今回は、少し手短に、「教育」ということについて触れてみようかの。20年以上教育ということに関わってきた。関わってきたなりに「教育」とは何ぞや、ということについて、わしなりの答えが見えてきたので書いておこうと思う。きっと、探究学習の切り口にもなると思う。
結論から言うと、「教育とは、世界を作ること」じゃ。
語弊を恐れずに言うと、「この世界」は、「人間世界」じゃ。物理法則に従わずに動く生命の中でも、ことばを使って意志を持って動くのが人間。その人間が「この世界」を作っている。自然との関わりがどうこうという話ではない。「人間が人間の世界を作っている」と言えばいいかな。その考えが正しい限りにおいて、「人間を育てる」ということは「人間世界を作る」ということなのじゃ。
プーチンもトランプも金正恩も、JFKもMJもわしも、教育を受けて育っている。教育を受けたからこそこういう大人になっている。極論すれば、教育を受けたからこそミサイルを撃つし、戦争だって起こしている。
教育次第で世界征服だってできる。
だからこそ、教育に携わる者は「世界を作り上げている」んだという意識で、責任を持って活動に当たらなければならないということなのじゃな。「今の世界」がどんななのかを見つめ、「これからの世界」をどんな形にしていきたいか、そういうビジョンを持っていないといけないということじゃ。
残念ながら、教育の世界には「過去」にとらわれる風習がはびこっている。その方が「楽」じゃからな。「例年通り」を「何十年も」やり続けている例だってたくさんある。そうやって育てた子どもが「世界」で通用するはずがないのは分かるよな。世界では通用しない古い発想の人間が今でもまだ育っているから、日本がだんだん世界に通用しなくなってきているということなのじゃ。
それに加えて、コロナ禍やよく考えもしない「多様性」の重視により、「できないことが許されなければならない」風潮が増大して、子どもたちがずいぶん弱体化してしまった面もある。
「今の世界」に対応するために「教育」のアップデートをしていかなければならない。どんな観点が現在の「教育」に欠けているのか、わしの周りの環境から挙げてみたい。学生さんたちは、どうやったら自分たちも取り組みや意識をアップデートしていけるのか、自分たちでも考えてみたら立派な探究になると思う。
わしもそんなに高い方だとは思わんが、ITリテラシーが低い教員が多い。もう一歩突っ込んで言えば、「ITは得意な人がやるものであって自分はそれではない」と思っている人が多い。不得意だからやらなくてもいい、自分はできないからできる人にまかせる。そういう意識の人がまだまだ多い。恐ろしいことに、情報科の先生にすら今でもタイピング上等と思っている人がいるくらいじゃ。
ITリテラシーを教えるのは他ならぬ教員じゃ。そして、ITリテラシーを身に付けないと通用しない世界に出て行くのは子どもたちの方じゃ。運悪くITリテラシーを持たない教員としか出会わない子どももいる。そんな子がこの世界に出て行くのは、泳ぎを教わらずに大海に出るのと同じじゃ。
ちなみに、自治体にもよるとは思うが、泳ぎ方を教える側は泳ぎ方を教えられていない。国からGIGAスクール構想というやつで生徒一人一台のタブレット端末が支給された。しかし、その使い方や使いこなしについては何か研修があったわけではないのじゃ。「わからない・使えない」とぼやく人が多いのも無理はない。次の段階としては、せめて教員に有効なタブレット端末の使い方をレクチャーし、「まずは教員に日常的に利用させる方策」を立てなければならない。今のところ授業で使いたい人が使っているだけ、という状況で、持続可能となっていくかは未知数じゃ。このあたり県知事の考えも聞いてみたいものじゃ。
逆に生徒側から教員に使い方をレクチャーする、なんていうのはどうかな?どんな機能を使いこなしたらiPadは「生きる」のか、わし自身知りたい。「最低限このくらいは使えてほしい」というところに絞って、週に1時間、「生徒から先生に授業」するというのは、探究学習としては面白いと思うがどうじゃろうか。
「探究学習」は、「得意な人が計画し、誰でも運用していけるようにマニュアル化すること」を多くの教員が望んでいるところじゃ。じゃからこのサイトを作り始めた、ということなのじゃがな。
「総合的な探究の時間」という科目を設定したはいいが、学習指導要領を作っただけで国から教科書とかテキストの提案は今のところ一切ない。探究学習の研修はあるが、はっきり言って興味のある人以外が受けに行っているのを見たことがない。ほぼ全ての教員が総合的な探究の時間の「教科担当者」であるにもかかわらず、だよ?
「探究学習」の本質が見えていない教員があまりにも多い。今でも「時間つぶしをして嵐が過ぎ去るのを待っている」という意識の人も多く、探究学習とは全く関係のない小論文の練習などでごまかしている事例もある。「毎週の総探の時間が苦痛」と言う声が実際に聞かれる。
探究学習は、「やりかた」よりもその根本にある「精神」を共有した方がうまくいくと考えておる。「マニュアルがない」「先の計画がなかなか見えない」ということに不満を漏らす人もいる。しかし、探究活動の「失敗」もあり得るわけだから(むしろうまく失敗した方が面白い探究になる可能性すらある)、多少の「行き当たりばったり」を許容するように、根本的な精神を共有しながら見守ることが大事なのじゃ。
この点については、「探究学習って?」「探究学習のすすめかた」で詳しく述べているのでもしよかったら参考にしてくれ。
18歳成人になって、高校在学中から選挙権を与えられるようになった。しかし、「公民科」の教員は研修を受けるが、それ以外の一般の教員は有権者教育についてはほぼ何も教えられていない。政治に関するデリケートな話題なので、どこまで話をしていいかわからず、「触れないでおく」教員が多いのではないかな。
しかし、この「選挙権」こそ、子どもたちを「地域」の、「日本」の、そして「世界」の一員にしていく最も大事な要素だと思わんか?子どもたちに「世界を作り上げる」ことを望むなら、絶対に選挙権を放棄させてはならない。「最初の一票」は義務化して、入れない者には罰則さえ与えてもいいくらいじゃと思っておる。
これもまた、自分たちはそういった教育を受けてきた世代ではないから、「わからない」で済ませられがちじゃ。個人的には教育の一番大事な部分の一つじゃと思っておる。
「投票率の改善」は探究学習のいい題材じゃ。是非生徒の側からも投票率を上げるにはどうすればよいか、改善策を打って検証してみてほしい。
「ブラック部活」が話題になっている。部活動はそもそも授業時間外に行うものじゃが、夜遅くまで実施されるため学業との両立ができない場合は「ブラック」というわけじゃな。この点については、教員側も勤務時間外に長時間労働を強いられているのじゃとすればそれは「ブラック」ということにもなるわな。
このことについては、部活動の実施時間に上限を設けるガイドラインが設定された。特にコロナ禍を経て活動時間の見直しが進み、ハイシーズン以外は週に2日休む、年間何日休む、みたいなことが決められた。これによって、少しだけじゃが休みを設ける習慣が定着した。
しかし、かと言って一旦上げた競技レベルを下げるわけにもいかないじゃろう。詳細は伏せるが、ガイドラインどこ吹く風、というレベルで長時間活動している部活はまだまだ蔓延っておるよ。特に、学校関係者ではないコーチにガイドラインへの理解を促していないケースはままある。「部活動=長時間労働」とは考えない、純粋に部活動を「やりたい」先生だって大勢いるしな。
クラブなどに部活動を外注するという発想もありうるが、メジャーな競技に限られるし、文化部なんかはそもそも外部のクラブなど持たないことの方が多い。
ここは、「何時間の活動が一番効率よく上手になるか」という「探究学習」の出番ではないかな?わしは部活動に関しては、子どもたちが「本気の出し方を学ぶ場所」だと考えておる。部活動が最も有意義な「学びの場」とするために、最もよい形で残していくことはわしは賛成じゃな。放送部の指導ならいっくらでも承るぞ。
コロナ禍以降、「念のため」欠席するというケースが倍増している。もちろん熱が出て検査に行くといった場合はむしろ学校に来ないで病院に行ってほしいわけだが、「腹痛」「頭痛」「なんか具合が悪い」で欠席する子どもがずいぶん増えた。
「頭痛」「腹痛」も、身動きできないほどきつい場合のことを言っているのではない。我慢すれば何とかなる程度の症状でも簡単に欠席する子どもが増えたし、それを許容する家庭も増えたと感じておる。それがきっかけで長期欠席になる子も少なくない。
「行きたいけど行けない」というケースも増えていると感じている。しかし、安易な理由の欠席の多くは「行きたくない」「行くのが億劫」というようなことじゃ。一旦億劫に感じると休みが増えるケースが非常に多い。「行きたくないから行かない」という安易な欠席をなくせばずいぶん欠席が減るのではないかと思っておる。コロナ禍以降「学校に行かない」ことが「特別ではない」と家庭でも認識しているから、行かなくても責められない環境ができているのも一因かもな。
教育は世界を作ることじゃ。その観点に立てば、簡単に休みを取って仕事に穴を空ける社会人を育てることは、教育的とは言えないのではないかな。
この事態を打開するために、「休むな」とだけ言い続けるのは効果が薄い。休むことは権利でもあるし、登校を強制することはできないからな。休みすぎると単位が取れないとかいうのは別として。
じゃぁどうすればよいか?答えは簡単じゃよな。「毎日来たい学校にする」ことじゃよ。休みがちな子は「来ない方が当たり前」になってしまう。そうではなく、「来る方が当たり前」になるように、みんなで協働するのじゃ。
経験的に、ただ楽しいだけ、とか、何をしても許される、ただユルいだけのクラスは、「みんなが毎日来たい」クラスにはならない。楽しいクラスは一見よく見えるが、いわゆる「陰キャ」な子にはむしろ苦痛になってしまうことが多い。そういう子は置いて行かれる傾向にある。ユルいクラスは、少々悪いことをしても許してくれるが、「正義の味方」的な子とぶつかってトラブルになったり、何をやっても責められないだけに、からかいなどの悪ふざけからいじめに発展することがある。適度な距離感、適度な秩序感というのは「みんなが」来たいと思えるクラスには必要不可欠なのじゃ。
さて、「世界一来たいと思えるクラス」を作るにはどうしたらいいかの?これは生徒側の視点で是非探究してみてほしい。わしなりの答えは実はあるが(実際今まで機能してきた)、それが分かったら面白くないので、ここでは触れないでおこう。
さて、教育から世界を作っていく、そんな観点から色々と話をしてきたが、教育には「探究学習」のネタもたくさんある。生徒側の視点から見ると、課題がとてもリアルに見えてくるし、検証もしやすいからオススメじゃぞ。何かの役に立てたら嬉しいぞい。