さて、探究学習の前に「探究」とは何かという話から始めてみようかの。
広辞苑(第五版…古くてすまぬ)で「探究」を引くと、「物事の真の姿をさぐって見きわめること。」と書いてある。ネットで他の辞書の意味を調べてもおおよそ同じような意味が出てくるので、間違いはないはずじゃ。
「真の姿」とは、常識とか偏見とかではなく、本当に今ある姿ということじゃ。「さぐって見きわめる」とは、イメージだけじゃなくて実際に触れてみて、本当に今ある姿を己の目で見るということじゃ。
現代社会には、インターネットという便利なものがある。わしもそのインターネットを通じてこうやって話をしているわけじゃが、このインターネットというものは、どこの誰とも分からない「誰かの常識」「誰かの偏見」であふれておる。そして、その「誰かの発信」に説得力があり、賛同者が多いなら、それが「世界の常識」となって我々の中に入ってくる。そして、わしらはあたかもそれを「知ったかのように」錯覚してしまうのじゃ。
もちろん、その「誰か」は実際に触れて真の姿を発信しているのかもしれない。ただ、それが「真」なのか「偽」なのかは、本来わしらは自分の目で確かめなければ分からないはずなのじゃ。
特にインターネットというものを介して、真偽の定かではない膨大なる知識を得ることができるようになった。それは悪いことではないが、自分の脚で対象に触れ、自分の目でそのものを見るという経験がとても少なくなった。YouTubeに騙されてさえいれば、世界の全てを知っているかのような錯覚を覚えることができるようになった。
しかし、それは所詮「誰かが」作りだした物に乗っかっているに過ぎないのじゃな。そんなことでは、自分で何かを創造していけるようなクリエイティヴな人は育たない。自分の脚で赴き、自分の目で見てこそ「真の姿」は勝ち取れる(Veni, Vidi, Vici)。「真の姿」を見きわめてこそ、新たなものを創り出していくことが可能になるのじゃ。
そういうことで、「インターネットでちょちょいと調べて何か分かった気になる」というクソつまらんことはもうやめて、自分の脚で、自分の目で、そして自分の手で真の姿を見きわめる力を付けてもらいたい、という想いが「探究」ということばに込められているのじゃな。