2024年はオリンピックイヤー。パリ五輪が開催され、いつもと違う開会式やら何やらで盛り上がりを見せている。わしはスポーツ観戦にはあまり興味がないので全く見ていなくて、ラジオ深夜便のかわりに音声で寝ながら聞いているだけなのじゃがな。
しかし、楽しいはずのオリンピックは、今誹謗中傷まみれになっているという(下線部クリックでリンク開く)。日本の本部であるところのJOCが声明を出すくらい。卓球の水谷選手は自身のXで実際に届いた誹謗中傷のスクリーンショットを公開した。「気にしないで」とは言えないくらいひどいもんじゃったよ。
「誹謗中傷はやっちゃダメ、絶対」というのはもちろん大前提じゃ。人を傷つけるためにメッセージを発するなどということは、あってはならないのは言うまでもない。しかし、その誹謗中傷は「中にはそういう人もいる」というレベルでは済まされないほど多発しているのが現状じゃ。
一体、日本人に何が起きているのじゃろうか?
先に言っておくが、人間は「何かを変えるために自分が闘うことが大嫌い」であり、「体制は変えないが誰かが何かを改善してくれることは大歓迎」する生き物じゃということを覚えておいてほしい。
2020年は、本来東京でオリンピックが開催されるはずだった年じゃ。ところが、東日本大震災を上回る犠牲者を出し続けた新型コロナウイルスの蔓延により、2020年の開催は中止(2021年に延期)となった。もう一度言うが「オリンピック」が「中止」されたのじゃぞ。2020と最も語呂のいい年だったにもかかわらず中止とは、これはどう見ても歴史的じゃよな。
当時は学校は休校、「不要不急の外出」はするな、県境をまたぐな、といった感じで「おうち時間」ということばも流行した。その時に急増したのが「プロのYouTubeチャンネル」じゃ。プロのジャーナリストや芸能人もどこかに出向いて取材したりイベントに参加したりできない(そもそもイベントが開催されない)状態で、「とりあえずYouTubeの配信をしてみよう」と当時始めて、今でも続いているチャンネルが多い。
コロナで不況に拍車がかかったにも関わらず、「情報を発信する」ということについてはその時期にだいぶ進歩したのではないかな?学校でも、ごくわずかではあるが、iPadを全く使ったことなかったけど授業を動画に撮って配信したり、ZoomやMeetを使ってリモートで授業をしたり、という挑戦をする人もいた。1人1台タブレット端末、のGIGAスクール構想も、元は学校で受けられない授業を家で受けられるように、という理由があったはずじゃ。わしもネット経由で課題配信をずいぶんしたものじゃ。
SNSについても、やはりその時期に利用頻度が増えて、「直接誰かと会わないけど何かメッセージを発する」ということがプロ・アマ問わず多くなったのは間違いない。
最近、物価がやたら高騰しておるな。もちろん経済的には円安でいろいろなものの原材料費が高騰しているのもある。
「モノ」そのものの「クオリティ」についてはどうじゃろうか?食べ物については、高くなったり、値段は変わらないけど量が減ったり、ということが随所に見られるようになった。
しかし、モノの「クオリティ」については、ほとんどの場合据え置かれているか、向上しているものが多いのではないかな?少なくとも、質について妥協が見られるようになった…みたいなことはほとんどない気がする。
つまり、原材料費が高騰していることとは別に、実はなにげに「品質が向上しているから値段が上がっている」という一面があるのではないかと思う。
顕著なのは「自動車」じゃ。現代の自動車は、特に乗用車は、乗っていて嫌な気持ちになるものは「ない」。はっきりとそう言い切れる。デザインからなにから、我慢が必要なことすら何もないし、広々していて静かで快適なのが「当たり前」になっている。半自動運転のレベルの「安全装備」も充実しているしな。
それもそのはず、わしが免許を取った1990年代と2024年を比べると、この30年で自動車の値段は「約2倍」に跳ね上がっているからじゃ。軽自動車も100万円で買えていたものが今では200万円するのが当たり前(やろうと思えば300万円を超えることすらできる…!)。中には、30年前に100万円台で買えていたものが、同じ車名で400万円を超えるものもある。
安全基準や環境基準が30年前より上がったため、技術的に値段を上げざるを得ないという理由もあるのじゃが、それ以上にどのクルマも「革ハンドル」「シートヒーター」「アームレスト」「後席エアコン」など、快適で豪華な装備が満載なのじゃ。静かで乗り心地もよく、パワーも十分。そして燃費もいい。軽自動車も決して例外ではないよ。
以前は自動車の評価は、ジャーナリストが雑誌で書くくらいしかできなかった。その雑誌も自動車メーカーにそっぽを向かれたら終わるから、けなしすぎることなく、穏便な記事を書いているに過ぎなかった。
ところが、コロナ禍を経て、雨後の竹の子のように出てきたプロのジャーナリストもネットで歯に衣着せぬ評価をするようになり、一般のユーザーもそれにコメントしたり、自分で動画を出したりして、「忌憚のない意見」というのを表現するようになった。雑誌みたいにお金を出す必要もないし、字で読むよりも分かりやすい。特に動画で走りながら評価したりしたら、車内の騒音とか振動とかまで分かってしまうので、どんなコメントをしようが嘘がつけないんじゃな。
こうやって、安くて誰でも買いやすいクルマでさえ「質感」「快適性」「装備」を求められるようになった。「ここがプラスチック感あって安っぽい」「タイヤがうるさい」「クルーズコントロールの制御がダメ」なんて言われたら、メーカーはたとえ軽自動車であってもコストを上げて改善して出すしかない。自動車の場合一台でも売れ残ったら100万円単位で損失になるからな。
こうして、どんどんモノの質がよくなり、代わりに値段爆上げ、という時代になったわけじゃ。値段高騰の原因の全てではなかろうが、「いいものは評価し、ダメなものはけなす」という風潮が「高品質で高価」なものを生み出しているのは間違いないと思うぞ。このままでは「いいものがたくさん並んでいるが誰も買えない」という時代が来る気がする。あくまで個人的憶測じゃが。
前述のように、誰でもネットを通じてモノの評価をすることで「さらにいいモノ」を求める時代になった。コロナ禍で産業が動いていなくても「さらにいいモノ」を求め、実際に無理をしてでもメーカーは「さらにいいモノ」を作り続けてきた。景気は上向かなくても贅沢を求めるようになった。どんなに安いクルマでも「ウインカーがLEDじゃない」ことに文句を言うプロさえいる。コストっていう言葉を知らないんじゃろうか。
そうやって自分たちが意見を出すことによってさらにいいモノを「誰かが」作ってくれるのが、一般人からしてみると面白いんじゃろうな。自分で何とかしているわけじゃない。「誰かが」よくしてくれるのを待っているのじゃ。無料のメディアを通じてな。
人間、一旦上げた質は、落とすことを許されない。質を落とすことは、酷評にさらされることを意味する。ネットの世界で酷評されることは、売り上げが「激落ち」するリスクがあることを意味するからな。実際それで売り上げが落ちたということがあったかどうかは調べていないので分からないが、少なくとも「リスクは排除」が企業の論理じゃ。評価を下げないように努力しないといけない。
不思議なことに、「値段が高すぎる」ことに文句をいう人って、ネットではあまりいないんじゃよな。つまり、「自分は買うわけではない」のに「無責任に品質の批判をしている」ということなのじゃ。金銭感覚のズレたプロが「この品質でこの価格なら安いくらいだ」なんて言えば、ネット民は自分が貧乏だと思われたくないので、あたかもユーザーであるかのように「すごく分かります、安すぎますよね」と値段が上がることを礼賛する傾向すらある。そんなことより重箱の隅をつついて品質に文句を言うことの方が大事なのじゃな。
話はここでは止まらない。どこかの質を上げると、質を据え置いた部分は相対的に質が低く見えてしまう。なので、今度は質を据え置いた部分が課題となり、プロアマ問わずそこが攻撃対象となる。メーカーは改善策をうつので一見PDCAサイクルが成立しているように見えるが、他の部分に必ずしわ寄せが行く。
多少のしわ寄せはいい、私たちの望む最高のモノを作れ。最高じゃない部分は私たちが指摘してあげるから、次回までに改善したまえ。改善しないと酷評しちゃうぞ。
どんどんネット民の「評価規準」が上がり、傲慢になっていく一方なのじゃな。言っておくが、ネット民はユーザーとは限らない。使ったこともないモノについて、プロの厳しい評価に「そうだそうだ!」と同調し、次第に粗探しのプロに育っていく…というのが、今のネット民の一番の問題点じゃと思っておる。「厳しい評価をする」ことが自分の使命だと勘違いしている人もたくさん見受けられる。
スポーツの世界にも同じことが起きておる。近所の野球好きのおっちゃんがいちいち高校の野球部に口出ししてくるがごとく、ネット民は自分でプレイするわけでもないのにプレーヤーに対して厳しい評価を下したがっているわけじゃ。「勝つ」ことが目的であるはずなのに、「勝ち方」にまで文句を付けるようになって…というのは「評価規準のインフレ」じゃ。そこまで評価規準が上がってしまうと、「負け」=「ボロカス評価」になってしまう。誰の立場で言ってるんだ、というくらい、負けた人に対して冷たい言葉を平気で放つ。それがエスカレートして、「厳しさ」=「相手を傷つける」がもはや「目的」になってしまう…ということがあるのではないかな。
このことが全てではないにせよ、「自分より劣っている(と思う)者」をとことん追い詰めて傷つける「いじめ」という行為の一因には、「自分の中の評価規準のインフレ」があるのではないかな。「なんでそんなにダメなんだよ!」というわけのわからない責め方をしてるやつは大体そういうところがあるのじゃと思っておる。
「孤独のグルメ」はご存知かな?漫画やドラマを見たことがない人でも、「こういうのでいいんだよ」というセリフを聞いたことはあるのではないかな。色々コダワリのお店が数ある中、普通の町中華のお店で普通のタンメンを食べて「そうそう、俺にはこういうのでいいんだよ」というセリフを発するシーンが有名になったのじゃ。
一旦上げてしまった自分の中の評価規準を開放して、普通のものを普通に「こういうのでいいんだよ」と言えるようになることが必要じゃ。自動車に乗って、ちゃんとエンジンがかかってちゃんと走れば、「こういうのでいいんだよ」と評価を下せるようにならなければならない。スポーツ観戦にしても、たとえ負けても全力で頑張ったことに「頑張った、それでいい」と言えるようにならなければいけない。「なった方がいい」ではない。「ならなければならない」じゃ。特に、ユーザーでもプレーヤーでもないただのネット民はな。
何かを実際に使って思ったこと、実際にプレイしている人からのアドバイスは、参考になるかもしれない。そういう意見は積極的に発信すると改善に役立つし、それがネットのいいところでもある。それにしても、やはり評価規準を高く持つのではなく、「こういうのでいいんだよ」というので十分じゃ。ヒントさえあげることができれば、あとは規準を高く持って対処していくのは自分なんじゃからな。
そこでうだうだ言葉だけで人を攻撃して人を変えさせようとするのはダサい。思うように変わってくれなくて攻撃の手を強めるのはもっとダサい。一見自分の意見で世界を変えようとしているように見えるが、実は自分の手は汚さずに「人に何かを変えさせようとしている」にすぎんのじゃからな。
探究課題として、どうやったら私たちの意識として「他者に対する歪んだ向上心」を抑え、「こういうのでいいんだよ」と言えるようになるかを追究するのは面白いと思う。面白いし、ちゃんと役に立つものに発展させていけるのではないかと思う。どうして私たちは他者に対する評価が厳しくなってしまうのじゃろうか。どうして自分を何とかせずに、自分で何とかせずに、人に改善させようとするのじゃろうか。「原因」を考えて、「仮説」として対処を考えるのじゃ。
わしもあまり他者に寛容になれないことが多いので、自分自身で対処法は考えて実践するようにしている。この探究課題の解決は、場合によっては、戦争を起こさないような世界を創り上げるヒントになるかもしれんぞ。
まずはちょっと町中華を食べに行ってみようか。