年から物価は大雑把に言って40倍になっているそうです。とすると、「子供の町)は、いまですと4400円の定価となるので、かなり高いという印象ですね。
(20161027)
附小の2組の本「子供の町」の内容をWebで公開しています。2016年の年内いっぱいの公開です。
(20161101)
「子供の町」は、Webcat plusというネットに載っています。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/117861.html
45014109という書誌番号をもっていて、国立国会図書館に収蔵されているみたいです。
(20161102)
ツクバネウツギの花
秋になると植え込みや生垣に、白い花を咲かせるツクバネウツギの花です。同窓会で紹介されましたが、改めて写真をみて思い出してください。羽子のような形をした地味な姿で、 静かに咲いていますが、いい匂いがするはずです。道端で見かけたら、花に鼻を近づけクンクンと鼻孔を膨らませて、息を吸い込んで微かな香りに気付いてください。微かな好い香り、微香こそが美香というのが和の美学です。ヤマユリの香りが強すぎると、遺伝子操作をして無香のヤマユリができています。花は色と形だ、見映えさえ好ければいいと、人間は思っているのでしょうか。
花だって、自然人であることを忘れてしまった人間など相手にしていません。昆虫や植物相手に香り通信を発信しているのです。昔、クスノキから採れる樟脳が防虫剤だけでなく、セルロイド樹脂の原料として、大量に輸出されていた時代がありました。その時、樟脳の収量の悪いクスノキは臭樟と呼ばれ蔑まれていました。その後、香水の原料になる成分が多く含まれていることが判ると、今度は芳樟と名付けられ、今では町並木のあちこちにクスノキが植えられています。
5月頃になると、このクスノキに小さな白い花が咲くのですが、高い木の上なので人目にはほとんど気付いてもらえません。匂いとなると完全に無視されています。この空気の芳しさに気付かずに呼吸するのは本当に「もったいない」です。爽やかで軽やかな快い芳香が、空気中に拡散しているのです。花の香りが風の流れを教えてくれる、匂いは風下に伝わっていくという、「花伝風信」という言葉があります。後期高齢者になったのだから、附小時代を思い出しながらもう一度ゆったりと、遊び心を自然に向けてみませんか?
戦後のまだ食糧の不足していた時代には、すえかかった御飯の匂いや味を誰でも体験していました。現代は賞味期限・消費期限はと匂いを嗅ぐこともなく視覚判断する時代です。今の安全・安心、お客様サービスの社会が、本来の自然人としての感覚を鈍らせています。嗅覚は退化したのではなく、休養しているだけです。潜在能力は保たれているのです。嗅覚も好奇心を持ちさえすれば、目覚めてくれると信じましょう。
物を食べるときに目隠しをして鼻をつまんでみると、匂いがしないだけでなく何を食べているのかわからなくなる。普段気付かないところで、嗅覚は何気なく働いているのです。「われ思う故にわれあり」の前提に「われ感じる故にわれあり」があるのです。感性は磨きをかけなければ、役立たずになってしまうのです。
アスリートを見てください、鍛錬を重ねて体力を作り上げ、自然人の肉体の限界に挑戦しています。感覚の世界にも楽しみ方がいろいろと転がっていることに、気が付いていないだけです。好奇心の的が子供の時のように、自然には向っていないだけなのです。社会文化のなかで立派に生きている、ホモ・サピエンスになりきっているのです。でも、毛皮を脱いだ裸のサルであり、本来遊び好きなホモ・ルーデンスであることも間違いないことです。
匂いで遊ぶ気になったら、まず漢字で嗅覚入門してください。匂は余韻の韻が韵となり、さらに匀から転移して、匂という国字が出来上がり、色香の世界の趣きを表現するようになりました。嗅ぐという字は、口偏になっていますが齅と嗅の二文字があります。クンクンと匂いを嗅ぐのを齅、鼻から息を吸い込みながら匂いを感じるのに対し、モグモグと口の中でものを食べながら、息をはきながら感ずるのが嗅です。
嗅覚が失われてしまったら、風味が感じられなくなり味気ない、ただの栄養補給の食餌になってしまいます。楽しい美味しい食事が嗅覚のおかげだと再認識してください。美食の中には天文学が潜んでいるとも言います。Gastronomy にAstronomyがあるというのです。
ついでに化粧品には宇宙が潜んでいる、Cosmetics はCosmosからの派生語です。
後期高齢者が華麗に加齢を重ねるには、子供の時のように自然に向き合って、あるがままの四季の変化に遊ぶこころ、自然人のゆとりを取り戻すことではないでしょうか。
鈴木大拙は無心の英語訳は、no mind ではなく、childlikeness がふさわしいと言いました。無心とは童心を取り戻すこと。嗅覚を覚醒させて、あるがままの香気を感しとることで高貴高麗者への道が開けるかもしれません。
こんな屁理屈を書いて、本当に「子供の町」の時代が取り戻せるのでしょうか?
(20161023)