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人類学の自由と「新しさ」 (2009)

学問とは、本質的には、与えられたボールを打ち返すことではなく、新しいゲームのルールを創るものだと思います。人類学においても、マリノフスキー、レヴィ=ストロース、あるいは山口昌男といった人々は、そうやって「自分の」ゲームのルールを創り出しました。

それ自体境界設定が困難な、フィールドワークという経験の塊に土台を置くこの学問において、どこから人類学が始まるか、どこで人類学が終わるかはいつも未確定です。これはこの学問独特の困難ですが、そこにこそ、思考の自由と「新しさ」の源も存在しています。

人類学は、その最も輝かしい瞬間においてつねに、支配的な(我々自身の思考もその一部分をなすところの)思考の枠組みの外に出るという冒険をバネにしてきました。私は、即座に利用可能な(しかし持続的に価値あるものであるかは疑わしい)成果を生み出す学問が求められる状況の中で、人類学においても、そのような自由と「新しさ」を大事にしたいと思います。

私自身も、人類学から哲学へ、また映画研究へという運動を、そしてまたその逆方向の運動を、試行錯誤を経ながら、次第に連続性のある形で行うようになってきました。このサイトでは、そうした私の知的営みの一部を垣間見ていただければと思います。

「自然主義」にむかって (2009)

このサイトでは、naturalism(自然主義)という言葉を掲げていますが、その理由は、人類学的思考の根底に「自然」についての思索が不可欠だと思うからです。もちろん、これは「自然へ帰れ」というようなナイーブな-より正確に言えば、「自然」についての特定の概念化をあらかじめ含んだ-自然主義ではありません。

今日の地球上の人間社会が多かれ少なかれ人為的な諸要素で埋め尽くされていること、我々の思考と行動の大部分がきわめて人為的な「近未来」の構築に向けて追い立てられ、我々の人生の「意味」がそうした中で構築されていることは、否定できない現実です。それを認めたうえで、自然を、そうした我々の営みの全体を包み込むものとして、そして同時に、我々の存在の生物的基盤である我々自身の(物理的な)身体と不可分なものとして考えたい。そのことはまた、ここで「人為的」と呼んだものに深いところから活力を与えることにもなるはずです。

これは、哲学の問題とも言えますが、同時に深く人類学の問題でもあります。なぜなら人類学は、上の意味での「自然」を、特定の研究対象に限定しつつ、現実に徹底的に密着して把握しようとする学問だからです。他方で、映像は、人間の知性によっては把握できないような形で、現実を視聴覚映像として定着させるものであるという意味において、この問題をダイレクトに思考するための重要な手がかりであると思います。

この自然主義的「人類学」は、それ自体はいわば生に向けての態度であり、それがすぐに特定の学問的ないし理論的枠組みによって表現されるわけではありません。私がこれまで書いてきたことは、様々な形での(「内容」そのものの深化・変容を伴いながらの)「表現」の試みにほかなりません。

私のささやかな願いは、このサイトの一握りの言葉が、他の人たちの中で目に見えない思考の種となって、目に見えない形で、それぞれの人が自分の「人類学」を形成するための勇気づけとなることです。