土井清美

「サンティアゴ・デ・コンポステラへの徒歩の旅に関する民族誌的研究―「あいだ」における生―」

土井清美氏の論文、「サンティアゴ・デ・コンポステラへの徒歩の旅に関する民族誌的研究―「あいだ」における生―」は、スペイン北西部に位置する著名な巡礼地に向かって徒歩で旅する人々の生についての、緻密な民族誌的記述であり、同時に理論的考察である。数十キロ、数百キロという距離を繰り返し徒歩巡礼者たちとともに実際に歩き、巡礼者用宿泊施設のボランティアも行うなど、徹底的な参与観察を続けるなかで土井氏が見いだしたのは、「巡礼者」という一語では決して括れない人々の多様な姿であり、また彼らが巡礼路上で新たに発見していく生の意味であった。

論文の最初に提示されるのは、近年ますます盛んになりつつあるサンティアゴへの徒歩巡礼が必ずしも宗教的動機に基づくものでないばかりか、ひたすら「決まった方向に向かって歩く」なかで、巡礼者にとってサンティアゴに着くという目的すらしばしば明瞭でなくなるという状況である。それを受けて序章では、本論文が巡礼の一事例研究というより、巡礼・ツーリズム・旅の間にあるような曖昧な領域を取り扱うものであること、さらに徒歩や場所についての人類学的考察、フィールドワークと民族誌記述との関係に関する根源的な省察とより深く関わってゆくものであることが論じられ、本論文の議論の領域画定がなされる。

第1章では、巡礼者向けガイドブックを幾分真似つつ、読者を巡礼路に誘い込むような形でサンティアゴ巡礼についての基本的な情報が提示され、続く第2章では、路上の徒歩巡礼者たちが毎日繰り返していく経験の類型的な描写がなされる。毎日は似たような繰り返しだが、その中でも様々な場所が識別され、また歩いてゆくうちに巡礼者自身の身体にも変化が生じてくる。そこにあるのは、「繰り返しによる発見的移調」であり、また「場所と身体の交わり」である。

第3章では、徒歩巡礼という行為と表裏一体のものとしての苦痛の問題が論じられる。「苦痛なくして得るものなし」とは巡礼路でしばしば見かける言葉だが、土井氏はジル・ドゥルーズのマゾヒズム論を参照しつつ、まさに苦痛を通して巡礼者にとっての新たな経験の相が現出してくること、その中で巡礼という行為の目的性やそれを取り巻く制度の意味が骨抜きにされることを、様々な事例とともに示してゆく。ここで前面に出てくるのは「途上」であり、それに対して「目的地」のサンティアゴ大聖堂への到達は、しばしば、どこか拍子抜けした「中断」のようなものとして経験される(が、その「中断」ゆえに人々は再び巡礼路に戻ってくる)のである。続く第4章では、そうした途上において、人々が歩きながら巡礼路上の事物に対してとりもつ関係としての、「ウォークスケープ」に焦点が当てられる。それは一方で巡礼者が建築物や巡礼路上のランドマークと営む関係であるが、他方では、道に迷うこと、「道を見失う」こと(自分自身と周囲との関係が途切れること)であったり、さらに、路上で現れた犬との出会いがしばしば奇妙に重要な意味を持つことであったりする。

「遠近感とリズム」と題された第5章では、上述の「途上」での生の問題が、より広い視野から捉え返されつつ、巡礼者同士の、必ずしも言葉を介さない通じ合いや、巡礼路に介入する他者(マスメディアや調査者)とのズレが示される(徒歩者=調査者であった土井氏自身の営みもそこに位置づけられることになる)。そこではまた、「近さ」と「遠さ」の間で進む徒歩巡礼者の身体経験から直接出てくるような「アウラなき顕現」が指摘され、この「巡礼」が持つある種の宗教的意味が示唆される。「ホーム」と題された第6章では、徒歩巡礼者たちの、途上に在ることとその外に在ることとの関係、彼らの「住まいつつさすらうこと」(ウーテ・グッツォーニ)が、サンティアゴ巡礼路との深い関わりの中で生きてきた人々の具体的な生のあり方に即して論じられる。そして終章では、サンティアゴ徒歩巡礼を扱いつつ本論文が議論してきたことの、人類学一般に向けての意義、フィールドワーク論としての意義が問い直され、最後に、徒歩巡礼という行為が帯びているロマン主義的なものの意味について考察がなされる。

こうした内容をもつ本論文は、長距離を歩き続けながらの辛抱強い参与観察によってのみ得られるような視点から、サンティアゴ徒歩巡礼を単なる研究対象として論じるのではなく、むしろ「歩くこと」「途上にあること」という経験のただ中からそれを論じた独創的なものである。それがさらに、フィールドワーカー=徒歩者という位置から人類学的思考のあり方そのものを問い直すという反省的考察と絶えず重ね合わされていることも本論文の特色である。他方、狭義の巡礼研究から自由になった視点から多様な形で得られた民族誌的データは、サンティアゴ巡礼路を歩く人々の経験の「現在」を、総体として今日的かつ豊かな形で伝えるものであり、民族誌的観点からも大変重要な意義を持っている。

(2015/02/10 箭内匡)