断章2003-2006
「映画の対象-映画における直接的なもの」(2006)
「映画の対象-映画における直接的なもの」 箭内匡編『映画的思考の冒険』、世界思想社、2006年、1-38頁より
(...) テレビ画面で数々の目新しい出来事に接しながらそこに新味を感じないのは、我々が「経験を騙し取られた近代人」だからであり、テレビの映像が我々の中にある衝撃制御メカニズムを打ち破ってくれないからである。これに対して、我々が《晩春》の結末で笠智衆が一人リンゴを剥くのを見るとき、いつの間にかそうした制御メカニズムは消え去り、我々はスクリーン上のリンゴを「むきだしの原始状態」で眺めている。《晩春》という映画全体を通じ、また、結末のリンゴをむく笠智衆のショット自体を通じて、小津が、彼なりの方法によって我々の中の衝撃制御メカニズムを取り払い、我々を物事に直接的に接触させる準備を整えてしまったのだ。
(...) 「現実のより直接的なヴィジョン」である映画は、知性化に抵抗するような、言葉に表せないような身体の豊かな表現をスクリーンに映し出すことができる。映画がきわめて早い時期から、知性的な洗練を受けていないような、身体表現に満ちた一般大衆の生活世界――近代の知的エリートが多くの場合軽視してきた領域――を格好の物質=素材(マチエール)としてきたのも、その意味で自然なことであったと思われる。
映画は、いわばボルヘスの「一本の直線からなる迷宮」のように、自らの中にいくつもの直線(運動の諸部分がもつ時間性)が折り畳まれた迷宮である。いくつもの直線というだけでは言い足りないかもしれない。直線が直線であると同時に曲がっていない曲線、破れていない破線、折れていないジグザグ線でもありうるという意味で、映画という「一本の直線からなる迷宮」は、無数の曲線や破線やジグザグ線をも可能性として内包したものなのだ。
(...) こうして、[映画を見る経験の中で]「考える(=映画を見る)私」は、絶えず再規定されつつある「自己」に立脚して、次々と新たなる思考上の冒険へと出かけてゆく。映画が優れたものであればあるほど、このような「考える(=映画を見る)私」と「自己」との時間の中での相互関係は、「自己」を深く変容させてゆくことになるだろう。フラハティーの映画の中の子供たちが、小津の映画の中のリンゴが、初めて見るような輝きをもって見えるのも、そうした自己の変容を通じて、我々が日常生活における硬直した知覚とは異なった、清新な視線で物事を眺めるようになるからだと思われる。(...) 「映画は(画面を一貫して見つめるような)魂の運動の模写ではない」(もっと平たく「映画はストーリーではない」と言ってもよい)ということ、まさに、画面を一貫して見つめるような魂の運動からの逸脱が生まれる瞬間こそが、真に映画的な瞬間であるということである。
(...) 「時間の蝶番が外れている」世界で、「私とは他者である」という逆説的な状況に身を置いて世界を眺めなおしてみるなら、所有主体そのものがその堅固な外見を失い、「自己」が未決定性の中で他者や他の物事と関係しあっていくような、所有の直接的な姿が見えてくるはずである。
(...) ハリウッド映画を中心とする主流の映画が、非常にしばしば「(根源的)所有のドラマ」というより「所有権のドラマ」とでもいうべきものに近づくのは、この意味で不思議ではない。つまり、それらの映画においては、「生きること」、「他者との関係」、「事物との関係」といった根源的所有の問題は、「生命」、「他者」、「財産・地位」への所有権の問題に平板化され、所有主体が周囲の様々な人々や事物と営む実用的でステレオタイプ化された関係が「ストーリー」として緻密に編み込まれたものが中心となるのである。ベルクソン的芸術としての「所有のドラマ」が、日常生活における所有権の関係――それはまた実用的でステレオタイプ化された関係と言ってもよい――から我々のヴィジョンを解放するものであり、そこにその存在意義を持つとすれば、「所有権のドラマ」は、むしろステレオタイプを土台とし、所有主体が困難を乗り越えて所有対象を獲得ないし維持するという「ストーリー」に巧みに観客を呼び込み、観客の中にカタルシス効果を生むことを「売り」とする。
(...) 優れた映画は、不協和音が協和音と一緒に鳴り響くことの美しさ、不協和音が鳴り響く「現実」の中を生きることの新しさと充実感を、知らず知らずのうちに我々に発見させてくれるであろう。映画は、もしかしたら他のどんな芸術よりも直截な形で、そのような意味で、我々に世界の中に住まうこと、あるいは住み・さすらうことを教えてくれるのだと言えるかもしれない。
「映画を生きること-「住まうこと」と「さすらうこと」」(2006)
「映画を生きること-「住まうこと」と「さすらうこと」」 箭内匡編『映画的思考の冒険』、世界思想社、2006年、155-192頁 より
(...) この映画[アラン・レネ『二十四時間の情事』]において「彼女」は、広島の「現在」を生きていると同時に(それと競合しつつ共存する)ヌヴェールでの過去――より正確にいえばヌヴェールでの「過去における現在」――を生きているのであり、彼女が、異郷の広島での滞在を真に深く「住まう」ようになる過程は、彼女自身の中で故郷ヌヴェール――あまりにも痛々しい経験のためにその記憶を封印されていたヌヴェール――に、想像の中で再び「住まう」ようになる過程と重なっているだろう。「場所に住まうこと」とは、「現在」に住まうことであると同時に(現在と競合しつつ共存する)「過去の現在」に住まうことであり、また、ある場所に住まうことと同時に(それと競合しつつ共存する)他の場所に住まうことである、そういった問題系を、レネは次作の《去年マリエンバートで》(1961)でも、またそれ以降の一連の作品でも、一貫して追求していくことになるはずである 。
(...) 《秋刀魚の味》が興味深いのは、登場人物たちが生きる場所が、《浮草》とは反対に、何か「住まう」ことの堅固さ、安定感と結びつけばつくほど、そうした堅固さがその内奥から崩れていくような部分を持っていることである。というのは、ちょうどレネの《二十四時間の情事》で「現在」の広島が、ヌヴェールでの「過去の現在」と競合しつつ共存していたように、小津の映画においても、登場人物たちの「現在」は、今あるのとは別の「現在」の可能性や、また、彼らの「過去の現在」や、さらには「未来の現在」と結び合い、それらと競合しながら存在しているからである。晩年の小津のショットには、そうした他の時空の闖入を引き起こすような言葉や仕草や物が、実にさりげなく織り込まれているのであり――その意味で、そうしたショットは、時間的深度を持ったショットとでも呼べるかもしれない――、そしてそうした言葉や仕草や物を通じての異なった時空との接触が、独特のドラマ展開を支えているのである。
(...) ドライヤーの作品の中で、彼の祖国デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの名が現れるのは一度(それもユーモラスな形で)だけである。しかしドライヤーの映画が、この哲学者の思索と深く交流しあったものであることは、疑いないように思われる。(...) ドライヤーの映画の主人公たち――ジャンヌ、アンネ、ヨハンネス、ゲアトルーズ――は、「必然性」にすっかり没入して生きる人々の間で、生の偉大なる「可能性」を、自己の生の全体を賭して最後まで信じ切る。そして、彼らの企てが多くの場合に外面的には敗北に終わるにも関わらず、我々は映画を見るなかで、ジャンヌが、アンネが、ゲアトルーズが、そしてもちろんヨハンネスが、何か高いレベルで圧倒的に勝利しているのを感じ取る。その何か高いレベルとは、生における「可能性」の次元にほかならないのであり、それこそが、ドライヤーが示すところの、「生と死の間のさすらい」の決定的な真実なのである 。
(...) [アッバス・キアロスタミの映画における] ジグザグの道は、人間がその限られた視野の内で手探りで道を進んでゆく行為の結晶化であり、科学技術の高みから計画され実現された直線の道が覆い隠してしまうような真実――人間は究極的には、各々の限られた視野から人生を、世界を眺めているにすぎないこと――を示すものなのだ。(...) 確かに、人生そのものが目的性を持った直線的な旅ではなく――現代社会において、様々な擬似的目標が次々と我々に提示され、あたかも人生の意味そのものがそうした擬似的目標への直線運動であるかのように錯覚させられがちであるにせよ――、ちょうど小川が障害物にぶつかりながら流れるように、ただ「行くために行く」ことを本質とするような「住み・さすらい」であるとすれば、人生の意味は、そうした「住み・さすらい」が描く曲線やジグザグの外にはない。
「直接性の映画」(2004)
「直接性の映画-映画による「所有」の回復-」、『アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)』第2号(2004年12月)、39-76頁(→download) より
(...) 芸術作品は現実のヴィジョンそのものではなく、それを、芸術家自身をとりまく現実の中で受け止めつつ、あるまとまりをもった全体として投げ返すものである。バルトークたちにとっての課題は、「民衆芸術に現れるオリジナルな感情を把握し、それを現代生活の複雑さに対応する形で再創造すること」であり、民衆芸術をコピーするのではなく、より高いコンセントレーション、単純さと強度ある表現に向かうことであった。バルトークは、素材とする民謡をある完成したオブジェクトとして利用するのではなく、まずその民謡の持つ内的な調性的可能性を把握した上で、それを彼独自な形で発展させていったのである。
(...) 一つの重要な手続きは、ドライヤーが「視覚的純化」(visual purification)と呼んでいたものに見ることができるだろう。彼は、最初に完全に生の現実そのものであるかのようなセッティングを作り、その後でそこから、作品にとって本質的でない要素をすべて取り除いてゆく。結果として、ほとんど抽象的であるほど簡素で単純でありながら、そこにあるもののすべてにおいて完全な感じを与える映像が生まれることになる。ドライヤーは、余計な要素を取り除かなければ、「セッティングの現実はそれ自体が関心を引いてしまい、観客はストーリーから注意をそらされてしまう」とも述べているが、こうした「視覚的純化」によって、映像は確かに、具象的な次元と抽象的な次元の双方において、「フェノメナ」を透徹した形で表現してゆくものとなってゆくだろう。
(...) 例えば野生動物や家畜のような、容易にコントロールのきかない要素の導入も、映像の非中心化に役立つだろう。『田園詩』(Pastorali, 1975)の家畜から、『素敵な歌と船は行く!』(Adieu, plancher des vaches!, 1999) における鳥や『月曜日に乾杯!』(Lundi matin, 2002)の爬虫類など、イオセリアーニは好んで動物を画面に導入する。(...) 動物の存在は単に映像を非中心化するだけでなく、俳優たちの演技や撮影のプロセスそのものを、ドラマトゥルギーの過度に論理的な宇宙から解放するのだ。
(...) ニーチェは、19世紀ヨーロッパにおける「ますます深化する人間の経済的搾取」と「利益と生産にますます覆われたメカニズム」の生活への浸透を背景に、そうしたメカニズムに抵抗してより良い存在様式を作り出す者は、「平均化された人間たちへの距離の感情(Distanz-Gefuhl)を必要とする」と述べた)。ところで、ニーチェの思考の精妙な点は、この「距離」とは、「平均化された人間たち」の存在様式の否定ではなく、そうした存在様式を前提とした上で、そこから「距離を保つ」ことが必要だと考える点である。「なぜなら、この[そうしたメカニズムの中に捕われた人間たちという]土台の上に、より優れた存在の形を発明し、構築することができるからである」。その意味で、イオセリアーニの[『素敵な歌に船は行く』の原題『牛どもの床よ、さらば』における]「牛どもの床」とは、所有権のシステム(「利益と生産にますます覆われたメカニズム」)に囚われて所有を見失った現代の我々の社会そのものであり、「牛どもの床よ、さらば!」とは、そうした我々、平均化された人間たちが形成する土台に向かっての「距離の感情」――あるいは「距離のパトス」――の表現にほからないと言えるだろう。我々は「牛どもの床」の上に住んでいるのであり、そこからの出口はない、他の世界は存在しない。しかし、その「牛どもの床」を「距離のパトス」をもって眺めることが、よりよい存在様式を創造する可能性を生み出すのだ。それはまた、この論考での言葉でいえば、所有権のシステムの中で見失ってしまった世界を、再び所有することでもあるはずである。
「映像について何を語るか」(2003)
「映像について何を語るか-ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察-」『アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)』第1号(2003年11月)、75-134頁 より(→download)
(...) 実際、もし映像(あるいはイメージ)が言語とは異なった性格のものであるな ら、映像(あるいはイメージ)について語る言葉は、つねに映像を歪曲して代表することしかできない、とも考えられるのである。しかし (...) 言葉は、それ自体はイメージではないが、し かし、読む者、聞く者にイメージを引き起こす働きをすることであり、そして、そうしたイメージなしには言葉の機能自体ありえない、という事実である。 確かに言葉は映像(あるいはイメージ)の本質ではない以上、言葉によってイメージを代表することはできない。しかし、言葉が聞き手、読み手に引き起こすも のがイメージである以上、言葉を、その可能性を最大限に駆使しつつ、適切に組み合わせるならば、映像に近似した効果を生み出すこともできるし、また、その 映像に言葉によってコメントすることで新しい効果(イメージ)を聞き手、読み手の中に生んだり、また、聞き手、読み手が新しい映像を創造するための種を与 えたりすることも可能なはずなのである。
(...) 『シネマ2』の末尾で、彼[ドゥルーズ]は次のように述べる。「映画の理論とは映画についての理論ではなく、映画が呼び起こす概念についての理論であり、それらの概念はそれ自体、他の諸実践に対応する他の諸概念との関係の中にある。(...) 物事が作られるのは、存在が、イメージが、概念が、つまりあらゆる種類の出来事が作られるのは、〔そうした〕様々な実践が干渉し合うレベルにおいてなので ある。映画の理論は映画についてではなく、映画の概念についてのものだが、それらの概念は、映画そのものに劣らず実践的であり、実効的であり、実在的なの だ」。 ドゥルーズは『シネマ』において、彼自身の目的のもとに、さまざまな映画作品を「概念」のレベルで考えるのだが、その「概念」のレベルというのは、実は、 映画監督のみならず、他の芸術家や、哲学者や、科学者が、それぞれの創造的活動の中で思考をめぐらす共通領域なのである。そこから、映画について考えること、映画が生み出した様々な「概念」について考えることは、ドゥルーズ自らが創造的活動を行なってきた領域、つまり、哲学の領域における様々な「概念」について考える作業と交叉してゆくことになるだろう。
(...) ユクスキュルのこの生物学的=哲学的理論の中で、映像との関係においてとりわけ興味深いのは、各々の生物が認識可能な最小限の時間(瞬間)を持っているという指摘である。 この考えに基づくなら、映画が我々の眼に連続的な「動き(運動)」として映るのは、ただ単に人間の視覚が1/18秒以下の時間を捉えられないからだけでは なく、もっと一般的に、人間のあらゆる感覚(聴覚、触覚等)がそれ以下の時間を捉えられないからであって、いうなれば、人間の知覚の全体がそれ自体、 1/18秒ごとのぶつ切れの経験から成り立っている、ということになるだろう。 すると、翻ってみるなら、自然知覚によって我々が捉える「動き(運動)」もまた、実は、(映像とまったく同様に)一種の心的努力によって我々が再構成して いるものだということになり、その点では、自然知覚の経験と映像(写真も含めて)を見る経験の間の差異は、結局のところ、かなり相対的なものだということ になる。フィルム上の映像がしばしば我々に対して、自然知覚によって捉えられる現実に劣らないほど影響力を及ぼしうるという、我々の日常的経験も、このよ うに見れば、きわめて納得のゆくものになる。
(...) この[プラトン『ソピステス』における]コピーとシミュラークルの問題を念頭において、映像に戻ってみよう。確か に映像は、受容者にあたかも現実を見ているかのような(自然知覚のような)効果を与え、しかし、その効果は現実にもはや依存しないという点で、シミュラー クルだといえる。しかし実は (...) 映像は、ドゥルーズのいう「行動イメージ」を軸にして展開する限 り、それらは一方でシミュラークルでありつつ、他方で映像の背後にある言説に対するコピーとして存在するのであり、その意味で、そうした映像は、それ自体 がイデアの超越性の支配下にあるだけでなく、そうした映像を受容する我々をもイデアの超越性の下に追い込んでゆく危険をはらんでいると考えられる(...) 。これに対して、20世 紀の中葉から、「時間イメージ」を軸とした映像制作によって、一部の映画監督たちが「カント的」革命を達成する時、それは、映像的言説のイデアから解放さ れて、完全にシミュラークルの力能に拠って立つものとなるだろう。そこでは、映像自体の差異を生み出す力、創造力が、我々を捕らえ、世界との新しい、内在 的な関係の中に導いてゆくのである(...)
(...) スクリーン(画面)に映し出される映像は、それ自体はもちろん、「いま・こ こ」から分離されたフィルム上の「作品」としてのイメージであるが、しかし、それを見る受容の経験の場においては、受容者の「いま・ここ」とすでに不可分 のものとなっている。そして、スクリーン上に映し出されるイメージは、受容者の身体にとってみれば、原理的にはまず、すべて知覚イメージであって(その知 覚イメージの内部に、いわば入れ子式に、フィルム上に定着された様々なタイプのイメージがある)、その知覚イメージが、受容者の身体に働きかけて、その身 体の内に変様を引き起こしてゆく(感動とはこの変様が高まって本人に知覚可能なレベルに達する事態に他ならない)。映像の問題を真に考えるためには、作品内部でのイメージの問題のみならず、映像の受容の局面における、こうした受容者の身体による知覚と変様をも含めて論じることが不可欠なはずである。
(...) ライプニッツ的世界を根底で支えていたのは、神が最善の可能世界を選ぶという 前提(最善の原理)であった。しかし、「カント的革命」を経て、もはや我々が「現れるもの」だけを認め、背後に「永遠の真実」の世界をナイーブに想定する ことができない時、我々がもはや、現実の意味をある唯一不変な形で決定するようないかなる世界観をも信じることができない時、ライプニッツによって不共可 能として排除されていたもの(シミュラークルたち)が、この世界に、我々に目まいを覚えさせながら、一斉に回帰する。そして我々の眼前には、「海戦が明日 起こる」という言明が「明日起こらない」という言明と同時に真実であるような、決定不能で常に「新しさ」――「永遠の真実」が物事をあらかじめ律していないという意味で――を内包した世界が広がってくるのだ。 それはまた、しばしば我々の感覚運動連関を停止させ、不安と飛躍とを引き起こすような世界であり、さらに、後でも述べるように、この世界は、本質的にユー モアに満ちた世界でもあるだろう(実際、「海戦が明日起こる」ことと「明日起こらない」ことが同時に真実であるような世界とは、ユーモアなしにはつきあえ ないからである)。
(...) 彼ら[ストア派哲学者たち]は、「成り行き」(destin)と「必然」(necessite)と を区別しようとした。つまり彼らは、「実在的因果性の空間における『成り行き』そのものは避けることができないとしても、出来事の空間における意味づけは 必然的に定まるわけではない」と考える可能性を、曖昧さを残しつつも、切り開いたのである。ライプニッツは、共可能性の概念を提起することで、まさにこう した、出来事のレベルあるいは意味のレベルにおける多元性を厳密に表現することに成功するのだが、しかし彼はそれと同時に、最善の原理によって、この多元 性を再び排除してしまう。「カント的」革命を経て、不共可能世界の共存を肯定することは、この排除された多元性――変様の空間、不特定の空間における出来 事あるいは意味の多元性――を取り戻すことにほかならないだろう。
(...) 動物たちが周囲から発せられる表徴に対してたえず注意を払い、それらの表徴を もとに彼らの環境世界の中での生を営み、テリトリーを組織するように、我々もまた、周囲のイメージ(自然知覚も映像も共に含めた意味での)から発せられる 表徴によって我々の環境世界の中での生を営み、テリトリーを構成する。そしてこのことは、日常生活における経験においても、また芸術作品をめぐる経験にお いても変わらないだろう。 あらゆる芸術(あるいはスペクタクルの)作品は、イメージと表徴の体系であり、受容者はそこから自らの必要と能力に応じて、自らにあった表徴を抜き出し、 自らのテリトリーを組織するのである。ただし、芸術作品の場合、このテリトリーの形成は、受容者自身が行動する現実的空間においてではなく、受容者の身体 における変様の潜在的空間の中で行われるという特異性は確かにあるのだが。
(...) 我々が現実をどのように見、どのように感じ、どのように考えるべきかまでも が、たえず知識として与えられてくる現代の世界。そうした現代の世界において、世界を本質的に「知られざるもの」を含んだものとして信じること(哲学的に 言えば、徹底的に内在性の思考を貫くこと)、それこそが、あたかも何でも知っているかようにみえ、我々を卑下させる超越的な権力に抵抗して、我々自身が、 我々自身の身体をもって、本当の意味で「世界を知り」、その中で我々の生を築いてゆくための出発点であり、そのことの意味は、「知」がコントロールされれ ばされるほど、ますます重要になってくるはずなのである。