断章1995

博士論文「想起と反復-現代マプーチェ社会における文化的生成」 東京大学大学院総合文化研究科(1995)

1章 序論~歴史民族誌的背景

序論:文化と生成/マプーチェの歴史民族誌的背景/カラフケン湖西北部地域の歴史民族誌的背景


この論文は二つの主な目的を持っている。第一の目的は、マプーチェの人々の社会文化的的実践の体系が、現在いかなる形で生きられ、また未来に向かっていかなる形で展開しうるかを、その体系がもつ生成的な可能性をできるだけ盛り込みながら把握し、記述することである。もちろん、ある社会文化的実践の体系を完全に生成的な形で把握することは、原理的に言って不可能な作業であり、それを近似的な形にせよ実現するためには、何らかの入念に準備された理論装置が必要である。論文中で導入される「反復」の概念は、まさにそのような理論装置としての役割を果たすはずのものであって、論文の第二の目的は、この「反復」の概念が、社会文化的実践を生成的な形で把握し、記述してゆくための装置として、きわめて有効に機能しうることを、その様々な具体的適用の中で示すことである。

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民族誌とは、個々の文化についての叙述的研究であるといわれる。ごく最近まで、この定義の意味するところは、民族誌家にとってほぼ自明なものだったはずである。しかし、マルクスとエンゲルスがかつて「あらゆる堅固なものが空気の中に溶けてゆく」と形容した近代社会のダイナミズムは、現在、世界のすべての社会をますます激しく、そして絶え間なく揺り動かしている。比較的静かなところに身を落ちつけて個々の文化の込み入った仕組みを記述する作業に従事することの多かった民族誌家も、そうした文化自体が「空気の中に溶けてゆく」プロセスの荒波の中で揺り動かされている事実を無視することは今や不可能になってきているといえる。今日の民族誌家は、もはや精巧なジグソー・パズルではなく、動くたびに模様を変える万華鏡の世界のように捉えがたい「文化」と直面しつつあるのであり、そうした中で、民族誌家の認識の対象としての文化の概念そのものが再考を迫られていると言っても過言ではないだろう。

(...) 社会的生成は、本当にブルデューが考えるように、生存のための諸条件と実践(pratique)の間の、客観的な両立と適応の関係に基づいた相互作用によって理解しうるものであろうか。筆者はこれに否定的な答を与えざるをえない。実際、社会の根本的な変化の局面の中で、生存のための「客観的」な諸条件自体が疑問に付されるような状況を考えるなら、そこで「物質的であれ象徴的であれ利潤の最大の極大化を目指す経済的実践」というような原則が宙に浮いてしまうことは明らかだからである。スペインの哲学者E・トリアスは、(社会が)「その臨界点、回帰不能の地平に到達するとき、(・・・) 一連の精神的価値を基盤とした社会がもはや了解することのできないような、事例性・特異性・変則性・怪異性が、むき出しの直接性をもって現前する」と書いている。確かに、こうした究極的な変化の局面においては、実践(praxis)は、時代や階級に固有のスタイルとは無関係に、その「むき出しの直接性」において把握する以外にない。そして、この「むき出しの直接性」こそ、ブルデュー理論があえて近寄ろうとしない、実践(praxis)の原初的な姿なのである。

(...) ブルデューは、社会学的法則性を導くことを主な関心としてもっていたために、ハビトゥスを一つの全体として扱い、その内的構造を解明しようとすることはなかった。しかし、具体性・直接性に向かおうとするならば、彼がハビトゥスと呼んだものの内側に目を向けなければならない。 少し考えれば分かるように、ハビトゥスの内的構造は、決して単純なものでも均質なものでもありえない。実際には、その中に、身体=生理的な習慣性のレベルから、身体の社会的な習慣性のレベル、無意識的な習慣性のレベル、そして様々な種類の社会的言説=実践のレベルまで、いくつものレベルに及ぶ実に多様な習慣性を包み込んだものであるはずである。こうした多様な習慣性は、いうなれば、それぞれ「持続性をもち移調が可能」である特徴を持っているという点でのみ共通するものであって、それらが全体としてのハビトゥスの内部で相互にぶつかり合い、影響を与え合う中で、最終的に、かろうじて一つの体系をなしているかのような外見を与えているものであるといえるだろう。ブルデューはおそらく、こうした複雑な総体を相手にするのを避けるために、ハビトゥスの内的構造に深入りせずに、全体としての構造のみを語ろうとしたのである。しかし、ひとたび社会学的境界の彼方に向かう決意を行ったならば、何が出てこようとも、あくまでも現実に密着した形で考察を続けてゆかねばならない。

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(...) 少し考えれば分かるように、ハビトゥスの内的構造は、決して単純なものでも均質なものでもありえない。実際には、その中に、身体=生理的な習慣性のレベルから、身体の社会的な習慣性のレベル、無意識的な習慣性のレベル、そして様々な種類の社会的言説=実践のレベルまで、いくつものレベルに及ぶ実に多様な習慣性を包み込んだものであるはずである。こうした多様な習慣性は、いうなれば、それぞれ「持続性をもち移調が可能」である特徴を持っているという点でのみ共通するものであって、それらが全体としてのハビトゥスの内部で相互にぶつかり合い、影響を与え合う中で、最終的に、かろうじて一つの体系をなしているかのような外見を与えているものであるといえるだろう。ブルデューはおそらく、こうした複雑な総体を相手にするのを避けるために、ハビトゥスの内的構造に深入りせずに、全体としての構造のみを語ろうとしたのである。しかし、ひとたび社会学的境界の彼方に向かう決意を行ったならば、何が出てこようとも、あくまでも現実に密着した形で考察を続けてゆかねばならない。

(...) ここでは、筆者は、ハビトゥスについて次の二つの予備的な仮定を行って、そこから民族誌についての新たな方法を模索しようと思う。(1) ハビトゥスのもつ「持続性をもち移調が可能な」特性は、ハビトゥスが、「同一性」と「反復」という、相互に深く関係しあった二つのものの混合物(すなわち{同一性+反復})から構成されると考えることによって理解することができる。 (2) 人間の行動は、様々なレベルの{同一性+反復}のセットが、人間に対して多重的に作用することによって生み出される。ハビトゥスとは、こうした {同一性+反復}の諸セットの働きの総和にほかならない。

(...) 同一性とは、一般に、「A=A」ということであるが、ここではこの等式を、左右対称な等式ではなく、「左項は先在する右項AによってAとして定義された形で存在する」ことを意味するものとして理解する。そして、そのような「A=A」の関係を成立させ、あるいは持続させる力を「同一性の原理」(あるいは単に「同一性」)と呼ぶことにする。さて、このような同一性の関係及び原理に対し、他方でもう一つの関係「A'–A"」を考え、これを反復と呼んで、「左項A'は右項A"に類似する」として理解することにする。この反復の関係において注意すべきことは、(i)「A=A」の場合と異なって、ここでは、右項と左項の関係は相互的であること(つまり「左項A'は右項A"に類似する」ことはまた「右項A"は左項A'に類似する」ことでもあること)、(ii)反復においては、同一性におけるように関係と原理が明確に区別されないこと(つまり反復は関係であると同時に原理でもある)、の二つである。( (...) この「反復」の概念については5章でより根本的な理論的検討を行うことになる。しかし、そのためにはいくつかの準備が必要なので、ここでは、不十分ではあるが、上の導入的な定義を与えるにとどめておく。)

(...) 「マプーチェ的なハビトゥス」は、基本的に、「想起(konumpan)」の概念を核とする同一性原理(以下では「想起の原理」と呼ぶ)、「力(newen)」の概念を核とする同一性原理(以下では「力の原理」と呼ぶ)、そして「水平性の原理」と呼びうるような同一性原理の三つの原理から構成されるものと考えることができる。この三つの原理のうちで、今日、最も表だったイデオロギーとして存在しているのが「想起の原理」であり、 (...) 2章において語りと宇宙観の問題を、3章において儀礼体系の問題を取りあげながら、この「想起の原理」を詳細に検討してゆくことになる。 しかし、3章の検討は、彼らの儀礼的実践が、実は、「想起の原理」とともに「力の原理」とも深く関係するものであることを明るみに出すであろう。 (...) 3章の後半では、歴史的文献やトゥピ=グァラニー諸族についての人類学的文献などをも参考にしながら、今日のマプーチェの人々の言説の中でしばしば覆い隠されがちなこの「力の原理」の本質を解明することを試みる。 このようなイデオロギー的領域における二つの同一性原理は、ある時には共存して相補的関係を営み、ある時には対立し合う。4章の主題は、人々の日常生活を形成するところの親族と政治の領域において、二つの同一性原理がいかなる形で絡み合いながら彼らの実践を生み出しているか、というものである。4章における人々の日常的な社会的実践の検討は、さらに、ほとんど言説化されることがないがしかし重要性において決して劣ることのないような第三の同一性原理、すなわち「水平性の原理」について考察を行うことを余儀なくさせるであろう。

(...) 続く5章は、論文の前半と後半をつなぐ蝶番的な章であるとともに、論文全体の理論的な基盤を据え直す章でもある。そこでは、それまでの「マプーチェ的なハビトゥス」についての検討を経験的な素材の一部として利用しつつ、「反復」という現象を我々がどのように理解し、その理解を社会の生成的過程の把握にどのように役立てることができるかを、理論的に検討することになる。この章で筆者は、哲学者G・ドゥルーズの「反復」に関する議論を土台としつつ、独自の理論構築を行って、この概念を、社会現象一般を生成的な形で把握するための理論装置として鋳造しなおすことを試みる。

(...) 6章では、2~4章の民族誌的考察と5章の理論的考察との上に立ち、今日のカラフケン湖西北部地域における「居留地的なハビトゥス」の全体を概観することを試みる。この章の前半では、彼らの経済生活・政治生活・日常生活・精神生活の様々な側面において、「チリ的な諸ハビトゥス」と「中間的なハビトゥス」が、「マプーチェ的なハビトゥス」といかなる関係を営みながら展開しているかについて検討を行うことになる。 (...) 6章の後半では、今日の居留地のこうした状況が、「マプーチェ的なハビトゥス」をいかなる方向に変容させているかが、様々な具体的ケースとともに検討される。ところで、逆説的な言い方になるが、このようにして「居留地的なハビトゥス」について論じるだけでは、今日の居留地の人々の生活の全体を理解したことにはならない、ということも、述べておかねばならない。なぜなら、マプーチェの人々は、もうかなり以前から都市などに出稼ぎに行ったり移住したりすることをその社会的実践の一部としており、そのような意味で、彼らの社会的ハビトゥスの中には「都市的なハビトゥス」が既に内包されているからである。 (...) 7章では、そのような理由から、まず、都市に移住したマプーチェたちの実践の体系(それは理論上は「移行的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」の二つに分けることができる)について検討する。そのあと筆者は、今世紀のマプーチェ知識層に属する幾人かの言動の分析を行い、それを通じて、「チリ的なハビトゥス」を身につけたマプーチェの人々が自らの内なる「マプーチェ的なもの」をどのように再解釈していったか、その軌跡を辿ることにする。こうした作業は、「マプーチェ的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」という相互に矛盾するハビトゥスを、創造的な「反復」の実践を通して、いかにして同時に、そして深く生きることができるのか、というきわめて重要かつ困難な問題について、我々の理解を深めてゆくことになるであろう。

2章 天上的秩序の模倣: 想起の原理 

口承的心性/コヌンパンの原理/天上界と地上界/神・霊・人間


M・エリアーデはかつて、古代的人間(homme archaique)にとって「人間の行為の意義や価値は、(・・・) その原初的行為の再生、神話的範例の反復としての性質にある」と書いた。この定式は、マプーチェの伝統的ハビトゥスにおける中心的な同一性原理にもほぼ完全に当てはまる。「全ては天上界で完成しており、我々、地上界の人間は、それを型どおり繰り返すだけである」、これはエリアーデの本からの引用ではなく、「湖」村の祈り手が筆者に力説した言葉である。 マプーチェの人々は、この神話的模範の反復の原理を指すのに、しばしば「コヌンパン(konumpan)」という言葉を用いる。その第一義的な意味は「想起すること」であるが、マプーチェの人々にとって、これはただ記憶を呼び起こすことではない。夢や幻覚をみること、祈りや神話的伝承を唱えること、神や霊的存在に対して捧げものを行うこと、儀礼の踊りを行うこと、など様々な事柄が、この意味深い言葉に全て内包されているのである。2章の中心的主題は、同一性原理としてのコヌンパン(あるいは想起)の全体を把握することである。

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(...) マプーチェの人々は、夢のみならず、ペリモントゥ[白昼夢ないし幻覚]や、病気や近親者の死、天災などを、神と霊的存在の意志の反映であると考えて、いつも注意を払い、それらの事件を通して神や霊的存在が人間に対して放っているメッセージや知識を受けとめようとする。 (...) しかし、夢・幻覚・病気などを通じて神や霊的存在からメッセージを与えられることを、マプーチェの人々は何故、「思い出す」と表現するのであろうか? それは、一言で述べるならば、事例5や事例6からも分かるように、このような形で得られるメッセージや知識は、本来的には、個人個人の人生を超越したレベルで存在するところの、古いメッセージ、古い知識であると考えられているからである。実際、マプーチェにとって、 (...) 「全ては天上界で完成しており、我々、地上界の人間はそれを型どおり繰り返すだけである」のであり、また「湖」村のシャーマンが筆者に確言したように、「新しいものは存在しない (We dungu ngelai)」。正確に言うなら、それらの知識が、口頭伝承という形で一度既に修得されたものであるか、そうでないか、というような問題は、マプーチェにとっては問題ではない。大事なことは、それが既に最初から、つまり原初から存在していた知だということであり、だからこそそれはつねに「想起」されるものとして理解されるのである。

(...) これまで述べてきたことを総合して、マプーチェの人々にとってのコヌンパン、つまり想起のより深遠な定義を述べるなら、それは、(1)天上界の「既に知られている」言葉と物とが、夢などの現象を通して人間の前に立ち現れ、それを人間が認識する(つまり「想起」する)こと、(2)その認識を、然るべき時が来るまで忘れないで保持すること、そして、(3)神(あるいは霊的存在)の意志に従った時と場所において、神(あるいは霊的存在)の意志に従った形で、それが行為に移されることである。そのような形を通してはじめて、天上界の言葉と物とは、地上において可能な限りの形で反復されるのである。それは、過去の記憶を喚起する、という単純な思考過程とは極めて異なった行為であって、身体全てをもって、そして宇宙全体との関わりにおいて天上界の秩序を反復する、という行為だということができるであろう。

(...) マプーチェの人々が、あたかも民主主義の原理を模倣するかのように、事あるごとに議論を通じて物事を解決しようとするのは、きわめて興味深い現象である。我々はここで、またもやプラトン主義との類似しつつ相違する関係に出会うのである。プラトン主義における対話(dialogos)は、論理(logos)を通して(dia-)真実の「想起(anamnesis)」を促すものであった。マプーチェの対話(nutramkan)は、厳密にはダイアログではない。対話者の語りは、二者の間でロゴスを参照点としつつ交わされているのではなく、語りの背後に存在する「古い語り」(kuifi ngutram)を共通の参照領域として交わされているものであり、それは、この「古い語り」を通して、神の真実を共同的に想起(konumpan)しようとする試みなのである。

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このように、マプーチェの人々は、一方で神の意志を反映した自然現象に従いつつ、他方で夢・口頭伝承・占いによって「想起」される真実、それ自体神の意志であるところの真実に従いながら、地上界での生活を営んでいる。それは、大枠において天上界の秩序を反復するものである。しかし、ここで、地上界における天上界の模倣は、決して完全ではありえない、というきわめて重要な点を確認しておかなければならない。この地上界の不完全性は、少なくとも次の三つの側面をもっている。つまり、(1)人間は過ち(yafkan)を犯す存在であり、これが地上界の不完全性の原因である、(2)人間の中には無能力な者が多くおり、それゆえ地上界では過ちは始終なされることになる、(3)完全である天上界と不完全な地上界は様々な形で「仲介」されなければならない、ということである。

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(...) 先ほどは、ガスリーの文章を引きながらマプーチェの神概念を古代ギリシャの神概念と関連づけたが、ここでは、ハヴロックの古代ギリシャの神格に関する指摘が、マプーチェの神概念についての我々の理解をさらに深めてくれる。古代ギリシャの叙事詩の世界は多神教の世界 (...) であり、それぞれ特徴をもった神が登場して、様々な事件の動因をつくることになっているが、ハヴロックは、このような世界観は、叙事詩が語られる形で記憶され伝承される状況にきわめて適合したものであると考える。「多神教は、季節や気候、戦争や災害、人間心理、歴史的状況などの、現実上の多様な経験を、一神教よりもずっと生き生きと描写することを可能にする。なぜなら、多神教の中では、多様な現象の各々を特定の神-その現象だけを活動範囲として他の現象には関わらないような神-と関係づけることができるからである。こうして、外界の動きや人間自身の衝動の内的働きを単純化してしまう危険を避けることができる」。そして、これらの多様な神々は、「物事の因果関係を、聞き手が(感情的)同一化できるような言葉の形式に転換するための道具を与える。物事の因果関係は、こうして模倣可能、記憶可能になる。因果関係の複雑さは簡素化され、抽象的な要因は、強力な人々の介入という形に全て結晶化されるのである」。 (...) 一であるはずの至高神が、マプーチェの祈りや語りの中で、多なる形をとってつねに言及され、そしてその多なる形のそれぞれが、あたかも人格的実在であるかのように「父・母・若者・乙女」というセットと組み合わせて言及される、ということは、様々な自然・社会現象を、過度に単純化することなく説明するとともに、感情的同一化が可能で記憶しやすいような形で描写することを可能にする、きわめて巧妙な手段である、と考えられる (...)

ただ、同時につけ加えておきたいのは、このような機能主義的な説明は、クリビルやガスリーの、より内側からの見方に近い説明によって補われる必要があることである。なぜなら、人々がこのような形で神の多様な表現を捉えることは、それが一方で明らかに口承的心性の支配する世界における記憶の便という問題と関わっているとしても、他方では、確かにそれだけにとどまらないものをも含んでいるからである。つまりそれは、疑いなく、神というもののもたらす感動や畏怖を、何か決まりきった解釈の枠組に還元するのではなく、その多様性・具体性のままに、述語的に理解しようとする、一つの立派な宗教的経験の様式なのである。

3章 祈りと生け贄: 想起から力へ

想起と儀礼/カマリクンの両義性/想起から力へ/力の原理


「想起の原理」の意味するところをさらに具体的にみるためには、儀礼体系について詳しく検討する必要がある。なぜなら、儀礼集会カマリクンを始めとする彼らの一連の儀礼こそ、天上的秩序の最も忠実な模倣の行為だからであり、「身体全てをもって、そして宇宙全体との関わりにおいて天上界の秩序を反復する」(2.2.3.2.)行為は、その中に最も明瞭な形で現れるからである。これが、この章で儀礼体系について詳細に論じる第一の理由である。こうした儀礼体系についての検討は、しかし同時に、2.4.4.で現れたピジャンあるいは祖霊の問題を再浮上させることになるであろう。つまり、彼らの儀礼の細部を検討してゆくと、そこに、天上界を中心にして組み立てられている「想起の原理」によっては必ずしも割り切ることのできないような、ピジャンあるいは祖霊といった地上的存在を中心とする実践の体系が存在していることを認めざるをえなくなってくるのである。そこで、この章の後半では、ピジャンあるいは祖霊に主に言及する一連の儀礼を取りあげつつ、「マプーチェ的なハビトゥス」を構成する第二の下位ハビトゥスであるところの、「力の原理」に基づくハビトゥスの内的構造に接近してゆくことになる。

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(...) カマリクンが何にも増して「想起」の儀礼であることに疑いはない。既に述べたように、カマリクンはマプーチェの儀礼体系の頂点に位置する儀礼であり、前節で論じた、マプーチェの儀礼体系の基調をなす5つの基本的理念・8つの儀礼的動作・3つの運動感覚的イメージは、この儀礼の隅々にまで浸透している(この点は、3.2.3.の記述の中では、スペース上の制約からそのほんの一部しか示すことができなかった。より詳しくは付録1を参照のこと)。カマリクンに参加する者はみな、これらのものを、3日間の儀礼の期間中に、繰り返し繰り返し、全身体をもって経験することになる。厳密に言えば、「3日間の期間中に」という表現は正確ではない。儀礼の前日、前々日には告知儀礼があるし、儀礼の準備として「ピジャンの草原」で何度も開かれる集会も、ニヤトゥンこそ行わないものの、人々はカマリクンと同じような出で立ちで集合し、ヌツァムカンを繰り広げるのであって、そこにはカマリクンを彷彿させる儀礼的雰囲気が濃厚に漂っている。さらに、カマリクンの諸テーマは、「事を起こすこと」が公にされてからカマリクン当日までの数カ月間、人々の日常生活の中にも侵入してくる。直前の1ヶ月ともなれば、人々の頭の中はほとんどカマリクンのことで一杯だと言っても過言ではなく、昼間の会話の話題はいつもカマリクンに収斂してゆくし、夜間に見た夢もまた、多くの場合、来るべきカマリクンと関連づけた形で解釈されるのである。ふだんマプの中にばらばらに散らばって居住するマプーチェの人々は、このようにして、意識と無意識の両方のレベルで、次第にカマリクンに向かって皆で心を一つにしてゆき、最後に、カマリクンの場において、3日間の共同的な「想起」を行うのである。

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これまで、マプーチェの儀礼体系を「想起の原理」に従い、至高神中心の視点から見てきた。しかし、カマリクンの両義性は、ある意味で、再びコペルニクス的に視野を逆転し、より地上的な存在である祖霊の視点から全体を眺めてみることを要請するものである。そしてこれは、マプーチェの儀礼体系のカマリクン以外の部分を検討することによって、さらに明確になってくることでもある。この節では、葬礼、コナニヤトゥン、そしてマチとカルク(妖術師)の実践について簡単に検討し、そうした中で次第に、「マプーチェ的なハビトゥス」の第二の下位ハビトゥスを構成するところの「力の原理」を析出させてゆく。

(...) カマリクンの中で行われるかなりの儀礼的行為は、祖霊あるいはピジャンに対して供物と祈りを捧げる行為として解釈されうるものである。そして、このようにしてみれば、「慰霊祭はカマリクンのようなもの」というコメント(cf.3.3.1.)や、「マチの祭壇更新祭はカマリクンのようなもの」というコメント(cf.3.3.3.1.)は、ほとんど文字どおりに受けとることができるものになるのであり、さらに一歩進めば、カマリクンは集団的な形で「精霊との取引」を行うものだ、という、人々が決して容認しないような結論にも到達しうることになる。

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「力の原理」は、少なくとも今日のマプーチェの人々にとっては、「想起の原理」の背後に、いわば抑圧された形で存在している原理であって、彼らはなかなか正面からこれについて語ったり思考したりすることがない。それゆえ、この原理について、「想起の原理」に関して行ったように、それが内包する存在論的原理を、人々の言説だけから抽出してゆくことは困難である。そこでここでは、今日のカラフケン湖西北部地域のコンテクストを離れ、時間的・空間的により広い視野から、「力」の問題を眺めてみることにする。

(...) ブラジル北部のトゥピ系アラウェテ族の宇宙観(とりわけ死生観)に関するV=ジ=カストロの研究は、南米先住民社会における食人の問題に全く新しい展望を開いたものであった。 アラウェテの人々によれば、人間は死後、天上的霊魂と地上的霊魂と死体の三つの部分に分解するのであるが、このうち天上的霊魂は天上界に向かい、マイ(Mai)と呼ばれる神格のグループに最終的に統合されることになっている。ここで特に注目されるのは、死者の霊魂がマイに変わるプロセスである。死者は、天上界に入る時、天上界に既に住んでいるマイたちによって殺され、食べられなければならない。そのあと、残った骨から死者はシャーマニズム的な力によって甦らされ、さらに泉の水中を潜り、皮膚を取り替えて、若く、強く、美しく変貌することになる。死者は、こうして生まれ変わってはじめてマイの仲間入りをすることができ、別のマイと結婚して、天上界での新たな生活を営むようになるとアラウェテの人々は考える。こうしてV=ジ=カストロは、マイとはアラウェテにとって、「食人的神(os deuses canibais)」であると同時に人間の将来の姿でもあると述べる。そして彼は、アラウェテ的な存在のあり方とは、自己の同一性を「他者になること(devir outro)」に求めてゆくものであるとし、この思考様式を、「食人的コギト o cogito canibal」と呼んでいる。

(...) V=ジ=カストロは、「他者になること」を根本原理とするアラウェテの食人的コギトについて、「『自己』-『他者』の配置における反響関係は『同一性』への固着化を妨げるものである (A reverberacao do agenciamento "Eu"-"Outro" impede uma fixacao de "identidades")」と述べている。実際、この思考様式に従えば、自己にとって、マイとは「自己の敵(¬自己)」であると同時に「未来において自己が『なる』べきもの」でもあるのであって、この「自己—›¬自己」とでも表現しうるような関係は、この原理に基づく社会的実践を単純な同一性原理に還元することを不可能にするだろう。(...) マプーチェの「力の原理」についても、根本的には同じことが言えることになる。従って問題は、「自己—›¬自己」が、いかなる条件のもとで同一性原理「A=A」としての役割を果たし、またいかなる条件のもとでそれと矛盾する役割を果たすか、ということである。

(...) 「想起の原理」の中では、「地上界は、つねに天上界を模倣しつつも、それに『なる』ことができない」のであって、それはいわば「不完全にしか実現されない『A=A』」である。ところで、「力の原理」の根本にある「自己—›¬自己」を地上界と天上界の関係に当てはめるならば、これと見事な対照をなす定式ができあがる。つまり、この食人的コギトの中では、「地上界(より正確にはそこに住む人間)は、現在においては天上界と敵対するが、未来においてはそれに『なる』ことができるもの」なのである。「想起の原理」にならって天上界の秩序をAとするならば、現在においてそれと敵対する地上界の人間は¬Aとなるから、食人的コギトは「¬A—›A」と書き表すことができるであろう。ここにおいて我々は、食人的コギトがいかなる意味で同一性原理と関わるのかを理解することができる。「不完全にしか実現されない『A=A』」たる「想起の原理」と対照させて言うならば、食人的コギトとは、「未だ実現されていない『A=A』」である。それは未来において実現されるべきもの(『¬A』)であるという意味で、同一化の働きをもつものであるが、しかし現在における矛盾に基づく(¬A)という意味では、パラドクシカルな同一性原理であるといえる。

(...) 「他者になること」から力を獲得しようとするこの原理[「力の原理」]は、「他者」が天上界の霊的存在を意味する限りにおいて、同一性原理として機能することができる。しかし、この原理の興味深い点は、この「他者」の中に、しばしば霊的存在以外のものが含まれてしまうことである。それゆえ、天上界の秩序の模倣を永遠に不変な形で行おうとする、いわば時間の外側にある「想起の原理」とは対照的に、「力の原理」は、天上界の秩序と共にそれ以外のもの(例えばスペインの文化要素)をも模倣させてしまう可能性をつねにはらんだものであり、それは時間の内側に位置する原理であるといえる。二つの原理は、一部において重なり合いながら、他の場所においては鋭く対立するものであり、筆者の立場から言えば、(少なくとも)16世紀から今日までのマプーチェの社会的実践は、非常に大まかにいうなら、この二つの原理の相互関係の中で営まれてきたと考えられるのである。

4章 人間関係の諸相: 想起・力・水平性 

親族の世界/婚姻と外部世界/権力とその源泉/水平性の原理


(...) 親族名称は、人間の分類を通じて、人々の社会的実践に枠組を与えるとともに、逆にそれらの実践の中で変化を被ってゆくものである。出来上がった作品(opus operatum)としての親族名称ダイアグラムが与える一義的で平面的な印象とは裏腹に、実際には、同じ対象に対してしばしば複数の名称が存在し、異なる名称は往々にして隠れた意味論的関係によって立体的に相互に結ばれている。親族名称の一部分はある種の社会的実践と関わり合い、別の部分は他の社会的実践と関わって、時には、両者のもつ論理がぶつかりあって、矛盾を露にすることもある。このような観点から見るならば、親族名称体系は、人々の社会関係の様々な側面を浮き彫りにするものである。

(...) ここでは、カラフケン湖西北部地域における社会的人格の構成を、親族名称・個人名・魂という3つのレベルから見てきた。まず、カラフケン湖西北部地域の親族名称体系が、人間を天上界の秩序であるところの直系家族のメタファーによって把握する枠組を与えることに触れ、次に、個人名体系が、人々を、祖先の総体である「同名者(父方祖父)たち」の反復として規定することを論じ、最後に、個人の魂が、男系・女系の系譜を辿りつつ、至高神の決定に従って、祖先の魂の再生として形成されることをみた。しかし、ここまでみたことは、カラフケン湖西北部地域の社会的人格の構成についての考察の第一段階に過ぎない。問題の全体は、広い意味での婚姻の問題を次節で検討してゆくなかで初めて十分に把握できるようになるはずである。

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(...) こうした一連の事実は、確かに、「他者になること」によって現在の存在の条件を乗り越えようとする「食人的コギト」が、婚姻の領域にも関わるものであることを示唆するものであるといえるだろう。実際、個々の家系がそれぞれの祖霊の体系を持っているとすれば、婚姻連盟を結ぶことは、それを通じてこれまで無関係だった祖霊の体系と関係を持つこと、そして潜在的には、それらの祖霊の力を獲得することを意味する。もし食人が、「人間が人間を食べる」という尋常でない行為を通じて超越的な力を獲得しようとする、「鏡を突き抜ける」ような「不可能の技法 (arte do impossivel)」であるとするならば(Viveiros de Castro)、確かに、男女の結合と再生産というある意味で不可解な部分を含んだ、この婚姻という実践にも、同じような「不可能の技法」としての理解を可能にするものが含まれているのかもしれない。

(...) カラフケン湖西北部地域のマプーチェ社会は、既にみたように、親族名称体系が血族化の特徴をもつこと、その母方交叉イトコ婚が双方向的でグローバルなシステムを形成しないものであること、などの点では、V=ジ=カストロとファウストが考察した諸社会にみられる小域的レベルでの強い凝集力を共有しているといえる。しかし他方で、このような類似点にもかかわらず、父方交叉イトコ婚を中心に据えるV=ジ=カストロとファウストのモデルと、母方交叉イトコ婚を強調するマプーチェのシステムにはやはりある程度の隔たりを認めざるをえないだろう。このことを、どのように理解すべきであろうか。

(...) カラフケン湖西北部地域のマプーチェにとっても、生活の安泰に必要なのは霊的能力を備えた子孫を作り出すことであるが、そうした霊的能力は系譜を通じて自動的に伝えられるものではなく、積極的に外に出て新たな婚姻連盟を結ぶことによって得られるものである。おそらく、カラフケン湖西北部地域において、系譜によらない名付けが行われ、また母方交叉イトコ婚に若干のアクセントが置かれるのは、彼らの実践の、このようなより外向的な特徴に基づくものだと考えられる。そして、この内向性と外向性の対比はまた、「想起の原理」と「力の原理」の対比にも対応するものになっているだろう。(...) 内向的な宇宙モデルでは、世界は既に完成されたものであり、人間が行いうることはそれを怠りなく「想起」して反復することだけである。(...) カラフケン湖西北部地域では、一方でそうした考え方を含みつつも、他方では、積極的に外に向かい他者のもつ「力」を獲得してそれを生活の安泰に役立てる、という考え方が存在するのである。 カラフケン湖西北部地域のモデルは、こうして、V=ジ=カストロとファウストの内向性の強いモデルに片足を置きながら、同時に、外部に自らを開いてゆこうとする傾向をも持つものだということになる。ところで、ここで想起されるのは、アマゾニアに典型的に見いだされる小域的レベルでの高度の凝集力は、親族と婚姻の領域を取り囲む領域、すなわち敵対性と外部性の領域がもつ危険性と表裏一体のものであったということである 。(...) なぜカラフケン湖西北部地域においては、婚姻が、ある意味では敵対性・外部性を帯びかねない領域にまでそのネットワークを広げることができるのだろうか。

(...) つまり、広大な地域に分布する首長たちが定期的に顔を合わせ、共同で天上的存在を「想起」するこのアイヤレウェンの実践によって、この地域の社会的空間は、南米低地の他の地域では見られないほど広範囲における平和的交流を可能にするものとなったのである。

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(...) カラフケン湖西北部地域では、ニェンピン[祈り手]とマチ[シャーマン]は明確に異なった存在として理解されており、事例31のようなケースも、基本的にはマチがニェンピンを兼ねた特殊なケースであるとされている。しかし、よく考えるなら、ニェンピン=マチの存在は、(...) 区別が必ずしも確実なものではないことを示すものであると言わざるをえない。(...) 一言で述べるなら、ニェンピンとマチの微妙な関係は、「想起の原理」と「力の原理」の間の微妙な関係と完全に平行的なものである。「想起の原理」に従えば、地上の人間たちはコヌンパンの作用を通じて天上界と直接関係し、天上界の秩序を可能な限りの形で地上で模倣しようとする。そしてこの模倣の媒介となる役目を担うのが、ニェンピンである。これに対して、「力の原理」は、供犠を通じて祖霊と自己同一化することによって、人間が祖霊のもつ超自然的な力を一時的に手に入れることを可能にする。この作業を常時行っている存在が、マチにほかならない。しかし、コスモロジーという観点から見ても、儀礼的実践という観点から見ても、この二つの原理は不可分に結びついており、それゆえにニェンピンとマチの関係もまた、錯綜したものとならざるをえないのである。

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(...)マプーチェのリーダーたちは、「想起の原理」と「力の原理」を拠り所にして、マプーチェ社会の中に垂直性を作り出してゆくのであるが、しかし他方で、この社会には、4.3.1.で述べたように、政治権力の集中を妨げようとする強力な遠心力も常に働いている。

(...) 同一性原理の双方によって生み出されるヒエラルヒー化の傾向を表現しているのが、チェ(che)とクニファル(kunifall)というカテゴリーである。アウグスタの辞書に従えば、前者は「人;裕福な人」、後者は「貧しい 人;哀れな人;孤児」(p.106)となるが、一言で述べるなら、チェが自律的な人間であるのに対して、クニファルとは誰かに面倒を見てもらわねばならない人ということになろう。チェとクニファルの区別は、さまざまな次元でなされうるものである。最も基本的には、世帯内における親(または大人)と子供の区別がそうであり、一応自分で自分の面倒を見れる大人はチェであるのに対して、子供はクニファルである。(...) 今日のカラフケン湖西北部地域でも、チェとして扱われるか否か、というテーマの重要性は変わらない。彼らは、自分が人にチェとみなされているかどうかについて、過剰なほどに敏感であり、過去にクニファル扱いされた苦い思い出(思いこみの場合もしばしばある)は、いつか借りを返すべきものとして、心の奥底に忘れずに持っている。そして、とりわけ宴会などの場で酔いが回ってくると、人々はそうした恨みを思い出す。「あいつはあの時、俺をチェとして扱わなかった」、「ひとを馬鹿にしやがった」などといった呟きから、喧嘩が始まり、そして殺人にまで至るケースも全く稀ではない

(...) 「力の原理」は、一方で、確かに強い者と弱い者、チェとクニファル、或いはロンコ[首長]とコナ(ロンコの従者)という階層差を作り出す働きをもっている。しかし他方で、「霊的存在に供犠を行うことによって超自然的な力を引き出す」ことは、ある範囲までは、貧しい者、クニファルな者にも開かれているのであって、「力の原理」は、超自然的な力を通じて、弱者が強者を思わぬ苦境に陥れることをも可能にするのである。クニファルな者が利用することのできる超自然的手段は、大抵の場合、邪悪な精霊を利用した妖術とか、あるいは毒殺とかいった極めて反社会的なものであるが、しかし、それが超自然的なものである限り、どんな強力なロンコをも負かすことができる可能性がある。

(...) 我々は(...)「想起の原理」が生み出すところの、至高神が人間を造り人間に食べ物を与えた行為を範例とする一連の「親子関係」について述べ、チェの立場にある者が、クニファルという「哀れな人」との間に、非対称的な互酬的関係を営むことを論じた。ヒエラルヒーを造り出しつつ、そこに「寛容さ」や「哀れみ」を要求するこの原理は、それ自体、階層化が進みすぎることがないよう歯止めをかけようとする側面をも持つものである。(...) カマリクンは同時に、様々な水平的・対称的関係が展開される最も重要な場でもある。それはただ、参加者相互の間でヌツァムカンによる言葉の相互的交換が行われるというだけではない。カマリクンの3日間、供犠が終わったあとに繰り広げられる食べ物の相互的贈与は、非常に厳密な均衡的互酬性の関係を維持しようとするものである。万が一、前回に受けた贈与と同等な物をお返しできなければ、それは人々にとって、大変恥ずべきことになる。もちろん、ニェンピンやロンコもこうした水平的なネットワークの中に位置しているのであり、このネットワークにおいては、原理的には、優れた者と劣った者、強者と弱者といった差異は存在しないのである。

(...)ここで、次の、いわば素朴な疑問を立てることができる。二つの同一性原理が垂直性と水平性とを同時に作り出すことは認めるとして、総体としてのマプーチェ社会は、垂直的と捉えるべきなのか、それとも水平的と捉えるべきなのか。(...) サントス=グラネロは、西洋社会では、むしろ不平等性を基調とする現実の社会的実践を、平等主義的イデオロギーが覆っているのに対して、[ペルー・アマゾンの]アムエシャ社会では、不平等的なイデオロギーが、平等主義的な社会的実践を覆っていると考える。ほとんど明白なように、マプーチェ社会の状況は、サントス=グラネロが描写するアムエシャ社会の状況とかなり類似したものである。「想起の原理」と「力の原理」は、イデオロギー的なレベルでは、ヒエラルヒー的な差異化を正当化するものであるが、他方で、そうしたイデオロギーに包摂されたものとしての平等主義的な社会的実践が断固たる形で存在しており、こうした実践は(...)個々の居住単位の自給性の高さという要因によって強力な基盤を与えられている。こうした平等主義的な社会的実践は、筆者の理解によれば、「水平性の原理」とでも呼ぶべき、「マプーチェ的なハビトゥス」の第三の同一性原理に基づくものであると考えることができる。ただし、この同一性原理は、まさにイデオロギーによって包摂された領域に属するものであるがゆえに、行動のレベルでは明確に観察することができても、言説のレベルで見出すことはきわめて困難である。(...)それはただ、4.4.2.でみたように「想起の原理」と「力の原理」の中で間接的な形で表出することによってのみ、ある種の言説として認識されるような、見えにくい同一性原理なのである。

5章 反復と生成: 理論的考察

同一性から反復へ/反復と存在/反復と社会/反復と近代


(...) 「想起の原理」と「力の原理」の原理の人間的限界の問題に対する相異なる解決法は、両者を、それぞれ違った仕方で「反復」へと開いてゆくことになる。「想起の原理」は、いわば「高い」原理であって、人間に対して高い理想を求める、すなわち、超越的同一性そのものの実現を求めるものである。しかし、まさにそのために、同一性の実現は不可能な作業となってしまうのであって、それゆえ現実に人間が行う「想起」の中には様々な差異が入り込んで、結果としてそれは「反復」と化してしまう。他方、少なくとも地上界の人間に対してあまり大きな理想を押しつけない、いわば「低い」原理であるところの「力の原理」は、超越性の問題を未来に先送りすることによって、人間的限界とうまく折り合いをつける。しかしこの場合には、人間の反対物(¬人間)としての超越的同一性の定義があまりにルースであるため、そちらの側から差異が入り込んで、やはり「反復」と化してしまうのである。

(...) 6章と7章では、こうした「マプーチェ的なハビトゥス」に、さらに「チリ的なハビトゥス」が重なり合わさった中で生み出されてくるところの、今日のマプーチェの人々の社会的実践について扱うことになる。それらの実践が、同一性原理によっては把握することが困難な、「反復」の様相をますます強く帯びてくることは、言うまでもないであろう。それらを真に生成的な形で把握するためにも、今や、「反復」という現象がいかなる性質を持つものであるのかについて、根本的な検討を行うべき時である。

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(...) 自己と世界の間断なき変化と生成のプロセスにもかかわらず、我々の言語的及び身体的習慣は、つねに対象を同一的なものとして捉えようとする。こうした同一化は、ある範囲内では対象をうまく把握し続けるのであるが、ひとたび対象がその範囲を越えるや破綻をきたし、変化と生成に屈せざるをえない。(...)[眼前に急に何か物を突き付けられて目を閉じる」という1章の例について言えば] 突きつけられたものが手であったり、小さな棒切れであったりするなら、目を閉じるという同一の反応ですむのであるが、それがナイフである場合には、それを手や棒とは異なるものとして把握し、少なくとも自らの手で目を覆うという、新たな反応に出ることになる。出現したナイフが、通常の反応を行うべき範囲を越えていたために、身体的習慣は、現実の生成性に譲歩して、自ら新たな反応を生み出さざるをえなかったわけである。

(...) アリストテレスを念頭に置きつつ、キルケゴールは、「『非存在』でありながらそこに在るというようなそのような存在、これこそ可能性にほかならないのだ。そして、『存在』としてそこに在る存在は、まさに現実の存在であって、現実性にほかならない。とすれば生成の変化とは、可能性から現実性への移行なのである」と述べている。これを踏まえて言うなら、同一性として把握されるものの内には常に可能的なものが包まれているが、それは、同一性からの差異として認識されていない限りにおいては「非存在」に過ぎない。突きつけられるものが手であろうと棒であろうと、それがある程度以上の危険性の印を帯びていない限りにおいては、同一性にとって、非存在にすぎない。しかし、そこにナイフが現れるとき、手や棒からナイフが差異化されて、非存在から存在へ、可能性から現実性への、生成の変化が現れるのである。

(...) 生成の問題を正面から捉えるために必要なことは、もはや明らかだろう。それは、我々の考察を「現実性」の枠内に限定すること(そのために「可能性」は我々にとって不可視となり、生成はただ「変化」の局面においてしか把握できなくなる)をやめて、「現実性」と「可能性」が交流しあう全体に目を向けることである。この点で、哲学者G・ドゥルーズが、『差異と反復』において、現実を「同一性」とそこからの「変化」-あるいはそれに対する「矛盾」-として捉える弁証法的な枠組から脱出するという意図のもと、「反復」(repetition)の概念-及びそれと密接に関連するところの「差異」の概念-を提起し、それによって現実をその生成的全体性において把握する可能性を開いたことは、ここできわめて大きな意義をもってくる。実際、我々がふだん言語的・身体的習慣に従って同一的なものとして把握してしまうものは、この「反復」の概念によって捉え直してゆくことによって、同一性の枠から解き放たれ、我々はそこで、現実性と可能性の絶え間ない交流、反復と差異との絶え間ない交流に正面から向き合ってゆくことが可能になるのである。

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(...) 日常的な精神=身体の習慣が破綻した地平において、魂が「既に知っていた」はずの本質的なものが「想起」される、という考え方は、プラトン主義に限らず、一般にアルカイックな社会に多かれ少なかれ広く見いだされるものである。例えば、これまで何度も見てきたように、マプーチェの「想起」(konumpan)は、日常的な精神=身体の習慣が破綻したところに立ち現れてくる夢・幻覚・病気といった現象を契機とし、むき出しの現実と接触する中で、ある種の驚きと感動をもって、精神=身体と宇宙との「既に知っていた」調和を再発見する行為であった。もちろん、こうしたアルカイックな社会における一連の「想起説」は、それぞれ異なるものであり、例えば、無意識的=身体的現象を媒介とするコヌンパンと、論理的思考を媒介とするプラトン的想起との間には、本質的な相違が存在するといえる。しかしながら、エリアーデが示したように、多くのアルカイックな「想起説」は、真実が日常的な現実の彼岸にあるところの永遠の過去に由来するものであるとする点で、決定的な共通点を持っている。キルケゴールはプラトン主義を「異教徒的な人生観」と形容したが、この言葉は、従って、おそらく彼が意図したよりもずっと広い意味で理解することができるわけである。

(...) プラトン主義は、それぞれの人間が最初から真理を理解する能力を与えられていることを想定するために、その「想起」は、既に完成した真理を時間とは無関係に認識するという行為となってしまう。それゆえ、端的に言えば、それぞれの人間の生に特別な意味は存在しないことになってしまうのである。これに対してキルケゴールは、人生の中に「絶対に異質なもの」が現れて理性が動けなくなってしまう「瞬間」に、人間ははじめて永遠者(すなわち神)から真理を悟る能力を新たに受け取るのだと考える。だからこそ、キルケゴールにとって、「反復」は、単なる「認識」の問題ではなく、「人生」の問題であり、同時に、神の真理をわが身に引き受けること、すなわち「信仰」の問題でもあることになる。

(...) スペインの哲学者E・トリアスは、『未来の哲学』の中で、「想起」についてこのような角度から考察するためにきわめて重要な指摘を行っている。彼は言う。「記憶力は、現実的実体化に向かって上向する推進力を保持しており、そこから現在及び未来の方向性のための示唆を引き出してくる。(・・・) 記憶力とは、それが本来の記憶力である限り、未来を創造する能力なのだ」と述べる。これに対して、「記憶力の不在は、個人であろうと集合体であろうと、主体を、その『運命』の奴隷にする」。(...)再びトリアスを引こう。「主体が過去に向かってその記憶力を張りつめれば張りつめるほど、つまり、主体が自らの記憶力の働きを洗練・選択・明確化・検証すればするほど、新しいものに向かっての、詩的・言語的創造に向かっての、そして行動・言葉・生産におけるエロス的完遂に向かっての、『飛躍』が実現可能となる。そして、差異を含んだ持続のための、より大きな可能性が開けてくる」。

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(...)ヘーゲルはかつて、物事を分別して同一性を作り出す能力を悟性(Verstand)と呼び、この悟性によって捉えられた現象から抽出された一般性であるところの法則(Gesetz)が、一つの統合された「法則の静かな国」をなすと考えた。ヘーゲルは、古典力学によって認識される世界を念頭に置いてこの概念を提起したのであるが、(...) トリアスは、科学的認識の世界だけでなく、ある社会における認識と行動の領域全体(近代社会ではそれらは広義での科学と道徳の領域に当たる)に「法則の静かな国」の概念を拡張して、人間を取り巻く世界の全体を理解するための枠組にしようとする。

(...) トリアスが言うように、一般に「法則の静かな国」とは、ある宇宙論的イメージ(imagen cosmologica)のもとで、現実から非同一性、不安定性を除去しつつ構築された世界であり、それは現実をある観点から切りとったものに過ぎない。しかし、それがもつイデオロギー的な作用によって、トリアスが言うように、その中で生活する人々は、それを現実そのものと混同してしまうことが多い。「知的または道徳的構築物の『法則の静かな国』の内部で生きている人は、その構築物の宇宙を、唯一の可能な宇宙、つまり宇宙そのものとして理解する傾向がある。(...)その構築物は、自然で、自明で、常識に合った構築物となるのである」。(...) 2~4章において検討した「想起(コヌンパン)の原理」、「力の原理」、そして「水平性の原理」は、上のような意味での「法則の静かな国」を形成するものと考えることができる。つまりそこでは、「想起(コヌンパン)」、「力」、「水平性」が、頂上の宇宙論的イメージを形成し、それが日常生活及び儀礼生活の中の様々な法則や、現実の状況を扱う上での様々な規則を生み出しているのである。そのような意味で、2~4章の記述は、「マプーチェ的なハビトゥス」の世界におけるこれら三つの「法則の静かな国」の描写であるということができるであろう。

(...)「現実性」のぎりぎりの範囲内で思考を続けようとするブルデュー理論を逸脱することは、とりもなおさず、本質的に法則性・客観性の枠外にあるところの「可能性(=力)」の領域に足を踏み入れることであるからである。一言で言って、「現実性」についての学問的言説と「可能性」についての学問的言説は、ハイゼンベルクの意味で相補的である、といえるかもしれない。つまり、光について、それを波動として捉えるなら粒子としての側面が見えなくなり、また粒子として捉えれば波動としての側面が見えなくなってしまうのと同じように、「現実性」を把握しようとすれば「可能性(=力)」は見えなくなり、「可能性(=力)」を把握しようとすれば「現実性」は背景に退いてしまうと考えられるのである。この論文における筆者の立場は、いわば折衷的なものであって、ある程度は「現実性」の分析と記述を行いつつも、ブルデューのようにそうした「現実性」の社会的実践への拘束的な力について強調するのではなく、むしろ、「現実性」の背後に控えている「可能性(=力)」に注目してゆこうとする。それゆえ、(...) 筆者にとっての「ハビトゥス」は、一定の状況下では拘束的な力を持ちうるものでありつつ、しかし本質的には非一義的・複数的なものであり、そして、ブルデューが決して容認しないような「可能性(=力)」に向かって開かれたものなのである。

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(...) ベンヤミンは、こうして、反復の理論にとっても決定的な重要性をもつ一つの事実を指し示す。それは、我々がこれまで存在論的反復と呼んできた経験は、こうした近代的な経験の構造の中でのみその全貌(つまりキルケゴール的あるいはニーチェ的な反復を含めた全体)を把握することが可能になるものだということである。キルケゴールは、「反復と想起とは同一の運動である、ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって想起されるのである」と書いた。前近代的社会における存在論的反復の典型的な形態である「想起」(プラトン的な、あるいはマプーチェ的な)は、万物が照応し、個人的記憶と集合的記憶が交流しあうような調和的な宇宙においてなされるものであり、それは、たとえ驚きをともなうものであっても、ある必然性のもとで、完成された過去を志向する経験とならざるをえない。これに対して、すべての近代人は、サン・プルーとともに、「あらゆるものが時々刻々変わり」、「善いもの、悪いもの、美しいもの、醜いもの、真理、美徳、それらは局部的に、場所を限られて存在しているにすぎない」ことを知っているのであり、そこでは、万物照応の前提は近代社会の絶え間ない運動によって引き裂かれてしまっている。従って近代人は、「前方に向かって想起する」(つまり前に進みつつ後ろを振り返る)、というかなり逆説的な反復を行わざるをえないのである。(...) このような逆説的な行為を通して、近代人は、ある意味では、前近代の人々が持ち得なかったような原初的な経験を行う。なぜなら、近代社会の絶え間ない運動によって引き裂かれた宇宙は、「先史時代の息吹はなく、アウラもまだない」ような、「大地がむき出しの原始状態」の宇宙だからであり、従って存在論的反復は、それがこうした近代の時間性の中で行われる場合にのみ、言葉の真の意味で「赤裸々な体験」となりうるからである。

6章 今日の居留地: 多時間性と反復

居留地の政治経済/マプーチェとウインカ/存在論的ドラマ/アンブロシオの死


(...) チリにおける今日のマプーチェ居留地は、19世紀後半にチリ政府に屈服させられたマプーチェの人々が、1910年代頃までに政府から割り当てられたレドゥクシオン(reduccion)と呼ばれる一連の土地に起源をもつものである。(...) 居留地体制への移行は、当然、マプーチェ社会に深刻な影響をもたらした。第一に、かつて広大な土地で粗放的な牧畜を行っていた彼らは、突如、各レドゥクシオンにつき100ha前後の土地の中で集約的な農耕と牧畜を行わねばならなくなった。こうした状況は、彼らに、チリ社会の生産技術を早急に吸収して全く新たな生業形態を樹立することを強いるものであった。第二に、チリ国家の政治・経済体制に組み込まれたことによって、人々は、居留地をとりまくチリ社会と人的・物質的・文化的レベルにおける接触を継続的に行うことがもはや避けられなくなった。居留地体制の中のマプーチェ社会はこうして、かつてとは大いに異なり、つねに周囲のチリ社会の圧力に抵抗しつつ自らを規定する社会として構成されることになった。第三に、居留地の体制への移行は、居留地内部の政治構造にも大きな影響をもたらした。とりわけ、居留地の認定は拡大家族の家長に対して行われたため、以後のマプーチェ社会は、階層化への力が大きくそぎ落とされた、きわめて水平的な社会となってゆく。

(...) 今日カラフケン湖西北部地域の居留地に住む人々は、居留地体制下でこうして再編成された「マプーチェ的なハビトゥス」と、それを外側から覆う「チリ的なハビトゥス」が交錯する中でその生活を営んでいる。そして後者は、スペイン語の日常的使用という事実にもみられるように、彼らの内面にまで深く侵入してきている。学校教育の浸透(カラフケン湖西北部地域の居留地内には数校の小学校が設けられている)は、そうした彼らの精神面における変化に関する一つの指標とみることができる(...)。現在の居留地社会を取り巻く様々な要因は、教育水準をさらに向上させてゆく傾向にあり、こうしたことは、彼らの内面をますます変容させつつあるということができるだろう。

(...) J・ベンゴアとE・バレンスエラは、マプーチェの経済に関するその優れた著作の中で、[1981年の調査に基づき]居留地のマプーチェの実質収入の平均的構成を示している。(...) まず気がつくのは、農業と牧畜が彼らの生業活動の二つの柱であり、しかも、農業が自家消費に片寄っているのに対して、牧畜は市場経済に片寄っているというという顕著な傾向が見出されることである。このような一般的傾向は、実は、歴史的な視点に立てば容易に理解することができる(...) マプーチェは17世紀以来ずっと、牛や馬などの牧畜を行ってこれをスペイン人に売るという活動を行ってきているのであって、(...) 農業が自家消費的で牧畜が市場志向的であるというのは、数百年間続いてきたパターンの継続なのである。。そのような意味でむしろ注目されるのは、給与収入が13.7%に上っているという事実である。19世紀末まで、広大な土地を占有していたマプーチェは、そこで飼育していた家畜を売るだけですべての必要な現金収入を得ることができた。しかし、「平定」後の居留地認定の際、彼らはかつての土地の約8/9を奪われた上、その後の人口増加に伴った土地の細分化によって、各世帯の所有地は更におよそ1/4(つまり統合前の1/36)にまで縮小している。今日の彼らは、牧畜のために十分な土地はもはや持っていないのであり、それゆえに近くの農園で働いたり、首都サンティアゴやアルゼンチンに出稼ぎに行って現金収入を補完しなければならないところにまで追い込まれている。そして、準原生林がまだ残っているカラフケン湖西北部地域の一部では、樹木を伐採して安価で売り出し、一時しのぎの現金収入を得る、などということも行われている。

(...) シュヴァリエのモデルを念頭に置きつつ[J. M. Chevalier, Civilization and the Stolen Gift]、ベンゴアとバレンスエラによる居留地のマプーチェの収入の平均的構成に関する統計に戻ってみよう。筆者の理解によれば、この統計は、居留地の人々の経済生活の中に、シュヴァリエのいう「非商品生産」、「単純商品生産」、「賃労働」という3つの生産形式が共存していることを示すものである。ここで、「非商品生産」は、基本的には、上記の表における「農産物による収入」の部分に、また「単純商品生産」は「畜産物による収入」と「民芸品・採集物など」の部分に、そして「賃労働」は当然ながら「給与収入」の部分に相当すると考えられる。(...) 居留地のこうした経済構造は、いうまでもなく、そこにおける社会的実践全体の構造と不可分に結びあうものである。明らかに、「非商品生産」は「マプーチェ的なハビトゥス」の経済的側面を表現するものであるし、また「賃労働」は「チリ的なハビトゥス」の経済的側面を表現するものである。それでは、「単純商品生産」は何に対応するのだろうか。次第に明らかにしてゆくように、実は、今日の居留地の社会的実践の中には、「マプーチェ的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」のどちらにも完全に属さない、いわば「中間的なハビトゥス」とでも呼ぶべき両生類的なハビトゥスの働きが見出されるのであって、「単純商品生産」は、この「中間的なハビトゥス」の経済的側面を表すものとみることができるのである。

(...) 多くの論者は、市場経済の浸透によって前近代的社会はほとんど自動的に解体され、資本主義経済に統合されるとの見方をしていたが、世界各地で繰り広げられた現実のプロセスは、それほど単純なものではなかった。マプーチェの場合でも、人々は、牧畜の活動を通じてかなり昔から市場経済にある程度親しみ、そして今世紀を通じてさらに本格的に市場経済と接触してきたにもかかわらず、既にみたように、彼らの経済生活には今日も依然として多くの非資本主義的な部分が存在しているのである。C・スミスは、グァテマラの民芸品製作者の経済に関するデータを踏まえつつ、市場経済の階級分離的な力は、ひとたび労働者が生産手段から切り離された後にはじめて発揮されるのであって、自然な条件下では(例えば政府による介入などが行われない場合には)、非資本主義的な生産形式が資本主義的生産形式によって駆逐されることはない、と論じているが(...)、その主張には確かに首肯しうるものがある。

ただ、問題はおそらく、スミスのいう「政府による介入」というものが、スミスが例として挙げるエンクロージャーのような暴力的な手段ではなくて、居留地体制成立後のチリ政府が行ったような「合法的」で、ある意味で「人道的」でさえある諸手段を通じても、かなりの部分なされうるものだということである。つまり、例えば、チリ国家の法規の定める医療面での補助のおかげで、マプーチェ居留地における人口は急速に増大し、しかし他方で居留地の土地を拡大することは不可能であるため、結果として居留地が閉鎖的な経済を営むことはますます不可能になってきている。また、やはりチリ国家の法規に従う最低限の学校制度の普及によって、人々の内面もまた、次第に資本主義的・近代的時間性に向かって開かれてゆくことになる。そして、こうした一連の事柄は、現金収入の必要性の増大、都市への移住の増大を生み、全体として居留地の内と外との人的・物的・文化的交流をますます増大させてゆく。一言でいうなら、マプーチェ居留地がチリ国家の政治経済的枠組の内にある以上は、暴力的どころか、ある意味で模範的とさえいえるような政府の政策が、間接的な形で居留地の経済を資本主義化に向かわせる圧力として働かざるをえない、ということであり、それゆえに、スミスの見解の正当性を認めたうえでなお、マプーチェ居留地において、資本主義的時間性が今後さらに深く浸透してゆくことは、ほとんど避けることができない事態であると考えられるのである。もちろんこのことは、マプーチェ的時間性が完全に払拭されることとは、必ずしも同義ではないのであるが。

***

(...) カラフケン湖西北部地域の今日のマプーチェは、居留地においても、時には靴を履き、時には裸足で歩く。子供たちは時にはサッカーで遊び、時にはパリン(マプーチェ式ホッケー)をする。町で買ってきたパンを食べるかと思うと、小麦をトーストして砕いた、昔ながらのムルケ粉をおいしそうに食べる。普段は古びた洋服を着ているが、雨がちの日にはその上にポンチョを着る。多くの家庭で大抵の会話はスペイン語でなされるが、老人がいるときや形式ばった会話ではマプーチェ語が使われる。人々の日常生活においては、このようにして、マプーチェ的なものとウインカ的なものが様々な形で混じり合っており、その混じり合いが、いわば彼らの生活の基本的なスタイルとなっている。状況に応じてマプーチェのものやウインカのものを様々に取り混ぜて用いるという行動の様式は、ちょうど、状況に応じて商品を自家消費したり市場に販売したりする「単純商品生産」の生産様式と同様に、彼らの間で、既に一つの安定した習慣となっているのである。

(...) こうした「中間的なハビトゥス」において、マプーチェ的なものとウインカ的なものがいかに自然な形で共存しているかは、例えば、人々の墓との関係をみるならばよく理解することができる。かつて、マプーチェの墓には、マプーチェ式十字架が一本立てられていただけであったが、今日では、大半の人々の墓は、周囲のチリ人たちのそれと同様、木製の小ぎれいな枠で囲われたものとなっており(しばしば屋根をつける)、墓標には「ここに○○の遺体静かに眠る」などとスペイン語で書かれている。人々は、カトリックの習慣に倣って、毎年11月1日(諸聖人の日)または11月2日(死者の日)に墓参りを行い、自分の親族の墓にロウソクを立てて花を飾る。しかしながら、彼らが死者に向かって祈りを捧げる瞬間、こうした一見チリ的な実践の内奥に隠れていたもう一つの現実が表出することになる。すなわち、彼らは、墓にロウソクと花を飾ったあと、瓶に入れて持参していたムシャイ酒を取り出し、それを墓に向かって「霧化」しながら、マプーチェ語で、大きな声をあげてニヤトゥンの祈りを行うのである。つけ加えるなら、人々が墓地に入る機会はこれ以外にもう一度だけあるが、それはカマリクンの時の「墓地への挨拶」であって、この時には、墓地はきわめて濃厚にマプーチェ的な空間と化すことになる。

(...) それでは、「法則の静かな国」としての「中間的なハビトゥス」の宇宙論的イメージとは、いかなるものであろうか。実際、「中間的なハビトゥス」は、何らかの宇宙論的イメージを持つことによってはじめて、「マプーチェ的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」の一時的な混合ではなく、一つの安定した構造をもった「法則の静かな国」として成立しうるはずである。筆者の理解によれば、この両生類的な「法則の静かな国」の宇宙論的イメージは、次に述べるように、この地域で布教活動を行ったカトリックのカプチン修道会によるマプーチェの宗教の「再解釈」を、マプーチェの人々がさらにもう一度「再解釈」し直すなかで形成されたものである。

(...) 「湖」の祈り手は、マプーチェの洪水神話(cf.1.3.3.2.)について筆者に説明する中で、次のように述べた。マプーチェの伝承は、洪水によって人間たちが罰せられたとき、ツェンツェンの丘が天に向かって伸びて行くことによって、そこにあらかじめ避難していた信心者が救われた、と教えている。私は、聖書の中に、やはり同じように洪水があって、信心者のノアが箱船がに乗って助かったという話があるのを知っている。おそらく、天上の神は、それぞれの地方で、それぞれの仕方で、信心者を救ったのだろう。だから、マプーチェにとってのツェンツェンの丘というのは、聖書のノアの箱船と同じようなものなのだ。 (...) 例はほかにいくつも挙げることができる。これら一連のコメントに共通しているのは、天上の神はそれぞれの集団にそれぞれの教えを与えたのであって、マプーチェとウインカは様々な点でお互いに異なってはいるが、究極的には同じ神を信じているのだ、という、いわばエキュメニカルな宇宙論的イメージである。

(...) これらの[カプチン修道会の]神父たちは、もちろん、マプーチェの儀礼を廃止してキリスト教に導いてゆくことを究極的な方針としていたが、そのための経路として、しばしば、マプーチェの宗教を旧約聖書におけるユダヤ教と同類のものとみなすという立場をとった 。 居留地体制に組み込まれる中で、ますます勢力を拡大してきたキリスト教と、自分たちの宗教的実践との矛盾の中で大きく動揺していたと考えられる今世紀前半のマプーチェたちにとって、この説明は、きわめて好都合なものであっただろう。そして、カプチン会神父たちにとって皮肉なことに、おそらく大半のマプーチェはユダヤ教とキリスト教の区別など理解しなかったから、ユダヤ教からキリスト教への進展と同じようにしてマプーチェの宗教からキリスト教へと進まねばならない、という神父たちの複雑な論理は、彼らの耳には届かなかったと考えられる。彼らは逆に、神父たちの説明を通じて、つきつめればマプーチェの宗教はキリスト教(ユダヤ教ではなく)の一つのヴァリアントなのだ、だから、キリスト教は敬意を払うべき宗教ではあるが、同時にマプーチェの宗教もまた正しい宗教なのだ、というふうに理解したのだろう。そして、彼らの境遇を見事に説明してくれるこの理論は、きわめて容易に、マプーチェの人々の間に浸透していったのだと考えられる。

(...) しかし、人々がこの「中間的なハビトゥス」によって完全に満足しているわけではない。それは、本質的に「中間的な」ものである以上、マプーチェの人々にとって、彼らの存在の究極的な拠り所を与えてくれるものにはならないのである。それゆえ、完全にウインカになることもできない彼ら(少なくとも彼らの大半)は、どこかで最終的に「マプーチェ的なもの」に寄りかからざるをえない。そしてそこに、「マプーチェ的なハビトゥス」が存続する意義が生まれてくる。

(...) ところで、ここで注目すべきことは、「マプーチェ的なハビトゥス」の方も、本来的に「中間的なハビトゥス」のようなものをある程度許容するものだということである。なぜなら、2.3.でみたように、「想起の原理」によれば、地上界における天上界の秩序の模倣は、基本的に不完全なものであって、それゆえ、地上の人間がマプーチェ的な論理に完全に従わないで行動することは、ある範囲内では不可避なことだからである。この点で特に注目されるのは、2.3.4.でみた秩序の周期的回復という論理であって、つまり、地上界の秩序は時間と共に次第に零落してゆく傾向にあるが、神の意志の反映のもとに、ある時点で再び最初の状態が回帰する、ということである。このような秩序の回帰のきっかけは、非常にしばしば、家族の病気や不幸といった事件の中で生まれてくる。この点は 6.3.で詳細に検討することになるが、結論的に言えば、家族の病気や不幸という事態を前にして、こういうことになったのは、自分がふだんマプーチェ的な伝統を守ってこなかったからではないか、ウインカ的なものに知らず知らずのうちに傾いてしまったからではないか、という考えが彼らの脳裏を駆けめぐる。(...)

***

(...) 「想起の原理」に基づく天上界の模倣は、2.3.3.で述べたように、完全なものではありえず、人間は常に過ちを犯す危険にさらされている。そして、神や精霊を相手に、「過ちを犯す」(yafkan)、「間違ったことを言う」(weludungun)、あるいは「間違ったことを行う」(welutrekan)ことは、その報いとして自らの死をも招きかねない、たいへん危険なものと考えられている。(...) このような一見些細にみえる「過ち」が、何故これほど重大な結果を招くと考えられるのであろうか。それは、神や精霊たちは、自分が忘れられたり粗末に扱われたりすることにひどく腹を立てると考えられているからである。このマプーチェ的な「過ち」の概念は、基本的には、道徳性とは無関係なものである。(...) マプーチェの神や精霊にとって、「過ち」は情状酌量の余地なく「過ち」なのであって、一度犯されてしまった以上は罰を免れる余地はないものだということである。マプーチェの神や精霊は、マプーチェの人々自身と同様に)、自らが軽んじられることを極度に嫌う存在であり、彼らに対する「過ち」の重大さは、基本的には、その行為の動機とは関係ないのである。

(...) 今日の居留地に住む人々は、「マプーチェ的なハビトゥス」と「中間的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」が隣合わせに共存する多時間的な世界に生きており、そのどれを欠くこともできない。このような状況は、日常生活においてはそれほど不都合を感じさせないにせよ、根本のところで人々をどこか落ち着かなくさせるものである。そうした不安は、自らの存在を揺さぶられるような何らかの出来事を機に、人々の中に表面化してくるのであるが、「過ち」の概念は、まさにそうした局面において、一つの強力な説明原理として機能することになる。『マプーチェたるもの、ウインカの物事にあまりに首を突っ込むならば、過ちの連鎖に捕らわれて、いずれ悲惨な結末を招くことになってしまう』...

(...) こうして、多時間的混在を生きる彼らの中では、ある種の、かなり強制的な伝統維持の心理的メカニズムが成立していることが明らかになってくる。つまり、マプーチェ的な時間性とウインカ的な(様々な)時間性との間で引き裂かれたマプーチェの人々の内面は、潜在的な存在論的不安に囚われており、それがしばしば、伝統的な「過ち」の概念によって決定的な形を与えられることになる。その結果彼らは、ある面において、自分はマプーチェの神や精霊に対して何か重大な「過ち」を犯してしまったのではないか、という不安にいつも駆られながら、日々の生活を送ることになるのであり、それがマプーチェ的な伝統を彼らに維持させる強い推進力となっているのである。今日のカラフケン湖西北部地域において、マプーチェ語の使用を含め、日常生活の中でマプーチェ的なものがますますウインカ的なものに浸食されつつあるにもかかわらず、3.2.でみたような複雑きわまりないカマリクン儀礼が現在も維持されていることは、もちろん、こうした罰への恐怖感と無関係ではありえないだろう。

(...) 古典学者E・R・ドッズは、『ギリシア人と非理性』の中で、ホメーロス的な世界(前8世紀以前)からアルカイック期のギリシア(前7~5世紀)にかけての宗教的変容について論じている(Dodds 1963[1951]:1-63)。ドッズによれば、ホメーロスの英雄たちの行動は、神々の力によって支配されていたが、そうした介入は神々の気まぐれに基づくものであって、そこに道徳的な意味合いはなかった。しかし、前7~6世紀のギリシアの政治経済的激動の中で、より道徳的な性質をもった「罪の文化」とでもいうべきものが生まれていったのである。ここで考察してみたいのは、マプーチェ社会を取り巻く今日の状況が、ある意味でこれと類似した方向での宗教的変容をもたらしつつあるのではないか、ということである。

(...) 「過ち」という行為の持つ意味の変化は、この点を明確に示すものである。6.3.1.でみたように、マプーチェにとって、人間がそもそも「過ち」を犯すのは、良からぬ精霊に支配された結果、神や精霊を立腹させるような行動を起こしてしまうからであった。つまり、論理的に言えば、「過ち」を犯している際に本人は主体的にそれを行っているのではなく、悪霊に支配されているのだということになる。しかし今日、人々の生活の中にウインカの物事が全面的に侵入し、「過ち」を犯すことがマプーチェの物事をおろそかにすることと事実上同義になってきているという状況は、人々の「過ち」についての考えにも微妙に影響を与えてきているということができる。なぜなら、こうした状況の中では、マプーチェの物事を尊重し続けるか否かは、悪霊の支配に関わる問題というより、何よりも個人の主体的選択と関わった問題であることは、誰の目にも明らかだからである。

(...) このことはおそらく、次の印象的な事実と無関係ではないだろう。つまり、今日のマプーチェの人々の間では、「過ち」(yafkan)という言葉に代わって、スペイン語からの借用語である「罰」(castigo)という言葉がより多く用いられるようになってきているのである*46。例えば、事例50の若者の言葉を思い起こそう。「マプーチェである以上は、ウインカに染まりすぎれば罰を受けることは避けられない。僕はそのことを身をもって知っている」。彼は、居留地の外で、ウインカの人々と一緒に賃金労働に従事する中でも、そうした生活がマプーチェとして正しいものではないという負い目をどこかで持っている。それは、悪霊の影響で心ならずも犯してしまう「過ち」とはほど遠いものであり、確かに、「罰」という言葉こそが、彼のこうした負い目を最もよく表現してくれるものなのである。

(...) もちろん、居留地の中で暮らしているマプーチェの人々にとっても、事情はそれほどかわらない。彼らは、日々の生活の中で、それが必ずしも祖先の教えと合致するものでないことを知りつつも、「中間的なハビトゥス」や「チリ的なハビトゥス」に従って行動をせざるをえない。「草原」のあるマプーチェは、様々な人の被った罰について話していた時、筆者に向かって次のように言った。「私たちは、誰一人例外なく、何らかの罰を背負って生きているのです。私たちの生活はウインカの物事だらけになってしまっているから、これはもう避けようがないのです」。リクールは、罰が予期され、内化され、あらかじめ意識の上にのしかかってくるような状態を、罪性(culpabilite)として捉えている(Ricoeur 1988[1960]:256)。マプーチェの人々にとっての「罰」もまた、今や、「予期され、内化され、あらかじめ意識の上にのしかかってくる」ようなものになっていることは、疑い得ない事実なのである。

(...) 伝統的な宗教的実践が袋小路に入り込む中で、もし「湖」の祈り手のようにほとんど英雄的な伝統主義を奉じるのでないならば(しかし、事例49のマヌエルのように、無知ゆえにすぐに過ちを犯してしまう大半のマプーチェにとっては、こうした伝統主義はしばしば自殺行為と化してしまう)、何らかの形でマプーチェの宗教体系自体の改変を求めてゆかない限り、未来は完全に閉ざされてしまう。そのような意味で、セバスティアン(事例5)による精霊信仰の批判、アントニオ(事例52)とパブロ(事例53)によるプロテスタントへの改宗は、確かに、このような状況の中から何とか出口を見出そうとする試みとして理解することができるものである。

***

(...) 1950年代から60年代にかけての時代は、カラフケン湖西北部地域全体において、旧来の信仰体系が大きく揺さぶられたと考えられる時期だからである。事実、儀礼場に悪霊が住んでいるので「掃除」しなければならない、というような騒ぎは、この時期に、「丘」だけでなく「草原」でも起こっているし、また、「川」では、それより少し前から、「青い少女」の住処であるところのコナ・タフの丘に悪霊が住んでいるとする見方が広まっている(6.3.1.の事例45を参照)。さて、こうした動きが発生していた1950年代から60年代にかけての時期に、「丘」で、パンギプジのカプチン修道会の後押しのもとに、礼拝堂ができ、学校ができているのは、明らかに偶然の一致ではない。カプチン会は、一方で、6.2.2.2.でみたようなエキュメニカルなマプーチェの宗教の解釈を広めつつ、他方では、そうしたマプーチェの宗教の中のとりわけ精霊信仰あるいは祖霊信仰の部分を除去し、最終的にカトリックのミサに人々を導いてゆくことを目指していたのであった。

(...) こうして、「丘」の儀礼場を「掃除」し、別の儀礼場を作る、という、あたかも純粋にマプーチェ的な物事の領域で起こったかのようにみえる事件は、実は、カラフケン湖西北部地域への「中間的なハビトゥス」・「チリ的なハビトゥス」の浸透という歴史的なプロセスの中で生起したと考えることができる。「文明化」の担い手であったアンブロシオが、「丘」の人々が犯したこの一連の「過ち」に自ら関与したのも、その意味では当然のことであったのである。彼らは、周囲のチリ社会と折り合いをつけながら暮らして行くことが不可避となってくるなかで、読み書きを学ぶことは不可欠であり、またそうしたマプーチェの必要に答えようとしていた唯一の集団がカプチン会のミッションであった以上、彼らと手を結んでゆく以外には方法はなかった。しかし、そうした形でウインカの物事を導入してゆくことは、知らず知らずの内にマプーチェの物事を扱う彼らの思考と行動にも影響を与えてゆく。ここまでくれば明白なように、儀礼場をめぐる「丘」の人々の「過ち」の構造は、6.4.2.でみた、祈り手を務めるように求められた時のアンブロシオの「過ち」の構造と完全な同型をなすものであり、それは、今日のマプーチェの人々が抱えている、存在の条件の根源的矛盾を表現するものである。アンブロシオと「丘」の人々は、今日の状況の中での自らの生活を何とか改善するために、「文明化」を行ってゆこうとする。そしてそれは、他方で、ほとんど不可避的に、マプーチェの神と精霊を怒らせる行動へと彼らを導いてしまうのである。

(...) 「一体、神は何故マプーチェなどというものをお造りになったのだろうか?」というマルガリータの言葉、また、「しかしお前は、祈り手になる運命にあるのだから、それに逆らうこともまた危険なのだ」というホベルに対するイリスメニアの言葉が、どこかギリシア悲劇を想起させるような響きを含んでいることは、まさにこのような角度から理解することができるだろう。リクールは、「悲劇(tragedie)とは、『悪意ある神』(dieu mechant)と『英雄』(heros)という二重の問題性を、破綻の地点にまで高揚させるなかで生まれるものである」と述べている。マプーチェの人々が、今日の彼らの存在の条件の中で、いつも自らの犯した「過ち」に苛まれる運命にあることに気付くとき、彼らの神はほとんど「悪意ある神」であるかのようにもみえてくる。しかし、彼らは、そうした運命の中で、自分にできる限りのことを行う以外にないのである。神の怒りを買う危険を犯しながらも、「丘」に学校を作って村人たちに読み書きを広めようとしたアンブロシオ、そしてその遠い結末として、長い間病床に伏した末に息を引き取ったアンブロシオの姿には、確かに、どこか「英雄」的なものが漂っているということができよう。それはあたかも、ゼウスの怒りを買う危険を犯しながら人間に火と文明をもたらし、その結果として岩山に縛り付けられた、アイスキュロスの描くプロメテウスのようであると言えば、誇張になるであろうか。

(...) しかし結局は、アンブロシオは一人の人間であって、プロメテウスのような英雄ではない。プロメテウスが本質的に自発的かつ積極的な行為として火と文明を人間にもたらし、そして悲劇的な運命を甘受したとすれば、アンブロシオが「丘」に学校と文明をもたらした行為は、今日の状況になんとか適応するための、ある意味で受動的な行為に過ぎず、そこに勇敢さはあっても、プロメテウスのような偉大さは存在しない。一言でいえば、アンブロシオの悲劇には、ニーチェがかつてギリシア悲劇の中に見出したような「喜び」と「自己肯定」が、ほとんど欠けている。そして、それゆえに、このマプーチェ的な悲劇のあとには、ただ重苦しさだけが残るのである。

7章 未来への展望~結論 

都市へ/未来への展望/結論:歴史的哲学としての民族誌


(...) チリの人類学者C・ムニサガは、1960年代初頭、(...)当時大挙して首都サンティアゴに押し寄せ始めたマプーチェ移民の生活ぶりを描写した。そこで彼が、G・バランディエの影響を受けつつ、「移行的」構造と呼んだものは、1990年代のマプーチェ移民たちにとっても依然として意味をもち続けている。ムニサガは、この「移行的」構造を、パーソナルな人間関係と具体的な思考様式が支配する田舎から出てきた先住民たちが、インパーソナルな環境と抽象的な思考様式の支配する都市生活に適応する際の媒介的メカニズムであると規定し、そのいくつかの形態を検討する。(...) 特に注目に値するのは、マプーチェ系住民集中居住地区の空間、そして移民が多く集まる公園や飲み屋、ダンスホールの空間などである。 (...) 実は、それらは単に居留地から都市への移行という意味のみにおいて「移行的」であるのではない。ムニサガは、これらの場所に集まる人々の多くが、一般に、教育程度が低く、若く、そして居留地からサンティアゴに出てきたばかりの人々から構成されていること、そして、より高い教育を受けた人々や、滞在期間の長い人々、あるいは結婚して身を落ちつけた人々は、あまりこうした場所に来ないことを示唆している。これらの場所は、彼らが一生のあいだ通うような場所では決してないのである。

(...) ここで、ムニサガが1960年に刊行したある19歳のマプーチェ勤労学生の手記をみることにしよう。この青年は、カウティン県海岸部の居留地の出身であり、南部の地方都市ヌエバ・インペリアルで初等教育の後半から中等教育の半ばまでを受けたあと、サンティアゴにやって来て、師範学校への入学を目指して働きながら夜間高校に通う学生であった。(...) 彼はこのように、一連の新たな「理解」あるいは「自覚」の経験を通じて、物事を知性化して理解する習慣を獲得するとともに、たえず進歩を遂げて未来を切り開いてゆくという、近代的で都市的な精神を身につけてゆく。しかし、彼はそのことで、マプーチェ的な世界とのつながりを失ってしまうわけではない。彼は、自分の結婚の相手は「私の階層の理想の女性」であって、マプーチェでなければならないと考える。「他の道(つまりマプーチェ以外の女性と結婚すること)もまた開かれているが、それは私が通ることができない、なじみのない道である。私はそうした人に信頼感をもつことができないし、何よりその人の私生活を知ることができない」。彼の夢は、「わがマプーチェ民族に完全な教育を導入すること、私が所属する村の中に、知の輝ける道の新しいルートを開くこと」である。「私は、自分の考える新しい方法に基づいて、ある文化的計画を広く発展させることになるだろう」。ここで、ムニサガが正しく指摘するように、この青年がマプーチェという民族と自らの村に対して抱いている強い帰属意識が、それ自体高度に知性化されたものであることは注目に値する。マプーチェの女性を結婚相手と決めていることにしても、彼は、一度他の可能性を考え、その問題点を彼なりに把握した上で、そうした結論に至るのである。つまり、彼の「マプーチェ」としての自己意識は、あくまでも、一度都市的な精神性を経由した上で再構成されたものだということができる。

この青年の思考様式に類似したものは、多くの教育あるマプーチェの若者たちの間に見出すことができる。そして、こうした人々は、「マプーチェ」(...) としての強い自己意識に基づいて、都市を舞台とした、政治的あるいは文化的な目的をもったマプーチェ民族組織の活動に、積極的に参加してゆくのである。しかし他方で、都市に出てきた全てのマプーチェがこのような思考様式に至るのではもちろんない。ムニサガは、1961年の論文で、こうした民族組織の中核を担ってゆく知識層のマプーチェと、キンタ・ノルマル公園や飲み屋、ダンスホールに好んで通うタイプのマプーチェたちとの間には、明らかに大きな落差があり、後者のマプーチェたちが民族運動に加わっても、両者の間のコミュニケーションには重大な問題が生じていること、民族運動の担い手たちが「大衆の無理解」を嘆いていることを指摘している。そして時には、まだ伝統的な精神性を強く保持しているこうした下層のマプーチェたちよりも、むしろ都市的な精神性を身につけた知識層のマプーチェのほうがより深い孤立感に苛まれるという皮肉な事態も生じてくることになるのである。

(...) 1960年代の初頭にムニサガが見出した「移行的」メカニズムは、現在も顕在的・潜在的な様々な形で、依然機能し続けているであろう。しかし、都市に住むマプーチェの人々が今日、全体として、かつてよりもはるかに都市化した精神性を備えるようになってきていることも事実なのである。こうしたことは、他方で、先にみたようなマプーチェの民族組織における知識層と大衆層の分離が、かつてほど深刻なものでなくなってきていることをも意味するはずである。事実、モンテシーノが指摘するように、今日のマプーチェの民族組織は、しばしば、労働者層のマプーチェ(もちろんそのごく一部に過ぎないであろうが)にとっても重要な精神的支柱となり、またそうした人々の積極的な参加によって支えられるようにもなってきている。そしてそのような中で、彼らが、都市的な精神性の中で、マプーチェ的な伝統を再創造するというような可能性も、確実に生まれてきているのである。

(...) 1989年3月、サンティアゴのマプーチェ民族組織の一つは、初めて、首都のマプーチェ移民たちを中心的な参加者として、市内の一角でニヤトゥン儀礼を行った。これに参加したマプーチェ女性G・リェンピの記録は、サンティアゴに住むマプーチェたちが今日、いかなる形で自らの伝統を捉えているかを鮮やかに示してくれる。(..) ここで、7.1.1.2.で引いたジンメルの言葉を思い起こしておくのは、たぶん無駄ではないだろう。「近代一般の本質は心理主義であって、それは (・・・) 実際は内的世界として世界を体験し解釈するのであり、堅固な内容を魂の流動的な諸要素へ解体する」。首都サンティアゴでのリェンピのニヤトゥンの体験は、そのきわめて重要な部分において、彼女の内的世界における自らの伝統の体験であり、解釈である。そして、居留地でのニヤトゥン儀礼のもつ堅固な具体的規則(例えば儀礼場は他の用途をもってはならないこと)は、そこでは、魂の流動的な諸要素の中に溶解している。このニヤトゥン儀礼をこうした形で体験した人は、もちろん彼女だけではなかっただろう。その意味で、このニヤトゥン儀礼は、正確にいうならば、伝統的な儀礼の近代的な再創造としての意味を強く持ったものであったということができるだろう。

(...) しかし、こうした大都会におけるニヤトゥン儀礼の経験が、マプーチェ移民たちにとって完全に内面化された経験となっていると考えるのは、少し早計である。都会での第二世代はともかくとして、少なくとも居留地で生まれ育ったマプーチェたちは、たとえ長い間都市生活を続けていたとしても、その身体的記憶の奥底に依然として「マプーチェ的なハビトゥス」や「中間的なハビトゥス」を眠らせているのであって、そうした埋もれたハビトゥスが、何らかの機会に再活性化してくるということは大いにありうることである。

***

(…) 7.2.2.では、4人のマプーチェ民族運動の指導者の言動を検討しながら、主に都市を基盤として運動を繰り広げた彼らが、彼らの内外に展開する「マプーチェ的なハビトゥス」(及び「中間的なハビトゥス」)と「チリ的なハビトゥス」とをいかにエラボレートして、思索と行動とに結晶化していったかをみた。それらは、この論文の枠組に沿って言うならば、本質的に異種混淆的な状況の中で、現在の社会的状況を脱し(つまり現在において支配的な精神的反復のパターンを脱して)、未来への新たな方向性を見出そうと試みる、今世紀のマプーチェの人々による存在論的反復のいくつかの表出であるということができるであろう。

(…) さて、マンキレフ、アブルト、コニュエパン、パイネマルの4人による未来のマプーチェに向けてのヴィジョンは、全体として、「マプーチェ的なもの」と「チリ的なもの」とが形成しうる異種混淆的な関係についての、一つのきわめて示唆的な構図を描き出している。民族運動の第一世代に属するマンキレフとアブルトに共通するのは、両者のうちの一方を高度に強調する傾向である。マンキレフは、「チリ的なもの」への完全な同化を目指し、その思考の枠組に基づいて、断絶された過去としての「マプーチェ的なもの」を分析した。アブルトにおいては、両者の間のより生産的な対話がなされているが、彼が最終的に向かうところはきわめてマプーチェ的な世界であって、「チリ的なもの」については、その様々な要素が断片的に接ぎ木されているという印象を否めない。これに対して、第二世代のコニュエパンとパイネマルにおいては、「マプーチェ的なもの」と「チリ的なもの」の間の、より混淆した関係がみられる。行動の人コニュエパンは、マプーチェ的な伝統とチリ的な教養の双方に精通し、双方を十二分に駆使したが、それらは彼の中で一つの首尾一貫した思想体系を構成せず、むしろ様々な矛盾をはらみながら共存していた。他方、パイネマルにおいては、「マプーチェ的なもの」と「チリ的なもの」との独自な融合が見られたが、それはこの両者を、それぞれかなり自分流に変形した上で作り上げられたものであった。

(…) 彼らの時代からさらに多くの年月が経過した今日、少なくとも幾人かのマプーチェたちは、もし筆者の理解が正しいなら、それぞれのやり方で、4人の民族運動家たちよりもさらに遠くに行くことに成功している。そうした新しい実践の一端として、二人のマプーチェ出身の神父による神学的考察と、ある若きマプーチェの詩人の作品とを、次に検討することにしよう。一言で述べるなら、これらの新世代の人々をかつての指導者たちから区別しているのは、彼らが「チリ的なハビトゥス」をはるかに深く、そして杓子定規でない形で把握し、そうした角度から「マプーチェ的なハビトゥス」との新たな関係の可能性を模索しているということである。

(…) マプーチェとして初のカプチン会士になったアルカマン神父は、1956年に叙階されており、(…)マプーチェの人々の間で司牧活動に加わるうちに、マプーチェの文化、とりわけその宗教性について、真正面から考える必要を痛感するようになった。アルカマン神父は、そうした理由から、バルディビア市のアウストラル大学で人類学を勉強し、「マプーチェの考えを理解するには、自分の今までの考えを全て忘れて、白紙の状態から出発しなければならない」ことを学んだ、という。(…) アルカマン神父は、マプーチェに対する神の啓示とは、現在のマプーチェ文化を踏まえ、それをさらに一歩深い宗教性に向かって導くような形で与えられるはずのものだと考える。

「マプーチェが、伝統によって構造化され強化されているところの文化的枠組を脱することは、自己の消滅という重大な危険を冒さない限り、不可能である。(・・・) 真に力強く効果的な福音伝道は、マプーチェ文化の創造的効力(vigencia creativa)を尊重し、促進するものでなければならない。なぜなら、それは人間の社会的・精神的本性そのものから発露するものだからである。教会が問題とすべきなのは、飾り付けのような、うわべだけを塗る形ではなくて、深く、根本のところから、決定的な形で、人間の諸文化に福音を与えることである。神の啓示が、マプーチェ文化の最深部とその宇宙論的認識とをはっきりと照らし出し、福音の言葉が、歴史の現時点において、歪曲されることなく、そしてまるごと、マプーチェに対して問いかけられなければならない」。「福音伝道とは、神への信仰の種をマプーチェ文化の中に少しずつ蒔いてゆく過程だということができるだろう。それは、マプーチェ文化を、その文化的要素の選択的同化(asimilacion selectiva)を通して受け継ぐべきであり、その時、神の言葉の種は、神そのものの終末論的表現を伴い、そして活力と問いかけとを与えるような、一つの力となるであろう」。こうしたアルカマン神父たちの考察を、「中間的ハビトゥス」の宇宙論的イメージや、M・パイネマルの宗教観念と比較してみるならば、その相違は明らかだろう。アルカマン神父たちは、キリスト教とマプーチェ文化の表面的な混合を行うのではなく、両者を全体として尊重したうえで、それぞれの最も根源的な宗教的経験の次元にまで立ち戻ることによって、新しい形で、両者の対話を作りだそうとしているのである。

(…) この詩[若きマプーチェの詩人レオネル・リエンラフの詩「子供」]のマプーチェ的な部分を解説しておこう。(…) "trayenko"(滝の水、あるいは水煙)は、そうした精霊や祖霊とコミュニケートするための媒体であると考えられる。そのような意味をこめて第一連の最初の二行を読むならば、そこで暗に語られているのが、霊的存在たちとの再会の経験であり、それは、伝統的な宇宙や祖先とのつながりの回復、都市に住み学校で勉強している間に次第に失いかけていたマプーチェとしての自己の回復の経験であることを理解できるだろう。[また最後の三行のキーワードである] "pewma" は、夢のほか、幻覚やシャーマンのトランスなど、一般にマプーチェ的思考が霊的存在との交渉として理解するところの、無意識の活動全体を指す言葉であり、ここで述べられているリエンラフの夢の世界との再会は、マプーチェ的思考の深遠な世界とのつながりの回復にほかならないのである。しかし他方で、「つながりの回復」について語るということ自体、リエンラフが、純粋にマプーチェ的な観点からではなく、一度近代的あるいはチリ的な経験の構造を経由した地点からこの詩を書いていることを示している。そして、そのような彼のチリ的、近代的な感受性が見事に発揮されているのが、詩の中心部分を占める「今日/(…)/いつも水浴びをしていたところへ」のところであるだろう。ここで語られている詩的内容は、もはや、謎めいたマプーチェの霊的世界との再会ではない。それは、近代社会に住む人々の誰もが身に覚えがあるところの、幼児期の経験や自然とのノスタルジーに溢れた再会の経験であり、それは、読者が自ら記憶している類似した経験と、即座に、美しく反響してゆくのである。(…) この詩では、最初の二行と最後の三行においてマプーチェ的な経験の構造に基づいた再会の経験が語られ、中心部分でより普遍的な再会の経験が語られる。おそらくこの詩の精妙さは、この二つの詩的内容が、両者の共通項である幼児期の経験との再会というテーマを媒介にして相互に反響しあい、一つの新しい響きを生み出していることだといえるだろう。

(…)アルカマン神父たちの神学やリエンラフの詩における「マプーチェ的なもの」との関係の仕方は、文化という観点からみても、我々にきわめて興味深い問題を提示するものである。一言でいうなら、彼らは、「マプーチェ文化」について、それを自己完結した一つのシステムとしては捉えていない。彼らはむしろ、自らの文化に内包されている創造的なもの、発展的なものを引きだしてゆこうとするのである。(…) そして、彼らのこのような態度が、「マプーチェ文化」に対してのみならず、「チリ文化」に対しても同様に向けられていることも、見逃してはならないだろう。アルカマン神父たちは、キリスト教がもたらした遺産を新たな視点から再検討し、かなりの部分自己完結的な習慣の体系と化してしまったキリスト教的実践を、マプーチェ的な宗教性と対話させることを通じて、より根本的な宗教的経験に到達しようとする。またリエンラフは、例えば、詩「子供」において、近代的なノスタルジーの経験を、マプーチェ的な霊的世界への回帰の経験と重ね合わせることによって、その経験に、新しく、そしてより深い意味を盛り込もうとするのである。

(…) 筆者の理解によれば、こうした彼らの文化に対する関わり方は、人類学における文化概念よりも、ニーチェが考えていた文化(Cultur/Kultur)の概念にはるかに近づくものである。ニーチェは、『哲学者の書』で、「或る民族の文化というものは、この民族のもつ諸衝動の統一的な制御の中に、顕示されるものである」、「文化の目標は、地上の幸福を越え出た方向を指し示している。偉大なる諸々の作品の産出ということが、文化の目標なのである」と書き、また『反時代的考察』の中で、文化が我々に差し向ける仕事とは、「我々の内部あるいは周囲に、哲学者・芸術家・聖人の誕生を準備し、そうすることで自然がより完全なものになるために尽力すること」であると述べている。そして、次のドゥルーズの解説は、このニーチェにとっての文化が、人間に対してどのように機能するものであるかを簡明に要約するものである。「文化とは、ニーチェによれば、本質的に訓育(dressage)であり、選択(selection)である。それは、思考をわがものとしてそこから何か能動的なもの、肯定的なものを作り出すような力の、暴力のことである。(・・・) 文化とは、(・・・) 思考する人の無意識全体を作動させるような訓育のことである」。つまり、ニーチェ(及びドゥルーズ)にとっての文化とは、根本的に生成的あるいは創造的なものであって、人間は、こうした意味での文化と適切な形で向かい合うならば、そこに内在する力によって自らの精神と身体とをまるごと稼働させられ、自らのうちの価値の高いものを選択され鍛え上げられて、新しいものを産み出すことになるのである。ここで、アルカマン神父が述べていた「文化的要素の選択的同化」という言葉を思い出してもよいだろう。それは、キリスト教とマプーチェ的宗教性とが内包する「能動的なもの、肯定的なものを作り出すような力」にマプーチェ的な文化的遺産を触れさせることによって、真に重要なもの、ニーチェ流にいえば「偉大なる」ものを残してゆこうとすることであると考えられる。

ここにおいて我々は、この論文の最初に立てた問いに戻りつつあるといえるかもしれない。1.1.1.で筆者は、今日の世界の絶え間ない生成の状況を念頭に置きつつ、「文化」の概念に関する根本的な問いかけを行い、何よりもこの概念の中に自己生成的な力を回復する必要があることを論じた。しかし、この問題はもちろん、人類学者にとっての学問的問題である以前に、今日の世界を生きている人々自身の問題でもある。そして、アルカマン神父やリエンラフを始めとする幾人かのマプーチェたちは、彼らのものでもあるところの今日の世界の絶え間ない生成の状況の中で、この、自らの文化を生成的に捉え直すという課題に取り組み、そうした中で、彼らの新しい神学的あるいは詩的実践を産み出したのである。

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7.2.3.4.では、マプーチェの人々の中から今日産み出されつつある新しい神学や詩を検討しながら、ニーチェの生成的な文化概念にまでたどり着いた。しかしここで、この文化概念を、人類学がこれまで受け継いできた文化の概念とどのように関連づけたらよいのか、という疑問が浮かんでくる。この点について考えるための出発点として、ニーチェ自身が『反時代的考察』で行っている考察をとりあげることにしよう。

(…) ニーチェは、この本の中で、彼のいう「文化」の新しい原理を理解する者は、十字路に立つことになると述べている。なぜなら、ニーチェによれば、多くの人々は、(…)文化を「良き秩序のもとに自分を位置づけ、先へと進ませてくれる制度及び法則」として理解し、新しい目標のもとに「達成すべき仕事」に対しては反発して、それらの人々を排斥しようとすることになる。ところで、ここでいう新しい目標のもとに「達成すべき仕事」とは(…)「我々の内部あるいは周囲に、哲学者・芸術家・聖人の誕生を準備し、そうすることで自然がより完全なものになるために尽力すること」なのであるが、ニーチェによれば、それは必ずしも「天才」のみが行う孤独な仕事なのではない。「二級、三級の才能の持ち主の中にも、こうした共同作業に適性をもち、こうした使命への献身の中に人生における仕事、目的、意味をようやく見つけたという感情を持つ人々がたくさんいる」のであって、こうした人々は、もう一つのグループの人々が仕掛けてくる攻撃に対して、団結して身を守らなければならないのである。

(…) 一方で、ニーチェのいう「良き秩序のもとに自分を位置づけ、先へと進ませてくれる制度及び法則」としての文化とは、社会の中に一定の精神的反復の片寄りを作り出すところの「法則の静かな国」にほかならない。それは、様々なメカニズムを通じて現実に柔軟に対応しつつ、自己の同一性を維持してゆこうとする働きをもつものである。他方で、ニーチェにとっての「文化の新しい概念」とは、こうした「法則の静かな国」から脱する存在論的反復を促す力となるものであると考えられる。そして、ニーチェの考えのきわめて興味深い点は、そうした存在論的反復を促す根源的な力が、天から降りてくるのではなくて、「文化」という形で、この論文の枠組に従って言うなら、表面上保守的な「法則の静かな国」の内部に潜んでいると考えることにある。

(…) しかしそれでは、そうした「法則の静かな国」の内部に隠れている「文化」とは、いかなる局面において、そしていかなる形で、その創造的な力を発揮するのであろうか。もし筆者の理解が正しいなら、おそらく「法則の静かな国」のイデオロギーが揺さぶられ、それをふだん律している価値体系が無化された場面において、そこに内包されていた「文化」が、存在論的反復の実現を促すような「力=可能性」を秘めたものとして現出してくるのだと考えられる。「文化」の様々な要素は、そこで、モネの最初の睡蓮のように、あるいはバスティーユ襲撃のように、後の数知れない反復を予告する「力=可能性」を持って、立ち現れてくるのである。ただし、「文化」の諸要素がこうした局面において帯びる「力=可能性」をうまく捉えるためには、かなりの精神的努力が必要であることも事実である。既にみたようにベンヤミンは、「歴史哲学テーゼ」において、「過去の真のイメージは、ちらりとしかあらわれぬ。一回かぎり、さっとひらめくイメージとしてしか過去は捉えられない。認識を可能とする瞬間をのがしたら、もうおしまいなのだ」と述べていたが、もしこの文章の「過去」という言葉を、ニーチェの意味での「文化」という言葉に置き換えたとしても、おそらく、ベンヤミンにとってもニーチェにとっても不都合なことにはならないだろう。存在論的反復とは、一言で言えば、「文化」への「狙いをさだめた跳躍」なのである。

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ニーチェは、『人間的、あまりに人間的』の最初の断章で、彼以前のほとんどの哲学が当てはまるような「形而上学的哲学」と、彼が新たに提起する「歴史的哲学」とを区別し、前者がつねに様々な「反対物」についての議論であったのに対し、後者は、そのような「反対物」が見かけの上でしか存在しないことを示すものであるとしている。少し長くなるが、このきわめて重要な部分を引用しよう。「哲学上の諸問題は、今またほとんどあらゆる点で二千年以前と同じ問いの形式をとっている、いかにして或るものがその反対物から生じうるか、たとえば、理性的なものが理性のないものから、感覚のあるものが死せるものから、論理が非論理から、(・・・) いかにして生じうるか? 形而上学的哲学は、これまで、一方から他方が生じることを否定し、一段高い価値をつけられている事物に対しては『物自体』の核心や本質から直接でてくるという奇蹟的起源を容認することで、この困難から身を脱してきた。それに反して、(・・・) 歴史的哲学は、通俗的または形而上学的見解によくある誇張において以外には反対物などないということ、そして理性の誤謬もこうした対立化にもとづいていることを、個々の場合にわたって調査した(そして多分かかることがあらゆる場合にこの哲学の結論となるであろう)、(・・・) -我々が必要としているような、そして現代の高さの個別科学ではじめてわれわれに与えられうるようなものはすべて、道徳的・宗教的・美学的表象と感覚との化学、同様に文化や社会の大なり小なりの交流のなかで、それどころか孤独の中で、身にしみて体験するようなあらゆるあの感動の化学である(・・・)。人類は由来や始源に関する問いを意識からうち払うのを好む、反対の傾向をみずからのうちに感じるには、ほとんど人間ばなれしていなくてはならないのではなかろうか?」。筆者の考えでは、ニーチェのこの文章は、民族誌の実践が今日果たしうる役割の二つの側面を正当化するものである。

一方で、「反対物」に基づいて思考するということ、これは、上でニーチェが「通俗的または形而上学的見解によくある誇張において以外には反対物などないということ」と述べているように、学問的レベルのみならず、社会的通念(あるいはイデオロギー)のレベルにおいても見られるものである。それはマプーチェ社会においても同じであり、人々は、「想起/力/水平性」、「マプーチェ/ウインカ」、「居留地/都市」といった様々な反対物を想定しながら、思考し、行動している。それゆえ、そのような状況が人間的現実の一部である以上は、こうした一連の反対物を民族誌的記述の中で再構築するという作業はそれなりに意味のあるものだと考えられる。

しかし他方で、ニーチェは、そうした反対物が「よくある誇張」においてのみ存在するものであり、「由来や起源」、つまり、個々の物が生成してくる源を探るならば、そこでは、それまで反対物とみえていたものが「感動の化学」として「身にしみて体験」されてくると述べている。ニーチェがこの「感動の化学」を、「文化や社会の大なり小なりの交流のなかで」体験されるものであると述べている以上、この考察を民族誌的現実の問題に適用することは、十分に正当化されるはずである。このようなニーチェの考え方に従えば、例えば、「想起/力/水平性」、「マプーチェ/ウインカ」、「居留地/都市」、あるいは「伝統/近代」、といった様々な対立もまた、誇張の中で存在するものに過ぎないはずであり、もし「由来や起源」にまで遡って思考してゆくならば、別の言葉で言えば、もしそれらをニーチェ的な意味での「文化」として捉えようとするならば、そこには、様々に対立するものが溶けあい、そこから新しいものが生まれてくるような、「感動の化学」が現れてくるはずである。こうして見れば、「マプーチェ的なもの」と「チリ的なもの」とを深いレベルから同時に再創造しようとする、アルカマン神父やリエンラフたちが目指していたのは、まさにそのような意味での「感動の化学」であったと考えることができる。(…)

このことを、より一般的な形で述べ直すなら、次のようにいえるだろう。一定のイデオロギーのもとで整序された身体的=物質的反復と精神的反復が形成するところの「法則の静かな国」は、あたかも自ら「『物自体』の核心や本質」を所持するかのごとくに存在し、他の「法則の静かな国」と対立関係を営むのであるが、しかしそうした構図は、もし生成的現実そのものに即して捉え直すならば(ただしそれは「ほとんど人間ばなれしていなくてはならない」ほどの精神的努力を必要とする作業であるが)、誇張の上で存在するものに過ぎないことがほの見えてくる。存在論的反復の次元においては、一言でいえば、一つの反復は他の反復の反復であって、それらは生成的現実の創造的な力の中で混じり合うのである。しかし、もちろん、こうした反対物の融合はふだん、現実の中で一つの可能性として潜在しているに過ぎず、人々の生活のほとんどの部分は、相矛盾する「法則の静かな国」の共存の中で営まれている。その結果、一連の対立関係は、きわめてしばしば、あたかも決して解消しえない絶対的矛盾のように人々の目に映るのである。

さて、このように考えるなら、民族誌とは、社会文化的現実における様々な反対物を、その生成的な可能性を含む形で記述し、そうした反対物の「由来や起源」を想起させることによって、最終的に何らかの「感動の化学」を与えるような、まさに「現代の高さの個別科学」の一つとしての役割を果たしうる実践なのではないだろうか。そして、もし民族誌が、このような、いわば「歴史的哲学」としての目標をもつならば、それは、もはや失われゆく社会文化的実践の体系のメランコリックな記述を完全に脱して、未来に向かって過去を活発に想起することを促すような、きわめて今日的な学問的実践として生まれかわることができるのではないだろうか。ニーチェは、「文化の医者としての哲学者」と題された草稿の中で、「破壊さるべきものがたくさん存在する場合に、すなわち、渾沌の時代とかあるいは退化の時代とかに」、哲学者は最も有効であると述べている。実際、様々な文化が渾沌として混じり合い、「由来や起源」にまで遡って思考することがますます困難になっている今日の状況において、「歴史的哲学」の一端を担う者としての民族誌家の果たすべき役割は、ますます増大しているとさえ考えられるのではないだろうか。

この論文は、マプーチェ的「想起」の実践を主軸とする「マプーチェ的なハビトゥス」の詳細な民族誌的検討から始まり、「反復」に関する様々な理論的・民族誌的議論を経由して、そして最後に、民族誌の作業そのものを、一連の反対物の「由来や起源」にまで遡って思考するという意味での、深い想起の作業として規定することになった。一言でいうなら、反復の概念を媒介としつつ、今日のマプーチェ社会における文化的生成の様々な可能性を、活発に想起するような記述を行うこと、それが、この論文の記述を導いてきた方針であり、そして同時に、論文の記述を通じて、筆者がその意義を主張しようとしたことである。