20210322 灌漑利水学は「昭和」から「令和」へ

 最近,『灌漑利水学は「昭和」から「令和」へ』を研究のキャッチコピーにしています.

 農業水利を含む農業農村整備事業は,農林水産省の「土地改良事業計画設計基準(以下,設計基準)」をもとに実施されます.農業土木技術者にとっては,事業を実施する上でのマニュアルのようなものです.農業農村工学分野の大学生は,一般的にこの設計基準の内容とその内容を理解するために必要な基礎知識,例えば,水理学,土質工学,構造力学の三力などを学びます(ちなみに,九州大学の生物生産環境工学分野では,このほかに気象学や土壌学などもカリキュラムに含まれています).この設計基準があることで,各地で実施されている事業は,事業者や設計者によらずある水準を担保できています.その一方で,全国どこに行っても同じような農村風景が広がっているのは,この負の側面だと思います.

 設計基準の基本的な考えは,昭和30年頃にまとめられました.新沢嘉芽統・小出進 両先生の『耕地の区画整理』(岩波書店,1963年)を読むと,現在の設計基準がどのような背景や経緯で作成されたてきたかがわかります.設計基準の内容は,社会や技術の変化に合わせて部分的な変更が加えられてきましたが,基本的な考え方は現在も踏襲されています.半世紀以上が経過しても部分的な変更だけで対応できたことは,当時の設計基準の概念が非常に優れたものであったことを証明しています.また,『耕地の区画整理』ではその後(昭和40年以降)の農業体系の変化についても見解が示されており,現在の農業体系は概ねその予想どおりに進行しています.さらに,当時指摘されていた問題点については現在の農業農村整備にも通ずる点が多数見られます.過去の先生方の先見性や問題の本質を捉える視点にはただただ驚くばかりです.

 一方で,農業を取り巻く状況は,家族経営から法人経営,小規模から大規模,水稲作から畑作・施設園芸へと大きく変化しています.また,ドローン,ロボット農機,ICT技術,画像診断などの農業技術は,当時の研究者には到底想像できないような発展を遂げています.その結果,「昭和」に構築された農業・農村整備の形は,急激な変化を遂げている農業体系や農業技術に対応できなくなっています.特に,農業・農村整備が硬直化しているため,農業技術の能力を最大化する方向ではなく,現状の農地条件に合わせて技術の方を合わせていくという方向に農業を取り巻く研究が進んでしまっていることに強い危機感を感じます.同様の問題は昭和30年代にも起きていたようで,『耕地の区画整理』でも農業技術(当時は農業機械)が農地の制約を受けている点が指摘されています.過去の先生方は,当時の農業体系や農業技術の条件のもとで,将来の農業・農村をイメージしながら設計基準を作成されました.それと同じように,そろそろ過去の設計基準を修正するのではなく,現在の農業・農村(それを取り巻く技術発展)を見つめ直して,令和以降の農業・農村をイメージした設計基準(圃場整備のあり方を見直したとき,「基準」という概念もこれまでと違ってくると思いますが,ここでは「設計基準」としておきます)を土台から作り直す必要があるのではないかと思っています.

 最近,私たちは「農業+α」という視点で,営農型太陽光発電,希少生物の保全,災害対策などに農地や農業関連施設を活用する研究を進めています.これらの研究は,農業と直接関係しないように見えるかもしれませんし,人によっては農業生産に負荷を与える取り組みとして否定的な印象を持たれるかもしれません.しかし,今後日本の人口が減少し,国内の食料消費量が減少することが確実ななかで,農地や農村を「農作物を生産する場」と限定すると,農業生産力が劣る農地や農村が全国各地で衰退すると考えられます.もちろん,「農作物を生産する場」に特化した農地は必要ですし,役割を終えた農地を無理に維持する必要もないと思います.しかし,農業生産だけでは成り立たない農地や農村については,多少農業に負荷をかけながらも非農家も含めた地域全体でその負担をカバーし,農業以外の多様な価値を有する場として積極的に活用していく取り組みがあっても良いのではないでしょうか.

 農業や農村に求められる価値は,それぞれの地域の特徴や農家・住民の意向に応じて様々です.ある地域では徹底的に農業生産の効率化が進められ,その隣の地域では防災や生態系保全に農地が活用されるといった棲み分けが今後ますます必要になると思います.そして,このような多様な価値を掘り起こして,その価値をさらに高めるためには,これまでの画一的な設計基準では対応が困難です.そのような考えのもと,『灌漑利水学は「昭和」から「令和」へ』というキャッチコピーを掲げ,最近は古典に立ち返り,そもそも耕区,水路,農道とは何か,なぜそれらが現在の形になっているのか,時代の流れとともに不要になっているものはないのか,最新の技術で代替できるものはないのか,といったことを確認しています.そして,研究室の学生たちと議論しながら,将来の農業・農村をイメージ(妄想)して研究を進めています.