メールマガジン第9

(202343日発行)

【エッセー】

「江戸時代の「地理的表示」としての伊丹酒」

竹久 健(サケ・エッジ株式会社)

 地理的表示(GI)指定に向けた清酒産地の動きが活発である。

 私自身、生業として地理的表示を受けようとしている地域のお手伝いを始めたのが2020年。2019年まで「白山」「山形」「灘五郷」に「日本酒」の4つに過ぎなかったものが、その後「はりま」「三重」「利根沼田」「萩」「佐賀」「山梨」「長野」「新潟」「滋賀」と続々と指定を受けて、現在「日本酒」を含めて13の地域が指定を受けており、地理的表示を地域の酒のブランド化のためのツールとして位置付け、積極的に活用しようとする動きが各地で見られる。

 ところで、「地理的表示ってワインの伝統であって、日本酒にはなじまないのではないのか?」という質問や批判をよく受ける。

 その中身は一言で言ってしまえば「清酒に地域性なんてないんじゃないか?」というものであるが、実際問題として、清酒に地域性はある。その土地その土地の風土や住人の好みに合わせて酒造りが行われて来た歴史があり、明確に地域によっての違いはある。その要因がワインと違う、というだけの話である。

 その上で私は声を大にして言いたい。日本、それも日本酒にこそ、実は地理的表示の長い伝統があった、と。

 現在ある「地理的表示」を狭義に定義すれば、現行のリスボン協定(1958年)に基づいて国際登録された原産地呼称の事ではあるが、それ以前から地理的表示としての要件を備えていたものはあると言える。

 日本ソムリエ協会の教本的には、現在のEUのワイン法のベースになったのは1935年のフランスのワイン法である。

 これより古いワイン法としては1756年のポルトガルのポルトワイン法がある。これが世界最古のワイン法とされている。

 そして、1716年に、イタリアのトスカーナ大公のコジモ3世がキャンティ、ポミーノ、カルミニャーノ等の区画を制定。これが世界最初の原産地呼称、と言うのが日本ソムリエ協会の教本の記述である。

 イタリアの事例は単なる区画の定義、と言うことなので、具体的な保護、という意味ではポルトガルが世界最古、と私は考えている。

 ところが、である。

 18世紀の中頃、日本国内の最大の清酒生産地は伊丹であった。

 豊富で清冽な水と諸白での清酒生産技術を武器に伊丹酒は江戸においても下り酒の主力銘柄となっていたのである。

 当然、偽物や類似品も出回る。そして、当然の事として、伊丹の生産者たちは領主の近衛家(親王を養子に迎えたことのある、五摂家筆頭の家柄)に泣きつく。

 そして、近衛家は伊丹の酒蔵に「伊丹御改所」と書かれた焼印を授けた。

「この焼印が樽に押されていない酒は伊丹の酒ではない」として。

 ここからが面白いのだが、まず、伊丹の外で作った酒を今でいう桶買いをして、近衛家から拝領した「伊丹御改所」の焼印を押して「伊丹酒」として売る不届きな酒蔵が出て、それがバレると、当然だが、焼印は召し上げられる。罰則があるのである。

 そして、それでも偽物の焼印のついた酒が江戸で出回ると、幕府も流石に近衛家が相手だと多少は気を使うようで、「偽物や紛らわしい焼印が見つかれば差し押さえる。後の交渉は勝手次第」と言う対応をした、と伝わっている。

 ①地域の定義があり、②焼印の授与という具体的な保護があり、さらに③地域外産の酒樽に焼印を使用したら召し上げという罰則まであったら、これは立派な「地理的表示」と言えるだろう。

 この焼印、授けられたのは1743年である。ポルトガルより13年古い。

 異論はあるかも知れないが、定義次第ではこれが世界最古の地理的表示、と言えるのである。

 なので、私は自信を持って言う。

 日本酒こそ、地理的表示を語るべきであると。

 ここで興味深い事実が一つある。少なくとも「世界最古クラス」の地理的表示を持っていたであろう伊丹酒の原料米産地である。当然に近衛家領地内で収穫された米も原料となっていたわけであるが、それ以外に大名貸を行っていた伊丹の酒蔵に各藩は年貢米で一部返済に充てており、これが伊丹酒の原料米となっていたわけである。「伊丹酒」としての特質を担保する上で米の産地は関係なかった、という事である。

 では酒の地域性と米の産地は全国一律に関係ないか、と聞かれればそうではない所がまた面白いのだが、これはまた別の機会に譲りたい。

【ちょこっと日本酒学】

「雑誌『dancyu』の見てきた日本酒30年」

里見 美香(編集者)

 食の雑誌『dancyu』(プレジデント社)の編集に、1990年12月の創刊以来ずっと携わってきた。日本酒関係で初めて担当した記事は、創刊4号目の「古酒三昧」(6ページ)。編集部唯一(当時)の日本酒好きだったゆえ、いきなりレアなテーマを任され、その後も第2特集やスポット記事などで日本酒を取り上げてきた。

 晴れて第1特集となったのは、1999年2月号。前年が空前のワインブームで、年明け発売の同号では“流れを変える新機軸”のテーマとして、日本酒に白羽の矢が。「日本酒の勝ち」というタイトルで、50ページ超えの大特集を組むことになった。

 当時は「ワインバーや焼酎バーには女性を誘えても、日本酒はダサいイメージで無理」といった状況。日本酒特集敢行は編集部挙げての大冒険だったが、幸いなことに蓋を開けてみたら売れ行き大好調で、おかげさまで今に至るまで続く毎冬の看板特集となっている。

 この四半世紀の日本酒の進化、深化はすごい。 純米酒への志向、食中酒としての再認識、新しい酒造好適米や新酵母の開発、燗酒や熟成酒への再注目、生酛や木桶など温故知新の動き、稲作との関係強化、流通の革新、クラフト酒の登場などなど、この間に日本酒の世界は大きく変わった。

 だが、あまり語られない変化の一つとして、「造り手」の変化も挙げたい。蔵元や杜氏など酒造りのリーダーの話ではなく、スタッフ=蔵人が大きく変わったと感じる。酒造りが農閑期の出稼ぎ仕事だった時代、蔵人は農村の集団の一員として是も否もなく連れて来られた場合もあったと聞く。だが今は(ある意味、当たり前のことではあるが)、日本酒が大好きでぜひ造りたい、関わりたいと志願したスタッフが、社員としての責任をもって酒造りに携わっているケースが多い。

 ここ数年訪ねた酒蔵で、「彼はうちの蔵で一番の日本酒好きで、話題の日本酒を買い込んでは、蔵元の自分にも薦めてくれるんですよ」と誇らしげにスタッフを紹介されたことが何度もあった。かつての「造り手と飲み手は別々」の時代ではなく、「飲み手が造り手である」この時代、彼らの存在がどれだけ蔵元さん達の助けになっていることだろう。

 単なる“仕事”ではない。大好きだからこそ、なんとしてもこの仕事に携わりたい、この世界で一人前になりたい、おいしい酒を世に出したいという若者の熱意とパワーは計り知れず、その力はきっと、日本酒の世界をこれからもっと輝かせ続けてくれるだろうと思う。 

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