御文章
御文章「御正忌章」拝読
法要の最後に御文章を拝読します。
本願寺第8代門主の蓮如上人が多くの門弟にお書きになったお手紙の数々を「御文章」と申します。
御正忌報恩講についてのお手紙が「御正忌章」です。
御文章「御正忌章」
そもそも、この御正忌(ごしょうき)のうちに参詣いたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、
聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得(ぎゃくとく)せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。
もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定(けつじょう)せずは今度の報土の往生は不定なり。
されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。人間は不定のさかひなり。極楽は常住の国なり。
されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。
されば当流には信心のかたをもつて先とせられたるそのゆゑをよくしらずは、いたづらごとなり。
いそぎて安心決定して、浄土の往生ねがふべきなり。それ人間に流布(るふ)してみな人のこころえたるとほりは、
なんの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。
それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにあらず。
南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すといふなり。
そもそも信心の体といふは、「経」にいはく、聞其(もんご)名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願(ほつがん)回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」といへり。
「南無」という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑いなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、
すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、
信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
【意 訳】
さて、この御正忌にこころざしをもって参詣し、報恩謝徳をあらわそうと思って、
親鸞聖人のご真影の前におまいりする人々の中には、信心をすでに得た人もあるでしょう。
また不信心の人もあるでしょう。これは何よりも大事なことです。
というのは信心を決定しなければ、このたびの極楽浄土への往生はできないからです。
ですから、不信心の人もすみやかに決定の信心をもつべきです。
人間界は、なにごとも定まりのない世界です。
極楽浄土は永遠に変わることのない国であります。ですから、定まりのない人間界にいるよりも、
変わることのない極楽浄土に生まれることを願うべきなのです。
そこで、浄土真宗において信心を本としているそのわけをよく知らなければ、むなしく、無益なこととになります。
急いで安心を決定し、浄土往生を願わなければなりません。
ところが、世間で、広く人々が思い込んでいることは、本願名号のいわれを正しく聞きひらかずに、
口でただ称名さえとなえていれば、極楽に往生できる、ということです。これはまったく不確かなことなのです。
他力の信心を得るというのも、特別のことではありません。南無阿弥陀仏の六字の意味を疑いなく領解することで、
信心が決定するというのです。
いったい、信心の本質のついては、『無量寿経』巻下に「聞其名号(もんごみょうごう) 信心歓喜(しんじんかんぎ)」
(その名号を聞きて信心歓喜せん)と言われています。
善導大師は「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」
(『観経疏(かんぎょうしょ)』「玄義分(げんぎぶん)」)と言われています。
「南無」という二字の意味は、さまざまな雑行を捨て、疑うことなく、ひたすら、阿弥陀仏を信じ申し上げるこころを言います。
それから「阿弥陀仏」という四字の意味は、一心に弥陀の教えにしたがう衆生をやすやすとおたすけくださる、
そのわけが、阿弥陀仏の四字の意味です。
ですから、南無阿弥陀仏のすがたをこのように領解するのを、信心を得るというのです。
これをすなわち、他力の信心をよくこころえた念仏の行者というのです。
あなかしこ、あなかしこ。