連続ツイート『21世紀の科学革命のアイデア<1>物理学編』を転載します。

2018.12.12.b

以下は今日の弘学研 @gugakuken (Twitterアカウント)からの連続ツイートです(2018年12月12日)。

(前回分は 2018.12.12.a 『21世紀の科学革命のアイデア』を発信します。 です。)


最初は物理学です。物理学の科学革命のテーマは『正負根子(こんし)モデル』です。正負根子モデルとは、素粒子よりもさらに、そしておそらく最も根源的な2つの粒子、正根子と負根子を仮定する理論です。あらゆる素粒子、また空間の構成単位である素領域は全て正根子と負根子から成ると考えます。

正負根子モデルの詳細については私が2年前に執筆・出版した『負物質の実在と正負根子モデル』を読んで頂ければと思いますが、今回は私の最新のアイデアを示したいと思います。正負根子モデルが物理学にもたらす最大のパラダイムシフトは『因果律から選択論へ』の転換です。これを説明します。

「因果律」というのは、対象の時間発展の過程において同じ原因からは必ず同じ結果が得られるというものです。この因果律の考えはニュートンが力学を創始した所から始まっています。そして、この因果律を適用すると、この宇宙で起こることは全て予め決まっているという「決定論」が導かれます。

実はこの「因果律」と「決定論」という考えは、物理学においてニュートン力学から20世紀の量子力学へのパラダイムシフトが起こった時に怪しい立ち位置に置かれてしまっているのです。というのも、量子力学では波動関数というものを仮定して物理現象を説明しますが、ここに問題が生じるのです。

量子力学において、確かに波動関数の時間発展は因果律に従い、決定論として記述できます。ところが、観測者が観測した時、理論には波動関数の収縮という過程が設けられ、この時に観測される物理量は理論からは確率的にしか予測できないとされているのです。これでは決定論ではなく「確率論」です。

量子力学という理論には決定論と確率論とが混在しているのです。これでは因果律が成立しているとすることに無理が生じます。物理学者は波動関数の時間発展を決定論的に記述できることを以て、量子力学でも因果律が成立していると主張しますが、これは波動関数の収縮の過程を無視した議論です。

決定論と確率論が混在するという事実は私が正負根子モデルを考察する際にも重要な問題でした。特に、確率論が存在するとして、その確率的な過程を生じる原因は何か、確率論の起源は何かということが問題です。従来の物理学の『力』を仮定する説明の仕方では決定論的な記述になってしまうからです。

正根子と負根子に働く力、同種根子に働く斥力である『排他力』と、異種根子に働く引力である『調和力』に着目すると、前者は運動を保存する力である一方、後者は運動を変化させる力であることが分かります。したがって、調和力が働いて運動が変化するか否かが確率論の起源であるとまず考えました。

そうして、調和力が働いて運動が変化するか、あるいは調和力が働かずに運動が保存するか、前者が確率論で、後者が決定論であり、この二択を正負根子は選択するという『選択論』という考えに到達しました。さらに、このような選択を行う正負根子は『自由意志』を持つという重要な結論も得ました。

しかし、調和力が働くか否かを決めている原因は何かという問題が残ります。そこで、正根子と負根子が生まれる前の『無』に注目してみます。宇宙誕生時に最初の正根子と負根子が無から生まれた際にも今と同じような確率論があったのではないかと想像してみます。言わば、創造主の『自由意志』です。

無から正根子と負根子の対、むしろ素領域のように4対の正負根子が生まれる際に、各々の正負根子がどのような運動の向き、また、どれくらいの存在質量(注:正負根子の質量)の大きさを持つかには、存在質量や存在運動量(同上)の総和は保存されるとしても、自由度があるのではないかと考えます。

そして、宇宙誕生時の無は最も対称性が高い状態だったとして、そこから生まれた正負根子の(4つの)対の運動が最初の状態から崩れていくことによって自発的な対称性の破れが起こり、その時に規定された対称性の破れが現在の宇宙の素粒子や素領域にも保存されているとさらに考えてみます。

ところで、現在の宇宙でも、負の重力・慣性質量を持つ物質、『負物質』によって素領域の生成が起こり、これによって生じる空間の流れが『万有斥力』として、「暗黒エネルギー」や「暗黒物質」という形で観測されていると私は考えています。この素領域の生成も負物質を介して無から起こるはずです。

負物質が素領域を生成するメカニズムはこうです。負物質の縦振動する負根子は既に存在する素領域の中に対称性の破れとして保存されているヒッグス粒子と衝突します。ヒッグス粒子は正の存在質量を持ち、負物質の負根子と衝突すると無化を起こします。こうして素領域の内部に無の領域が生まれます。

負物質の負根子が素領域内部のヒッグス粒子と衝突することで生じた無の領域から、宇宙誕生時と同様に正負根子の対が生まれます。しかし、この正負根子が新たな素領域として成立するのは、それらの運動の対称性の破れ方が既存の素領域の対称性の破れ方と合致した場合に限られると仮定します。

無から新たに生まれた正負根子の運動の対称性の破れが既存の素領域の対称性の破れと合致した場合には素領域が新生し、合致しなかった場合にはこれらの正負根子は無に帰ります。負物質はこのようにして素領域を生成したり生成しなかったりすることで、空間を生じ、万有斥力を示すというわけです。

一方、正物質の万有引力は、正物質の縦振動する正根子が負物質の生み出した素領域の内部の対称性の破れであるヒッグス粒子と衝突し、うまく対称性の破れを解消できた場合に限り、支えを失った素領域が崩壊し、無へと消滅して、空間を消滅させることによって示される力だと考えます。

以上のメカニズムにおいて、負物質を介して無から正負根子が新生する際の運動の自由度が、素領域を生成したり生成しなかったりするという確率論の起源となるわけです。正物質が素領域ごと正負根子を消滅させたり消滅させなかったりする過程は、これ単体では決定論ですが、起源は同じで確率論です。

先に述べた正負根子の調和力による運動の変化は、まさに「ひも」が絡み合うが如く、無からの正負根子(素領域)の生成または正負根子(素領域)の無への消滅に伴う、対称性の破れの増幅・解消による運動の変化で補償されると考えられます。すなわち、全体では存在質量・存在運動量は保存されます。

まとめます。素粒子や素領域は正負根子から成り、これらの正負根子は素領域の正負根子の生成・消滅の成否に伴い、運動を変化させたり保存したりします。この運動の変化と保存の選択は究極的には無という存在に起源し、これによってこの宇宙は決定論と確率論が共存する『選択論』となっています。

以上が決定論と確率論が共存する『選択論』の物理学的な説明です。この説明はまだ数学的に定式化できたわけではなく、イメージに過ぎません。物理学の専門家ではない、弘学者の私には今の段階ではこれが精一杯です。ただ、『選択論』というアイデアが持つ重要性についてはもう少し言及してみます。

物理学における『因果律から選択論へ』のパラダイムシフトは衝撃的です。これまで物理学者は量子力学へと転換した後も「因果律」が成立していると主張してきました。因果律は「決定論」を帰結し、決定論の下では自由意志は存在できません。故に物理学者は自由意志は実在しないと吹聴してきました。

例えば、貴方の片手を挙げて、頭を掻いてみてください。すると、物理学者は言います、「貴方がどちらの手を挙げて、頭のどこを掻くままで、予め決まっているのだ。だからそこに貴方の自由な意志は存在しないのだ」と。従来の物理学の理論が導く決定論の世界ではそういうことになっているのです。

物理学者は「自由意志は存在しない」と吹聴し続けてきましたが、これは恐ろしい考えです。貴方が犯罪を犯しても、それは予め決まっていたことで貴方の自由な意志ではない、ということになってしまうのです。このような考えを持つ人の道徳観はどうなるか?物理学を学ぶエリートほどそうだとしたら?

逆に『自由意志が存在する』となればどうなるでしょうか。善行も悪行も貴方の意志に基づくとすれば、貴方はどうしますか?正負根子モデルが示す『選択論』とはこのような世界です。ただし、選択論は完全に自由な意志ではありません。与えられた条件で一定の範囲で選択する自由、『選択意志』です。

量子力学を学んだ人なら、こう説明すれば分かるでしょうか。電子の位置を予言しようとしても物理学者には確率的にしか分からない、という事実を電子の立場から想像すれば電子は自由意志(選択意志)を行使したことになる、と。電子を含むもっと多くの素粒子から成る私たち人間も同様です。

ここに地球中心説(天動説)から太陽中心説(地動説)へと転換したコペルニクス以来とも言える世界観の転換があります。それは『客観から主体へ』の転換です。コペルニクスが地球そして人間自身を世界の中心の座から引きずり下ろして以来、物理学、自然科学は対象を客観する方法に徹してきました。

コペルニクスの「最初の科学革命」以来、物理学、自然科学は「客観」という方法で自然を観察してきました。「客観」とは人間という「主観」の視点ではない、高い視点から世界を観るというものです。それはある意味、神の視点を持とうとする試みとも言えます。そうして自然科学は進んできたのです。

デカルトの「我思う故に我在り」、疑っている自分だけは疑い得ないという言葉もこの疑い得ない「客観」の視点を述べたものと言えます。そして、対象を客観するという方法は「分析」という手法と親和性が高かったのです。こうして自然科学、特に物理学は「要素還元主義」を徹底していきました。

弘学を実践している私は『各々の学問分野の個性は何か?』という問いを意識しています。物理学という学問の個性とは何か?それは他の自然科学の諸分野が「対象」の学問であるのに対して、物理学はその名の通り『法則』の学問であるということです。故に物理学は最も『基礎』にある学問なのです。

物理学は最も『基礎』にある学問として『法則』を探究するため『要素還元主義』に基づき『分析』を実践してきました。対象を要素に分けて、法則を見つけて、より細かい要素に分けて…、それを繰り返してきた結果、ようやくこの21世紀に素粒子よりもさらに根源的な正負根子に辿り着いたのです。

そして、おそらく正負根子が物理学の最終到達地点です。正根子と負根子という『2』種類よりも少ない要素の数ではこの宇宙のような多彩な世界は生み出せないでしょう。そして、この最終到達地点に辿り着いた所で、『法則』の学問たる物理学は正負根子という『対象』の中に『法則』を見い出します。

物理学は正負根子あるいは無という『対象』の中に、選択論という因果律を超えた『法則』が内包されていることに気付いたのです。それは物理学という学問の個性であった『法則』と、対概念としてあった『対象』とが止揚されたとも言えます。このように各々の学問の個性はその対概念と止揚できます。

そして、「要素還元主義」を貫いてきた物理学は最終到達地点に辿り着き、そこから反転して逆向きに発展していくことになります。この反転は『客観から主体へ』の転換とも重なります。すなわち、これまで客観的に観察してきた対象の主体性を想像することで理論を組み立てていく道が開けるのです。

私はこの意志を持つ『根子(こんし)』を『魂子(こんし)』とも呼んでいます。それは言ってみれば、唯物論と唯心論とを止揚させるものです。自然科学の中でも最も基礎にある物理学が『心』の存在を許容できるということは、他の自然科学の分野はもちろん、人文・社会科学にも革新をもたらします。

コペルニクスの「最初の科学革命」以来、世界の中心の座から引きずり下ろされた人間は、正負根子モデルが示す『万物に心が宿っている』という考え、『客観から主体へ』の世界観の変革によって、今度はそれぞれに『心』を持つ尊重すべきものとして、再び世界の中心の座に帰ることができるのです。

長くなりましたが、『正負根子モデル』がコペルニクス以来の科学革命となることをご理会頂けましたでしょうか。もちろん、革命はまだ実現していません。これから皆で創っていくのです。来るべき #21世紀の科学革命 、 #弘学革命 は物理学から始まり、他の分野へと波及していきます。ぜひご参加を!


思った以上に長くなってしまいましたので、#21世紀の科学革命 のアイデアの発信、続きは後日にします。次回は宇宙科学になると思います。ちなみに研究の進行状況が分野によって差があり、発信量が異なることは予めご容赦ください。それでも弘学は全ての学問を愛しています。 #弘学革命


2018.12.15 補記(2018年12月14日のツイート)

先日の『21世紀の科学革命のアイデア』第1弾 物理学編の連続ツイートへの補記です。急きょ発信を決め、思い付くままに書いていて、パラダイムシフトの表現を二字熟語で統一するという方針を失念していましたので、修正します。正しくは、物理学のパラダイムシフトは『因果から選択へ』です。

補記続き。また、鍵となる重要な言葉、特に新造語には英語での表記も示しておきたいと思います。物理学の科学革命の鍵概念、『選択論』という造語の英語訳はひとまず"optionism"としています。当方の語彙力不足もありますので、より適切な表現を考案された方はぜひご提案頂ければと考えています。

補記続き2。物理学の科学革命のテーマである『正負根子モデル』の英訳も示しておいた方が良いですね。『根子(こんし)』の英語訳は"origin particle"、『正負根子モデル』の英語訳は"the Plus/Minus Origin Particle Model"です。説明が前後してしまい、失礼しました。


(次回分は 2018.12.15 連続ツイート『21世紀の科学革命のアイデア<2>天文学編』を転載します。 です。)