ゲームプログラムの「俳句」とは?
ゲームプログラムの「俳句」とは?
世の中には、数百GBの容量を擁し、映画と見まがうレイトレーシングを駆使したゲームがユーザーの歓心を引こうと躍起になっている。確かにそれは楽しい体験だし、NUAOもそれを待ち遠しく思っている一人だ。では、8ビット機で熱中したあのゲームに比べて数百万倍の体験かというと、そうでもないと思う。そこには、ゲームとしての本質は、データ容量や表現能力や処理速度とは別の次元にあるという事実があるように思う。
任天堂の数々の伝説において語られる横井軍平さんの逸話として「家庭用ゲーム機はアイデア不足。アイデア不足の逃げ道はCPU競争であり色競争しかないものだ」と皮肉ったことが伝えられる。しかしその後、任天堂もNINTENDO64などスペック路線をとることになった。横井軍平さんは任天堂と袂を分かち、その後56歳で早すぎる生涯を閉じられたが、その「ヨコイズム」はこんにちも輝きを失っていない。
いま8ビットゲームが忘れ去れているか? とんでもない。最新のデバイス上で相次いで復刻され、いまだ私たちの心を駆り立てて止まないではないか。今や、当時と比較すればほぼ無限ともいえるリソースを自由に使える時代になったが、そこで初めて、最低限の要素を極めることの真の価値が浮き彫りになっているのではないか。グラフィックを削り、速度を削り、容量を削り、あと1バイト削ったらゲームにならない、その究極の姿に、ゲームの本質が立ち現れるのではないか。それは、無限のリソースが使えるという遠回りをして初めて見える景色だったのだ。
メモリも画面も、もっと使えるならつい利用してしまう。だが物理的にそれができないフォーマットがPBである。当時は本当にそれが技術的限界だったが、いま、無限のリソースが使える中であえてPBでゲームを作り共有する意味は、まさにここにあると考える。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」 俳句は五・七・五で春夏秋冬の森羅万象を読者の眼前にありありと描き出す。PBは544ないし1568ステップ、12桁の文字表示で、ユーザーの目前に無限のゲームシーンを描き出すことができる。
PBゲームは「ゲームプログラムの俳句」だと思う。
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