神谷大蔵さん(つくば青年会議所 元理事長)インタビュー
1.支援活動の経緯
3月11日から次の日の原発の爆破というところから、いわゆるそのエリアに住まわれてる方々、またその近隣の方々が自主避難を余儀なくされるという中で、たまたま茨城県でも2か所の県の施設で自主避難の方々を受け入れましょうと、そういった話が耳に入ってきました。その際に、関東地区、あちこちに避難される方がどんどん入られるという話の中で、我々当時のつくば青年会議所のメンバーとしましても、まず最初に洞峰公園に避難を受け入れるということですので、その時に近所にいた青年会議所のメンバーに、様子を見に行っていただいたところ、もちろん皆さんご存知の通り断水、停電、お店に何も並んでない状態。すでにその状態だったところに避難をされた。
しかしながら、そこでは毛布の2枚とグルメマップをお渡しする県の職員さんが1人ないし2名との情報がすぐに入った際に、ここでどういった方々が避難されるかというのも分からないと。そういったところで我々も逐一そこに待機して、少しでもお手伝いできることがないか、ということで、まずは集まった次第でございます。
2.支援活動について
まず支援内容としましては、主に避難された方々の三度のお食事のご提供をさせていただきたいというところで、洞峰公園に引き続いて、国際会議場に避難されるということで、この2か所の避難場所での、最初から最後までは33日間、そこでマックス600人強の避難の方が2か所に入られて、そこでお食事の世話をさせていただきたい、ということで。
当初、自主避難ということで、津波被害に合われていない、若干余裕のある方が避難されてくるのかな、と思ったところ、実はそうではなくて。もちろん原発の自主避難のいた中には、津波で奥さんを亡くした方とか、着の身着のまま、お金もほとんど持つことなく、そういったところでいらした方もいました。
ここで食事の世話ということもありましたけど、食事だけではなく、心のケア、困った事の話し相手になろうということで、当初活動として始まったわけであります。しかしながら、まだ行政であるとか、我々ボランティアであるとか、連携が密に取れない状況、そういったところで始まったわけでしたから、当初は誰がボランティア、誰が音頭をとる、どういった経緯で、どういったお手伝いをするかが明確ではない、そんな状況の中、模索しながら「食」というところに関してのお手伝いをさせていただきました。
とは言いましても、その600人を超える方々の三度のお食事というのは、とてもとても我々個人では提供できる、そんな力もありませんし、そこでいろんな地域の方々に協力をいただいた。そういったところで、皆さんになんとか。その全てのリクエストに応えることはできませんでしたけども、そういうお食事の世話であるとか、お手伝いさせてもらったのが具体的な支援活動ということになります。
3.支援活動での工夫
まず、始まった当初は、いつまで続くかというところで、結果33日間というところではあったんですけども、実際私たち青年会議所のメンバーも、そこに多く集って頂いたボランティアの方々も、当然家に帰れば断水、停電、なかには建物被害があった方々、いわゆる被災者、とまではいかなくてもそういった観点に置かれた方々の集いの場所でもありました。なので、そういった場所に集っていただいてお手伝いをしていただくのも、こちらからすると心苦しい時がありましたが、徐々に行政であるとか社協さんであるとか、地域の各種団体の皆さんと連携することによって、徐々にそれが少しずつ助け合いという部分で。結局我々は皆さんにボランティアをしてるんだよではなくて、少しでも避難した方々に力を合わせて何かご支援ができれば、という考えだったものですから、そこが工夫といいますか、それをしなければ、この33日間は過ごせなかったのかな、というふうにも考えております。
工夫した点と申しますと、なにせダンボールの仕切りの中に避難された方が、四六時中寝食を共にしているわけでありますので、非常に小さな赤ちゃんからお年寄りまで避難者の中にはいらっしゃったわけであります。そんな中で、少しでもと思いまして、例えばあの時ですと、後半になれば桜の花が洞峰公園はすごく素敵で。そこで余儀なく避難されてた皆さんと花見パーティーならぬものの開催であるとか、例えば前半はお子さんもまだたくさんいらっしゃったので、その子供たち、お父さんお母さんと一緒に、我々青年会議所の例会事業でもあったんですけども、その時は「皆で元気になろう ボーリング大会」であるとか、避難所の中で初めて顔を合わせる皆さんともコミュニティーが生まれるような、そして毎日の過ごす時間が少しでも、切羽詰まった気持ではなくできるように、皆さんにコミュニティーの場は常々提供させていただいておりましたし、最後の頃は、みんな元気に地域に帰っていただくように、お別れパーティーの開催であるとか、そんなことを工夫させて頂いた経緯があります。
4.支援活動での課題
まず最初に県の避難所ということ、そしてつくば市、社会福祉協議会である、われわれボランティアである、その連携がスピーディーに、なかなか機能しづらかったところが難しいところであったと思いました。毎日のように時間になれば市役所の方にお伺いして、こういう状況なので、こうさせていただきたい、こういった議論、協議は数えきれないほどさせていただきました。そういったことが、毎日の33日間の支援をする中で、難しいなと思った一つでした。
何が一番大変だったかというと、やはり当初避難されてきて、600人を超える人になった時に、じゃ、食事を提供させていただくというのは、最初は思いつきで行ったわけですけれども、実際それだけの人数のお食事の金額に表してみると、それは計り知れないものでありまして、この時に、どうしたものかと。また最初の日、二日目なんかは例えば皆でおにぎりを握ってきてくれたりとか、青年会議所のメンバーの飲食店さんがご支援の品々を持ってきてくださったりとか。それでもだんだん限度が出てきました。その時に我々青年会議所の活動の中で、いろいろ地域の各企業さんとのお付き合いの中で、たまたまその日は、株式会社ライトオンさんの当時の社長さんからお電話をいただき、「君らはだいぶ支援活動始めたようだね」と連絡をいただき、多分行き詰っているんじゃないかという気持ちを察していただいて、明日朝、うちの本社に来なさいということで、私も予定通り次の日お伺いしたところ、そこには市内の核たる社長さん、あるい会長さんが集まっていただいてまして、その中で「彼らは純粋な気持ちでボランティアをしている、ついては企業人として、何か彼らをお手伝いすること、それが今回の震災の支援につながるだろう」、と今日この瞬間から私の発注に対して、各企業さん惜しげもなく、お願いしたもの全て出してくれる、そういう状況になり、やっとこれからは600数人の方々に対して、毎日同じおにぎりだけじゃなくて、ある程度三食違うメニュー、また日常用品、足りなかった部分のご支援もたくさんいただきました。本当にそれでその33日間が過ごせたのかな、と思いますし、またそんな中でまた別な意味では、例えば大阪だとか遠方から炊出しの機械を1セットを持って、徹夜で伺ったから何か手伝わせてくださいと、そんな思いの皆さんにいろいろ協力して頂いて、少しでもああいった避難所で退屈しない、そしてストレスのたまらないような、せめてつくばに避難している間は、今後の皆さんのご自宅の事を考えられる、そういったタイミングをご提供できるようにやっておりました。
本当に今回のお話は地域が一丸となって、企業、民間、行政もそうですけれども、そういった形で避難の皆様におもてなしといいますか、「心のやすらぐ避難所」というのがご提供できたのかなというふうにも考えております。