中村希雄さん(双葉町つくば自治会 会長)インタビュー
双葉町の大字中田行政区から避難してきまして、現在つくばの並木地区に住んでいます中村希雄と申します。よろしくお願いします。
従来は双葉町には区長がいたのですが、それが散り散りになってしまいました。避難先の各グループに自治体を作るようにという町の指示で、初代の区長になるよう任命されました。それ以後3年、双葉町つくば自治会会長ということでやっております。
1. 支援活動の経緯について
町が任命したそれぞれの自治会長が郡山に呼ばれまして、その時、12の自治会が作られました。つくばは2番目に所帯数が多いということで、双葉町自治会副会長ということになりました。他では自治会と婦人学級が2つに分かれているのですが、私たちは女性の婦人学級と自治会は一緒に活動しようということで、婦人学級を改め生活学級として男女一緒に活動しております。
2.支援活動について
最初は、ただ避難所を出たいという一心でつくばを目指してきたわけですが、まだその時点ではどういう活動をしようというまではありませんでした。ただみんなで、一歩は無理でも半歩前進しようと、まず並木地区へ行って草ぼうぼうだった敷地の草刈りをしました。地域住民から苦情がこないように、気持ち良くしようと。また良くすれば口伝えで全国に散っている人たちが集まるだろうという考えもあり、まず近辺の環境整備をやろうということが活動の初っ端でした。
それから最初に行ったのは、筑波大学や筑波学院の学生や先生方のお誘いで、ご指導を仰ぎながら、若い人たちの力とともにいろいろな行事をさせてもらいました。つくばは、私も初めて知ったのですが社会力という学問がかなり広まっておりまして、私もこの頃8割くらいどういうものか分かってきて嬉しく思っているのですが、学生さんたちもそういう社会力を育てるための一環としてやっているのだろうなと思います。われわれは、どうせここへ来たのだから、前を向いて行くのだから、一緒に乗っかってやろうではないかという思いで、出られる行事にはみんな出るようにしておりました。
例えば、デイズタウンで行われた商工会の盆踊りで、相馬流山をやってほしいと言われれば進んでやりました。また、筑波大学の体操教室でも双葉音頭や相馬流山、あるいは避難中の津波にのまれた体験談など、それぞれ要望されたらいつもひょいと行って気持ちよくやるようにしています。現在、主にやっているのは毎週月曜日の筑波大学中央教室での体操教室です。それから毎週火曜日は、つくば市役所から使用許可をいただいて、並木公園芝広場でグラウンドゴルフを行っています。今日現在で96回、1,084名が延べで参加しておりまして、大会は4回行っています。次回は10月20日の予定です。
その他は学級で、あさっては並木消防署にお願いし、AEDの蘇生術を学びます。それからつくばには45,6か所の研究所がありますので、そこをみんなで見学しようと話し合っています。また近々、読み合わせを行います。これは、双葉には昔話がありまして、それを町では紙芝居をやるということなのですが、絵心がある者がいないので、私たちはICレコーダーを買い、それに録音し、CDにしてお配りすることを始めようと思っております。いずれにしろ色々あるのですが、大半はつくばの学生さんのご指導で活動を行っております。
現状はつくばに来て良かったなと、大変満足していますし、私個人としましても、ここを終の棲家にしたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
3. 支援活動での工夫
事故以来、避難生活は5年目に入っていますから、もう帰れないということで完全に踏ん切りをつけている方もおります。避難所、公務員宿舎を出ていく方々の大半、9割以上はこの近辺に転居していて、このグループが減っていっています。転居された方たちもいろいろな集まりに参加しておりますが、並木ですと当初47所帯が現在23所帯に減っています。そのように減っていくことは、やむを得ないことなので、引っ越していかれるということを歓迎すべきだと考えております。自立をするということですから。そしてその地元で税金を払って当たり前の生活をする。これが理想だと思います。
あとは、県外の仮設住宅では高齢者の引きこもりや、どんどん痴呆が進んだり動けなくなったり、孤独死など、という話をたくさん耳にします。我々の仲間からそういった人を出したくないという思いで、目先から考えた結果、まず高齢者を引きこもらせないために、引っ張り出すという目的でグラウンドゴルフを始めました。4軒隣の88歳のおばあちゃんですが、まだまだ元気で一回も休まず出てくれております。
それからもう一点は、なかなか人様には申し上げにくいのですが、我々の仲間の旦那さんが3月11日に津波に流されてお亡くなりになっております。私は海に逃げず、山に逃げたために九死に一生を得て助かりました。その旦那さんは私と同い年なのですが海の方へ行って亡くなられました。その奥さんを、つくばにいらっしゃいと言って我々の方へ呼び寄せ、こちらにいらっしゃいました。そういう方と和気あいあいと、笑顔があれば元気になるだろうとやっております。ですからお亡くなりになった方のためにも、毎月11日には慰霊祭を自主的に行っております。これも町とか国では年に一回、3月11日だけなのですが、私たちは11日には毎月やっております。それは、ただあの事故の悲惨さを忘れないためだけではなく、それを機会にこれからどのようにして自分の立ち姿を処していくか、どのようにやっていけばいいか、前を向いた話し合いができるように、慰霊祭が終わったあとみんなで話し合うのです。その顔を見て話し合うために毎月やっております。おかげさまで、2年ほど前から地元の方も大勢参加していただいています。学生さんや先生方、地元のお医者さん、それからお菓子屋さんなど、さまざまな方が集まってきてくれております。本当に感謝しています。
4. 支援活動での課題
なかなかこれも口に出して言いずらいことなのですが、やはり原発事故というのは最後はお金に関することなのです。故郷の双葉にいたころは、それぞれの家庭でみんな財産が違うわけです。田畑、家の大きさ、家族構成、それから避難区域、避難準備区域などが3つに分かれています。それによって保障賠償金額が違うのです。そういう話は(情報が)遅れている人たちには、教えてあげたいのですが、そういうことはどうしても言えません。言ったからっといって自分がお金を出せるものでもありませんし。だからさりげなく、あんなニュースがあったよとか、こういうことをやっていると。ですから保障賠償についての話し合いを自分たちはできないので、当初は茨城の弁護士さんをお呼びして毎週火曜日に勉強会を行って、個人個人が作文を書いて精神的慰謝料を頂いたりしたことはあります。今はもう終わった人は終わりまして、まだの人はまだのようですし、それ以上は深く追求できません。保障賠償についてはこういう現状です。我々が手助けできないということです。
あとは、もっと大きな問題は、やはり未だに国と福島県が、県から出た人に対しての考え方が全然変わっていないということです。私に言わせればこれは憲法違反だと思うのですが、県から移動するのは自由であるはずなのに許されないという。我々がつくばにきたときも、国や県、町も一切ノータッチで相手にもしてもらえませんでした。それで、我々は自分たちで探して、自分たちでバスをャーターしてつくばに来ました。現状は今も何もありません。政策を見ても、県内に帰る人はいろいろな補助金が出て優遇されている。県外に行く人には何も出ないのです。ですからこういうのは政策としていかがなものかと思います。ですが、これは政治家の判断ですから私たちはこれも何もできないということです。私たちは、9人で団体を組んで国会へ陳情にも行きました。いろいろな要求を4項目に絞って5人のところへ行って申し上げてきました。話は聞いてくれても、やはり進展はありませんでした。
3点目はやはり高齢化になっていくので、どうなるかということです。寝込まないで、死ぬまでさびつかないで元気でいたいと思います。そのためにも、やはりグラウンドゴルフや体操教室に行って皆で明るく話し合うことかなと思っています。