一番上の1列目左から:三段崎敏行(1組)、田中努(1)、細野明(1)、
2列目:小泉繁久(1)、堀池正(1)、青木健(2組)、山田玲子(3組)、田中公子(3)、若林茂(1)、鈴木素彦(1)、近藤鎮子(3)、田畑てるね(3)、
3列目:小路稠子(3)、山形達也(2)、梅沢節子(3)、苅部良子(3)、依田信一(1)、野呂雄二(2)、上井達雄(1)、小笹和彦(1)、中村忠晴(2)、青木宏子(3)、
4列目:園田太嘉雄(2)、本間盛太郎(1)、千葉(2)、
5列目:永峰雅子(3)、石橋公行(2)、武藤重治先生、牧壮(2)、饗場一雄先生、加藤嘉男先生
1985年出版 第五部「集団疎開」より抜粋
学級閉鎖
戦争が激しくなるに及んで、学童は田舎へ移ることが奨められた。それでも田舎のない東京が故郷である者は、どうしようもなかった。学校が寮を用意して集団疎開が始まった。
昭和十九年八月に始まった集団疎開も、二十年三月になると、いよいよ東京都にある学校が閉鎖され、田舎のない者は、学校が面倒を見てあげて集団疎開に合流することになった。
一年生は募集しなかったので、四月に二年生が集団疎開に参加して、東京の学校は、疎開地の連絡員と、教頭しか残らなかった。
私は兄が応召し、母親が脳溢血で半身不随であったのを慮ってか、最後まで東京に残されていたが、四月にはいると、いよいよ集団疎開に参加することになった。
在京中は、既に集団疎開に参加している先生方の家族の疎開の荷造りの手伝いをやったり、校庭を使っての食料の増産に励んだりしていた。
いよいよ学校閉鎖となるに及んで、めぼしい教材を疎開地に送った。
教材としてミツバチを一群にまとめて、継箱付で、大風呂敷につつんで、客車の車掌の控室になる空部屋に置いて新宿を出た。
ところが客車の座席の方から、「痛い。」と言う悲鳴があがった。まさか自分の運んで来たミツバチとは思わなかった。なぜなら、蓋も出入り口も構造上、板を降ろして釘付にするようになっているので、厳重に閉めてきているからである。
「あっ、ハチだ。」
と、乗客が叫んだので、犯人はこの箱の中にいる。髪に蜂がとまっても、そっとしておけば危害は加えないのである。「ハチのようですが、髪にでも止まったら、手を加えないで、そのままにしておけば逃げていきますよ。」とハチを持っていることを白状するわけにもいかない。とうとう被害者は五人ほど出てしまった。一体どこから出たものだろうか。でも疎開地に無事運ぶことができた。取った蜂蜜は病人に配給をした。
私がはじめ疎開の宿舎に着いたのは、浅間温泉の井筒であった。最初の宿舎群と違って新年度の四月からは旅館が変わった。これらは一切が世田谷区役所が温泉協会と相談して決めていた。私の学校は世田谷区にあったため、区の指導下で動いていた。
この井筒のには新三年生を配置し、後にバイオリンでグランプリを取った鈴木秀太郎君がいた。広場の真ん中にバイオリンを置きっ放しにして、よく野球をしていた。
疎開地変更
浅間温泉が特攻隊の中間基地になるに及んで、飯田から二時間半も南アルプス山中にある上久堅村に再疎開したのは、五月に入ってからで三年生は興禅寺にはいった。山の中では二十年五月だと言うのに未だ灯火管制もしていなかった。
禅宗のお寺で子供達は本堂で起居をし、先生は脇の部屋を本部として使うようにした。新潟へ機雷を運ぶB二九が頭上を飛んでいった。ある日豆台風が来て、はじめ南からの風雨が強く、本堂を囲んでいた障子がすっかり濡れた。風向きが東に変わったので、雨戸、ガラス兼用であった大障子の紙がすっかり吹きとばされ、戸なしの宿舎になってしまった。夜の帳が明けるとともに、翌日は晴天にめぐまれ、濡れた布団類を乾かすのに大わらわな日を迎えた。
この疎開地に立って、
1.子供達、大人、老人を相手にして、初等教育については一歩も引かないで話ができること。
2.全く教材がないところに、子供と一緒に放り出されても、自分で教材を作り、教育ができること。
の二項目を師範学校卒業時に建てたのであるが、この第二項目の教材のないところにまさに立たせられたわけである。
各学寮(四カ所に分かれていた)とも舎外の掃除の箒が足りないと言う。
そこで、裏庭の谷から手頃の竹を切って来て、掃くところの笹竹には、既に切って捨てられている笹竹を使い、締める紐は日常村のアルバイトで作っている桑の皮を使った。試作品を使って掃いてみると、先の笹竹が抜けてしまう。本物を分解してみると、1十本位笹竹の元が親竹の節のところにレの字につけてあり、これが後からさした笹竹を安定させるように、レの字の一部をまず紐で締めて固定してから、笹竹を別の紐で締めてある中に差し込んでいった。今度は笹竹も抜けないで、良い出来となった。ところが、穂先になる笹竹がぽきぽき折れてしまう。竹を切る時期が問題で、時期が悪いと折れてしまうのであるそうだ。いつの時期に来ればよいのか、見当がつかなかった。
私は三年生と一緒に興禅寺にいたが、ノミとシラミには参ってしまった。でもシラミのほうは、衣服を熱湯につけることで、今着ているもの以外は殺せたが、肌をぞろっ、ぞろっと這う感触は、今思い出してもぞっとする。
ノミのほうは、本堂に上ると、待ってましたとばかり、足から体へ入り込んでくる。養蚕地帯なので薬品は使えない。そこで敷布を縦に二つ折りにして二辺にミシンをかけ、首の入る所に紐をつけて、いざ寝るときになると、この袋の中に入って、紐で首を絞め、寝かせることにした。これは大成功であった。でも何かの拍子で、この袋の中に入ったノミは、翌朝になると腹一ぱい血を吸うためだろう、まるまると太って、なかなか跳べないのですぐ捕えられた。
ノミ対策はこのほかに幾通りか試みられたが、皆うまくいかなかった。あるときは三十センチ高い組立式の机の上に載せて寝かせが、ノミは三十センチ位ジャンプするのは平ちゃらで、とても効果はなかった。
上久堅のガダルカナル
育ち盛りの子供達に、動物性の蛋白質を補給しようとしても月にニボシが一人に五〜六本配給になるだけである。そこで手に入り易い動物蛋白質はないかと、イナゴに目をつけた。しかし、人口の二割しか稲の収穫がないところだけに、田は僅かでイナゴもたいしていないと思ったがそれでもイナゴがいたので、皆でとったら、すぐに全滅である。そこで今度はコオロギに切替えた。コオロギは県の指導もあったので、大変とれた。一晩脱糞せたらと思い、五十センチ角の木作りのごみ箱に百匹位入れて、翌日蓋をとってみると、一匹もいない。その代わり跳びはねる長い脚が累々と残っている。共食いしたのだ。それなら一匹がいるはずだと思って探して見たがいなかった。
今度は捕えるとすぐに鉄鍋に入れて煎った。ガマの油ではないが、鉄鍋に油を敷かないでも、コオロギが自身の身から出る油で煎れてしまう。これを一匹一匹子供たちに分ち与えたが、コオロギの腹から出て来る白い汁がクリームのように甘くて、喜んで食べていた。しかしコオロギも尽くして、他のものを探さなければならない。了解。
そうだ赤蛙を焼いて食べようと、赤蛙を探したが、居そうな草むらがなく、あきらめるよりほかになかった。そうだ、赤蛙が食べられるなら、トノサマガエルだって食べられるはずだと、太ったのを捕えて皮をむき、焼いて試食したが結構食べられる。そこでトノサマ蛙をとって、すべて皮をむき、一斉に炭火でやいて少々の塩をかけ、全部の子供に配って食べさせた。評判はそんなに悪くはなかった。
次に考えたのはヘビであった。シマヘビだのマムシだの上等なものはいない。アオダイショウ、ヤマカガシ、ツチムグリ、カラスヘビなど、あらゆるヘビを取って皮をはぎ、串(竹串はたくさんできる)にさして焼き鳥のように照り焼きにして、子供に順番に食べさせた。
「先生この蛇なに。」
「アオダイショウだ。」
「アオダイショウは旨くないからな。」
と、子供達はヘビの種類によって旨い旨くないを見極めていたようであった。
今度は少し甘いものを提供してやろうと、野菜などの荷物を入れる大ざるをかついで単身山にはいり込んだ。沢とまではいかないがやや水が流れるところに、立木にからんだ、アワビが生えていた。つるをひっぱってたぐり込み、熟した青ずんだアケビを取ってはざるに入れた。実がひとつひとつしかならないアケビ、いち
か所に味が四個から五個なり、中が薄紫色のモチアケビ(実はこの方がうまい)を大ざるいっぱいにとって帰り、子供達に一つ一つ配って食べさせた。子供達は久しぶりに甘いものを口にして大喜びであった。種子も一緒に呑み込むので盲腸にならないかと心配したが…。
応召
ある日突然東京から召集令礼状が来て「7月7日、佐倉に入隊せよ。」とのことであった。
中略
つぐみ
八月十五日の終戦を迎えて、集団疎開も終了して、東京へ引揚げることになった。私は幅員して再び集団疎開地に戻り、引揚げ体制を整えた。
十一月はじめにいよいよ全員東京に戻ることになった。お寺の前の百姓家のおやじが、
「先生、ご苦労だったなぁ。今日は、つぐみを食いに行くべえ。」
ということで、カスミをかけ、おとりを仕掛けた山へつぐみを食べにいった。一匹一円であった。
さて、十一月はじめに学校再開しても、児童数も学級数も定数を欠いたため、余分の教員(過剰教員)は、この際今までできなかった研修をしてもよいということになり、私は日本放送協会(NHK)の技術研究所にはいることを許されて、NHKの幹部職員と一緒になってラジオの受信機の勉強をした。
NHKの研修を終わっても、なお暇があったので、同僚三名とともに、芝浦の梁瀬の自動車工場にいって、エンジンの組み立てについて研修をした。梁瀬では日米のばかりでなく、外車の修理をしていて、エンジン関係の勉強は一応終了して、この研修も終わりを告げた。
(20191231)
私の集団疎開は附小に入る前の国民学校3年生の時でした。長野県の山之内温泉卿にあった宿舎で、一つの部屋に6年生から3年生までが二人ずつ、計8名が一緒に寝起きする生活でした。ぼくは一番下級生でしたから、かなりきつい目に遭いました。いつもお腹が空いていましたが、それでも盗みだけは絶対にしなかったのが、心の中の誇りでした。
いつも食事時間が待ち遠しかったことを覚えていますが、食事は大広間で部屋ごとに一つの長テーブルに向かって座り、どんぶり飯かうどん、ふかし芋の主食に味噌汁、野沢菜の漬物か梅干しといったようなものでした。
「しけ食いをするな」と、よく上級生から言われました。「しけ食い」とは、「しけた食い方」つまり「けちけち食うこと」で、それは「他人よりも遅く食べて見せびらかして食うから罪悪だ」ということだったのです。上級生は早く食べ終わって下級生がまだ食べているのを見ていることが多く、そういう時によく、「しけ食いするな」と言われて足を軽く蹴られました。要するに、「遅くなってまだ食えないのなら寄こせ」というサインでもあったわけです。そうならないように慌てて飲み込むのですが、ふかし芋などは急ぐと飲み込みそこなってむせるようになる小さい子がよくいました。そういう時に、残った芋は上級生から「食ってやる」と言って取り上げられてしまうことがありました。
食事の時間以外でも、いつもお腹が空いていて、食い物のことばかり考えていました。道端に生えているスイバという雑草は噛むと酸っぱくて、見つけては、よく口に入れていました。晴れた秋の午後、自由時間で宿舎を出て山の方へ歩いていた時、同級生の一人、B君と会い、「秘密を守るならいいところを教えてやる」と言われて、雑木林の中を歩いてついていくと、雑木の中に栗の木が何本か生えているところがありました。そこでかなり大きな栗が拾えるのです。栗は部屋に持ち帰ったら上級生にとられてしまいますから、その場で工作用の小刀で殻をつついて剥いて生のままガリガリと食べるのです。生であっても、渋みの中にかすかに甘みも感じ、お腹がすいているときは結構、ごちそうです。「あまり、たくさん生で食うとおなかをこわすから、ほどほどがいいのだ」とB君は言っていました。
そのあと、しばらくたったある日、一人でその秘密の場所へ行ってみましたが、もう栗も少なく、見つかりにくくなっていました。大きな栗の木の下に地面から小さく古い藁屋根みたいなものが地面からいきなり三角形に建っている場所があったのですが、その屋根のような建造物のてっぺん近くに、いがの中で大きな栗の実が日に輝いているのを見つけました。
しめたとばかり、その藁屋根に取り付いて近づいていったところ、突然、藁屋根に穴があいて体が落ち、肩から上だけが藁屋根の上に突き出ているような状態になりました。あわてて這い上がろうとすると、屋根は藁や落ち葉が腐って濡れて柔らかくなった状態で、這い上がろうとすると、ばさっと更に大きな穴が体のまわりに空きました。
その穴から覗くと、下は大きな暗がりで、下の方で水がかなり流れているような音がします。あたりは真っ暗ですが、右手にほのかに明るいところがあり、そこから水が流れ出ているようです。暗さに目が慣れて少し暗がりの様子が見えるようになって、ぞっとしました。横に渡された一本の丸太の上に僕の兩足が乗っており、その下数メートルのところに水面があるようです。偶然、ちょうど丸太の上のところに穴があいたので助かったものの、わずかでもずれていたら、水の中に落ちていたというわけです。水の深さはどのくらいあるのかわかりません。また、出口は柵が何本もあって、落ちたら、たとえ浅くても暗がりから外へ出られそうもありません。
「一体、何だろう、これは?」と、周りを調べてみたのですが、水が屋根の下の暗い穴から流れ出てくるだけで、屋根状のものの周囲はほかに開口部も何もありません。柵の内側から絶え間なく出てくる水はしばらく小川として流れて、やがて樹林の斜面を澤になって流れ落ちていき、その先をたどることができません。
足のすくむような思いで、とにかく、上によじ登ろうと思うのですが、体重をかけると、藁と落ち葉が腐って柔らかくなったような屋根は、ボロボロと崩れてしまいそうです。その穴が大きくすぎると、胸や背を支えてくれる周囲の支えがなくなって体が落ちてしまいそうです。上がって崩れるようなら、むしろ,足を載せている丸太にそった方向に少しずつ崩していって、丸太の端の方まで近づいて行ったら脱出できるだろうと考えて進んでいこうとした時、再び、ぼくは凍りつきました。大きな蛇が屋根の上をぼくの方に向かって斜めにそろそろと近づいてくるではありませんか。
信州には蛇が多く、特に水辺では蛙などの餌が多いからか、よく見かけます。珍しいことではないのですが、この時は半身藁に埋まったようで身動きのとれないピンチにありますから、蛇はそういう状態のぼくを狙ってやってくるのではないかと一瞬、感じてしまいました。この状態では噛みつかれても防ぎようがないなと思って立ち尽くしていると、蛇は近づいてから方向を変えてスルスルと屋根から降りていきました。でも、どこへ行ったのかわかりません。ひょっとすると屋根の裏側の方から足を狙って近づいてくるのかもしれないなどと考えました。
そこで、脱出を急ごうとしたのですが、今度は、そう簡単の穴が丸太にそって崩れていってくれません。目指す方向の屋根藁はそんなに腐ってはいないようです。力任せに落とそうとしても、へたをすると狙いよりも大きく崩れて、その勢いでぼくが水の中に落ちてしまうかもしれません。日はだんだん傾いてきて、山中の木々の枝が揺れるようになってきました。焦る気持ちで、這い上がった方がいいか、何とか崩していこうかと思案しているところ、思いがけず、人影が現れました。B君が、彼も久しぶりに、栗を拾いにきたのでした。
「どうしたの?」と尋ねるので「落ちてしまったんだよ」と言うと、B君はすぐに屋根に上って助けてくれようとするから、「屋根が抜けて落ちる、落ちる、穴があく」と伝えると、「ちょっと待ってて」と言って林の奥に消え、しばらくして長い木の枝を持ってきて、その細い方を差し伸べてくれました。
それにつかまれば、穴の中に真っ逆さまに落ちるということはなさそうですから、片手で枝につかまって、屋根によじ登って脱出することができました。
「地面から壁もなくて屋根だけなんて変だよね。何だろう?」「意地悪なやつが俺たちを捕まえようと思って落とし穴を仕掛けたのかもしれないな」、「蛇も出たんだよ。妖怪の住み家かな」などと言いながら見回ったのですが、もとより何の証拠もみつかりませんでした。その後、その場所には近づきませんでした。
成人になってから考えると、多分、湧水の水源を落ち葉や土砂やごみなどから守るために覆って保護するための仕掛けだったのではないかと思いますが、信州の自然の中で過ごした少年時代のちょっとした冒険心やロマンをくすぐるような思い出として忘れられない体験の一つです。
(20200425)
上久堅村の興禅寺では本堂をぼくたち東京の学童のために明け渡してくれました。
その本堂がぼくたちの生活の場で、食事部屋であり、勉強部屋であり、そして寝室でした。寝るときは雑魚寝ではなく、それぞれが自分の布団を敷いて寝ていました。あの数の布団はぼくたちが東京から運んだものではなく、村で手当したのだろうと思います。夏だからまだ薄くてよかったのでしょう。
夏を過ごしましたが蚊帳(かや)はなかったと思います。山を降りた飯田市の安養寺では蚊帳を使っていましたから、山の上の冷えた温度では蚊が生きていられなかったのか、欠食児童のぼくたちの血では蚊も生きていられなかったのか、あるいは蚊帳もないほど貧しい農村にぼくたちは入りこんだのか。
3年生ですとまだ寝小便をする生徒もいました。毎朝みなにからかわれていましたね。それがきっとトラウマになってまた、その夜もおねしょをしていしまう、の繰り返しだったでしょう。
ぼくたち学童のために、本堂の裏にはトイレが3つくらい、これも急造された廊下伝いで行けるように作られていました。汲み取りでしたから、誰かが時々はその汲み取り作業をしたのでしょう。ほかに人がいたとは思えませんから、先生たちか、ほかにも5年生がやっていたかもしれません。
3年生のぼくたちから見ると、2年年長の5年生は大人同然の巨人で、権力者で、命令者で、略奪者でした。それですから、彼らに良い思い出はありませんけれど、今から思うと、5年生はあの山寺での生活を支える一部になっていたに違いないと思います。
上久堅村の学童は突然の闖入者のぼくたちを「とうきょっぺ」とよび、ぼくたちは彼らのことを「いなかっぺ」とやり返していました。喧嘩をしたことはありませんが、ぼくたちは各班ごとに行動していて、彼らと一緒に遊ぶことはありませんでした。
それでも「とうきょっぺ」は珍しかったためか、ぼくは村の女の子二人に「たっちゃあ」と呼ばれて可愛がられ、始終食べものを貰いました。ぼくをお寺の外に呼び出して、彼らが食べ残してぼくのために持って来てくれた「お焼き」を呉れるのです。ぼくはその場でそれを夢中で食べました。
清潔とはいえない手で握りしめてきたお焼きを、ぼくも手を洗うことなく掴んで大急ぎで食べていたので、多分そのためでしょう、ぼくは何時も下痢をしていて、今でもあのトイレの中が目に浮かびます。下痢続きでやせ細ってしまったぼくを、両親が7月の終わりには迎えに来て東京に戻りました。幸いうちは空襲で焼けていませんでした。
それで終戦の詔勅は、真っ青な空のもと庭の大きな銀杏の木の根本でラジオを聞いた記憶があります。ぼくには天皇の言葉はまったくわかりませんでしたが、父が、うっそりと笑みを浮かべて「やっと終わった」と言ったことは覚えています。
10月には再度上久堅村に戻ってみんなと一緒の集団生活を続け、11月初めには疎開生活を終えて東京に戻ってきて、ぼくの半年間の学童疎開は終わりました。
(20170808)
ぼくの学童疎開5 興禅寺の生活
山形 達也
興禅寺の食事風景の写真が残っています。上久堅村での生活の写真はあの当時、加藤先生が撮ったのだと若林茂さんが言っていますが、ぼくは誰が撮ったかは覚えていません。それがもし本当なら、戦後も2組の写真が沢山残っていてもいいはずなのに、先日の同期会(2016年10月20日)のときに会場で映すからと言って同期生から写真を集めたところ、3組が一番多く、1組がそれにつぎ、2組の写真は学年共通の公式の写真以外には殆どありませんでした。
その、お寺の本堂での食事風景ですが、細長い座卓を囲んで坊主刈りのぼくたちが座わっています。食卓の上にはどんぶりにご飯が山盛りに盛られているのですね。
こんなことは信じられません。絶対、これはヤラセに違いないと思います。証拠があるから、このときはこれを食べたのでしょうけれどね。
ぼくたちは何時もお腹をすかせていましたが、親代わりの先生たちに何時もしっかりと見守られていたと思います。加藤先生は上久堅村までは一緒で、ぼくたちは村での作業のときは何時も加藤先生に率いられていました。加藤先生は7月初めには赤紙で招集されて、兵隊姿で村をあとにしました。興禅寺に残ったのは饗場先生と山崎先生でした。
山崎先生は5年生の担任だったのでしょうが、山崎先生は母上も一緒でした。学校と一緒に疎開して学童の面倒を見る責任を負うことになったにしても、母親ひとりを東京に置いて行くことは出来ず、それで一緒だったのでしょう。この母上も寮母のような存在として、ぼくたちの世話を焼いてくれました。
ぼくたちはこの母上には、母親のような甘えを感じていましたが、それでも、彼女に訴えたことはすぐに先生に通じるわけです。それでどんなに優しい人でも、為政者に通じる人には心を許してはいけないという世間的知恵をここで学んだ記憶があります。
あと二人の若い女性の寮母さんがいた記憶がありますが、学校の関係者だったのか、あるいは村の人だったのか、覚えていません。
ぼくたちの日課の一つにシラミ退治がありました。
何十人という学童がいるのに、お寺には風呂を増設しなかったと思います。そんな資金はなかったでしょうし、できたとしても燃料の手当が出来なかったでしょう。どのくらいの頻度で入浴したか覚えてません。たまにしか入浴しない身体も衣服も清潔ではなかったし、栄養失調でしたから、シラミがたかるのには絶好の条件でした。
下着を脱いて裏返して縫い目に潜んでいるシラミを見つけて、両手の親指の爪で挟んでつぶすのです。ろうそくの蝋を見つけてきてこの上にシラミを置き、虫眼鏡で太陽の光を集めて焼き殺してj暇つぶしをする学童もいました。
南京虫に刺される痛みは戦後になって覚えましたが、学童疎開の時にはいませんでした。夜はノミに悩まされました。いざノミ退治というと、昼間の本堂の畳の上で30cmくらい飛び上がって逃げるノミを、ぼくたちの多数の目でとり囲んで、たいてい捕まえて殺していました。それでも毎晩ノミの襲撃で、薄い血を吸い取られていました。
(20170406)
小学校2年生の時に長野県に学童集団疎開をしました。最初の疎開先は浅間温泉でしたがその後戦局が厳しくなり下伊那郡の上久方村に再疎開しました。玉泉寺というお寺の本堂で寝泊まりしました。
主食は水っぽいジャガイモと炒めた蚕 (かいこ) の蛹でした。山の上の小学校で上半身裸で体操をしているとき、お腹が膨らんでいることが見つかって飯田の病院に連れてゆかれました。栄養失調と診断されました。栄養補給のすべもなく,田舎の子に教わって蛇を捕まえて食べたりしました。栄養失調なのに何故お腹が膨らんだのか疑問に思っていましたが,長ずるに及んでアフリカの栄養失調の子供たちのお腹が膨らんでいる写真を見て合点がゆきました。
終戦の日に 校庭で「玉音放送」 を聞いて戦争に負けたことを知りました。その意味もわからず,工作に使う小さな木鞘のナイフを握りしめ米兵が来たら戦う決意をしていました。当時は「鬼畜米英」風の軍国主義教育が行われていました。しかし担任の饗場先生はそのような言動は一切されませんでした。
終戦の翌日でしたか,短歌を作る授業がありました。そのとき饗場先生の作られた短歌は、「戦いに敗れた日にも太陽は東より出で西に沈みぬ」 というものでした。なにか拍子抜けするような気持になりました。しかし今では、それが,軍国主義に対する先生の痛烈な批判の一首だった,と考えています。(了)
(20170320)
浅間温泉も危ないと言うので、私たちは飯田市から山奥約3里のところにある長野県下伊那郡上久堅村に移動しました。たしか、1945年6月3日でした。
3年生と5年生がこの上久堅村に移り、私たちはさらに二つのお寺に分かれて住みました。ぼくは興禅寺でした。もう一つは玉川寺で、小学校を含めてこの三つが山の小さな盆地の中で三角形を作っていました。
でも小学校に行って勉強した記憶がまったくありません。
ぼくたちは毎日、村の人達の暮らしを手伝っていました。薪運びは、小さな背中に薪の束を縄でくくりつけて運ぶのですが、小学校3年生のことですから、知れた量ですよね。
松の根を掘るのもやりました。松の根を掘り出して絞ると松根油が取れて、これが飛行機の発動機を動かすのだと教えられ、「お国のためになるんだ」と、とても誇りに思いながら、汗を流して松の根を掘りました。もちろん、実際にはじゃまになるだけで、一番働いたのは先生たちだったでしょうけれど。
「おーかーにはーためく あーのー日の丸をー あーおーぎながーめる われらーのひとーみ」
と歌いながら、ぼくたちは籐かごを背負って道を歩きました。道と言っても、今の舗装道路ではありません、石と土が踏み固められた道です。カイコの飼育は軽作業でしたから、ぼくたちの仕事のメインでした。
桑の葉のついたまま小枝を鎌で引き切って、それを背中に背負った籐かごに入れて農家に運ぶと母屋の二階が大抵は蚕室になっています。蚕室に入ると、静かな中にサワサワサワと明瞭な音が聞こえ、おカイコさんが桑の葉を食べています。その上に新しい桑の葉をおくと蚕が移ってくるので、新しい棚に移し入れ、古い棚の食い残りの桑の葉と、緑色の糞を掃除するのが日課になりました。
画像はネットから借用
4齢から5齢位になると幼虫は子供の指よりも太く、手のひらに載せると前の方にある三対の手の感触と、後ろの方の4対の吸盤付きの肢が手のひらに吸い着く感触がなんとも言えず心地良かったことを覚えています。
雨で濡れたままの桑の葉をやってはいけない、おカイコさんが死ぬからと言われていたのに、葉っぱを拭くのをいい加減にしたときは翌日おカイコさんの死骸と対面することになり、手抜きをしたことを大いに恥じました。
6月には麦を刈りました、左手に麦わらを束にしてしっかり握り、右手ののこぎり鎌を引ききって刈り取り、収穫することを覚えました。
稲の害虫のニカメイガを追い払うために、ぼくたちは畦に並んで一斉に歩いて害虫を追いました。イナゴの出る時期になると、紙袋を片手に持って、これも畔を一斉に歩いてイナゴを捕まえて紙袋に入れて、それは、あとでお寺に帰って大きな鉄鍋に入れて大きな木の蓋で封じて囲炉裏で焼いて、みなのおやつになりました。
イナゴは香ばしくて美味しかったけれど、秋になってイナゴがいなくなったときはコウロギを捕まえて鉄鍋で蒸し焼きにして食べました。今から思うと、雑食性のコオロギを食べたなんて、驚きですね。
「岡にはためく あの日の丸を」は今調べてみるとサトウハチローの作詞でした。古賀政男の作曲です。サトウハチローの「お山の杉の子」もぼくたちの愛唱歌(佐々木すぐる作曲)で、今は歌われていない3番も、ぼくたちは仕事をしながら歌っていました。
「こんなチビ助 何になる」
びっくり仰天(ぎょうてん) 杉の子は
思わずお首を ひっこめた ひっこめた
ひっこめながらも 考えた
「何の負けるか いまにみろ」
大きくなって 国のため
お役に立って みせまする みせまする
これと同じメロディーで、次の替え歌も歌っていました。
アッツ、タラワ、マキン島
大宮島や サイパンを
敵に取られた くやしさは
小さい ぼくらも 忘れない 忘れない
(20170208)
集団疎開での思い出をHPに寄稿したらどうかと山形さんからのお誘いである。
(松本城) まとめて書けるほどの記憶もないが幸い十年ほど前と二年前に松本、浅間温泉を訪ねているのでその折りに撮った近年の浅間温泉、松本のフォト及び確かめた得た疎開時の記憶とそのネット上での考察を合わせて書かせかて頂きます。
疎開出発は昭和20年3月20日頃で夕刻に新宿駅に集合出発であった。一年上の兄と一緒であったが家族の見送りはなかった、その半年ほど前に母を亡くしていたので父以外には家族はいなかったのである。東京大空襲の翌日が誕生日であった私は同年の人より幼く、また第一師範付属にはこの時点での突然の編入であるので環境の変化に圧倒されあまり悲しいとか寂しいかの感情も覚えなかった。
(西石川旅館) このHPで幾人かが記している新宿駅での乾パンの配布なども記憶にはない。翌朝無事に浅間温泉につき割り当てられた宿舎は西石川旅館であった。どの様に割り当てられたかは不明であるが地域別での割り振りであったらしい。同学年のものでも幾つかの異なった旅館に割り振られた様である。
(東石川旅館) 当時西石川にいた同級生の名前はあまりはっきりとは覚えていないのだが少なくとも橋本達也、近藤治郎、小笹和彦君の三名はよく覚えている。小笹君は彼の文によればすでに前年の昭和19年の夏から浅間温泉に疎開できていたとのことで物事に慣れていたからだろうし、他の二人と同様に後で述べるある悪戯事件に関係していたのも知れません。
(菊之湯) 宿屋群は思い出す限りでは西石川と道を挟んで向かい側に東石川、その隣に菊の湯、少し離れて亀の湯などの旅館に分宿された様である。そしてこれ迄にあまり書かれてないが少なくとも西石川にいた学童は5月の半ば過ぎには少し離れた所にある藤美の湯に引っ越しました。東石川、菊の湯などの学童も引っ越したかは記憶にはありません。又その理由も説明されませんでした。
そしてその藤美の湯から6月半ばには下伊那郡上久堅村付近に再疎開しています。
(護国寺) ここに載せた写真は2014年10月に旅行した時に撮った松本城、浅間温泉での通学路に今でもある護国寺、私たちが分宿していた東石川、菊屋の写真です。その時点で私の宿泊していた西石川は既に消失していました。しかし今でもグーグルなどで浅間温泉を検索するとここに写した様な西石川のフォトが出て来て穴場であるとも紹介されています。
でも最後の西石川旅館のreviewの記載が2011年ですのでその後廃業した様です。西石川は8,9年前に兄と旅行して宿泊しましたが当時は疎開時の記憶にある旅館のままである様に思えました。
(赤線は昔の松本電鉄の電車の軌道、その後バス路線。学校は左下の隅。左上に護国神社。旅館群は中浅間から南に下がってくる道沿いにある) ここにあげてある地図上の赤線は疎開の時にはあった松本電鉄の浅間温泉線の軌道のあった所です。
今では舗装された立派な道路となっています。毎日の通学には西石川、東石川、菊屋などのある通りを南に降り直ぐに右折しその通りをどんどんと東に進みます。可成り行くと電車の線路を横切り、次いで浅間橋を越えます。更に右手にある護国神社を超えて進み道なりに左に曲がり、かなり歩くと左手にある松本師範附属学校の校舎に辿り着いたと思います。
今ではその辺りは信州大学の病院や大学校舎となっていて、大学の附属小学は道路の右側にある様です。若しかしたら当時でも小学校は右手にあったのかも知れません。何れにしろ旅館からは可成りある道のりで少なくとも1キロ以上の1.5kiro近くあったのではないかと思われますが違うでしょうか?当時の路面電車の駅では三つの区間です。(下浅間、運動場前、玄向寺前。)
ところで、この通学路のことは可成りよく覚えているのに、さて学校で何をしたのかはさっぱり覚えていません。一体教室での授業がどの程度あったのか、弁当を食べていたのか、或いは学校は午前中だけで弁当なしで旅館に帰って昼食となったのかも定かではありません。しかも藤美の湯に移った後は学校までの距離は可成り遠くなった筈ですのでそれでも通学出来たとは思えないのですがどなたか明確に覚えておられれば教えて下さい。藤美の湯は中浅間の更に上、北東にあったと思います。ともかくこの様な通学を2ヶ月位した時に疎開していた学校全体が移転したのです。
(玉川寺 園田太嘉雄氏による)
私たちがが移転したのは今では飯田市に入っている上久堅村の玉泉寺か玉川寺です。以前は玉泉寺と玉川寺は同じ寺で唯の漢字の記憶の違いだけの問題かと思っていたのですが2005年にあった疎開の会の記載では別の様に記載されているので二つの別の寺であるかも知れません。どなたか正確な所を教えて下さい。 インターネット検索では今ではあの周辺には玉泉寺と呼ばれる寺はありません。何れにしろ今まで西石川で一緒であった兄が移ったのは安養寺という今では下伊那郡高森町という隣接しているが違う町にあるお寺でした。しかしこの二つの寺は子供の足でも無理すれば歩行で行ける距離であったと思います。実際に少なくとも一度は双方の寺の児童が多分中間点くらいの所で落ち合って面会した記憶があります。
この二つの他に児童が宿泊している施設、寺などがあったらしいが記憶にはなく、恐らくは上級生などに割り当てられていたものと思われます。
その後の寺での生活は皆さまの寄稿文の通りです。特に応えたのはやはりノミ、シラミです。私は兄とともに多分7月の初めに同じ伊那にある北殿と言う村に縁故疎開者として移ったので恐らく食糧事情などが最も厳しかった夏以後10月までの事を知らないので極めてひもじかったとの記憶はありません。多分鈍感であったとも言えそうです。もちろん草の実、木の実を食べた記憶もあるし、蛹を恐る恐る食べて懲りたこともあります。その後、釣りの餌などで蛹に出会うと口内に嫌な記憶が戻って閉口しました。
今から思えば集団疎開は浅間温泉で2ヶ月半、玉川寺で多分4,5週間とさほど長くはなかったのですが当時はひどく長いものである様に思えました。この間、浅間では学校に、寺で は大部屋に集まって授業があった筈ですが学校への行き帰りの記憶、本堂に集まった記憶、近くの農家に手伝いに出かけた覚えはありますが不思議と授業があった事は全く覚えていません。また特にいじめにあった記憶もないの可成りの空き腹を抱えながらもあまり勉強などに煩わされることもなく過ごしていたのだと思います。
その後、7月中に同じ伊那の北殿と言う村に縁故疎開で移った我々兄弟はそこで8月15日の終戦を迎え10月には東京に戻って来ました。当時私達の住んでいた都立高校駅、今の都立大学駅周辺は大きな空襲もなく比較的戦争の傷跡のない一見平穏な町であり、東京にたどり着いて新宿や渋谷周辺の焼け跡や地下道に溢れていた孤児、浮浪者の姿に驚き、自動小銃を携えた進駐軍兵士の姿に恐れを抱いた私は都立大学駅に着きやっと家に帰れると安堵の気持を持ちました。
その後いつ頃小から学校が再開されて通学を始めたのかははっきりした記憶がありませんが集団疎開の最終的な引き上げが10月の末だとすれば少なくともその頃までは家で待機していた長い夏休みであったと思います。
この浅間温泉、玉川寺の疎開の間に同学年の誰方がおられたかは不思議なほど記憶が曖昧です。はっきりとしているのは数人でこれにはある小さな事件が関係しております。 この事については機会があれば別の写真と文で述べたいと思っています。
皆さま、お元気で良い新年をお迎え下さい。
(20161228)
浅間温泉の各旅館に分宿していたぼくたちに、東京から親がよく会いに来ました。
あの頃の列車事情を考えると切符を手に入れるのも、乗ってくるのも大変なことだったと思います。日本はB29による都市の爆撃だけでなく、艦載機のP51 が始終やってくるようになっていて、汽車などは機銃掃射の格好の標的でしたから、定時運行なんてなかったし、何時も命の危険にさらされていたわけです。一年上にいた姉の話によると、多分甲府大空襲(7月7日)の時でしょうか、汽車が中央線の大月あたりで機銃掃射を受け、乗っていた車両がトンネルに入っていたお蔭で助かったと聞いたこともあったということです。
松本に行って1週間位後には沢山の荷物を持った母が来ました。ぼくたちへの食べ物の他に、きっと母のことですから先生たちにも持ってきたと思います。
姉も学童疎開で一緒に浅間温泉に来ていたので、先生のはからいで姉弟二人は旅館の三階の別室で母と一緒の時間を過ごしました。
母の心づくしのごちそうを久しぶりに貪欲に食べました。海苔巻き、お赤飯、濃い味で炒めた牛肉、ほうれん草の和物など、東京で普通の暮らしでは手に入れるのは困難だったでしょう。子どもたちのために、あちこちの伝手を頼って手に入れた品々に違いありません。
その後、赤ん坊に戻ったみたいに、と言うか文字通り赤ん坊みたいに、母の膝にすがって思い切り甘えているうちに、たちまち時間が過ぎて、母が東京に戻る時間になりました。
ぼくは、三階から階段を降りてきてニ階に着く直前の階段の踏み板のところで母の両脚にしがみついて、思い切り泣きました、泣けば、母が帰ってしまうという悲しい現実が転換して、このままの状態が続く現実となるに違いないと必死な思いにすがって、激しく泣き続けたのです。
でも、もちろんそんなことは起こらず、ぼくをなだめる姉にぼくを託して母は去って行きました。
ぼくはその時初めて、世の中には自分ではどうにもできない無情なことがあることを身に沁みて知りました。
この出来事で別に賢くなったわけではありませんでしたが、あの時以来、無心な子供の目に加えて、自分を突き放して観るもう一つ外の目を得たような気がします。
(20161228)
公開しておしゃべりの種になっているブログの日常とは違うこのコメントが嘘のような日々の始まりでした。それは山形達也さまからのもので、「集団疎開」に関するネット検索で、私の小さなブログ「辻堂の暮らし」2010年8月15日の記事がまさにヒットした結果の報告と、連絡を促すというものでした。
当時の第一師範附属国民学校3年生から4年生の時の集団疎開の体験は、70年間を私の記憶の中にだけ存在し、私は学校の存在とも世田谷区とも無縁のまま婆さんになっておりました。びっくりしました。嬉しうございました。
その夜、興奮しながら山形さまへメールを差し上げ、その瞬間から行き届いたお返事や情報などをいただき数通のやり取りをいたしました。
記憶していた地名は、長野県の浅間温泉と下伊那郡だけ、人の名前は武藤先生とAさんだけだったので、山形さま、若林さまから名簿のコピーや宿舎だったお寺の名前などの懇切な情報をいただき、何も見えなかった霧が一気に晴れた気分でした。
ネットのジャングルから発掘され浮上してきた拙いブログ記事を山形さまが同期会HPに掲載してくださるとのご連絡をいただきました。一主婦の平凡な一生の中で、やはり異常な体験ですので有難く思っております。
私の集団疎開(ブログ「辻堂の暮らし」2010年8月15日に書いた記事)
今朝の東京新聞に「学童疎開知っていますか」という記事があった。生涯忘れられない記憶として、小学校3年時に集団疎開へ行かされた体験があるのだけれど、戦争中の子どもの疎開の苦労などはあまり問題にされることがなかったから、なんだか胸のつかえが下りたような気持ちで読んだ。
「学童疎開は空襲が激しくなった1944年夏に始まりました。対象は全国の小学3年~6年生100万人以上でした。まずは親類らを頼る縁故疎開が勧められました。次に学校単位の集団疎開が行われ、合計70万人弱の児童が地方に向かいました。疎開には戦争完遂のために次世代兵士を温存するという目的もありました。・・・」(東京新聞2010年8月15日)
そういう目的があったのね。
女学校2年だった姉が書いてくれた絵日記を見ると、昭和20年3月20日頃に出発したらしい。灯火管制で真っ暗な道を東横線の学芸大学(当時は第一師範)駅まで母と兄姉に手をつながれて送って貰った絵が書いてある。とすると3月10日の東京大空襲の後であり、真赤に染まった向こうの空を眺めた記憶があるのは、その時点には世田谷の家に家族と暮らしていたからだったろうか。 学校は東京第一師範付属国民学校だった、現在の学芸大学付属世田谷小学校である。 この出発は、私にとって学童疎開への2度目の出発で、いちど疎開をしその後扁桃腺の手術のために帰宅を許され、回復した後の出発だったから1度目は昭和19年の夏だったのではないか、綺麗な扇子を貰って嬉しかったのに汽車を降りた時には失くしてしまって悲しかった記憶があるから暑い季節だったのではないかと思う。
記事には昭和19年8月東京都の集団疎開第1陣が出発とある。
親と離された集団生活は、9歳の子どもにとって難しくないわけがない。長野の浅間温泉の旅館が宿舎だった。8畳くらいの部屋に上級生から3年生までの数人が一緒だった。部屋の真ん中に小さな炬燵が一つありそれが暖房だった。
長野の冬を夏服のまま過ごしていて、よく扁桃腺を腫らして熱を出していた。持っていた行李の中には冬物も入っていた筈なのだけれど。
だだ一つ楽しかった思い出がある。寮母さんが2、3人を内緒で連れ出し松本城へ連れて行ってくれた。真っ赤な大きいりんごを一つ貰った。丸ごとひとつ貰ったのが嬉しかった。20年くらい前までその寮母さんの顔と名前を覚えていたが、今はもう思い出せない。あの時のお礼が言いたかった。
忘れられない悔しい思い出は、到着直後に各自が持っていたお菓子などの食べ物を供出させられたこと。
先生は「まとめて預かっておくから、後でみんなに分けますよ」と約束したが、いつまで待っても親が持たせてくれたお菓子の配給はなかった。先生の嘘は心の中に大きな傷として残り、深い恨みとともに先生のNという名前は胸のうちの少女の部分にひっかかったまま落ちてこない。
甘いものが欲しかった。薬は何故か供出せずに各自が持っていた。その中のアスピリンは苦くて不味かったが、それを吐き出した後にかすかに甘みが残る。そうしてみんなの持っていたアスピリンはすぐになくなってしまった。喉に塗るルゴールは甘かったから、扁桃腺は痛かったが塗ってもらうルゴールが楽しみだった。歯磨き粉は美味しいう噂で、上級生たちは何かと混ぜるといいと言っていたが、下級生はただ舐めるだけの味だった。
養蚕の盛んな地方らしく、お八つに蚕の蛹が出たことがある。煎ってあったのか香ばしくて美味しかった。あの香りと歯触りは懐かしい。
家族への便りは検閲を受けた。淋しいとか辛いとか親に心配をかける言葉を書いてはならない、手紙は全部先生が読んで検閲のハンコを押されたものだけを投函する、と言われた。本当はどうだったのかわからないが、子どもにとっては絶対である。一番下級生だったから随分いじめられたのだが、葉書にそんなことは書けなかった。姉が当時私に見せて慰めるために絵日記を書いてくれていたが、その絵日記にもはがきを有り難う、と何度も出て来るから便りは良く書いていたらしいが、帰りたいと訴えることは出来なかったし、訴えても両親には国家に逆らって疎開児童を連れ戻す勇気はなかっただろう。
その代わり上級生の男の子は脱走した。電車賃もなく脱走して先生が探し回っている姿を見たことがある。本当かどうか東京へ帰り着いた、という噂も聞いたことがある。
疎開児童と家族の面会は自由ではなく、どんな仕組みかわからないが、なかなか順番は回ってこなかった。
親が面会に来た夜は親と一緒に食べて寝られるらしい。どんなに羨ましかったことだろう。母が後で言うには軍関係の親には便宜がはかられ面会の機会も多かったということだが、うちには順番が回ってこなかっ
た。
ある日たまりかねた父と姉が、私たちの宿舎の旅館のすぐ前の旅館に泊まり、その窓から私が顔を覗かせるのを一日中待っていたという話を後から聞いた。私は何も知らず、後でその話を聞いた時には、せっかくせっかく来てくれたのにどうして一度も窓の外を見なかったのかと、悔やんでも悔やみたりなくて、その後何年経ても思い出すたびに涙が溢れた。面会の許可はないが東京からはるばる会いに来たのに、少しの時間でも会わせることは出来なかったのだろうか。
その後、どのくらい経たのかわからないが、浅間温泉から下伊那郡のどこかのお寺へ移動した。
東京新聞の記事によると、20年5月には太平洋沿岸に疎開していた児童を東北地方へ再疎開させた、とある。米軍が海から上陸、本土決戦が行われることを視野に入れた行動だったようだ。長野県浅間温泉地区も危険区域に入っていたのだろうか。
下伊那地方の川の近くの山寺へ移動したその辺りからが、ひもじさ、しらみ、栄養失調からの下痢、おできに苦しんだ日々だった。
記事によると、20年3月「学童疎開強化要綱」を閣議決定 5月集団疎開学童への主食配給量を減らす 7月主食配給量がさらに減少 8月日本が無条件降伏
とある。殆ど飢餓状態で良く生きていたものである。毎日のお八つは大豆10粒。それぞれ自分の名前を大きく書いた茶封筒に10粒入れてくれるのを当番が本堂まで貰いに行き、その姿が現れるとみんなで歓声をあげて迎えていた。
ご飯だったのかお粥だったのか、食事の記憶は殆どないのだが、茶碗の底にわずかに盛られたご飯粒を一粒づつ食べて食べる時間を伸ばした記憶がある。
東京は度重なる空襲で家も人も焼かれ、どうせ焼かれるのだからと家を処分し地方へ移っていく人も多かったそうだ。
私の家族は焼け残った世田谷の家に住んでいたが、銀座で商事会社を経営していた父の会社の商品も倉庫も焼けてなくなってしまい、毎晩のように空襲があり焼夷弾も落ちてくる時に、一人だけ長野県にいる私が孤児として残ってしまうことを恐れて静岡県の富士宮市の親戚の会社の
寮へ移り住んだ。その市には子どもを呼び寄せることが出来たのだろ
う。
ある日、何の予告もなく父が伊那のお寺へやって来た。父の顔を見てもドラマのように縋り付いて泣いた記憶はない。「帰ろう」と言われて「ここにいたい」と云ったという。感情の動きがなくなっていたのだろうか。
父が真新しい下駄を持って来てくれたのが嬉しかった、履物はと言えば布で編んだわらじの半分にすり減ったものをはだし同然で履いていたから。その中でゴムの運動靴を履き、時々隠れて羊羹を食べていた子もいたので、どういう仕組みがあったのか理解できない。
父と乗った東京までの汽車の旅は長かった。後で聞くと、松本で敵機の襲来を受けて駅で一晩寝たそうだ。
その時の私は、おできだらけ、伊那へ移動してから一度もお風呂へ入らなかったと思うが、頭も身体もシラミだらけだった。たまに洗面器で頭を洗って貰ったが、落ちたシラミの数を友だちと競ったものだ。下痢が止まらずいつもお腹が痛かった。父と乗った汽車はトイレの前まで人が座っていて、トイレの扉を開けられない。下痢のお腹をかかえて必死になってこらえていたことが記憶にある。
富士宮市の親戚の会社の寮に着くと、母と姉が待っていてくれた。久しぶりの親子対面なのになんだか無感動で嬉しくも悲しくもなかった。夕飯は家族が揃って母がつくってくれたすいとんを食べた。覚えていないが出来る限りのご馳走が並んでいたことだろう。灯火管制で周りをかこった暗い電気の灯りで、両親は安心して家族の食卓を整えたことだろう。
その夜、私は食べたご馳走を全部吐いてしまった。母の困ったような悲しいような顔を覚えている。
私の体験はそこまでで、その数ヶ月後に終戦の日がやってきたが、その後の努力は両親が背負ったものである。父が生きる為に何度も試みた新しい事業とその失敗。それに伴う何度もの引っ越し。母がリュックに着物を詰めて農家で交換してきた食料。配給のトウモロコシ、ふすまは現在は家畜の飼料だが、まずいとも思わなかった。父の仕事の変わるたびに引っ越しをして、その後小学校を2回、中学で1回の転校をした。
長々と書きました。読んで下さった方有り難うございました。
(20161214)
子供の頃の思い出を辿るとき、いつも真っ先に思い出すのが学童疎開(集団疎開)のことです。
東京に空襲が激しくなってきた昭和19年、小学校3年以上の学童疎開が始まりました。20年3月、私は小学校の3年生になっり私も学童疎開することになりました。小学3年生といってもまだ子供です。親元から離れての地方での団体生活です。
3月10日の東京大空襲の直後の出発でした。夜の新宿駅の地下道に集められそこで親とのお別れでした。全員に乾パンが一袋づつ配られました。半分遠足気分でしたが先生からは「途中空襲警報が出たら汽車から離れ逃げろ。そのときの非常食だから無事着いたら戻すように」との話がありました。
行先は松本の浅間温泉でした。何軒かの旅館に分かれて既に4年生以上が暮らしていました。大部屋での雑魚寝ですが最下級生はいつもいじめの対象でした。
温泉旅館に疎開していたのでそれは良かったのですが、3ヶ月後に飯田の先の山の中のお寺に移されました。理由は松本も軍需工場があるのでいつ空襲になるかわからないということでした。
山の中のお寺の本堂での雑魚寝は毎晩蚤とシラミの攻撃で痒くて眠れず、起上がっては薄暗い電気の下での蚤退治が続きました。 また夜中に先生に起こされ教員の部屋に呼び出された何人かの生徒がいましたが、それは東京に残っていた親が空襲で死んだという知らせの為でした。戻ってきた子が布団の中で泣きじゃくっていたことが忘れません。
夜中に見回りに来た先生が何時自分のところにきて起こされるかビクビクしながら寝ていたことを思い出します。
食料難の頃ですから何時も空腹感でした。周辺は山ですからよく桑の実やあけびなどこっそり隠れて食べました。
また勤労奉仕ということで周辺の農家に手伝いに行かされました。縄をなったり稲刈りも手伝いました。蚕のの世話もさせられました。農家に手伝いに行くとお米のご飯を食べさせてもらえることが最大の楽しみでした。
そんな山奥にも米軍の航空機から撒かれたビラが落ちてきましたが、それを拾って読むことは禁止されていました。
終戦は村の小学校の校庭で玉音放送を聞きました。雑音が多くよく聞きとれませんでした。とにかく負けたことそして広島にはマッチ箱の大きさの強力爆弾が落ちたという話聞かされたことを覚えています。
「欲しがりません、勝つまでは」と教えられてきたのですが戦争に負けたということで全員和歌を書かされました。小学校3年生の私の書いたものは「30年後僕たち頑張って今度は米英やっつける」といったものでした。
終戦になり実際に東京に戻されたのは11月始めでした。学校の周辺は焼け野原でした。幸い住んでいた家は焼けませんでしたが焼け野原は絶好の子供の遊び場でもありました。
竹の棒を持って焼け跡の瓦礫を掘り返すと色々なものが出てくるからです。中には四角い穴あきの古銭も出てきてそれを拾い広い焼け野原で投げて遊んだ記憶があります。今から考えると勿体なかった感じですが。
進駐軍の数が増えジープの乗ったアメリカ兵が我々子供達に向かってチョコレートやガムを投げたのを、競って拾ったのもこの頃でした。
一部が黒く墨で塗りつぶされている教科書での勉強が始まりました。
(牧壮 マイライフ:http://tmaki1936.com/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95/ から許可を得て転載)
(20161212)
あの時代は、食料配給制の時代でした。それでも、と言うかそれですから、1945年の3月末(ぼくが遅れて松本に行ったのは4月29日だったと思います)に松本の浅間温泉に東京から行って分宿し、そして6月3日には下伊那郡上久堅村に再疎開した私たち学童の食べ物を手当するのは、簡単なことではなかったはずです。
一緒に上久堅村で学童と暮らした、饗場先生、加藤先生、山崎先生、武藤先生たちが、その任に当たって、食料の確保に必死の思いだったでしょう。
その時の写真を見るとこの先生たちは骨ばかりにやせ細っています。それに比べて、上久堅村小学校の校長先生の脂ぎった体格といったら、実に対照的です。
上久堅村での先生たち:
男の前列、左から武藤、加藤、饗場の各先生。その隣がこの学校の校長先生、一人置いて山崎先生。
写真の手前で見るように、校庭は芋畑になっている。後ろの建物は、天皇皇后の「御真影」の入っている奉安殿(あの時代はどこの学校にもあった。奉安殿という名称が思い出せなくて、博覧強記の若林茂さんに尋ねた)
食料が乏しいといっても、それでも、おやつが出ました。最初は、湯のみ茶碗に一杯の炒った大豆でしたが、すぐに少なって、一人10粒となり、すぐに6粒に減りました。
ぼくたちは、炒った大豆を紙の上に置き、その種皮を剥いてそれを別の山にして、裸になった大豆(将来子葉になるところ)を二つに分け、さらに芽(と呼んでいますが実際は幼根)の部分を別にします。それからはゆっくりと、剝いた皮を一つ一つ食べ、芽の小さな硬い塊を前歯で噛み、最後に半分ずつにした子葉を、時間かけて噛み砕いて食べました。
カイコの蛹も食べました。蛹は、繭を作ると不要になりますから、繭ごと茹でてしまい、聞いた話では鯉の餌になっていたそうですが、食糧不足、タンパク質不足の学童たちに時々おやつに出てきました。それも一人あたりニ三個ぐらいだったように思います。
食べ物に事欠く時代でしたから、蛹は栄養豊富なありがたい食べ物だったでしょうけれど、あの独特な匂いは好きになれず、口に入れて食べるのには苦労しました。
その後、21世紀の中国に行って11年暮らしましたが、カイコの蛹はご馳走の一つなのですね。蛹は茹でたりしないで生のまま出てきます。もちろん、ぼくは食べられませんでした。
同じ瀋陽薬科大学では日本語の教師だった加藤正宏先生と親しくなりました。彼はぼくより十歳以上若く、もちろんあの時代の食糧難を知りません。彼はカイコの蛹に、「おいしいですよ、食べてご覧なさい。ヨーグルトを食べているみたいに美味いです」と舌鼓を打っていました。
そう言って食べるよう勧められたぼくは、その後当分、ヨーグルトを食べるどころか、思い浮かべるだけで胸がむかつきました。
(20161212)
僕の家は自由が丘にあった。第二次世界大戦の末期、空襲は日々に激化し、早朝・深夜を問わず空襲警報のサイレンが鳴りわたった。その為、僕たちはどんなに眠くてもその音で直ちに起床。防空頭巾をかぶり、避難用具を抱えて近所の防空壕に避難しなければならなかった。父は外地で、家には母と小学生の姉二人と僕の4人がいるだけ。近所の人たちも同様で、殆どが女・子供だけの世帯だった。
東横線が空襲で朝から不通になる日も多くなり、僕たち附小の生徒は、登・下校時には隊伍を組み、自由が丘⇔第一師範(学芸大学)駅間を歩いて通学するようになった。途中で度々空襲警報が鳴るので、そのつど僕たちは避難場所を探して右往左往した。ある時は急降下してきた敵機の機銃掃射を受けたことさえある。
そこで、家族ぐるみで田舎に転居する友もいたが、大半は学校が定めた長野県に集団疎開した。1944(昭和19)年夏のこと。僕たちは疎開学童としては最年少の3年生。親離れするのが何とも不安な年頃だった。
それでも、最初の疎開先は浅間温泉の旅館だったから、温泉につかるゆとりもあった。が、程なく下伊那郡上久堅村のお寺に再疎開させられ、事情は一変した。大勢の児童を受け入れたお寺さんも大迷惑だっただろうが、都会からの疎開生も生活の激変に悩み、難儀した。
興禅寺で工作 (右列手前が僕。靴下の底が大きく破けているのを見て、母は涙が止まらなかったそうだ)
今考えれば、客扱いに慣れた温泉旅館と、寒村のお寺の待遇を比較すること自体にムリがある。だが当時は、食事の量と質の急激な劣化に大いに悩み、僕たちは文字通り「餓鬼(ガキ)」と化した。いつも腹ペコだった。たまに「おやつ」が配られることもあったが「煎り豆数粒」だけ!!!皆は先ず皮をむしり、豆は砕き、それ等を少しずつ口に含んで噛みしめた。が、空腹感は増すばかり。そこで皆は、アケビとか桑の実を採って食することを覚えた。そして、ついには蛇、カエル、ネズミ等を捕まえ、殺し、火あぶりにしてガツガツ食したことも一再ではなかった(その風景は、思い出すだにゾッとする)。
宿舎となったお寺では、一番広い部屋をあてがわれたが、そこは何しろお寺の本堂だ。毎日早朝からチン・ポクポクと木魚等が鳴り、読経が始まる。だから僕たちはまだ暗いうちから、毎朝たたき起こされていた。おまけに、そこにはノミやシラミがめっぽう多くいた。だから、いつもノミ・シラミ潰しに躍起となっていたのだが全然効果はなく、全員が頭皮からつま先まで、一日中かきむしる毎日だった。
玉川寺学寮(1945年10月中旬の3~5年・男女全員)
便所にも困った。生徒数に対してあまりに数が少なく、本堂と離れた中庭にポツンと1棟の便所があるだけなので、いつも順番待ちの行列があった。待ちきれない者も、当然、出る。そしてこらえきれなくなると、そのすぐ傍で用を足してしまう。
すると、翌朝先生が朝礼で「便所の外を汚したのは誰か!後で教員室へ来い!名乗り出ないと全員に懲罰を課す!」と怒鳴られた。そこで最年少の3年生が犠牲になった。上級生の命で、その身代わりに教員室へ行かされるのだ。もちろん当時は教師が生徒に体罰を加えるのは、当たり前のことだった。
極めつきが「へ(屁)の歌」。僕はこの歌を80歳になった今も覚えていることに、ひそかな誇りさえ感じる。それは僕たちが、どんなに辛い思いをしていた時でさえ、ユーモア感覚を失わなかったことの証と思えるからだ。
どんな時に歌ったかというと、例えば、勤労奉仕で里山から村役場に薪を運ばされる時。薪束はかなり重い。ことに雨の翌日などはズシリと重い。小学3年生には相当の重荷だ。けれど誰も「いや」とは言えぬ。仕方がないから、思い切り全力でふんばって持ちあげる。するとその弾みでオナラ(屁)が出るのだ。あちこちで断続的にそんな音がした。
そこで誰かが大声で<第一歌「屁の歌!屁にはブースーピーの3種あり!!!>と怒鳴る。するとその後すぐに皆が声をそろえて<ブーは音高けれど匂い無し。スーは音無しけれど匂い濃し。ピーは少々水気あり!!!>と互いを指さし、笑い合いながら応唱した・・・。疎開生活で笑ったのは、こんな時くらいだったろう。
ちなみに、この「歌」の旋律は全く覚えがない。多分そんなものは無く、皆が一緒に大声で唱えただけだったと思う。作詞者も今日現在全く不明。もちろん僕でもない! (20161211)
ひもじい。ヒモジイ。
お腹が空いたなんてもんじゃない、何時もお腹がペコペコ。
空腹を抱えたぼくたちのお気に入りの遊びは、東京のうちで親と暮らして幸せだった頃食べたおやつの名前を言うことでした。
チョコレート
アンパン
ドーナッツ
白玉。。。
ぼくが学童疎開の第三期として、中央線に乗って松本に行ったのは敗戦を迎えた昭和20年・1945年4月29日のことだったと記憶しています。
松本での宿は浅間温泉旅館でした。あの疎開騒ぎの時代とは言え、温泉旅館何軒かをぼくたち学童疎開の生徒たちが占領できたのは、すごいことですね(ぼくたちの東京第一師範学校の地位が関係していたのではないでしょうか−これは後の若林さんの記録によると、単に世田谷区の学校だったからだということがわかりました)。
大学の数は戦前のことですからまだ多くなかったし、先生を教育する教育機関は、東京高等師範学校(後の教育大学、筑波大学)、東京女子師範学校(御茶ノ水大学)を二つの巨峰として、ほかには東京師範学校(東京青山師範学校ー>東京第一師範、東京府豊島師範学校ー>東京第二師範、東京府大泉師範学校ー>東京第三師範)しかなかったと思います。その附属小学校ですから、何かと幅を利かせていたのではないかな、と今思い返しています。
その温泉旅館が亀乃湯だったか、菊之湯だったか、記憶が曖昧です。姉は西石川旅館か東石川旅館にいたように記憶しています。今インターネットで浅間温泉を調べると、菊之湯は出てきますが、馴染みのある名前は他には一つも見当たりません。栄枯盛衰ですね。
(牧さんによると、亀の湯だったそうです。今は残っていないとのことです)
旅館には、子供心にはプールほどの大きさに映った浴槽があって、入り放題ということはなかったと思いますけれど、そこで入浴のときにハンカチや、制服の襟につける白いカラーなどを洗っていました。洗ったあと折りたたんで手のひらでパンパンと叩いて伸ばすと、乾いたあとはアイロンを掛けたように皺がなく干し上がります。
東京で暮らしていた時には自分で洗ったことなんてありませんから、出かける前に母に教わったのでしょう。面会に来た母がこれを見て涙を流していたことを覚えています。
松本の小学校では、地元のクラスの一部に先陣で疎開していた学童仲間の一人の白井が歓迎の挨拶をして迎えてくれました。それに答えて何か言うように誰かに指示されましたが、ぼくは親元を離れた悲しみにまだ打ちのめされたままで、まったく何も言えなかったことを覚えています。
あの頃のことですから、「勝つまで頑張ろう」とかいえば良かったのでしょうけれど、ぼくは世間的な常識のないごくごく内気な生徒でした。
この松本の小学校で何を勉強したか、それよりも、学校に通って勉強したかどうかの記憶はまったくありません。覚えているのは何時もお腹をすかせていた情景だけ。
チョコレート、アンパン、ドーナッツ、、、と言いつつ、お腹がグーとなる。
でも、これらの名前が出て来なくなると、人間らしい暮らしから切り離されて、つまり人間ではなくなってしまいそうで、必死に、食べ物の名前を思い出していました。
(20161211)