二ッ森千尋さん(ルピナスの会 代表)インタビュー
ルピナスの会の二ッ森千尋と申します。
1.支援活動の経緯
2011年の秋に、ある避難者の方々が集まる「ママカフェ」というのが、茨城大学の先生たちが企画して、つくばでも行われた時に、私も参加させていただいて。そこで初めて私たちと同じお母さんが避難して来ているということと、その中の一人の方が、私の住んでいる地域にある避難施設におられたっていうのを知りまして。よく話を聞いてみると、自分の子供と同じ小学校にその方のお子さんも今通っている、という話の中で、他にもそういう家族や子供たちが実はいるんですよ、というひと言から始まったような気がします。
その中で、そういうお母さんたちが、避難先の市町村がバラバラですから、お互いを知らないで、着いた先がつくば市だったという中で子供を抱えながら、ある人はお父さんが福島で、お母さんと子供だけで避難してきている方もいましたので、普通の生活で必要な情報も何もなく、病院がどこにあるのかとか、子供たちをどうやってフォローアップしていけばいいのか、個人でいろいろと抱えていたんですね。それで、何かできることがあるのかなってことで、そういうお母さんたち、子供たちが集まれる場所ときっかけを作りたいな、という思いで「ルピナスの会」が出発しました。
2.支援活動について
あの頃、私たちが一番難しかったことは、どの方が避難者だってことを、一般市民の私たちが知る術がなかったので、どのようにファーストアプローチをしていいのかなということを苦労しました。近くに住んでいながらも、本当にこの人たちが福島から来ているのかどうかは分からないので、この時に、子供たちが小学校に通っているということは、小学校はそれを把握しているだろうということになり、並木小学校の校長先生に事情を話して、ここに避難されているお母さんたちを集まるような形にしていきたいと提案をしまして。それを校長先生が快く受け入れてくださり、また家庭に学校の方から集まりの案内を出して下さったので、スムーズにそういう場が作れたのかなと思います。
そして2012年の2月、小学校の会議室をお借りしまして、集まることができました。この学校の会議室というのも、後からお母さんたちに聞くと、安心できる場所、学校側が提供してくれるところに行けたというのも、すごく大きなメリットだったと思っています。それで自己紹介をし、各々どのような形でここまで来たかということで、まずは月に一回ずつ集まりを持ちながら、茶話会をしてお互いの日常を少しずつなんですけれども語れるような、そういう場になったと思います。最初のころは、病院がどこにあるとか、日常生活で必要な情報、そういうのに皆さん苦慮してましたので、そういうところを私たちママ友の立場で、付き合いをさせてもらったと思います。そのうちに集まって来られる方々も増えて、並木小学校以外の学校にもそういう案内を出すことができましたし、また2012年の4月に福島から並木小学校に派遣されてきました先生が赴任されたことによって、その先生がいらっしゃるということで、ルピナスの会もそのようなバックアップ体制を取りながら、行えたことが良かったことだと思います。
あとは茶話会をしながらですが、親子で一緒に楽しめるような様々なアウトドアの企画をしたり、流しそうめんという楽しいイベントもしましたし。また少しずつお母さんたちの心がほぐれてきて、夏ぐらいから震災当時の話を、やっと皆さんできるようになってきた頃に、筑波大学の先生の協力をいただいて、震災のストレスケアに対する講座を何度も持っていただきながら、皆さんの心を、そのようなストレスをどのように開放していけるのかなという勉強会もしましたし、あとは原発子供支援法、それができた頃にも、やはり私たちは中身自体が分からないわけですから、その勉強会をしながら、各々がそれを通して、子供たちにどのようなケアをしてあげられるのかなと、お母さんたちは一生懸命学んでいたように思います。
子どもたちというのは、一人一人様子が、状況が違うので、一辺倒には言えないんですけど、つくばに来るまでの経緯が一人一人違いますので、ある方は7か所、8か所転々として、最後このつくばに来たという方もいらしたので、子供たちも、その一つ一つを乗り越えてきながら来たんですが、つくばの場合はもともとの地域性が転勤族が多い街ですので、子供たち自身、他の子供たちも自分も転勤してつくばに来ている子供たちが多かったので、そういう意味では子供の世界という素晴らしいところで、「福島から来たから」とかいうことなく、つくばの場合は本当に、他のところではなかなか難しかったそういうものがなく、子供がすんなりと溶け込むことができたということが、お母さんの話題の中でもいつもいつも出てきたように思ってるんですね。
私たちルピナスの会では、それを育てているお母さんたちが元気で前向きでなければ、子供たちを抱擁してあげることができない立場ですので、意外にお母さんたちの方が傷ついて、様々な痛みを抱えて、震災当日の事も言うこともできないでいる中での最初の頃でしたから、どちらかというとお母さんたちの心を大事に見つめていきながら、一回一回の会をやってきたように思います。それで連携して、それが子供たちにいくものだと信じてきましたし、子供たちの方は、先ほども言いましたが、福島から赴任して来た先生が、子供たちに声をかけたり、様々なことでケアしてくださっていたので、そういうところは信頼していたように思いますね。
3.支援活動での工夫
本当にたくさんの方々に協力をして頂けたというのは恵まれていたと思います。つくば市の方でも避難している方に向けて、まあ全てが初めてのことですから、最初からパーフェクトな内容ではなかったと思うんですけれども、その都度その都度、対応してくださってましたし、またここはたくさんのボランタリー精神あふれる方がいらっしゃいますので、筑波大学の先生や茨城大学の先生、筑波学院大学の先生方、本当にたくさんの先生方にも支えていただいて、必要な内容もまた専門的にも情報を提供して頂いたということも大きかったとも思います。私たち市民側の力だけでは、難しかった。行政との連携もそうですし、専門分野でたくさんの情報や学識のある方々の力もなければ難しかったですし。また並木小学校側の対応も、施設解放してくださって、そこに直接関わっていない学校の先生方も、様々な面で協力して下さっていたというのは、大きな配慮かなと思います。
あとはグループで集まりますと、その方々の背負ってる環境、事情というのは全く違いますので、時には帰還困難地域の人たちで集まって、本音を話す時間が必要でしたし。自主避難で来られた方はもっと複雑な状況を抱えておりましたので、その方だけで集まることもしながら本当の意味で本音が話せるようにしましたし。あとは全体をみて、「このお母さん、この話題ではちょっと傷ついちゃったかな」と私が感じた時には、会が終わった後にメールや電話などで、「どう思った?大丈夫?」などと聞ける、お母さん同志だからできる、というところも大きかったのかなと感じます。また改めて振り返った時に、お母さんたちのどんな心境、心が月日と共に移り変わっていくところがよく見えてましたので、最初は心を解放できなくて、縮こまっていて、どうしていいか分からなくてパニックだった方たちが、福島の方たちと会話をする中で、心が開けていったというのもありますし、少し経てばなかなか人前で言えなかったあの3・11当日のことや、そこで感じた様々な辛い思い出などを、涙して語れるようになった時がありまして、そういう時に私自身がそれを専門的に手助けできることができなかったので、ちょうど災害ストレスケアの専門の先生が筑波大にいるということでしたので、こちらからお願いに伺って、その先生が3度4度来てくださいながら、どのようにそのストレスを開放していったらよいのかを、一つ一つアドバイスをくださりながら、お母さんたちが心の痛みを一つ一つ転換できるようになってきたのも見てきましたし、またその事によって、初めて自分を前向きに捉えられるようになったきっかけになった気がします。
(大学の先生のアドバイスは)一つは講演会のような形で、先生の話を聞き、また個別に必要な場合は、とことん付き合ってくださいまして。そういうのもお母さんたちには心強かったんじゃないかなと思いますね。自分に向き合って下さる方がいるというのは。普段はなかなか私たちにも言えないような部分を、多分初めてその先生には相談する形でお話していったんじゃないかなと思います。
聞き手:その内容のところには立ち会ったのですか?
講演会は一緒でしたけども、個別の時には違う部屋を準備しました。
聞き手:その個別相談の前後で、相談したお母さんたちの表情が変わったから、良かったと思いましたか?
そういう風に実感できたわけではないんですけれども、その後、秋口にかけての皆さんの言動が前向きになったり、頑張っていきたいという希望的な発言も多くなったので。やはり、一つは震災当日の話を涙で語れたというのも大きかったと思うんですけれども、そこに語っただけでなくて、ストレスケアの内容もちょうど入る事ができたので、やはり皆さん転換されてるな、というのは後々の茶話会の中で感じることができました。
聞き手:二ッ森さんのいう「皆さん」というのはどなたの事ですか?ルピナスの方、茶話会に来てる方、それとも福島の方なのか?
ルピナスの会は、基本的に私以外は避難している方なので。
聞き手:被災者はどこの地域の方が多いのですか?
見事にバラバラです。まんべんなく。
聞き手:僕は、郡山なので、津波被害というより放射能被害で避難してるんですけど、状況によって、原発村の人たちと津波の被災と放射能を心配して自主避難する人と何種類もいるじゃないですか。そこのケアというか接し方の差というのは大変じゃなかったですか?
人数的には自主避難の方の方が少なかったですね。その方にはグループで集まれば少数派になりますから、やはり自分のことを言いにくいですよね、皆さんの前では。ですから、それはすごく気を使いましたし、補償の話になりますとシビアな話ですから、傷つく方もいましたので、そういう場では気を使いますけど、その場では何もできませんので。あとで個別にメールや電話で話をして、感じたことなどを話してくれた時には、受け止めていけるようにはしてきました。
聞き手:補償があって、自主避難からすると、今は仮設の住宅費だけ援助してもらってるので、あとは全部実費ですけども。郡山に帰るにしても高速代は全然出ないし。避難区域の方は全部タダだったりするじゃないですか。補償金もらえたりだとか。そこでの具合なんかは?
もう一つルピナスの会が、いい意味で持続できて、いい関係性であった一つには、これは誰が言った訳ではないんですけども、皆さん暗黙の了解で、各々様々な事情を抱えている、状況も違うということは良く分かってるので。原発に関しての話題はなかったですね。ルピナスの会のお母さんのご主人様が当事者である可能性もありますので、第一原発関連でお仕事されている方もいますし、皆さんそこはお互いのマナーとして、ここに避難して来て縁あって共に会っているわけですから。皆さん、人を傷つけてしまうような話は一切なかったというのも、継続できてとても和やかな雰囲気で会ができていたことなのかなと私は思っています。それは誰が言ったことでもないです。やはり皆さん来られた時の心の痛みや大変さという、その部分では同じでしたから。そして子供を思う気持ち、母親の共通の思いですよね、強いですから。そういう部分で一致していたので、そういう話題がなかったっていうのは、良かったと思います。
聞き手:ではルピナスの会では、補償具合とか、避難してきた原因とかを話すよりは、話しにくい人もいたせいもありつつ、自主避難の人も言いにくかった部分もありつつ、関係性を良くする方向に動いたという感じですか?
そこまでの考えというのは、自然にそうなったんですが、あとは皆さんがそれを、やんや言うことはありませんでしたので、第三者の私の方で判断をして、ここは分けた方が本音で話せるでしょうね、と思った時には、原発子供支援法の時には分けましたし、福島県の職員の方が来てくださって、これも個別面談をしていただいたんですけれども、個別面談ということで最初からしていただきましたし、ここは私のような第三者がいたから逆に「こういうところは分けた方がいいよね」というところで、コーディネートができたのかな、というところはありますね。客観的に見ていたので。
聞き手:最初の人たちは、避難したてで、つくばに対しては何も分からない状態のみんなに、病院はこういうとこがいい、とか?
あと、習い事とかですね。福島で習い事してたけど、つくばではどういうところにある?とか。本当にそういう身近な日常生活のすぐ必要な情報ですよね。ここに住むからには、普段必要な情報とか。何も分からないで来てますから、誰に聞いたらも分からないというようなところで、お母さんたちは悶々と苦しむんですね。ただそれは、私たちも転勤族で、つくばに在住のお母さんたちも同じ経験をしているので、すぐそういうところは分かち合えたのかなとう気がしますね。自分もそれで大変だったというのはありますので。そういうところですぐに手を差し伸べられたという第一歩がすごく良かったのかなと思います。
聞き手:病院とか大変でしたもん。うちには子どもはいないですけど。自分たちがかかる内科とか歯医者とか。何件失敗したか。聞けなかったし。
あとは集まった時に、元の市町村からこういう案内が来たとか、医療関係とかたくさん来ますよね。○○町は来てないんだとか、うちのところはこういう形で来たよ、とか。こういうのはつくばのお母さんたちには、なかなかお話しにくい部分なので、そういう情報交換もありましたし。子供たちの健康診断の病院はこうだったよ、とか、話されてましたし。そういう話に対しましても、子どもたちへの思い、それは本当に深いなと思いましたね。
聞き手:自分からすると、どういう被災だったのかと聞いてしまうんですよ。聞いて受け止められるかは別として、言わせて、大変だったねって言って仲良くなっていくタイプなんですけど。でもそういう集まりだといろんなシチュエーションがあるから、なかなか言えないまま。でも生活に困っている。街の情報なんかを提供することで、信頼関係ができていくっていうのは、すごく良い働きでしたね。
そうですね。ルピナスで会っていない時でも、同じスーパーで会うっていうこと、ちょっとしたことなんですけども、声を掛けてあげられる、「あっ!○○さーん!」っていう感じ。それは私も、転勤族のお母さんたち皆そうですけれど。
そういう何気ない日常があるっていうのが、皆さんにとっては心が安らいだんじゃないかと思って、それが大きかったかなと。
それをまた学校という、中でできるっていうのが、子供たちの様子も垣間見ることができますし。ルピナスやってる時に、子供たちが廊下通ったりとか、そういうの見て「うちの息子、娘、元気だな」っていうのも、安心できた。
ですから、民間人だけでやるのは難しいですし、そういう行政や学校側。様々な方が一緒にタッグを組んで、そこにまた、福島からの先生がいてくれるというのは、皆さんの中では心の支えだったんですね。私にはカバーできない部分を、福島の先生がいるということで、福島のお母さんたちが福島弁で、福島のことを思う存分しゃべっているということ。私自身も本当にバイタリティーある皆さんだなと。「福島、こうだったよねー!」っていうような話が飛び交えたってことも、それを先生が「ああ、そうでした!そうでしたよね!」と。「福島の卒業式はこうだったよねー」とか、何気ないことなんですけれど。それがまた大きな心の支えになってたように思いますから、あの時期に福島県が派遣教員を送ってくれたというのが、本当はもう少したくさん、いろんな所に配置してもらえたら、もっとそういうことが起きたのかなと思いますけれども。そういうのは恵まれていたと。
4.支援活動での課題
ふり返ってサッと話してしまうと、全て上手くいったかのように思いますが、やはり最初、この個人情報を一般の市民として入手する術の無さを痛感しましたし、手を差し伸べたくても差し伸べられないもどかしさ。他の方も同じ壁にぶつかったんじゃないかなと思います。あとは全てが初めてのこと過ぎて、こんなにたくさんの福島の方が一度に様々な県や市町村に避難しなければならないというこの状況、もし自分がその立場に立ってたら、どうなってるんだろう、ってことは、すごく真剣に考えさせられました。茨城県も本当に分からなかったですから、風向きによっては、茨城県もそうだったかもしれないと思うと。やはり皆さん、二日か三日家を空けたら戻ってこられると思って出て来ている方たちばかりなので、まさか、こんな風に。もう帰れないとか。転々として行かなければ行けない。
そういうところにおいては、外的な被害以上に、心の面での大きな痛手がどのようにして、そういう方たちを元のような状態にしてあげられるか、っていうような事を強く考えさせられましたね。そういう時に、つくば市の場合は行政のつくば市が手探りの中ですが、一生懸命「なんとかしましょう」ということで、窓口を開けてくださってましたけども。他の市町村のお母さんたちの話を聞くと、全く何の支援のなく、情報さえも無く、そんな状況の中でいるという時に、この違いは何なんでしょう?同じ苦しみで来たのに、行き着いた先によってこんなに変わってしまうというのは、あってはならないという事は感じますね。ですから行政が受け入れるときでも、もう少し避難者の方の立場に立って、もっとやれることがあったと思いますし、またそこに、行政だけでやらないで、私たちのような民間の人たちをもっと活かしていけるように取り組んで欲しいなという事も感じました。
もう一つは、福島から派遣されてきた先生が悪戦苦闘しながら自分に任せられた任務を果たしていくために頑張っていらしてましたけども、あまりにも空回りすることが多すぎて。例えば名簿一つ。その先生のところに直接避難される方の名簿が届いていたならば、もう少し早く先生は、その方たちのもとに行けたはずですし。それが今回は遅かったので、はっきり言って市民ベースで「ここにこんな人いるよ」「ここに福島から引っ越して来たらしいよ」そういう情報が実は一番心強い情報で、そういうのを一つ一つ拾い上げていかなければならなかったということも、大きな課題だと思いますね。その拾い上げた情報を、今度は具体的に支援する形に持って行くまでがあまりにも時間が掛かりました。それはお役所ならではの、一つずつ確認して、良いっていう承諾をもらってまた現場に降りてくるまでに、時間が掛かって、避難者の方は一日も早くその先生との面接を、希望していたんですけれども。すぐ会おうと思えば会えたのに、それを3週間もかかる形で。
そういうことを目の当たりにして、もう一度そういうシステムをきちっとスムーズに移行できるように。任命した先生にもう少し責任を与えて、その方がある程度の許容範囲で動けるというにしてあげて欲しかったなと。そしたらもっとたくさんの方が相談する機会が与えられたでしょうし、そういうことを考えると、心が痛い気持ちになりますね。