済々黌の名が消えた日

済々黌の名が消えた日

明治24年,済々黌の名が四校合併により一時消えたことはあまり知られていない.

そこで30周年記念多士(明治45年発行)を読み直し調べてみた.

佐々友房は,西南戦争で重傷を負い,同年10月、除族,懲役10年の刑を言い渡され宮崎の監獄に収監された.佐々は獄中で青年子弟の育成,教育こそ急務であると痛感,1879年(明治12年)1月に病気のため出獄すると,同年12月、同志とともに熊本市高田原相撲町に「同心学舎」を設立した.当初会同したのは佐々友房,高橋長秋,小橋元雄,高橋十郎,池田案山子,美濃部厳夫,安詮院虎雄,友成正,西大次郎,廣吉秀雄の諸氏で皆二十歳前後の壮年であった.これに別途學校設立を計画していた柏原武,朽木多仲,甲斐隆道らと合同し,最終的には四十数名で設立を決した.明治14年同心學校となるが,後援会社の経営不振により経費支弁が途絶え12月廃校となる.生徒の中に自由民権の風潮に感化される者があり,生徒がニ派に分かれたのも一因とされている.明治15年,再び學校を設立し,名を詩経の「済々多士文王以寧」からとり済々黌とした.

西南の役が収束し,社会が落ち着きを取り戻すと興学の気運が高まり,済々黌以外にも県下各所に家塾,私学校等が勃興した.明治16年当時の状況は以下の通りである.

明治24年当時は,熊本中心部には下記の學校が存在していた.

済々黌(木村弦雄黌長) →合併→ 九州學院普通学部

法律學校(有吉立愛氏) →合併→ 九州學院法学部

文學館(津田静ー氏) →合併→ 九州學院文学部

春雨黌(高岡元眞氏) →合併→ 九州學院醫學部

文學精舎(中村六造氏) 合併せず

当時の縣知事,松平正直氏が五校を合併することを勧めた結果,文學精舎を除く4校が合併し,九州學院が誕生した.注)現在の九州学院とは異なる.

名称を九州學院醫学部[春雨黌(しゅんうこう,私的医学校),同文學部(文學館),同法學部 (法律學校),同普通學部(済々黌)]と改称した.なお,九州學院の成立時,済々黌附属女子部は分離して尚絅高等女学校となった.

明治27(1894)年,高等普通教育を希望する子弟の増加に応えるため,普通学部は九州學院から分離し,県費の補助を仰ぎ,名を熊本縣尋常中学済々黌と改め,管理も県知事に委ねる形で済々黌の名は復活した.残った學部は専門科のため時代の進歩に合った経営が困難になり,明治30年九州學院は解散し,醫学部のみは継続して後の熊本醫學専門学校となった.


校舎の変遷は済々黌福岡同窓会ホームページを御覧ください.


明治29年,山鹿,八代,天草に分黌を設立し,明治33年には第一済々黌と第二済々黌に分化し,明治34年には県立中学となった.


第一済々黌 → 熊本縣中學第一済々黌(天草分黌を含む)→ 熊本県中学済々黌 → 熊本県立中学済々黌 → 熊本県立済々黌高等学校

第二済々黌 → 熊本縣中學第ニ済々黌(城北分黌を含む)→ 熊本縣熊本中學校 → 熊本県立熊本高等学校

山鹿分黌 → 城北分黌 → 熊本県立鹿本中学校 → 熊本県立鹿本高等学校

八代分黌 → 城南分黌 → 熊本縣八代中学校 → 熊本県立八代高等学校

天草分黌 明治42年独立 熊本縣立天草中學校 → 熊本県立天草高等学校


以上が黌の歴史の概略である.

明治36年火災に遭う等,紆余曲折があったが,度重なる細川公爵の寄付と県の補助などにより発展を遂げ,明治45年に30周年を迎えた.

寄付の詳細は次稿を参照.

引用資料

熊本県立中学済々黌創立三十周年記念多士