連続ツイート『21世紀の科学革命のアイデア<6>脳科学編(前編)』を転載します。

2019.01.30.a

以下は一昨日の弘学研 @gugakuken (Twitterアカウント)からの連続ツイートです(2019年1月28日)。

(前回分は 2018.12.26.b 連続ツイート『21世紀の科学革命のアイデア<5>生物学編』を転載します。 です。)


今回の『21世紀の科学革命のアイデア』の発信、第6弾 脳科学編は非常に長いので、前編と後編に分けて連続ツイートしたいと思います。読みにくくなるかもしれませんが、ご容赦ください。


お待たせしました。それでは今日は今から『21世紀の科学革命のアイデア』第6弾 脳科学編の連続ツイートを始めます。今回は前編です。脳科学の科学革命のテーマは『心脳問題』、パラダイムシフトは『二元から不二へ』の転換です。自然科学分野は脳科学編が最後となります。では行きます。

まず、脳科学の基礎についてです。脳科学の科学革命のテーマ『心脳問題』とは、物である脳から意識すなわち心はどのようにして生まれるのか、という問題です。私たちの心はどのようにして生じるかという心脳問題は、「人類最後のフロンティア」たる脳科学の最初にして最後にして最大のテーマです。

心脳問題は心と物との関係を問うものです。しかし、歴史的にはデカルトが「我思う故に我在り」とし、自らの意識の起源を不問としたことで、近代以降の科学は対象=物に専念し、自らの意識=心の謎を無視することになりました。つまり、近代科学では心と物との関係が断絶されることとなったのです。

近代科学は「唯物論」を採用してきました。唯物論とは、まず物質が存在し、精神は物質から生まれる副次的なものに過ぎない、とする考え方です。これに対し、精神を根源とし、物質を副次的なものと考える「観念論」(「唯心論」)もありました。しかし、近代から現代まで唯物論の方が優勢でした。

特に、ニュートン力学が確立されて以降、量子力学へとパラダイムシフトした後も、物理学者は「同じ原因からは同じ結果が生じる」という「因果律」を固持してきました。この因果律の考えからは「宇宙で起こる全ての現象は初期条件によって予め決まっている」という「決定論」が導かれます。

従来の物理学理論が採用してきた因果律・決定論の下ではあらゆる現象は人間が取る行動も含めて全て予め決まっていることになります。だから、物理学者は「自由意志は幻想だ」と言います。そこに心が存在する余地はないのです。しかし、私たちの実感から言えば、自由意志、心は確かに存在します。

一方、哲学者の側からは反対の意見も提唱されています。『なぜ世界は存在しないのか』のマルクス・ガブリエルは「脳があれば、いろいろなことを考えることができますが、脳という物質が考えているわけではないのです」と言います。興味深い意見ですが、これだけだと何を言っているか分かりません。


物理学の21世紀の科学革命がこの状況を打開します。物理学の新理論『正負根子モデル』では量子的現象が『確率論』を含み、因果律が成り立たないことに着目します。すなわち、「物理『法則』」として予め決まっているのではない物理的過程が存在していて、ここに心が存在する余地があるのです。

正負根子モデルは、正根子・負根子・無の『三項間関係』です。これによって「二項間関係に基づく従来の自然法則の形態」(茂木健一郎さん)を超えることができます。具体的に言えば、確率論の起源は無であり、決定論は正根子・負根子=存在質量が担います。これらを合わせて選択論となるわけです。

具体的には、無からの正根子・負根子の生成または無への正根子・負根子の消滅が確率論として起こります。また、生成した正根子・負根子が消滅するまで存在質量を保存しつつ行う運動が決定論となります。無=確率論が互いに正根子・負根子=決定論をやり取りする、この総体が選択論となります。

根子(魂子)のレベルでは選択論=確率論+決定論の下で因果律を超える『選択意志』の存在を許容することができます。また、時間の流れとは無の確率論に起源する正負根子の運動の変化であり、この変化の瞬間が「今」(茂木健一郎さん)です。つまり、「今」を生じるのが選択意志=「私」なのです。

言ってみれば、私たちの心は究極的には無から生まれます。無が正根子・負根子という存在質量=物を介して相互に作用し合うことで私たちの豊かな心を生じるのです。正根子と負根子の間に存在する無は河合隼雄の「中空構造」か、あるいは仏教の先人たちが辿り着いた「無」とも言えるでしょうか。

例によって『各々の学問分野の個性は何か?』と弘学者の私が問うと、その答えは他の自然科学の分野には『中心』とする対象があるのに対して、脳科学は対象と自分との『境界』に位置する学問だということです。これは自然科学と人文・社会科学の『境界』でもあります。脳科学は『境界』の学問です。

『境界』に位置する脳科学は物と心、対象と自分、客観と主観の狭間で苦しんできました。しかし、正負根子モデルという物理学の新理論によって心の存在を許容することができます。唯物論と観念論(唯心論)とを止揚することができるのです。物と心、物質と精神の二元論は終結するのです。

仏教の言葉に『不二』というものがあります。『不二』とは、対立していて「二元」的に見えることも実は一つであるとする考えです。物と心は表裏一体の関係にあります。『物心不二』なのです。脳科学の学問の個性である『境界』と、対概念の『中心』を止揚するのは、『二元から不二へ』の転換です。


次に、脳から心が生まれる過程を具体的に考えてみます。心の起源は根子(魂子)レベルで存在する無ですが、この無それ単体から生まれる心は「原意識」(茂木健一郎さん)と呼ぶべきものに過ぎません。私たちの豊かな心はどのようにして生まれるのでしょう?脳という物質系が心を生じる仕組みとは?

脳とは神経細胞のネットワークであり、ここが心・意識が生まれる中心地です。常識と言えば常識です。この脳の神経回路は、神経細胞の軸索を通した「伝導」(電気信号の流れ)と、神経細胞同士の間にあるシナプスにおける「伝達」(神経伝達物質の拡散)によって「情報を伝えている」とされます。

脳の神経回路は「情報を伝えている」というのは脳科学の基本的な考え方です。脳は外部から入力された情報を処理して出力するものだというのが定説です。ここから、脳の情報処理の過程は計算機=コンピューターと同じ様なものだとする考えも生まれました。脳は本質的には機械と同じだというのです。

計算機科学が発展する中、人間の脳を超える知性を持つ人工知能が生まれるとする「シンギュラリティ」(「技術的特異点」)を提唱したレイ・カーツワイルは、シナプスを「遅い結合」と言って、機械の力でこれを超えることが可能であるという見方を示しました。しかし、本当にそうでしょうか。

カーツワイルはシナプスを遅い結合としましたが、進化論的に重要だからそうなったはずです。軸索における伝導の様なより高速な情報伝達手段を実現し得る生命が、敢えてシナプスという遅い過程を採用したのには理由があるはずです。物質の拡散という複雑で面倒な仕組みにこそ本質があるのです。

シナプスには単なるスピード以上の重要な機能、意義があるはずです。形態的にもシナプスは神経細胞同士の境界、間、関係ですから、ここに新たな性質が現れるはずです。シナプスは「情報を伝える」という以上の重要な役割を担っていると考えるべきです。シナプスこそが心脳問題の解決の鍵なのです。

私の仮説はシナプスに心が存在するというものです。シナプスにおける「伝達」すなわち神経伝達物質の拡散が確率論であり、軸索における「伝導」すなわち電気信号の流れが決定論であり、これらを合わせて選択論と考えます。確率論を担うシナプスにおける「伝達」が心を生じる本体というわけです。

意識は「クオリア」と「志向性」から成り立っています。クオリアとは、赤の赤い感じといった、感覚を特徴付ける独特の質感とされています。また、志向性とは、「〇〇へ向かう」という心の働きで、物質にはない心に特有な属性とされています。このクオリアと志向性が私たちの意識を構成しています。

私たちの意識を生じるのはシナプスにおける「伝達」です。シナプスにおける神経伝達物質の拡散が私たちの意識の本体です。神経伝達物質の拡散は量子的過程であり、エントロピー=情報量が増大する過程です。すなわち、ここで情報が創造されるのです。この創造された情報が「クオリア」となります。

また、シナプスにおける「伝達」、神経伝達物質の拡散は外部から見て不確定性が増大する量子的過程です。これは内部の立場に立てば選択意志の増大を意味します。具体的には神経伝達物質の集団(物質系)がニューロンを発火させるか否かを選択するのです。この高次の選択論が「志向性」となります。


脳科学者の茂木健一郎さんは心脳問題の解決に向けて「認識におけるマッハの原理」と「相互作用同時性の原理」というアイデアを提案しています。しかし、私はこれらに大幅な修正が必要だと考えています。そもそも、100年前のマッハやアインシュタインの理論は21世紀の科学革命には使えません。

茂木健一郎さんはニューロン(神経細胞)に着目しましたが、私たちは上述の様にシナプス(神経細胞の間の結合)に注目すべきです。その上で、「認識におけるマッハの原理」が主張する様に「単独で存在するニューロンには意味がない」のではなく、『個々のシナプスに固有の役割がある』と考えます。

マッハは『関係』に着目しましたが、それだけでは半分です。『要素』を無視しては全体論に陥ります。ゲシュタルト等の全体論は要素還元主義(「分ける」)の否定、「分けない」ですが、これでは問題は解けません。必要なのは「分ける」の反対、『合わせる』という発想で、これが関係創発主義です。

つまり、『個々のシナプスに固有の役割がある』ことを認めた上で、これらを『合わせる』という発想が必要なのです。これは同時に、クオリアも「これ以上分割できない」「構成要素」と見なすのではなく、『互いに結び付いて統合されることで関係創発するもの』と捉える必要があることを意味します。

個々のシナプスは互いに神経細胞の軸索における「伝導」によって連結されます。軸索に電気信号が流れることでシナプス同士が統合され意識を関係創発します。逆に、軸索での「伝導」で統合されないシナプスは意識の創発に寄与しません。故に、意識は活動電位と相関するという実験結果になります。

つまり、シナプスにおける「伝達」によってクオリアが生成し、軸索における「伝導」によって電気信号が流れることで、これらのシナプス同士が連結され、生成されたクオリア同士が統合されることで、私たちの脳は認識を創発するのです。これが『認識におけるシナプスの原理』です(図1)。

ニューロンでなくシナプスに注目すると、「相互作用同時性の原理」にも逆転の発想が必要です。ニューロン(神経細胞)間のシナプスにおける「伝達」、神経伝達物質の拡散は遅い過程であり、これと比べてニューロンの軸索における「伝導」、電気信号の流れが伝わるのに掛かる時間は非常に短いです。

つまり、軸索での「伝導」に掛かる物理的時間は、シナプスでの「伝達」によって生じる心理的時間と比べて無視できるほど短いので、心理的な時間の中では一瞬に潰れてしまい、同時と認識されることになります。これが『伝導相互作用同時性の原理』または『伝達相互作用質量性の原理』です(図2)。


シナプスはクオリアと志向性を生じます。クオリアはシナプスにおける情報の創造として生じます。クオリアの「質」的性質はシナプスにおける膨大な数(アボガドロ数規模、10の23乗程度)の物質の相互作用によって生じます。神経回路を伝ってシナプスが連結されることでクオリアも統合されます。

ニューロンが集団的に発火し、シナプスが連結されると、クオリアが統合され、並列的な意識を生じます。ここで重要なのは、視覚的アウェアネスの様に意識に並列的に見える各々のクオリアは、互いに分割不可能な構成要素として並列的に存在するのではなく、階層構造を持っているということです。

視覚情報を例とするなら、例えば「形」とは「色の空間的差異」であり、「動き」とは「色と形の時間的差異」です。この逆に「色」を「形」で説明するとか、「色」を「動き」で説明するといったことは不可能です。視覚的クオリアの階層構造は「位置」→「色」→「形」→「動き」となっています。

このような視覚的クオリアの階層構造と脳の神経回路の構造とを符合させると、視覚的アウェアネスに並列的に現れる各々のクオリアの「属性の結び付け」はニューロンの「同期発火」ではなく『同時発火』と『逐次発火』によって実現しているものと推論することができます(図3)。

各シナプスでクオリアとしての情報が生成され、これらの情報が同時並行的にニューロンの発火によって次のシナプスに伝えられ、神経回路が合流する所で情報が統合されるという過程を逐次的・段階的に繰り返すことで、階層構造を持つクオリアから成る並列的な認識が最終的に生じるというわけです。

一方、志向性はシナプスにおける選択論=選択意志に起源します。シナプスが物質的過程によって次のニューロンを発火させるか否かを選択することで、高次の選択論=選択意志を創発し、これが神経回路が分岐していく中でルートを選択することで、特定の対象に向かう志向性を生じるのです。

シナプスにおける選択論=選択意志が発火させるニューロンを選択します。この『選択発火』によって、神経回路のルートが選ばれ、ニューロン群が「同期発火」することで、志向性と「部分の結び付け」が実現するというわけです(図4)。志向性と「部分の結び付け」はこのようにして関わっています。

外部刺激に誘発され、シナプスで生成された情報=クオリアは、神経回路を伝って互いに統合され、一旦、ただ一つの「私の心」=意識を成立させます。この「私の心」=意識を出発点に、今度はシナプスの選択意志=志向性が、神経回路が分岐する中でルートを選ぶことで、行動を選択します。(図5)


さて、次は意識が生まれる基本的なメカニズムを考察してみます。すなわち、物理学の理論と心の創発との対応関係を考えてみたいと思います。特に、単体として選択論を示す正負根子根子あるいは無が、どのようにして互いに相互作用し、系として統合された選択論を実現するのかという問題を考えます。

ここでは、正負根子が集まって形成する『正負根子団』という実体を、従来の物理学理論で用いられる「波動関数」という概念と同一視した上で論を進めることにします。波動関数は正根子・負根子・無が集まって形成した正負根子団であり、選択論を示す構成単位であると仮定するのです。

波動関数同士は互いに統合されると系としての高次の選択論を実現します。これが波動関数の統合と選択です。例えば、2つの電子の一方が上向き、もう一方が下向きのスピンの状態にある時、これらを相互作用させて両電子のスピンを混合状態とすると、どちらが上向き・下向きかが不確定となります。

スピン混合状態となった両電子のスピンはどちらが上向き・下向きかが外部の観察者からは不確定となり、観測を行うまで結果は定まりません。これを両電子の立場から想像すると、両電子は互いに相手のスピン状態は(自分とは逆向きと)確定でき、外部に対してはスピン状態をどうするか選択できます。

スピン状態は波動関数で表されますから、一般化すると、要素同士の波動関数が互いに統合されると、互いの情報の不確定性が排除されると共に、外部に対しては自らの情報の不確定性を増大させます。つまり、要素の集団は波動関数の統合によって系としての高次の選択論を実現することができるのです。

波動関数は統合されることで互いの情報を獲得し、外部に対しては系としての選択意志を行使できるようになります。前者の波動関数の統合によって獲得される情報がクオリアであり、後者の波動関数が系として行使する選択意志が志向性となるのです。これが波動関数の統合と選択による意識の創発です。

波動関数の統合と選択という発想から意識と無意識の違いも見えてきます。意識、「心に見えるもの」とは、能動的であることから、確率論であり、情報を変化させると推察できます。また、無意識、「心に見えないもの」とは、受動的であることから、決定論であり、情報を保存すると推察できます。

波動関数の統合と選択が起こると、選択の内容によっては情報が変化する可能性が生まれます。つまり、情報の変化の方に相当する意識は統合され選択する波動関数であると考えられ、逆に情報の保存の方に相当する無意識は統合されておらず孤立している波動関数であると考えることができるのです。

波動関数の統合と選択による意識の創発の過程を図示します(図6)。個々の波動関数は情報を生成し統合することでクオリアを生じ、情報を選択し変化させることで志向性を生じます。これら情報の生成・統合・選択・変化の過程が意識となり、情報の保存・伝送・分化・消滅の過程は無意識となります。


上述の様に、脳という物質系を構成する波動関数の集団は、情報の保存・伝送・分化・消滅といった決定論だけでなく、情報の生成・統合・選択・変化といった確率論を含む高次の選択論を実現することで意識を創発しています。この仮説と従来の情報科学や脳科学の理論とを比較してみましょう。

まず、シャノンの情報理論は通信=情報の伝送=決定論だけを扱い、心=情報の統合や選択=確率論は捨象しています。このため、シャノンの情報理論は関係付けられ(統合され)選択された情報=『意味』を含みません。情報の意味は人間の脳の中で関係付けられ選択されることで生じるものなのです。

次に、チューリング機械は計算機械を扱ったものですが、この計算も決定論です。チューリング機械の条件は脳では成り立ちません。脳は計算だけを実行するチューリング機械と異なり、確率論を含む選択論によって情報の生成・統合・選択・変化を実現しています。脳は単なる計算機械ではないのです。

「意識は計算だ」とする主張があります。脳は外部から入力された情報を決まった手続きで処理し結果を出力するだけの存在だとする考えです。しかし、この論法の奇妙な所は、外部環境は情報を生成するのに脳は情報を生成しないとする点です。私たちの意識が脳ではなく外部に起源するのでは変です。

「反応選択性」という考え方も決定論です。これも「脳はチューリング機械である」「意識は計算である」とする考えや「行動主義」と同じ誤りです。実際は、脳は選択論であり、同じ入力に対して異なる出力が可能です。脳は入力と出力の間に情報創造と選択意志の過程を介在させているのです(図7)。

近年は「情報統合理論(IIT)」というアイデアも広まっています。しかし、情報統合理論も「情報」を所与のものとしていて、その出生は説明していません。あるいは、情報は全て外部からシステムにもたらされるもので、システムの内部で情報が新生すると考えているわけではないようです。

しかし、脳というシステムが内部から情報を新生するのでなければ、「私」の意識の起源を説明することはできません。「統合された情報が意識である」としても、その情報の起源が(記憶も含め)全て外部にあるとするのでは、「私」の意識の起源が「私」の脳の外にあるという不可解な結論に至ります。

脳は情報の生成・統合・選択・変化を実現し、これらが意識となります。特に、情報の生成と統合であるクオリアと、情報の選択と変化である志向性とは切り離すことはできません。「意識の核」では単に因果の鎖が寄り集まるのではなく、無へと統合され、この無が因果律を超えた選択を実現するのです。

個々の波動関数=正根子・負根子・無から成る正負根子団は、互いの情報を統合し、高次の選択論を実現することで、意識を創発する。この仮説を『統合選択情報理論 integrational and optional information theory』、あるいは『意識創発理論 consciousness emergence theory』と名付けます。


さらに言うと、私たちの意識、一つの「私の心」として認識されるものは、波動関数の統合と選択を物質的過程の中で膨大な段階を経て実現されたものと考えられます。ここで注意すべきは、重力や電磁気力など決定論的に見える相互作用も根子レベルでは量子現象であり、波動関数と関わっている点です。

このような物質的過程は波動関数の統合と選択を階層構造と捉えるとイメージしやすくなります(図8)。個々の波動関数は統合され、高次の階層で選択論を実現していきます。最高次の階層まで統合された波動関数は意識となり、比較的低い階層で統合されずに残る波動関数は無意識となります。

意識の階層構造から成る色々なピークが様々な「私の心」を形作る様子を図示します(図9)。「私」と「あなた」は別々のピークとして存在します。食事や排泄はピークに小山が加わったり分かれたりします。二重人格者は二つのピークを持ちます。死者はピークが崩れ、新しい命はピークを築きます。

波動関数の統合と選択という発想によって、「脳はなぜ重要か?」という問いにも答えることができるようになります。脳という神経系は生体系という物質系の中で最も関係創発が進んだ『中心』にある器官であり、波動関数の統合と選択の階層構造がピークに達し意識を創発する器官だから重要なのです。

意識の創発は、生体物質や体中の細胞、外部からの刺激など下部構造の段階から既に始まっています。例えば、指先に切り傷ができたり、抗精神病薬を飲んだりすれば、これらも意識に寄与します。脳はこのような意識の創発が完成する場所です。だから、意識は脳の挙動と直接相関する様に見えるのです。

根子レベル、波動関数として見れば、万物に心があります(「汎心論」)。しかし、高次の意識を関係創発するには人間の脳のような精緻な物質(系)的基盤が必要となります。心の普遍性と人間の意識の特殊性とはこのようにして両立するのです。物と心は表裏一体、『物心不二』とはこのことです。

以上で、『21世紀の科学革命のアイデア』第6弾 脳科学編(前編)の連続ツイートを終わります。後編もお楽しみにお待ちください。 #21世紀の科学革命 #弘学革命


(次回分は 2019.01.30.b 連続ツイート『21世紀の科学革命のアイデア<6>脳科学編(後編)』を転載します。 です。)