井上高雄さん((当時)茨城県防災・危機管理課 総括課長補佐)インタビュー
現在桜川市で副市長を務めております井上と申します。東日本大震災発災当時、茨城県の防災・危機管理局、防災・危機管理課で総括課長補佐という立場で、災害対策、及び福島県からの避難者の皆様のケア、それから連絡調整を担当させていただきました。
1.支援活動の経緯について
東日本大震災発災当時、茨城県内でも被害が非常にたくさんございました。最初、私は県民の方々の災害対策として、燃料供給、病院で自家発電装置が止まる、それから街の中から燃料油がなくなる、そういったことに応急的に対応させていただきました。それらの対策が一段落した段階で、福島県から避難されてきた方、そして茨城県民で避難所におられる方、そういった方の総合的な連絡調整、災害対策を担当いたしました。
福島県からの避難者の方はどうしてもすぐに帰るわけにはいかなかった事情がございますし、なかなか次の展開も読めなかった、見通せなかった状況がございましたので、茨城県としましては、福島県から避難してきた方を、県民の方とは別のスタンスで、対応しなければならないという判断のもと、福島県からの避難者の方を支援するチームを作りまして、その中で私も担当させていただきました。
時系列で申し上げますと、まず受け入れる避難所の確保、これは市町村さんが自分のところの市民、町民、村民の方々に準備した避難所を、地元の方の避難者が少ないということで流用して使用させていただきました。その後、避難されてきた方の受入に係る様々な調整、そして生活環境の確保、一例を申し上げますと生活家電品の支給制度が創設されましたけど、身の回りの物を地元の方々、ボランティアの方が中心になりますけれども、マッチングをさせていただいて、避難の方々の生活基盤づくりに貢献させていただくような目的の仕事もさせていただきました。その後、県ですので、主に福島県さんとの要請のやりとりをしていく中で、様々な福島県で作りました施策の茨城県内での展開のお手伝いをさせていただきました。
その後、新たなコミュニティ作り、避難元の市町村との連携というか、つながりの確保を県内のNPOさんと協力させていただきながら、人と人との繋がりを維持する仕事の支援もさせていただきました。その一段落したところで、私の個人的な人事ですけども、桜川市に移らせていただきまして、中途半端ではありましたけども、一通りの生活安定にはある程度の関わりを持たせていただくことができたかと思っております。
2.支援活動について
やはり一番最初の段階では、先ほども申しました通り、避難所の確保ということで、どうしても体育館、それから公民館、そういったちょっと前の避難所によくあるイメージの場所しか確保できなかったというところがございます。その中でもちょっとでも快適に避難していただけるように、避難されている方の、今となっては古い課題なんですが、当時は個人情報の絡みが非常に困難になっておりました。その中で公と公のとの中でできる仕事というものを一所懸命やろうということで取り組んでまいりました。
また、避難所の設営に当たりましては、ハンディキャップを持った方、お年寄りで持病を持った方、そういった通常の避難所では難しい方の災害対策上は福祉避難所というものを設置するわけですけれども、なかなか地元と繋がりのない方の福祉避難所というのは難しい面がございましたので、それを県の施設を使って、教員用の研修施設がありますので、そこを使って個室の確保やバリアフリー条件の確保であったりとかを実現させていただくような取組みをさせていただきました。
また、その後は国の施策で避難所から応急仮設住宅という段階になった ときに、ホテルや旅館といった宿泊施設を活用した被災者支援というか生活の再建対策、といったことには、地元の旅館業組合のご協力をいただきながら、できるだけ被災者の方の希望にマッチングするような、家族構成や年齢条件であったりとか学校とか、そういったものに合うような施設の選び方、つくば市を中心として条件があうところであれば、水戸だったり日立であったり、そういった広域的な視野も入れて対応させていただきました。
その後はやはり、福島県、被災市町村さんの意向を組む形でできるだけ、被災者と出身の市町村が離れないように、そして情報が円滑にいくように、そして被災されている方々のネットワークが上手くいくような情報の流通であったりとか、行政と行政との橋渡しとかをさせていただきました。
3.支援活動での工夫
当時を振り返りますと、やはりマニュアルであったりとか地域防災計画にも自県民、それぞれの市町村民への対策は相当程度に練られていたというふうに思いますけれども、まったく他のところからたくさんの避難者の方をお迎えする、そしてその避難生活を支えるということは県内市町村、もちろん県もありませんでした。ですから今までの例に縛られることなく、そして現場にできるだけその判断をする力、権限というと言い過ぎなんですけども、現場でここまで考えてやってもいいんだよ、ということを大きく付与するような取組みを、担当職員の中ではやったつもりでおります。
そうすることによって、被災者の方にはある程度の水準まで、その場で返事をしないと信頼感がもらえない、もちろん法的な問題であったりとか財政的な問題もあって即答できない事も多いんですが、これくらいの事はできるだろう、というふうに思われることについては、可能な限りできるだけその場で対応できる、そういった体制を作ることを第一に考えました。その際に被災された出身市町村のご意向が反映できるように、特に出身の自治体さんとの連携がとれるようにしました。
今考えると、ここの部分が非常に難しかった、当然被災された市町村は受入側は私ども茨城県内市町村、つくば市みたいにある程度のマンパワーがさけるところと、様子がだいぶ違いますので、もちろん自分の役場も機能しなくなっている、そういう中での連絡調整ですので、非常に難しい面はあるんですが、やはり将来的に戻っていただくこと、将来的に繋がりを保ち続けることを考えると、出身市町村さんとの話というのをまず考えようということで取り組んだ記憶がございます。
あと個々の避難者の方々につきましても、先ほどお話しましたように、できるだけその場でお答えする、あとはそれぞれご事情をお持ちです。お子様、お年寄りの方、それから自分のお仕事のこと、そういったことをできるだけ木目細かく対応していくということが、まず大事かなと。そのためには、やはりお話をしていただく。つくば市さんはだいぶ細かく丁寧にやっていただきましたので、私ども県といたしましては非常に助かったんですけれども、それでもやはり避難者の方にとっては将来への不安から素直になれないといいますか、率直なお話を伺えない場合も多々ありました。そこはできるだけ数多く訪問させていただくことによりまして、場合によっては福島県から茨城県に派遣になっていた職員に同行していただくことによりまして、対応して、できるだけ安心して信頼してお話していただく、希望を述べていただく、そして個々の事情を最大限に汲み取っていく、そういった工夫、心づもりで対応してきたという風に思っています。
4.支援活動での課題
発災一番最初の時期、避難者の方はどこに避難したらいいのか分からなくて右往左往する中で、結果的に見ますと、県内の比較的大きな施設、つくば市であったり龍ヶ崎市であったりとか大きな施設をお持ちのところの避難所にたどり着いた、と言いますか、私どもとしてきちんとした誘導案内ができなかった課題があるかと思っています。これまでない災害を経験した立場といたしましては、現在作成しております広域避難原子力災害からの広域避難の計画をきちんと作ることによって、県内の多発地帯、県外からの避難者の方について事前に想定しておくことが一番大事、そしてそのためには、自分のところの市民の方の対策とは別の、例えば備蓄品にしても通信施設にしてもそうですし、そういったことを含めた対策をとることが必要なんじゃないかと思っております。
当時を振り返りますと、茨城県も被災県でありましたし、茨城県南部はそれほど被害はなかったんですけれども、中部北部、それから海沿いの地域は大きく被害を受けておりました。程度の差こそあれ、自分たちも被災者であるというそれぞれの自治体の市民にとりまして、今だから申し上げますと、福島県から不幸にして茨城県に避難をせざるを得なかった方たちに対して、ともすると不公平感といいますか福島の人はいいよね、みたいな感情を持たれるような施策展開があったことも事実であったと思います。そういったことを、できるだけきちんと分けて考える、そして事前に市民の皆様に伝えておく、そしていざとなった時には、市民の皆さんの協力も得られるようにしていく、そういった経験を伝えるという、行政の中で経験を蓄積していくのではなくて、市民の皆さんとも経験を共有していく地道な活動が将来的に同じような、応用できるような災害が起きた時の被害の軽減、もしくは対策の円滑化に大きく寄与するものではないかと考えております。
それと、一定期間過ぎますと、ボランティアさんの方で日常生活を支えるとか、例えば今回の事例で申し上げますと、子どもさんの教育を支えるとかそういったことがでてきます。その際にやはり信頼関係を作っていくことが一番大事だという風に思っております。行政と被災者だけではなくて、まわりを支えていただくNPOさんだったりボランティア団体であったりそういった方々との信頼関係を日常的にどれくらい作っていけるか、これが地域の災害力、災害対応力を大きく左右するものではないかというふうに考えております。
今回幸いにして、時間を掛けていくつかの団体さんと信頼関係が結ばれ、ネットワークも形成されたという成果、そういったことを活かしながら将来的に体制づくり、人づくり、人と人との見える関係づくりを進めていくことが何よりも大切なんじゃないかと考えております。
最後に行政の視点から申しますと、どうしても今まで経験のなかった災害におきましては、国からの大きな施策というものはどうしても後からついてきます。例えば今回、避難所からホテルに移る方、ホテルから次の生活を創る方、そういった方で一番最初に次のステップに移った方への支援が非常に甘くなる、後からいい施策が次々に出てくる、もしくは被災者のニーズに合った施策が後から作られるというのが常でございます。行政としましては、今回の不幸な経験を貴重な経験にして、できるだけスピーディーに多くの被災者も網羅していくような施策を立案していかなければならないのかなと考えております。
幸いにして昨年の鬼怒川の災害におきましては、比較的早く、例えば避難所からホテルのようなものを応急仮設住宅にするなどの判断ができました。これにつきましては、東日本大震災の教訓が残した一つの成果なのかなと、はたから見て感じております。今後とも風化させることなく、経験を伝えることによって、行政の対応能力、地域の災害対応能力を高めていけるようにすることが、私たち経験者にとっての課題であると思っております。