断章2007-2014
「人類学から映像-人類学(シネ・アンスロポロジー)へ」(2014)
「人類学から映像-人類学(シネ・アンスロポロジー)へ」 『映像人類学ー人類学の新しい実践へ』せりか書房、7-26頁より
(...) この民族誌的フィールドワークについてもう少し掘り下げておこう。さきにそれを「研究対象の社会に1~2年以上滞在し、そこでの人々の日常の中に入り込みながら、物事の自然な生起を重視しつつ行う、息の長い現地調査のやり方」であると述べたが、人類学者は一体なぜ、そんな風に、自分の人生の一部分をなすほど長い間現地に滞在することが必要だと考えるのだろうか。それには様々な理由があるが、一つの大きな理由は、研究対象の社会における人々の日常的行為や言葉遣い、人間関係のあり方、物事の連関といったものを、知的に理解するだけでなく、人類学者自身が(一定の範囲内で)身体的にも同化するためである。フィールドの状況をいわば体で知る中で、知的な理解も地に足が着いたものとなる。フランスの社会学者ガブリエル・タルドが一九世紀の末に提起した古い概念を用いるなら、民族誌的フィールドワークは「模倣」の問題と深く関わっている 。タルドの「模倣」とは、「無意識のうちに、抵抗を感じないまま他人の意見から影響を受けたり、あるいは他人の行為から暗示を受けたりすること」、つまり、社会生活において人間が相互に身体的・精神的な様々なレベルで無意識に影響を与え合う状況を捉える概念であって、彼はそれを「精神間で生じる写真撮影」という面白い比喩によっても説明している。フィールドに身を置いた人類学者は、そこでの人々の行為を「精神内で写真撮影」しつづけて、知らず知らず人々の思考や行動の仕方を自然なものとして受け止めるようになる。もちろんそれと並行して、調査対象となる人々の方もたえず人類学者を「精神内で写真撮影」し、その所作に次第に慣れていくというプロセスも存在している。だから、民族誌的フィールドワークとは、根底においては、抽象的な調査者というよりも具体的な個人――特定の身体的・精神的特徴(たとえば容貌や性格)を持ち、特定の文化を持った存在――としての人類学者が、調査対象の人々との出会いや交渉の中で営む、無意識的・身体的なレベルを含んだ相互的な作業にほかならない。
(...) 人類学とはほとんど無縁でありながら、共同作業というこの民族誌映像制作の本質を極めて早期に徹底的に掘り下げた人が、記念碑的な映画《極北のナヌーク》(1922)を制作したロバート・フラハティであった。人類学の中でさえ民族誌的フィールドワークの方法がまだ固まっていなかった時代に、フラハティはカナダのイヌイトの人々のもとに長期間滞在して人々と親交を結び、徹底的な共同作業の中でこの作品を作ることになる。フラハティがこの作品のストーリーを物語るために(おそらくイヌイトたちと一緒に大笑いしつつ)様々なトリックを使って撮影したことを、後年の論者の一部はしばしば激しく批判してきたが、そうした論者はある非常に大事なことを見逃しているのではないだろうか。それは、《極北のナヌーク》ほど人々がその制作に献身的に参与して作られ、そして映像の中に人々がまるごと入っているような作品は、(おそらくジャン・ルーシュの諸作品を除けば)今日に至るまで稀だということである 。《極北のナヌーク》は疑いなく、フラハティの映画であると同時にナヌークたちの映画である。ここでより注意深く議論を組み立てるなら、この「の」という所有を表わす助詞は、近代市民社会の所有権の問題に還元するのではなく、所有という事態のもっと直感的で、かつ根源的な意味において理解されるべきものである 。我々は何かを成し遂げたとき――例えば山の頂上に登ったとき――その成し遂げたことを「自分のもの」として誇りに思うだろう。この「自分のもの」という意識は、本来的には「所有権」とは無縁の思考の時空に属すものである(ジョン・ロックに由来する所有権の概念を一瞬間忘れさえすればそのことはすぐ判る)。《極北のナヌーク》は、正確にこの意味において、フラハティとナヌークたちが共に「自分のもの」とした映画、つまり、共有した映画なのだ。もちろん、《極北のナヌーク》という完成作品(=フィルム)が映画産業の中で流通したとき、それは所有権の世界の中にあったわけだし、その数年前に、フラハティがナヌークたちのもとに運んでいった未使用フィルム自体も、所有権の世界から出てきたものである。しかしそのことは、極北の地でフラハティとナヌークたちが映画制作を共有したこと――さらに《極北のナヌーク》を見る人々がそこから何かを受け取ること――とは別次元のことである。
(...) ここで強調したいのはむしろ、文字言語による民族誌と民族誌映像を対立させないこと、マリノフスキがその民族誌的著作で、彼の時代の技術的可能性を最大限に駆使して達成したことを改めて見習いながら、民族誌と民族誌映像とを積極的に組み合わせていくことの必要性である。この点で、映像人類学が英語圏でvisual anthropology(視覚的人類学)と呼ばれてきたのは、必ずしも幸いなことではなかったように思われる。なぜなら、民族誌映像はつねに文字(キャプション、字幕、パンフレットなど)や語り(作品内のヴォイスオーヴァーや会話のほか、上映前後の説明やコメントなど)の言語的要素、さらには環境音や音楽などの聴覚的要素と組み合わせて受容されてきたのであり、それは決して視覚のみに関わるものではなかったからである。これに対して、ルーシュが考案した独自の言葉は「映画=人類学ciné-anthropologie」というものであり、彼はさらに、それが現地の人々とともに共有されるものである点を強調して、「共有された映画=人類学ciné-anthropologie partagée」とも言っている。我々はこのルーシュの言葉を引き継ぎつつ、そこに若干新たなニュアンスを付け加えて、「映像=人類学(シネ=アンスロポロジー)」という言葉を使うことができるかもしれない 。
(...) 実はアマチュア主義は、常に人類学自体の特徴であったとも言えるのではないだろうか。人類学者は、少なくともその最も創造的な瞬間においては、○○学のエキスパートとしてフィールドに向かうのではなくて、むしろ逆にフィールドの現実を自らの中に受け止め、そこに内在する論理からできる限りのことを吸収しつつ、自らの研究を進めてきた。様々な学問分野の概念や理論や研究法を、ちょうどカメラの説明書を読んだり短期講習を受けたりするようにして手探りで学び、それらをフィールドの現実に突き合わせて検討し、そうやって自分のものにした様々な要素を自由に組み合わせながら、概念の新たな適用、理論の改変、方法の開拓を試みていくのである 。急いで付け加えれば、ルーシュの映画の場合と同様に、こうした人類学のアマチュア主義的な学問的営みがプロフェッショナルな厳密さを欠くという意味では全くない。ある意味で、他の人文社会科学と同じかそれ以上の厳密さは、人類学者が対象とするフィールドの現実性に内在する論理によって求められてくる。再び『西太平洋の遠洋航海者』の古典的な例を引くなら、そこにおけるマリノフスキのクラ交換の理論の厳密性は、トロブリアンド諸島とその周辺の人々の実践に内在する論理をマリノフスキが適切な形で捉え、それを彼自身の概念や理論と突き合わせて、適切な形で延長していったことに因っているだろう。この意味で、人類学のアマチュア主義は、研究対象の人々の生に内在する、彼ら自身の実践知により添い、それを別の言葉に直し、別の場所に運び、別の使い方を生み出すための媒介物なのだ。
(...) 世界の無数の場所で回っている監視カメラのビデオ映像を思い起こせばすぐに分かるように、明らかに映像制作は――民族誌的フィールドワークも同様だと思われるが――ただそれを行うというだけでは自らの意義を正当化できない行為となった。では、そうした映像制作において拠り所になりうるものは一体何だろうか。この問題に対する答えは、主観主義(制作者の主観的世界に大きく傾いた映像制作)と客観主義(系統的な形で徹底的に集められたデータベースとしての映像)の両極の間で、多様なものでありうるし、あまり規範的な答えを与えるのは望ましくもないだろう。しかし、それをことわった上で言えば、撮影する側と撮影される側が、何らかの意味でともに何かを作っていくという関係を営む中で映像制作が行われることが、多くの場合において、やはり重要なポイントになるのではないだろうか――少なくともそれが、人類学はすなわち映像=人類学(シネ=アンスロポロジー)であり、映像=人類学(シネ=アンスロポロジー)はすなわち「共有された映像=人類学(シネ=アンスロポロジー)」であるという、ここでの議論の延長線上に垣間見える、一つの見通しである。
「ジャン・ルーシュの思想―「他者になる」ことの映画-人類学」 (2014)
「ジャン・ルーシュの思想ー「他者になる」ことの映画-人類学」 村尾静二・箭内匡・久保正敏編『映像人類学ー人類学の新しい実践へ』せりか書房、91-108頁 より
(...) 確かにレヴィ=ストロースが言うように、現地での出来事の連鎖を全身で把握しようとする民族誌的フィールドワークという行為と、そこから空間的・時間的境界を持った映像記録を切り出そう行為の間には、何か本質的に矛盾するものがある。にもかかわらず、レヴィ=ストロースのブラジル調査の少し後、この二つの作業を両立させる不可能な作業にアフリカを舞台に決然と取り組みはじめたのが、ジャン・ルーシュ(一九一七-二〇〇四)であった。彼は一九四〇年代以降、西アフリカを毎年のように訪ね、人類学的調査と映画撮影を組み合わせた息の長い作業を続けながら、通常の人類学の実践とは異なる新しい知的領域を切り開いていった。もちろん彼も、映画カメラのファインダーを通して世界を見ることが、肉眼で世界を見るのと同じでないことを進んで認めるのだが、ルーシュにとってそれは世界を見失うことではなく、二つの世界――右目の世界と左目の世界――を同時に獲得することであった。彼によれば、カメラのファインダーを覗く右目は、現実の中に食い込んで、現実の中に潜んでいる「可能的な」もの、あるいは「想像的(イマジネール)な」ものの中に踏み込んでゆく。これに対してもう一方の目、つまり左目は、そこにある現実を「現実的な」もの、「実在的な」ものとして見続ける。現実性と可能性、実在的なものと想像的なものを同時に眺めることによって忽然と現出してくる、この目まいがするような世界――かつてセーレン・キルケゴールはこれを「生成の変化」と呼んだ――こそが、映像による人類学が切り開く新しい世界なのである 。
(...) ルーシュがこのような共同制作者たちに関していつも強調したのは、「友人(アミ)」、「仲間(コパン)」と呼ぶような関係であった。「友人(アミ)」、「仲間(コパン)」の関係を大事にし、それを深く生きることは、彼の人生の上での最も大事な指針であるとともに、彼にとって知的創造上の根本的な方法でもあったのであり、彼にとって「共同制作」とは、イデオロギーでも倫理でもなくて、「よりよく生きること」=「よりよく創造すること」を可能な限り重ね合わせようとすることの帰結でしかなかったのだと思われる。そうした「友人(アミ)」、「仲間(コパン)」との関係はしばしば、ニジェール人の友人たちの場合のように不平等な経済的関係と二重になったものだったが、しかしルーシュ的世界の内的論理に照らすなら、それは必ずしも決定的な要因ではなかっただろう。なぜなら、ルーシュにとって決定的に重要なのは、何かが創造される瞬間に皆が一緒に新たな存在として生成することであり、そして、そうした生成の存在に対する優越性に全てを賭けることだったからである。
(...) ルーシュが述べた言葉に、「他者の思考体系を理解しようとするために自分自身の思考体系を壊すこと、それが民族誌学だ」というものがあるが、まさにこの、他者との出会いが孕む知的危険をまるごと自己の中に迎え入れるという営みを彼は生涯にわたって実践したのだった。例えば、初期の民族誌映画《雨を降らせる人々》(1951)を見てみよう。ソンガイのある雨乞い儀礼の様子がルーシュの語りとともに一連の映像で示されたあと、最後に、空に黒雲がむくむくと現れ、風が吹き、雨が降りはじめる。ルーシュがここで、彼の「民族誌」映画を儀礼の映像で終わらせず、儀礼後の出来事の映像を加えたのは、彼にとって「人々がいかに雨乞い儀礼を経験したか」と同じくらい、「人々がいかにその後に降った雨を経験したか」が重要であったからだろう。… こうしたことは最近になって、メインストリームの人類学の中でも、(...) ようやくきちんと議論されるようになってきた。例えばマリソル・デ・ラ・カデナは、こうした議論の延長線上で、人類学者がフィールドで出会う現実とは、単なる「社会的」宇宙ではなく、むしろ「社会=自然的」宇宙であること、そして、そうした社会=自然的宇宙は人類学自体が背景とする西欧近代的な社会=自然的宇宙とは部分的にしか重ならないのであり、人類学者は、複数の社会=自然的宇宙が矛盾しつつ併存するような多元的宇宙(プルーリヴァース)――単一的宇宙(ユニヴァース)ではなくて――に向けて自らの思考を開いてゆくべきであること、を力強く論じている。しかし振り返ってみればルーシュは半世紀以上も前に、《雨を降らせる人々》の映像的モンタージュを通じて、ソンガイの人々の社会的宇宙だけを取り出すのではなく、儀礼とその後の降雨の両方(つまり社会=自然的宇宙)を合わせて提示し、西欧近代的な社会=自然的な単一的宇宙(ユニヴァース)を生きる観衆に、ある種の違和感――「そんなはずはない!」というような――とともに、多元的宇宙(プルーリヴァース)を経験させる装置を見事に作り上げていたのである。
(...) 例えばルーシュが一九六〇年代にコートジボワールで撮影した《陽気な若者たちのグンベ》(1965)を見てみよう。「グンベ」とは、故郷の村を離れて大都市アビジャンに移民した若者たちが助け合い、集まって一緒に音楽や踊りを楽しむための組織だが、二六分ほどのこの映画は、そうした一組織の旗揚げ集会で、役員の面々が紹介され、続いて組織のルールの各々を宣言される、という式次第に従って構成されている。一見無味乾燥なこの構成はしかし、役員各々の日常生活での姿が映像に組み込まれることで豊かで面白みのあるニュアンスが与えられ、次に組織の一連のルール――それは例えば「組織の歌手と打楽器奏者は毎月新しい曲を作らねばならない」といった興味深い規則なのだが――がそれを実践する人々の実際の活動の映像で肉付けされることで、人々の溢れるような生の喜びを表現する映画へと変容していく。グンベの若者たちはこの映像の中で、彼ら自身でありつつ彼ら以上の存在になる――それは確かに「他者になる」なかで「自分自身になる」ことでもある――のであり、そして、この若者たちの喜びに溢れる映像を見る我々もまた、その喜びを受け止めつつ、「他者になる」なかで「自分自身になる」ように促されるだろう。
(...) コッチアは、「イメージ」というものが、主体の空間でも客体の空間でもない、もう一つの空間の中に存在するのだと指摘する。例えば鏡に映ったイメージ――例えば鏡のなかの私の顔の像――は、それ自体は、何らかの行為の客体となることも主体となることもない(鏡を見て髭を剃ったり、あるいは化粧したりする時、その行為の客体は鏡の中の顔ではなく、本物の顔の方である)。同様に、私が目の前にある水が入ったコップを見た瞬間に頭の中に形成されるコップのイメージは、それ自体は、何らかの行為の主体ないし客体になることはない。しかし、それ自体何も為さないこのコップのイメージは、同時に、それなしには私が目の前の水の入ったコップを把握できず、コップの中の水を飲むことができないという意味で、一種の媒介者として、我々にとって決定的な役割を果たすものでもある。これらの例が明らかに示すように、我々の生は、このもう一つの空間で蠢く無数のイメージたちとの間断ない戯れの中で繰り広げられている。鏡の中の世界のように、それ自体何も為さず何の物音も発せずに我々に密かに寄り添う、このイメージの空間なしには、生は存在しえないのである(これは人間のみならず、動物にとってもそうである)。このように考えるなら、イメージとは、写真や映画のような映像の複製技術の有無とは関係なく、(人間および動物の)生にとって最初から本質的なものであったことがわかる。
(...) ルーシュは、シネマテーク・フランセーズ館長時代のインタビューで、シネマテークの創設者アンリ・ラングロワが「上映なくしては真の保存はありえない」、「映画が生き物である」という考えを持ったことに深い賛同を示している。映画の本来の働きは、フィルムの中に刻印されたイメージにあるのではなくて、それが人々の脳裏における「イメージの空間」の中で、他の様々なイメージと混じり合い、我々の新しい思考、新しい行動を生み出していく、生きたプロセスの中にあるものである。しかし他方で、その生きたプロセスは、フィルムに刻印されたイメージが存在しなければ動き出しえない。民族誌映画は、人々の生――その現実性と可能性の両方を含めた意味での――を、鏡のようにもう一つの空間の中に映し出すとともに、それをある永遠の時間性の中に置く手段なのであり、そしてそれを上映することによって(あるいは、すでに撮影の時点において人々の脳裏で「最初の映画」が繰り広げられることで)、人々のもう一つの空間を豊かにし、人々が「他者になる」ことによって「自分自身になる」ように促す手段なのである。
(...) ルーシュが映画制作において最も大事だと考えていたのは、それ自体で優れた作品を作り出すことではなくて、他の作品の制作を促すような刺激に満ちた作品(記憶、アーカイブ、博物館…)を作ることであった。そうやってイメージのもう一つの空間を無限に拡大していくことを夢見ていたからこそ、ルーシュは、民族誌映画作家の養成や、アフリカを始めとする発展途上国の映画作家の養成にも大きな力を注いだのであろう。それがルーシュの自身のもっとも野心的な、「死より強い夢」だったのではないだろうか。
「映画作家ルーシュ―ヌーヴェルヴァーグ映画を鏡として考える」(2014)
「映画作家ルーシューヌーヴェルヴァーグ映画を鏡として考える」(小河原あや氏との共著)村尾静二・箭内匡・久保正敏編『映像人類学ー人類学の新しい実践へ』せりか書房、109-127頁 より
(...) 二つ目は一九五七年の《狂った主人たち》公開時のエピソードである。儀礼の参加者たちが次々に激しい憑依に入ってゆく映像を見て衝撃を受けたクロード・シャブロルが、「ジャン・ルーシュの住所を教えてほしい、彼が一体どうやって彼の俳優たちの演出をしたのか知りたいのだ」とブロンベルジェに言ったのだ [Rouch 2009: 45]。壮絶な誤解だが、しかしこの言葉は、後にシャブロル映画が展開する日常性の中の狂気というテーマと連結するだけでなく、時代を遡って「呪われた映画祭」でルーシュの《憑依者たちのダンス入門》が高い評価を受けた理由をも想像させるものだろう。《憑依者たちのダンス入門》は、病的な憑依に見舞われたソンガイの女性が、先達の指導のもとに踊りのステップを辛抱強く学ぶことで、正しい仕方で憑依が起こるようにする過程を扱ったものだった。当時の先鋭的な映画人たちは、この作品が示すアフリカの独特の身体的な知のあり方に前衛的な演劇に通じるものを見て、感激したのではないだろうか。ここで一九三〇年代にアントナン・アルトーが論じた「残酷の演劇」を想起するなら、アフリカの憑依儀礼を前衛演劇の延長線上で理解するのは単なる勘違いとは思えなくなってくる。実際、ルーシュもまた若い頃にアルトーに熱中した一人であり、彼自身、ニジェールの憑依儀礼における踊りや音楽の単調な反復を「残酷の演劇」と結びつけているのだ。つまりルーシュもおそらく、アルトーに導かれつつ獲得した精神的自由のもとではじめて、ソンガイの人々の身体的な知を正面から受け止めることができたのであり――この精神的自由は疑いなく同時代の(文字による)人類学の理論的思考を大幅にはみ出したものであった ――、そうやって作られたルーシュの映像がまた、映画人たちを強烈に印象づけたのだ。
(...) ルーシュは後年、民族誌映画の撮影が成功したか失敗したかを、「発明の野蛮さを再び見出すために人類学と映画の理論の重圧から自由になることができたか」と関係づけて語っている。人類学の理論は民族誌的対象に接近するために、そして映画理論は撮影のために基本的な手がかりを与えるものだが、しかし撮影の瞬間には、それらを忘れ、ファインダーの中から析出してくるものに敏感かつ柔軟に反応しなければならない。彼が徹底して手持ちカメラで撮影を続けたのも、カメラを三脚に据えた途端、撮影行為は「安定した画面」という外的要因によって規定されてしまうからである。カメラを三脚から外し、見るに堪えない映像を撮る危険を冒し始めた瞬間に、カメラを通して現実自体が語る可能性が生まれる。ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちがルーシュの作品に見たのは、民族誌映画の新しい方法ではなく、そうやってルーシュが現実から直接引き出してきた新しい映画的語りであった。
(...) ロメールが映画を通して描こうとしたのは、彼自身が言うように、状況や社会に囚われて行動する人間ではなくて、(言葉の深い意味で)自由に行動する人間であった。ロメールがその作品の中で男女の恋愛関係を繰り返し取り上げたのは、現代社会において恋愛が、人間が自由な存在として振る舞いうる数少ない領域に属するからだろう。恋愛は自己を危険にさらすと同時に、他者との関係のなかで別の自分になる希望を与える。そこにはコントロールしえないものがあり、偶然があり、そして賭けがある。そしてロメールの映画では、そうした問題が、映画制作自体におけるコントロールしえないもの、偶然、賭けとも重なり合ってゆく。そうやって彼が映画の中に実現する人間は、自分がコントロールしうるものの彼方にある「大きなもの」――ロメールはこれを「自然」と呼んだ ――と対峙する、どこか英雄的なものを含んだ存在にまで高められるのだ。
(...) こうした後期の多様な作品の中で、ルーシュ自身が自らの思想的決算とみなした一九八四年の劇映画《ディオニュソス》(1984)は、確かに中心的な位置を占めるものである。フランス人を主人公に、珍しく事前にシナリオを書いて作られたこの作品は、ディオニュソス神の「肖像=映画」であるとともに、詩の朗読を映像と組み合わせた「詩=映画」を多分に含み、スタイル的にはニジェールでの創作映画に最も類似している。ディオニュソスが演劇の神であり、仮面と変身の神であり、その信女たちは集団的憑依に入るとされたことを思い起こせば、この映画のテーマが、憑依映画やドゴンの映画とも直結していることがわかる。これは、映画の中でルーシュが大好きだった人々や事物を走馬燈のように駆け巡らせる、不思議な作品である。
(...) 異人グレイの姿をとったディオニュソスが、映画の中でソルボンヌ大学とシトロエンの自動車工場で二度の「裁き」を受けるのは、西欧文明の淵源たる古代ギリシャのディオニュソス的な生が、人文社会科学的な知や科学技術的な知のもとで抑圧されてきたことを寓話的に表現したものだろう。グレイが一つ目の人文・社会科学的な試練を乗り越えるために援用するのは、西欧の中でディオニュソスを呼び戻したニーチェやキリコだが、二つ目の科学技術的な試練を乗り越えるために使うのは、供犠というアフリカ的な知である――ルーシュにとって、憑依や仮面を通して思考するアフリカの知こそが、西欧が見失ったディオニュソス的伝統の真の継承者だったのだ。実際、シトロエンの旧式の自動車は、アフリカ的な知の文脈に移されて、供犠=解体によって豹に生まれ変わり、各部品は生ける肉となり、労働は音楽とともに快いものとなる 。ルーシュが表現しようとしたのはおそらく、西欧近代的な知をアフリカの伝統的な知と接触させ、それを通して、技術を生のなかに戻し、労働を喜びと結びつけてやることである。
(...) 印象深いのは、《ディオニュソス》の終盤で、ルーシュが若い頃の撮った《狂った主人たち》の憑依の一場面がやや唐突に引用されることである。ルーシュはこの映画の結末で、西欧の機械文明との激しい接触という経験の暴力性を如実に反映するような、激しく暴力的な憑依儀礼を行うアフリカの人々が、翌日は柔和な表情で労働に従事する映像を示しつつ、「彼らは、人間が異常にならずに機械文明に統合されることを可能にする解決策を知っているのではないだろうか」と問いかけたのだった。ルーシュが《ディオニュソス》で示そうとしたのは、そうしたアフリカの知こそが、実は西欧文明の源である古代ギリシャの知と深く通じるものであり、その接点に立ち戻ることが西欧文明の未来を考えることでもある、ということだったのではないだろうか。
「第三種の政治に向かって ―人類学的生権力論の一つの試み―」(2013)
「第三種の政治に向かって-人類学的生権力論の一つの試み」『思想』1066号(2013年2月)、244-263頁 より
(...) ブランショの『終わりなき対話』(一九六九)を片手に端的に述べれば、フーコーの直観とは、あらゆる関係は常にそれ自体を掘り崩すような無関係を伴っているということ、人間の生はある根源的な無関係性に根差しているということ、とでも言えようか。フーコーが、一九六〇年代の著作で、言説の体系や事物の体系について論じたとき、それらが常に移行、切断、組み換えの可能性を含んでいると考えたこと、また言説の体系と事物の体系が異なる秩序を形成し、両者の間に裂け目があると考えたことの背後には、そうした体系の見かけ上の堅固さにもかかわらず、それらが実は内部から無関係性によって浸食されている、という直観があったと考えることができる。だからそれらの体系はいかなる普遍性によっても基礎づけられず、それらを記述する作業は、下から、順繰りに行うしかないのである。一九六〇年代末になると、フーコーは言説の体系や事物の体系の下部で蠢いているはずの、無関係性を帯びた関係の連鎖をよりダイレクトに見据えて、それを権力関係として考察しはじめる。そうした権力関係は、一方では一定の方向に整序される傾向性を持ちながら(この傾向性は、より安定的な、言説の体系や事物の体系を通じて一定の堅固さを獲得する)、他方では、それがまさに無関係性を帯びた関係であるがゆえに、常に揺れ動き、逸脱していく可能性を秘めている。フーコーが一九七〇年代、順繰りにいくつかの権力形式を検討していく時、そうした権力形式は、言説や事物の体系よりずっと不安定で、かつ並列的なものとして扱われることになるだろう。様々な権力形式が、重なり合ったり、対立しつつ並存したりする――これは、フーコー的な生権力論の可能性を受け止め、発展させていくために、根本的に重要な見方だと思われる。
(...) ブーランヴィリエは実はスピノザの『エティカ』の最初のフランス語訳者としても名を馳せ、『神学政治論』や『政治論』など、スピノザの政治的著作にも深く通じていたと考えられる人物であった 。彼が歴史的手続きを通じて、フランス国王による司法権力の確立を批判し、ゲルマン系フランク人集団の固有性を肯定した時、スピノザの二つの政治的著作が彼の支えになった可能性は高い 。フーコーは、ブーランヴィリエたちが創出したのは「自分たちに固有な習俗習慣や自分たちだけの特定な掟を持つ一定数の個人からなる社会」についての言説だったと述べているが 、スピノザの『政治論』には既に、「およそ人間というものは、野蛮人たると文明人たるとを問わず、いたるところで慣習的結合を形成し、何らかの社会状態(キウィタス)を形成」するという、類似した内容の言葉がある。そこでスピノザが肯定したのは、ホッブズが考えたような上から一気に樹立される国家とは異なる、それぞれの慣習をもとに下から形成される社会集団であった。フーコーのいう人種主義の言説とは、まさに、スピノザとブーランヴィリエが思考可能にした、下から形成される集団の固有性の擁護のことであり、それはクラストルの「遠心力の論理、多の論理」とも直接関連づけうるものだろう 。一九七六年初頭、生権力の問題にこれから全面的に取り組もうという時に、フーコーがこうした問題を踏み込んで扱ったことは興味深い。彼はそうやって、生権力のテクノロジーが持つ強力な、いわば「求心力の論理、一の論理」を分析する前に、そこから常に自由でありうるような思考の地平を確保しようとしたのだと思われる。
(...) ベンサムのパノプティコンほど有名でもなく、洗練されてもいないこのイチゴ競売所の建物――そしてそこでの人間と情報の分離、可視性と不可視性の配分、「純粋な競争」の空間の維持の努力――は、人間が「自分自身の企業家としてのホモ・エコノミクス」として現象するための現実的条件が整えられる様子を具体的な形で理解させてくれる。この建物と何らかの意味で類比的な有形無形の装置が我々の社会の随所に置かれ、様々な権力関係が、新自由主義の「現象的共和国」に向かって整序され、増幅されていくこと。さらに、そうした権力関係の整序と増幅が、通常の意味での経済の領域を遙かに超えて、今日の我々のほとんどあらゆる領域を覆いつつあること 。そして、もし重農主義や自由主義の時代における「現象的共和国」がおおむね自然の現れの延長線上で理解できたとすれば、今日の「現象的共和国」は、現れの現れ、現れの現れの現れ、という具合にますます膨張しつつあるのであり、その不可知性も広がるばかりである…
(...) 南米諸国における政治的多元体の中で、ロビンソンとフライデーはどのように建設的な対話を続けることができるのだろうか。自身がペルー人メスティソである(つまり先住民ではない)デ・ラ・カデナは、自分は先住民に共感することはできるが、先住民と全く同じように「大地-存在」を信仰することは不可能だと考える。しかし彼女はそこで、人類学者マリリン・ストラザーンの「部分的連接」の概念を手がかりに 、「相異なる二つのもの」の総和は必ずしも「2」になるのではなく、しばしば「1以上だが2以下」になるのだと考える。「先住民」と「メスティソ」は、実際のアンデス諸国の歴史の中では相互に影響しあい、部分的に重なりあってきたのであり、だからその総和は「2」ではなくて、「1以上だが2以下」であるはずだ。とすれば、先住民でなくても、また先住民のように「大地-存在」を肌で感じて信仰していなくても、彼らの政治的宇宙(ユニヴァース)に部分的に連接することは可能だろう。しかし、デ・ラ・カデナが言うように、この部分的連接を無理に急いで作ろうとすると、結局、彼らの政治的宇宙(ユニヴァース)を自分たちのそれに強引に引き込もうとして、対話を破壊することになる。先住民の政治的宇宙(ユニヴァース)を正しく受け止めるには、まずは自分の政治的宇宙(ユニヴァース)を忘れることから始めなければならない。知識――近代の科学-政治の単一体(ユニヴァース)に属する知識――を増やすのではなく、むしろ減らすことから始めなければならない。そして彼女は、イザベル・スタンジェールの言葉を借りつつ、「無学者(イディオタ)」になって「理性の働きを減速する」という手続きの重要性を訴える 。
(...) 第三種の関係とは何か。それは、ブランショによれば、「他なるものの接近不可能な現前」であり、あらゆる同一性や全体性を免れる関係、関係なき関係であって、別の言い方をすれば、関係に入ることによって他者がその他性を一切失うことのないような関係である。南米におけるロビンソンとフライデーの対話を念頭におけば、この第三種の関係も明瞭に理解することができる。実際、デ・ラ・カデナの、無学者になって他者の政治的宇宙との距離を保ちながら関係を作るという姿勢は、このブランショのアイデアと正確に対応するものだろう。
(...) フーコーの思考の一貫した特徴は、彼が求心力と遠心力の間、社会の中心と周縁の間、マクロとミクロの間を身軽に行き来しながら考察を進めることであった 。そこで私は、ブランショの第三種の関係の概念に、このフーコーのダイナミックな思考の運動を加えて、それを「第三種の政治」と呼びたいと思う。そして、今日の世界の様々な場所で、様々なレベルで存在している、第二種の関係や第一種の関係を経験的に、緻密に眺めること、そして、その中に潜んでいる第三種の関係の現実的な表出の方途を見いだしていくことこそが、人類学がフーコーを引き継ぎながら担いうる、きわめて重要な作業だと考える 。なぜなら、新しい世界とは、ただ第三種の政治のみから生まれうるのだから。
「情動をモンタージュする-フレデリック・ワイズマンのニューヨーク」(2011)
「情動をモンタージュする-フレデリック・ワイズマンのニューヨーク」 西井凉子編『時間の人類学-情動・自然・社会空間』世界思想社、38-61頁 より
(...) 映像は具体的なものであり抽象的なものの表現に向いていない、としばしば言われるが、ワイズマンの「不可能な企て」は、まさに具体的なものによって抽象的 なものを表現すること(...)から始まる。その基本的な、ワイズマン独特の手続きを、ここでは「ショットの切断」と呼んでおこう。(...) 《法と秩序》の序盤、警官志望の若者が面接を受けている。警官志望の動機を尋ねられ、人助けしたい、と述べる若者に対し、面接官は出し抜けに、君は人を銃 で撃てるかね、と質問をする。若者が分からないと答えると、面接官は、それは君も考えてみたはずだ、どんな条件下で人を撃てると思うかとたたみ掛けるが、 その質問に若者が答える前にワイズマンはこのシーンを切ってしまう。(...) ワイズマンが編集の中で強調点を置くのは具体的な人物の具体的な行動ではなくて、人物や事物の中の「動揺の状態」であり情動(アフェクトゥス)であって、 それが他の登場人物の中の情動(アフェクトゥス)や、映像を見る我々の中の情動(アフェクトゥス)と反響してゆくのである 。
(...) 《福祉》の場合、様々なシークェンスの中で、同様のトラブルが、微妙な差異を含みながら繰り返し反復されることによっ て、次第に何かコントロール不能な、量的な圧迫感が生みだされてくる。法は理想的な条件のもとではすべてが明瞭であるが、扶助を求めてくる人々の場合、た いてい家族関係も複雑で、一日一日を生き延びるために住所を頻繁に変えることも多く、そのために福祉センターや社会保障センターの情報も混乱していて、結 局、書類の不備のケースと扶助制度の悪用のケースとがしばしば識別不能になってくる。(...) 金曜日の夕方になって、書類不備で月曜日にもう一度来いと言われたら、彼らは瀬戸際に立たされる。扶助を受けられなければ、住居も食べ物もないからだ。法 の無時間的な時間性のもとでは金曜日の次に月曜日が来るだけだが、人間の生身の身体にはそれ自体の時間性があるのであり、金曜の晩から月曜の朝まで、何か を食べ、どこかで寝なければならない。
(...) バージャーは、「広告は本質的に、現実とではなく白昼夢と結びつく」のであり、「広告は、未来形で語る。しかしその未来への到達は果てしなく先に延ばされ る」と書く。[《モデル》が描く]広告の時間は、まさに人々を「自分もそうありたい」と夢想させる、ある「未来」へと引っ張ってゆく時間であるが、しかし その白昼夢は、それが白昼夢である限りにおいて、本質的に実現不可能なものだと言える。ただし、(...) 広告が作り出す白昼夢は、たとえそれが永遠に未来形であるとしても、それを白昼夢として生きること――あるいは、少なくとも、そのように生きることへと誘 う魅力そのもの――には否定しがたい現実性がある。
(...) イントロの数ショットのあと、《セントラル・パーク》は、「開かれた閉鎖空間」とでもいうべき資本主義的な経済システムの外側で暮らす者たち――公園に棲 む鳥たちや小動物たち――のショットによって始まる。確かに、それらの動物たち、また、映像に繰り返し現れる草木や岩や道路や橋は、スピノザのコナトゥス さながらに自己の存在に固執しつつ、セントラル・パークという場所を支える、不可欠の主体である 。(...) セントラル・パークは、人々が自然の中で休息を求める場所でもあれば、スポーツなどのレクリエーションの場所でもあり、政治的アイデアを表 現・共有・示威する場所でもあれば、大規模なコンサートが行われる場所でもある。そうした時間性の間の齟齬は、広大な公園の各部分が特定の機能を担うこと によって通常は表面化しないとはいえ、時には激しい衝突をも引き起こす。セントラル・パークはだから、自然と人間の様々な時間性が併存するだけでなく、競 合する場所でもあるのであり、もし様々な時間性が調停されずに放置されれば、公園はたちまち荒廃してしまうだろう。
(...) 法学者として出発したワイズマンが法学に見出しえず映画の中に見出したもの、それを一言で言うなら、人間が「身体をもつ」ということではないだろうか。法 のシステムは、主語(主体)が述語(行為や状態)を律することを前提とするが、しかし人間が「身体をもつ」という根本的事実は、そうした前提の不確かさを 露呈させる。《福祉》における、飢え、睡眠を求め、また病気になり、路頭に迷う身体、《モデル》における、華やかに輝くとともに疲労する身体、そして《セ ントラル・パーク》における、公園の自然や公園に来た他の人々と多種多様な関係を取り結ぶ身体。(...) 法を身体の中に、主語を述語の中に、制度を生の中に置き戻すこと、そしてその上で制度=施設(インスティテューション)におけるそれらの錯綜した関係を考 えること、これがワイズマン映画の一貫した企てなのである。
「もう一人のレヴィ=ストロース-連続性の問題をめぐって」(2010)
「もう一人のレヴィ=ストロース-連続性の問題をめぐって」 『現代思想』36巻1号(2010年1月)、166-174頁 より
(...) [レヴィ=ストロースは]その著作の中で、一貫して、世界を不連続性ないし離散性の相のもとで捉えることの正当性を強く主張した(そこから彼の構造主義が くる)。しかし、彼の著作の細部を注意深く読むとき、そうした「強い」レヴィ=ストロースの下に、自らが排除するはずの連続性を敏感に感じ取り、時にそれ に魅惑すらされる、もう一人のレヴィ=ストロースが現れてくる。不連続性と連続性の二つの主題は、あたかもソナタ形式の音楽におけるように複雑に絡み合い つつ、時に未解決の不協和音を残しながら彼の諸著作の中を走り抜けていく(...)
(...) 『純粋理性批判』においてカントは、概念的な判断様式から一連の範疇(カテゴリー)を引き出したが、レヴィ=ストロースは、そう した概念化を行う意識よりも下にある思考の次元、言いかえるなら、自然そのものが現象する中で、感覚的かつ知的な対象としてのイメージがコード化されて認 識される、イメージ的思考の図式を考察の対象としたのである。(...) 上で「神話理性批判」と言ったのは単なる語呂合わせではない。カント的理性と同様に、神話理性もまた仮象を生み出すのであり、だから神話理性の批判が必要 なのだ――『野生の思考』の一つの核心はそこにある。(...) メトニミー的なイメージの連鎖として、世界の連続性および世界との連続性を回復するかの ように用いられるとき、神話理性は我々を誤謬の中に誘い込む。
(...) [『神話論理』における]神話分析を通した人間の基層的な経験の構造の検討において、最も重要なテーマの一つとして現れるのが、 まさに連続性と不連続性の問題である。実際、人間が世界を不連続なイメージの体系によって把握しようとしても、自然はそうした離散的なコード化を容易に許 さない現象(星雲や虹、暗闇、病気、毒…)によってそれに抵抗するし、また人間がそうした自然の中を生きることは、時間の中での不断の変化をも、抜き差し ならない形で内包している。だから連続性とは、神話的思考がたえず衝突する固い岩盤のようなものなのだ。
(...) 『神話論理』の第三巻『食卓技法の起源』の、文字通り「神話から小説へ」と題された部で、小説とは、歴史の中で神話がその構造を 喪失する際に生まれた断片を縒り合せつつ語られる、「不幸な」文学ジャンルであるとしつつ、次のように「小説家」を特徴づける。「小説家は、歴史の熱気が 氷解を引き起こして氷原からひきはがした浮遊する氷塊のあいだを漂いながら漕ぎ進むことになる。彼は散在する素材を拾い集めて、それがとる姿に従って再利 用するのだ。(...)」 (...) [しかし]ここで翻って考えるなら、「散在する素材を拾い集めて、それがとる姿に従って再利用する」ことを、人一 倍研ぎ澄まされた感性によって実践してきたのは、レヴィ=ストロース自身だったとも思われる。
(...) 『神話論理』に限らず、彼のどんな著作を読んでも、彼以前および彼以後の誰も行わなかったような独創的な形で人間の不連続的なイ メージ的思考を叙述するレヴィ=ストロースの傍らに、事物の連続的イメージの中から不連続的な構造が析出する一瞬を拾い上げるもう一人のレヴィ=ストロー スが見え隠れしている。そして幸いなことに前者は後者の足跡を消し去らず、著作の端々に我々にとっての手掛かりを残してくれている。我々は、そういった両 者の間の豊かな、音楽的な往復運動を想像する中で(この小論自体がその一つの試みであるが)、アクチュアルな、新しい「イメージの人類学」を構築すること ができるだろう。
「事物との濃密で幻想的な関係」(2009)
「事物との濃密で幻想的な関係-存在論的テリトリー論に向けて」 田中雅一編 『フェティシズム第1巻 フェティシズム研究の系譜と展望』京都大学学術出版社、295-317頁 より
(...) 彼[ザッハー=マゾッホ]は、自らの文学作品を通じて切り開いた地平が、未知の快楽と未知の危険の両方が充満した両義的なものである ことを明確に自覚していたのだろう。だから彼は、マゾヒズム――そしてフェティシズム――が近代社会の権力関係をすり抜けて新しい世界(外的な政治的・宗 教的権力から解放されたその世界は確かに、みなが平等で働き者で裕福で清潔な世界かもしれない…)を創出する可能性を示しつつも、他方でそれが実現するは ずの世界を、生ぬるいユートピアとして提示することも決してしなかったのである。
(...) それにしてもなぜ、あたかも光あるところに必ず影が付きまとうように、天上的な存在への崇拝につねに地上的な存在への崇拝が伴う のだろうか。なぜマプーチェの人々は、カマリクンやその他の儀礼を至高神への儀礼として「純化」し、邪霊との取引(カルクトゥン)として疑われるような 「不純な」要素を一掃してしまわないのだろうか。それはおそらく、とりわけ(キリスト教の影響を受ける以前の)伝統的なマプーチェの宗教的思考の中では、 人間存在が本質的に個別的で地上的で物質的だと考えられていたからだろう。(...)
(...) おそらくブニュエルにとって決定的に重要だったのは、人間が具体的・物質的にしか存在しえないという根本的事実であり、彼はだか ら、作品の中で人物から社会的な地位や役割を剥ぎ取り、彼らが生身の肉体を持った人間として行動するような状況を繰り返し作り出したのである。その意味 で、我々は彼の映画を、存在論的フェティシズムの映画、ないし存在論的テリトリー論の映画と形容することができるかもしれない。
(...) あたかも昆虫か動物のように、ラス・ウルデスのテリトリーに張り付いて離れない人々。彼らにとって、ラス・ウルデスの地そのもの が、自らの存在の物質的基盤としてのフェティッシュであり、そこで繰り広げられる「事物との濃密で幻想的な関係」が、彼らの人生の全てなのだ… (...) これは本当にラス・ウルデスだけの話なのだろうか。我々自身の生活においても、その様々な局面において、様々な意味あいにおいて、ラス・ウルデスが存在し ている――あるいは《皆殺しの天使》が寓話的に示しているように、潜在的な形で存在している――のではないだろうか。
(...) このように見るなら、常識的にはラス・ウルデスのようなテリトリーへの固着の正反対とみなされがちな今日のグローバル化も、地球 規模で展開する「不毛なテリトリー」への固着――それをマルクスに敬意を表し、しかしマルクスの用語法からは離れつつ、「商品のフェティシズム」および 「貨幣のフェティシズム」と呼んでもいいかもしれない――と考えることができるように思われる。
「構造から自然へ、そして具体の音楽へ」(2008)
「構造から自然へ、そして具体の音楽へ-今日レヴィ=ストロースを読むこと」、『思想』1016号(2008年12月)、144-161頁 より
(...) 『悲しき熱帯』の終わりの方で彼[レヴィ=ストロース]は、民族学者の野望は「根源に遡ること」であると書く。一言で言えば、彼 の研究の根本的な動機は、西欧の近代社会が自らを確立した時期に決定的な影響を与えたアメリカ大陸の先住民のもとに自ら赴き、そこで「自然人」としての人 間のあり方について根源に遡って考えること、そして、そうした遡行の作業によって獲得した視点から自らの社会を捉えなおすこと――そして望むらくはそうし た知見に基づいて社会を変革すること――にあったと言えるだろう。
(...) レヴィ=ストロースの人類学は、最初から最後まで、研究対象を客体化してそのメカニズムを解析し、それを応用に役立てようとする 社会科学ではなくて、対象との関係の中で人間の根本的な存在条件を知性・感性の両方を手がかりに探求し、そこから人間社会を再構想しようとする、人類学= 政治哲学=倫理学であった。
(...) 『悲しき熱帯』の「悲しさ」とは、確かに直接的には西欧文明の拡大のもとで破壊されつつある社会が引き起こす「悲しさ」ではある けれど、その彼方にはどこか、人間存在の有限性そのものに由来するような、いわば存在論的な「悲しさ」――ベンヤミン的にいえば「楽園の言語」が失われた 「悲しさ」――が鳴り響いているのだ。
(...) 我々の内に潜んでいる「自然」という主体――レヴィ=ストロース自身、先の引用にもあるように、「身体自体のなかにすでにかすか に現われているより深い真実」について語っていた――が、我々の意識的な自己の下部で、いかにして「自然」自身を表現しているかを、音楽の作曲にも似たプ ロセスを通じて結晶化させ、それによって、我々自身の社会に向けてひそかに「目覚まし時計」を設計すること、それがおそらくレヴィ=ストロースの人類学の 最終的な企てなのである。
(...) 神話素の旋律の響き合いを聴き取ることを重視するあまり、そして、神話を我々の身体の奥底で聴き取る「自然」的主体を重視するあ まり、彼[レヴィ=ストロース]は神話素の連鎖が人々に与える具体的イメージ、そしてそうした具体的イメージを感じ取る実在的な主体を、消去してしまって はいないだろうか。「自然」的主体への視点移動の意義を十全に認めた上で、しかし他方で、有限な存在としての我々の一人一人が具体的にしか存在しえないこ と、「自然」的主体は、結局のところ(少なくとも我々自身にとって)そうした有限で具体的な存在を通じてのみ意味を持つことは、重要な人間的事実ではない だろうか 。
(...) レヴィ=ストロースのこの[『神話論理Ⅰ』の序曲における]音楽論は今日、アマチュアの音楽愛好家によるいくぶん狭量な現代音楽 批判と見なされることが少なくない。しかし、彼の議論を裏側から読み返すなら、二十世紀の西欧社会において、楽音という極めて抽象的な素材を用いて神話的 思考を維持してきた近代西洋音楽さえもが、もはや成立不可能になってきたということ、そして、セリー音楽やミュージック・コンクレート―そしてそれ以降の 様々な音楽上の革新―はそうした近代西洋音楽の「廃墟」から出発するものであること、を鋭く指摘するものとみることもできる。
(...) 背後にコードが共有されていることがもはや自明ではない言葉や音や事物や映像の表層から、そこにありえたコードの痕跡ないしあり うるコードの可能性を注意深く読みとりながら――時にデュシャン風の「レディメード」の深読みでも行いつつ――それらを織り合わせ、いうなれば一種の「具 体の音楽」を作り出すことによって、一瞬の間、「自然」の真理を表出させること。そうした作業を我々は今日、意識の有無、成功の成否に関わらず、我々の生 そのものの意味を確保するために、密かに行うことを余儀なくされているのではないだろうか。
「イメージの人類学のための理論的素描」(2008)
「イメージの人類学のための理論的素描-民族誌映像を通じての「科学」と「芸術」」、『文化人類学』、第73巻2号、2008年、180-199頁 (→ download)
フィールドワーク初期の人類学者にとって、多くの事物は不確実な形でしか既知の「かたち」と結びつけられないものであり、時に 「かたちをもたない」イメージでもある。経験の蓄積の中で、人類学者は自らを取り囲むイメージをしだいにより安定した「言語・記号システム」(現地のそ れ、自言語等のそれおよび分析上のそれ)と関係付けてゆくが、しかしそこで対象が生き生きとした形で捉え続けられている限り、「かたちをもたない」イメージの次元は消えないだろう。
民族誌映像とは一体何だろうか。第一にそれは、撮影者の意図(「何を撮るか」)のもとで制作される以上、基本的には「かたちをもつ」イメージである。しかし同時に、一般に映像というものは、ジョン・バージャーの言葉を借りて言えば「意図性において弱い」、「意味において弱い」ものであり 、だからある部分不定形で、多様な解釈を許容するものでもある。究極的に言えば、民族誌映像自体は、「かたちをもつ」「かたちをもたない」という区別が未決定な状態でフィールドの「イメージ」を提示するものである。
第二に、民族誌映像は、撮影者のフィールドでの知覚そのものを記録したものではなく、カメラという機械により一定の撮影条件下でそれを記録したものである。それは一方で撮影者の知覚を反映しつつも、他方で撮影者の知覚から外れたものをも必然的に含むのであり、だからこそ我々は自らが撮った写真にえてして意外なものを見出し、驚くのである。民族誌映像とはつまり、撮影者の「人称的な」視覚とカメラの「非人称的な」視覚とが曖昧な形で共存したものである 。
第三に、民族誌映像(特に民族誌写真)は、「非人称的なもの」を含んだイメージであるにも関わらず、フィールドを離れた人類学者にとって自らの「フィールド経験」の記憶の重要な結節点となるのであり、そのような形で、人類学者の言葉による研究実践にも秘かに影響を与えてゆくものである。19世紀末から今日まで、民族誌映像は(その学問的可能性を抑圧されつつも)暗黙のうちに人類学的実践の全体と関わってきたのであり、人類学者が自らの内なるイメージ記憶と写真(後には映像一般)との間で営んできた関係は、人類学的思考の(大部分は)非反省的な、しかし重要な一部分を構成してきたのである。その意味では、すべての人類学者は――常に・既に――映像人類学者だったと言えるだろう。
マリノフスキーは、フラハティと並ぶ映像人類学の創始者と呼びうるかもしれない。当時の非常に困難な撮影条件(重て扱いにくい機材、長い露出時間、熱帯特有の湿度…)のもと、彼はトロブリアンドで大変な時間と費用と労力をかけ、綿密な撮影プランを立てつつ1000枚以上の写真を撮影する。それらの写真は、彼の民族誌的著作の中にきわめて豊富に(『遠洋航海者』には75枚、『未開人の性生活』には92枚、『珊瑚礁の菜園と呪術』では116枚)収められているが、それだけではない。E・サマンが例証したように、彼の民族誌は、写真と本文との間の頻繁な相互参照を通じてイメージのレベルと(それ自体が視覚的イメージに富んだ)文章のレベルが読者の頭の中で並行して発展してゆくよう注意深く編まれており、それは今日のハイパーテクストの先駈けでさえある。確かに彼は、映像を用いて民族誌的対象を捉え、映像を用いて自らの研究成果を表現するという明瞭な意図を持っていた人であった。
ベイトソンの人類学的思考は、マリノフスキーに劣らず映像と深く関わるものであった。「結晶の構造と社会の構造とに同じ法則が支配しているかもしれない」と考え、レベルの異なる対象間で視点移動することを身上とした彼の思考スタイル自体、ショットサイズを変えて様々な大きさの事物を同列に置くことのできる映像メディアと本質的に親和的なものだっただろう。具体的にも、彼はバリ島で、イアトムルの「分裂生成的シークェンス」を念頭に置きつつ(ロールフィルムを積んだライカで可能な)連続写真や映画カメラによる撮影を大量に行ったが、彼が撮影したのはまさにシークエンスショットであった 。ライカのカメラでは、カメラを大きく寄せて被写体の一瞬の表情を捉えることが可能だが、これも彼がこだわった文化の「手ざわり」を考える上で大きな助けになったと思われる。
『ブラジルへの郷愁』の一連の写真で特に印象的なのは、ライカを手にした「写真家レヴィ=ストロース」の視点の自由さである。マリノフスキー的ロングショットとは無縁のクローズアップ写真。ベイトソン的連続写真とは全く無縁の形で被写体のアクチュアリティを鋭く切り取ろうとするキャンディッド写真(ナンビクワラの一連のスナップ写真はその白眉である) 。狭義での人類学的関心から自由になり、むしろ芸術的性質を身に纏ったようなこれらの写真は、記述的な民族学的論文「ナンビクワラの家族・社会生活」の中ではいかにも座りがわるいが、人類学と文学とが不可分に融合した『悲しき熱帯』の中では本文と見事に一つの全体をなしている。
要約すれば、民族誌映像とは、撮影者の「人称的」視線の完全な支配下にあるのではなく、むしろ被写体の身体の無言の影響力を受け(モンダダ)、時には撮影者をある部分素通りして被写体自身の関心をほとんど直接的に反映し(オロビッチ)、それゆえ、人々の内面にあるイメージ的思考のほとんど直接的な表出(ワースとアデア)とも連続線上にあるものなのだ。(...) 民族誌映像の制作においては、撮影者も被写体も、ある「動き」の中にあるのであり、民族誌映像とはそういった流動する現実の中 で、撮影者と被写体が相互に影響しあい、ある部分両者の意図が識別不能になりつつ、制作されるものなのである。(...) こうした相互影響の関係は今日しばしば「共同制作」と呼ばれるが、そこに主体間の意識的な協力関係以前の抜き差しならない関係が含まれていることは見落と せない。それはドゥルーズのいう、本来無関係な物同士の同時的な生成(devenir, becoming)とみることもできる。
アクションを全体として捉えるフラハティのショットはマリノフスキーのロングショットに似ているし、また周囲の事物との関係の中で人間的ドラマを展開するフラハティの映画的語りは、機能主義のそれに似ていなくもない。こうしたことは、フラハティがマリノフスキーと同様にフィールドの現実を熟知していたこととも無関係ではないだろう。しかし、両者の類似点はそこまでである。アザラシ狩りのショットのような全体志向的なショットをカット編集に組み入れつつ、映像の具体性の中で「全体」を表現しようとし たフラハティの手続きは、言葉の抽象能力を利用したマリノフスキーの手続きとは異質なものである。そして、フラハティがそこで表現した「全体」とは、マリノフスキーのそれのような客観主義的な分析の中で想定される「社会構造の明瞭で確実な輪郭」ではなく、むしろ撮影者と被撮影者が不可分になり、客観的現実 と主観的現実が不可分になるような瞬間に忽然と、「認識と同時に啓示でもある」ものとして現出してくる特別な「全体」であった。
人類学から見た「映画=トランス」の意味は何だろうか。第一に、それは被写体の現実の直接的な「憑依」によって生まれるがゆえに、人類学者の思考が持ち込みがちな西欧/非西欧、伝統/近代といった区別を最初から越えたものである。例えば《狂気の主人たち》は、「ハウカ」(ハウサ語で「狂気」を意味する)という、植民地を支配する白人がもたらした事物の憑依霊が人々に憑く様子をカメラに収める。ルーシュはこの強烈に伝統的でありながら同時に強烈に近代的でもある現実を、それをどう人類学的に言語化=カテゴリー化するか苦慮することなく、ただそれによって「憑依」されつつそのままフィルムに焼き付けたのである。第二に、「映画=トランス」は客観的現実と主観的現実の区別を越えたものである。例えば《私は黒人》や《ジャガー》のオフ・ナレーションを任された登場人物たちは、客観的説明を最初から放棄して自由に語り始めるが、しかしそのようにして、彼らの主観的現実が客観的に観察可能な形で提示される、という新しい状況が生まれる。映画作家としてのルーシュは、演出による劇映画をも撮っているが、「映画=トランス」にとって、フィクションであっても、もしそれが撮影時の被写体とカメラと撮影者の直接的な交流を失わないならば、それはある種の民族誌的ドキュメントなのであり、ルーシュのいう「映画=人類学」(ciné-anthropologie)の一部を構成するものなのだ。
なぜガードナーは、こうした超=人間的なショットを多用するのだろうか。それは彼にとっての人類学が、社会文化的システムの客観主義的研究ではなく、「人間的現実をその本質が顕わになるように捉えること」であり、カメラは、その「人間的現実」が深く根ざすところの物質性を鋭く示すからである。例えば《砂の川》の鞭打たれる女性たち、《深い心》の化粧する男性たちは、単なる社会文化的存在ではなく、身体の物質性に深く根ざした存在なのであり、また《至福の森》の、ベナレスの死にゆく人々は、彼らを取り巻く事物と同じように、破壊(死、腐敗)と生成の間に常にある、自らの身体の抜き差しならない物質性と直面している人々なのである。音声面でも、例えば《至福の森》における、川を行くボートのオールのきしむ音、木を切り倒す音、関節炎を患う人物が階段を下りながら呻く声といった、物や身体の物質性を伝える音声を、ガードナーはあえて音量を上げて強調する。ガードナーの映画は、ある意味でルーシュのそれに劣らず「映画=トランス」であると言えるかもしれない。ただ彼の場合は、人間の身体をも含めた「物質的なもの」によって「憑依」されるのである。
冒頭で、我々はカメラによって「様々な意味の世界からただ一つの存在の世界へ」、「言葉の局部性の網の中でもがいている世界から、静かで澄みきった、そこで精神がくつろぐことができるような全体的世界へ」導かれるのだというフランシス・フラハティの言葉を引いた。いくぶん神秘的にさえ響くこの言葉が、しかし決して空虚なレトリックではないことは、もはや明らかだろう。イメージをイメージとして眺め、そこに身をおいて思考する時、確かに、かつての人類学者が考えた社会文化的全体とは異なった意味での、ある「全体」が垣間見えてくるのである。
付け加えれば、ここで主張したいのはもちろん言葉による人類学の否定ではない。そうではなくて、「彼ら」と「我々」が不可避的に混じりあうような「イメージ」の次元を直視することにより、イメージと言葉の両方のレベルで、よりダイナミックな人類学――イメージの直接性を取り戻し、同時にそうしたイメージと言葉との間の交流を取り戻すような――を再創造できるのではないかという希望である。それが実践されるとき、マリノフスキー以来ずいぶんと離れてしまった人類学の中の「科学」と「芸術」も、再び和解に向かうのかもしれない。
コメント: この論文は映像人類学・民族誌映画を対象に、一種の小手調べとして、イメージの人類学のいわば「特殊理論」を展開したものです。その背景にあったのは、イメージの概念を土台に人類学の全体を新たな角度から見据える、イメージの人類学の「一般理論」の樹立という大きなプロジェクトでした。こちらは単行本『イメージの人類学』(せりか書房、2018年)で実現しています。(2018.4.29 追記)
「映像・光・スピノザ」(2007)
「映像・光・スピノザ―「内在性の映画」の示すもの―」『思想』999号(2007年7月号)、143-165頁 より
(...) 映画の中の諸存在が、人物や事実や風景であると同時に、究極的には同一の光である、あるいは、究極的には同一の光に内在するという事 実が映画作家によって考え抜かれる時、映画的思考は、あらゆる存在がそれ自体であると同時に、究極的には同一の神=自然であると考え抜いたスピノザの「内 在性」の哲学と、興味深い反響関係を営みはじめるように思われる。
(...) 光の内在性を徹底的に探求した映画作家たちが、同時にこのような生の根本的な事実を我々に示してきたのは、不思議なことではない かもしれない。なぜなら、我々の生そのものが、光によって周囲の事物や風景を認識し、光によって直接、間接に与えられたエネルギーを摂取する中で営まれて いるのであり、その意味で、映画的存在と我々自身の存在の間には、最初から並行関係が存在しているからだ。
(...) ドライヤーがフィルムに焼き付けた「光=イメージ」は、従って、俳優たちのアクションに焦点を当て、ストーリー上の意味の明確さ を強調する古典的な照明によるものとは根本的に異なったものである。それは、人間同士が繰り広げるドラマを含みつつも、それと同時に、人間を取り囲む事物 や自然の全体が与える光と関係しあい、それを眺める我々を、人間中心的視点の狭隘さを脱出した地点へと運んでいくのである。
(...) キアロスタミは、彼の風景写真集に収められたインタビューで「自然は、様々なスタイルと方法で描く、素晴らしい画家なんだ」と 述べ、好きな画家は誰かと尋ねられると再度、「私が一番好きな画家は自然だ」と答えているが、それに倣って言うなら、彼にとって自然こそが最高の映画作家 なのだ。そして、この自然という言葉を広い意味で理解しても、キアロスタミの考えには反すまい。《10話》が素人俳優を用い、彼らの、彼ら自身の日常性に 基づいた自然な演技を重視するのも、そうした俳優たちが自然の一部を構成するからである。そして究極的には、映画監督も――そして観客も――自然という唯 一の制作者の一部なのであり、その唯一の制作者の一部として、つねに制作者であり続けるのである。
(...) ほとんど無限に緩慢な時間の中で、黒い塊は犬となり、青い海は白くなり、空と、さらに陸と不可分になり、すべてが真っ白になっ て、その中に犬や波を吸い込んでゆく。この《5 five~小津安二郎に捧げる~》の第三エピソードほど、映画のイメージが「光=イメージ」であり、そして我々自身の存在が、自然=神の白色光の中にある ことを見事に示した映像は存在しないのではないだろうか。
(...) この映画[ビクトル・エリセ《マルメロの陽光》]の面白い点の一つは、エリセが、アントニオ・ロペスによる「マルメロの木に含 まれた宇宙全体」との対話が決して牧歌的な自然の中で営まれたものではないことを明白に示していることである。ロペスの内庭には近くを走る電車の騒音が響 きわたり、その周囲には都市郊外の団地のビルが広がり、そして夜は、たくさんの住居にテレビの光が燈る。ロペスが絵を描くときに好んで聞くクラシック音楽 のラジオ番組は、時折音楽を中断して国内や国外の時事ニュースを伝える。ロペスがそれでも一本のマルメロの木を描き続けるのは、そうした様々なもの(電 車、団地、テレビ、ニュース)がやはり「マルメロの木に含まれた宇宙全体」の一部をなしていると彼が考えるからであり、そして、そうしたロペスの姿をカメ ラで追うエリセも同じように考えるからである。なぜだろうか。それは、どんなに我々が我々自身の生活を人工的なもので覆ったとしても、我々が、マルメロの 木と同じように、白い光の中で――太陽の光だけでなく、テレビ画面の光も、そしてもちろん、映画を映し出す光も含めて――そこからエネルギーを受けて生活 を営んでいることに変わりないからである。