断章1998-2002
「アイデンティティの識別不能地帯で」(2002[1997])
「アイデンティティの識別不能地帯で-現代マプーチェにおける「生成」の民族誌-」、田辺繁治・松田素二編『日常的実践のエスノグラフィ-語り・コミュニティ・アイデンティテイ』、世界思想社、2002年、214-234頁 より
(...) 今日、一口に「マプーチェ」といっても、その実態は著しく多様である。彼らの村を訪ねても、かなり昔ながらの生活を送っているようにみえる伝統主義的なマプーチェから、チリ的生活様式を大幅に取り入れたマプーチェまで相当の振幅がある。中には、伝統的儀礼への参加を完全に拒否しているマプーチェ(概してキリスト教プロテスタント諸派に改宗した人々)も少なからず存在する。他方、都市部(首都サンティアゴや地方都市テムコ)に居住する人々の間にも、夏休みに毎年帰郷して居留地との繋がりを密接に保っている人々から、もはや居留地との繋がりを完全に断ち切り、単なる「チリ人」として暮らしている人々まで、非常に大きな差異がある。それだけではない。こうした多様性の内奥に、さらに、複雑で多方向的に変動するプロセスが存在するのである。例えば、伝統主義的な生活を守っていたマプーチェがある日突然、プロテスタントに改宗して儀礼への参加を一切拒否する。或いは、都市に何年も住んでいたマプーチェが故郷に戻って伝統的儀礼に熱心に参加するようになる。
(...) 思考の中で、たえまなく「自己」が「他者」になり、「他者」が「自己」がなるという、このような状況を、どう理解したらいいのだろうか? いいかえるなら、「なること、生成(devenir)」の局面があらゆるところで表出しているような、こうした状況をどのように把握したらいいのだろうか? ドゥルーズは、「生成、変化、変動とは、構成された形態(formes composes)ではなくて、構成していく力(forces composantes)とかかわるものである」と述べている。つまり、ドゥルーズによれば、あらゆる生成、変化の状況を真に把握するためには、「既に構成された形態」から「そうした形態を構成していく諸力」へと視点を移動しなければならない、というわけである。この立場からいえば、根本的な問いとは、次のようなものになるだろう。つまり、伝統主義的マプーチェ、プロテスタントに改宗したマプーチェ、チリ的生活に適応したマプーチェ、都市に住むマプーチェ、といった「すでに構成された」アイデンティティの社会文化的形態の内奥において、そうした諸形態を「構成してゆく諸力」の間で、一体何が起こっているのだろうか? まさにこれが、私がこの論考で「生成」の民族誌として扱おうとする問題にほかならない。
(...) 人間とその「祖先に由来する、思考する魂」との関係には独特の曖昧性がある。この曖昧性は、マプーチェの人々が、スペイン語でこの魂に言及する時に明白になる。彼らは、一方ではそうした魂を「持っている」(tener)という表現をするのだが、他方で、そうした魂が主体になって夢を見たり儀礼的会話を行ったりするという文脈では、彼ら自身がそれらの魂「である」(ser)というのである。この「祖先の魂を持つ(tener)」と「祖先の魂である(ser)」との間の見かけ上の矛盾は、マプーチェ的思考の本質的にダイナミックな性格をそのまま反映したものにほかならない。つまり、彼らが「持つ」から「である」へと移行するとき、彼らは祖先に「なる」のである。そして、この祖先に「なる」瞬間は、まさに彼らが祖先の真実を語り、あるいは祖先の霊的能力のもとで夢を見、あるいは祖先の力を運用する瞬間に他ならないのである。
(...) あるマプーチェは、自分たちの状況を要約して次のように言った。「今日、私たちは、誰一人例外なく、何らかの罰を背負って生きています。私たちの生活は、ウインカの物事だらけになってしまっているから、これはもう避けようがないのです」。このようなわけで、マプーチェの人々は、一方では、その「祖先に由来する、思考する魂」をもって生まれることによって、祖先の知識と力とを獲得する可能性を持つのであるが、他方では、残念ながら、今日彼らが生きている状況ゆえに、彼らはこの魂の恩恵を受けるどころか、この魂を持っているがために受ける「罰」を、事実上逃れられない運命になってしまっている。そして、少なくとも伝統的な意味で「マプーチェ」でありつづける限り、彼らが、このきわめて重苦しい論理から抜け出すことは不可能なのである。
(...) 必要なのは、表面的な「形態」(伝統主義者、プロテスタント、都市に住むマプーチェなど)を乗り越えて、様々な異質な「力」(一方で伝統的なマプーチェ的真理やマプーチェ的力、他方でキリスト教を含めた欧米的文化の浸透したチリの文化に内包される真理や力)が同時に、しかし不揃いな形で作動している場所へと向かうことである。この場所を、もはやマプーチェ、ウインカといったアイデンティティ(同一性)が確定不能になっている場所という意味で、アイデンティティの「識別不能地帯」と呼んでおいても良いだろう。
(...) この論考では、今日のマプーチェ社会の人々の生を、「生成」の民族誌として把握することを提案し、その素描を試みた。ところで、このような形で人類学者が「生成」を捉えようとする実践と、彼ら自身の社会文化的実践との間には、一体どんな関係が存在しうるのだろうか? 私はこの点に関し、人類学者自身がその学問的実践を行なう場所は、今日のマプーチェの人々-そして同様の状況を生きる世界の様々な地域の人々-がその未来を創造しようとして行き来するアイデンティティの識別不能地帯と、実は、じかに連結しあっているものと考える。実際、長期間のフィールドワークを通じ、特定の民族誌的現実の中に深く潜入することによって、人類学者は、単に社会文化システムの「すでに構成された形態」だけでなく、その背後にある「構成してゆく諸力」にも次第に接近してゆくようになる。そして、そうした研究対象の社会の「構成してゆく諸力」との接触の中で、人類学者自身も、何らかの意味でアイデンティティの識別不能地帯へと踏み込んでゆくのであり、そこから新しいものを創造しようとする人類学者の営みは、どこかで、マルガリータやセバスティアンやレオネル・リエンラフのような人々の営みとも反響しあうのである。
「マプーチェ社会における口頭性」(2000[1997])
「マプーチェ社会における口頭性-思考と存在の様式としてのコミュニケーションの様式-」、 『国立民族学博物館研究報告』25巻2号、 2000年、177-202頁 (→download)より
(...) ソクラテス=プラトンによる口頭的心性の批判を、マプーチェの事例とつきあわせてみるのはなかなか興味深いことである。というのは、ソクラテスの企てとは、ある意味で、先に指摘したマプーチェの口頭伝承に関する五つの特徴のそれぞれを攻撃するものに他ならない、ということができるからである。つまり、彼は、直接話法を間接話法に直させ、感情的同一化を廃し、オートマティスムに向かいがちな語り手をたえずストップさせ、語りの一語一句の内容を調べることによって、「既知のもの」の彼方にいくことを目指したのであった。ところで、ここで同時に指摘したいのは、このソクラテスとマプーチェたちの想像上の対面は、どこか人類学者とインフォーマントの関係を思い起こさせるところがある、ということである。口頭的心性を生きるマプーチェのインフォーマントを前に、人類学者はしばしば、相手の語りをストップさせ、発言を一語一語調べ、客観的な情報、正確な情報を獲得しようと努力しつつ、知らず知らずのうちにソクラテスの役を演じてきた。人類学者の目的が、「詩人」たちを相手に真理の闘争を行なっていたソクラテスとは異なって、むしろ口頭的心性を生きる他者を理解することにあるとすれば、これはいささか皮肉な状況である。
(...) これらのフランシスカとアントニオの事例[どちらも夢の中で本人が必要としていた知識を与えられる夢]は、その社会文化的背景を考慮するなら、まったく不思議なことではない、ということができる。というのは、マプーチェ社会の口頭的性格からいって、どちらの事例もおそらく、彼らがすでに口頭的な形で(たとえば口頭伝承の一部として)ほとんど無意識のうちに身につけていた知識が、夢の中で具体的なイメージと化して現れたものにほかならない、と考えられるからである。(...) そこで述べたように、マプーチェの「会話」は、現在の必要という基準にもとづいて引用された口頭伝承の連鎖、と考えることができる。実は、夢で起こることは、これとほとんど同一のことなのである。つまり、夢を見ている人は、現在の必要という基準にもとづいて(フランシスカの場合は薬草の知識、アントニオの場合は儀礼のための知識)、口頭伝承に含まれた必要な知識を想起し、これを夢の形で具体化した、と考えられる。ここで、マプーチェの「会話」が、半ば無意識的=自動的(あるいは自己催眠的)な状態で行なわれることを思い起こすなら、「会話」と夢見の類似性はさらに明白になるだろう。
(...) マプーチェの人々にとって、夢を通じて得られる知識が、夢を見た個人がすでに身につけていた口頭伝承に由来するものであるか否か、などという問題は、どうでもいいことだといえる。彼らにとって重要なのは、すべての真理は、最初から、つまり世界と人間とが生まれた瞬間から存在していたことを理解することであって、だから、彼らにとって、知識は、「想起」(konumpan)としてしか存在しえない。「夢」を表わすマプーチェ語、ペウマ(peuma)の語源は、こうした彼らの思考様式を見事に表現している。ペウマとは、「すでに見たもの」を意味するのである。ここで、「想起」(konumpan)をめぐるマプーチェ的思考と、プラトンの想起説の間の興味深い類似性に言及しておくのは、無意味ではないだろう。マプーチェの人々にとってと同様、プラトンにとって、あらゆる真理は原初から存在するものであり、そして、彼にとって不死の存在であるところの人間の魂は、最初から真実を知っている存在であった。だから、プラトンにとっても、知識はただ「想起」(anamnesis)としてのみ存在しうるものだったのである。類似しているのはこの点だけではない。例えば、プラトンにとって真実の想起の出発点であったところの「驚き」は、(...) マプーチェ的な真実の「想起」のプロセスにおいてもやはり存在している(ただし、マプーチェ的な「想起」の場合、「驚き」は知識に先立つのではなく、「知識」の後にくる、という意味深い差異も存在している)。さらに、ギリシア語のイデアという言葉が、本来「見られたもの」を意味するものであることも付け加えておいてよいだろう。もちろん、マプーチェの「想起」(konumpan)とプラトンの想起(anamnesis)との間に、真実に到達する経路に関して決定的な相違が存在することも、忘れてはならないだろう。マプーチェの場合、それは、夢見や自動性(オートマティスム)のような無意識的プロセスを通してであるが、プラトン主義においては、(プラトンの意味での)「ロゴス」を経由してであって、それはまさに無意識的過程を排除することによってはじめて成し遂げられるのである。
(...) マプーチェの人々にとって、夢とは、知識の源泉だけではなく、行為のための推進力にもなるものである。フランシスカもアントニオも、夢のあと、しかるべき行動をとった。フランシスカは夢で教えられた通りに薬草を探しにいき、アントニオは、夢を見てから三カ月後、村で開かれたカマリクン儀礼の中で、夢の中で教えられた通りに祈り手の役目をつとめた。ここで、マプーチェの人々にとって、夢の中のメッセージが深く真実性を含んだものであることを考慮するなら、こうして夢に促されて行なう行動こそが、彼らにとって、あらゆる可能な行動の様式のなかでもっとも「真なる」行動である、と考えることができる。それは、いうなれば、神の意志にもっとも忠実な行動の様式なのである。
(...) 少なくともマプーチェのケースに関する限り、口頭性とは、単に知識や情報を伝達する仕方にとどまるものではなく、ある独特の世界と人生の理解の仕方、ある独特の超個人的な無意識=身体のあり方をも意味するものであって、この口頭的な思考と存在の様式は、プラトン主義、あるいは、近代的主体性に基づいたどんな哲学にも少しも劣らない、独自の深みを持ったものでありうるのである。
「文化人類学が変わる」(1998[1996])
「文化人類学が変わる」、 船曳建夫編 『文化人類学のすすめ』、筑摩書房、1998年、171-188頁 より
(...) 映画、精神分析、人類学的フィールドワークがほぼ同じ時期に誕生したことは、おそらく単なる歴史的偶然ではないと思われる。というのは、この三者は、「日常的な現実の外にある世界と、何らかの一貫した形で正面から向き合うことを主眼とする」、という点でよ く似ているからである。(...) 人類学的フィールドワークは、異なる文化を生きる人々の現実を、旅行者が写真をとるような外面的かつ断片的なやり方ではなく、できる限り彼ら自身の内面に接近しながら、自律性をもった全体として把握することを目指す。このために人類学者は、フィールド ワークの期間中、現地の人々と生活を共にし、自らの生身をもって彼らとかかわりあってゆくのである。映画・精神分析・人類学的フィールドワークの向き合う 現実は、どれも、近代的な意味での「自己」に対しての「他なるもの」(いわば近代的自己の「夜の部分」)の空間である。フィールドワークの「フィールド (場)」という、いくぶんロマンティックな響きをもつ言葉は、こうした、ある空間的広がりをもつ「他なるもの」の性質をよく表現している。(...) ここで、フランスの 哲学者M・フーコーが、『言葉と物』の中で、人類学(民族学)と精神分析を、人間諸科学(心理学・社会学・文学神話研究など)に対する「反=科学」として 位置づけていたことが思い起こされる。フーコーによれば、十九世紀ヨーロッパに形成された「人間」諸科学は、普遍的真理を標榜するにもかかわらず、実際に は、ごく危うい「人間」の概念(近代的「自己」の概念といってもよい)を基盤にして構築された、疑似科学にすぎないものだった(...) 。このような人間諸科学に対し、「反=科学」たる人類学と精神分析は、「他なるもの」の世界、近代的主体にとっての「夜の部分」に正面から 立ち向かい、これらの疑似科学が主張する「普遍的真理」の相対性を明るみに出してゆく。
(...) この「反=科学」的実践の意味をよりよく理解するためには、人類学と同年輩でしかも誰にとってもなじみの深い、映画と比べてみるとよいかもしれない。暗闇 の中に映し出される映画を見ながら、私たちは、知らず知らずのうちに、スクリーンの向こうの世界と自分の生きる世界とを交錯させてゆき、そうした中で、自 分がふだん周囲の世界と関わってゆく姿勢に一種のゆさぶりをかけている。印象深い映画であればあるほど、そうした「ゆさぶり」の経験は、映画を見たあと、 意識するにせよしないにせよ、自らのものの見方に影響を与えてゆくだろう。同様に、人類学者の場合、フィールドにあまりにも長い期間(典型的には一~二年 以上)滞在するがために、現地に住む人々の身体的=文化的習慣が人類学者の無意識のレベルにまでしだいに浸透して、その内面は大きな「ゆさぶり」をうけ る。そして、人類学者が調査者としてフィールドに持ち込んだ一連の学問的枠組みは、こうした「ゆさぶり」の中で再検討を余儀なくされることになる。人類学 者が調査の後に書く著作は、一定の学問的枠組み内での貢献であるとともに、こうしたフィールドでの「ゆさぶり」の経験(それは学問的枠組み自体が受けた 「ゆさぶり」でもある)の余韻を確実にとどめたものになる。そしてそのことがおそらく、優れた人類学的著作を、骨格となる理論的枠組みが古びてしまった後 も失われない価値をもつものにするのである。人類学が文学でないことは明白だが、にもかかわらず人類学の古典的諸著作(マリノフスキーの『西太平洋の遠洋 航海者』、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』など)が陰に陽に文学的要素を含んできたことは、こうした事情と無関係ではないだろう。
(...) ここで指摘したいのは、ヴァーチャル・リアリティーが生み出すこうした異質なもの同士の「結び目」に似たものは、ある意味で私たちの現在の生活 の中にもすでに存在しているということである。映画やテレビは、ヴァーチャル・リアリティーに比べれば、画面の中の世界と私たちとを隔てる平面的な「スク リーン」に過ぎないが、しかし私たちがこれらの画面の中の世界から日々多大な影響を受けているという意味では、すでに疑いなく画面の内と外との「結び目」 の役割を果たしている。また、それらの画面の中のイメージは、二次元的かつアナログ的な限界の中で、相互に異質なイメージを様々に結び合わせたものになっ ている。さらに、私たちが住む環境自体も今や、自然的なものと人工的なものとが至るところで結び合ったものだといえるし、電話や衛星を通した通信はますま す物理的距離の意味を減少させ、留守番電話は、ごく単純な形ではあるが、ある種の代理人格としてすでに機能している(...)。
(...) この問題に関して大事なのは、異質なものが織りなす多様な「結び目」にいかに驚かされようと、今日の世 界を単なる文化的混沌とみてはならないことである。迷宮が一定の仕組みをもつように、この文化的迷宮にもそれなりの仕組みがある。この点で、ヴァーチャ ル・リアリティーに関するP・ケオの次の指摘は重要である。彼は、自然的現実がヴァーチャル・リアリティーと混淆すればするほど、身体の問題が浮き彫りに なってくると言う。なぜなら、人工的=模擬的な現実にいかに深く浸りきったとしても、私たちの身体(表象でもデジタルでもなくて、なまの身体)が、私たちの人生の出発点であり終着点であることは、変わりえないからである。まったく同様に、今日の文化的現実が異種混淆的なものになればなるほど、最終的には、 そうした現実がこの身体との関係において存在意義をもつものである点が忘れられてはならない。文化的迷宮に点在する様々な「結び目」は、もっとも深い部分で、私たちの身体と、たえまないフィードバックを営みながら存在している。今日の文化的現実をよりよく理解するためには、混淆や多様性といった特徴を、人間的現実にとって本質的な、こうした身体に根差した秩序化(あるいは組織化)への力との関係の中で把握することが不可欠である。
た とえば、さきにふれたチリの先住民マプーチェのケースで、伝統的なものと都市的なもの、マプーチェ語とスペイン語が混じり合うといっても、その様相を詳し く検討すれば、それらの混じり合い方には一定の組織性があることがわかる(...)。また、ガルシア=カンクリーニの出会った民芸家たちが、伝統的な民芸の中に現代ヨーロッパ美術を混ぜ合わせるといっても、ほとんど疑いの余地なく、それは何もかもの混合ではなくて、彼らがこれまで身をもって生きてきた習慣とイマジネーションに従った、一定の選択的、組織的な混合のはずである。さらに、現実にあまりに無秩序に近い文化的混合が生じた場合、人間がそ れに対して抵抗を示すことは、ガルシア=カンクリーニが調査した、メキシコ北部のアメリカとの国境の町ティフアナの事例がよく示している。アメリカへの入 国の拠点としてメキシコ全土から続々と人が集まり、毎日たくさんの人々が国境の南北を行き来し、スペイン語と英語が始終飛びかうティフアナで、そこに比較 的長く住んでいる人々は、自分たちを、単に町を通過していくだけの人々とは別枠の文化的存在(アメリカ文化にも中央メキシコ文化にも吸収されることのない 独自の存在)として考えようとし、時には「流れ者」たちを差別的な視線で眺めさえする。
(...) こうした人類学の実践はまた、一方で学問的厳密性を保ちつつも、小説や映画を創る実践とどこか類似したものになってゆくはずである。実際、新しい人類学が 問題をただ局所的、具体的な形でしか立てることができないのは、小説や映画の構想が局所的、具体的な形でしか立てることができないのに似ている。そして、 新しい人類学がその研究の結末に目指すものは、かつてのような何らかの学問的「結論」ではなく、「結び目を解くこと」、つまり、「結び目」の問題を局所 的、具体的な場の中で「解決」することであるが、そこでの「解決」という言葉の意味は、ちょうど小説や映画の結末で、それまでに編まれてきた複雑に入り組 んだ内容が、ある種の喜び(カタルシスといっても生命の肯定といってもよい)とともに「解決」される、という際のこの言葉の意味にきわめて近いものになる はずである。
「先住民・近代・人類学」(1998[1993])
「先住民・近代・人類学-チリ南部マプーチェ社会をめぐって」、大貫良夫編『文化人類学の展開-南アメリカのフィールドから』所収、北樹出版、1998年、193-213頁) より
(...) [マプーチェの人々の社会経済的実践の中の]非資本主義的原理は,彼らの日常生活のなかで,しばしば資本主義的原理と衝突しつつも強くその存在を主張する。彼らは,一方では商品としての家畜の生産を行い,必要とあらばみずからの労働力を売って,市場経済の論理を完全に理解していることを示すのであるが,他方では,これとまったく反する,別の論理に従って行動するのである。そして,この<別の論理>が働く時こそ,彼らが,「我々はマプーチェなのだから・‥」と語りつつ,誇らしげに行動する時なのである。
(...) C・スミスは,市場経済の原理の侵入が農民社会に自動的に階級分解をもたらす,という,多くの論者が暗黙に認めている仮定に疑義を挟む。彼女は,グアテマラの民芸品製作者の経済についてのデータを踏まえ,市場経済の階級分離的な力は,ひとたび労働者が生産手段から切り離された後にはじめて発揮されるのであって,自然な条件下では(たとえば政府による介入などが行われない場合には),非資本主義的生産形式が資本主義的生産形式によって完全に駆逐されることはない,と論じる(...)。このように見れば,マプーチェの人々が,一方で資本主義経済と深く関わりながら(実際彼らはそれとかかわらずにはもはや生きていけない),他方で資本主義経済の論理の支配に対しては,これを拒絶し,抵抗を続けているのは,決して孤立した事例ではないのである。しかし,もう一方で,彼らの抵抗に対する圧力も強まっている。居留地はもうこれ以上経営単位を細分化できないところまで来ており,一家の子供たち皆が成人後も居留地に留まって生活することはできない。結局,多くの若者は,首都サンティアゴに職を求めて移住し,新しい生活様式を身につけてゆく(若者男子の44%,女子の49%が都市に移民する。他方,農地面積の縮小が,農業の集約化,近代化の方向への圧力となっていることも明らかであり,都市から戻ってきた若者たちによる文化的影響も相侯って,人々の生産に関する思考様式にも,少しずつ変化が生じてきている。(...)
(...) 社会経済的な領域において展開されているこのようなドラマは,また,彼らの生活様式の全体をめぐるドラマでもある。アルテュセールは,1つの社会の中に複数の比較的自律的な領域が共存していることを,複数の時間性が共存し節合している,と表現したが,それに基づいて述べるなら,ここで問題になっているのは,資本主義的な時間性と,非資本主義的なさまざまな時間性とのせめぎあいであり,それはまた,近代的な存在のあり方と,非近代的な存在のあり方のせめぎあいであると言えるだろう。結局,前節で文化変容の問題として論じ,この節で資本主義の問題として論じたことは,マプーチェの人々が<近代>にどう取り組んできたか,という大きな問題の,それぞれ一側面だと考えることもできるのである。
(...) この章では,マプーチェ社会を例に取り上げながら,レヴィ=ストロースが気付きながらも真剣な検討の対象とすることがなかった<文明化されたインディオ(先住民)>の問題を考えてきた。そうした作業から浮かび上がってきたのは,レヴィ=ストロースの記述の中では<野生の思考>に戯れる他者としてしか登場しない彼ら先住民が,我々と同じように伝統と近代のはぎまで,さまざまな葛藤を生きている姿であった。近代を生きること,それは,アメリカの文芸批評家マーシャル・バーマンによれば,「我々に冒険,力,喜び,成長,我々自身と世界の変化を約束するとともに,我々の持っているものすべて,知っているものすべて,あるいは我々自身をも破壊するかもしれないような状況に生きること」であり,「今日,世界中の人々に共有されている人生の経験の様式」である[Berman1983:15]。忘れてはならないのは,南アメリカの先住民たちもまた我々と同じく,一方で新たな自分を実現する可能性を開いてくれる,こうした近代に魅惑されていることである。そして一度この近代の魅力にとらわれた者にとって,超個人的な不変性の原理が支配する伝統的な存在のあり方は非常に窮屈に見えてくる。しかしながら,近代は他方で,自分を破壊するかもしれない恐ろしさをも持ち,そうした恐ろしさに直面した人は,再び伝統的世界の,あの安定した秩序の世界を懐かしいものと感じるようになる(3)。近代の持つこのような両義性を前にして,今日のマプーチェの人々は,我々とまったく同様,伝統と近代のはざまを揺れ動きながら,日々選択を強いられているのである。
(...) 対象としての<彼ら>を<伝統>あるいは<未開>のカテゴリーに自動的に押し込んでいくような思考形式を根本的に批判し,<我々>と同じように伝統と近代のはぎまで生きている<彼ら>について語ること。もし,そうした変貌を遂げることができるなら,人類学は,<我々>にとってだけではなく,<彼ら>にとっても興味のある学問になるであろう。それがおそらく,1935年にパラナ地方で暮らしていたインディオ達が,レヴィ=ストロースの記述の向こう側から,我々に教えてくれていることである。