村岡花子の短文と「ごきげんよう,さようなら」

村岡花子の短文と「ごきげんよう,さようなら」

NHK連続テレビ小説「花子とアン」で村岡(旧姓安中)花子の話が進行中である.

『赤毛のアン』の翻訳者で知られているが,童話作家でもある.

徳冨猪一郎(74歳)の「国民戦線・人民戦線と我が皇道精神」を掲載している本の目次に,近衛首相の「帝国態度の声明」,寺内最高指揮官告示「北支民衆に告ぐ」や「歴史的南京入城式」の新聞記事等に混じって,童話家 村岡花子(44歳)の「ドイツ婦人の忍耐」という短文があった.昭和12年,熊本市立高等女学校(現熊本市立必由館高等学校)の「學校より家庭へ」の冊子に掲載されている.当時の時局記事を集めて転載・編集したものである.

当時の時代背景を知るには,徳冨猪一郎(蘇峰)の文章の項目だけで十分である.

ファッショ,赤化(共産主義化)を否定し,皇道精神のみがこれらに対抗できると書いている(元は「文部時報」に掲載).

国民戦線・人民戦線と我が皇道精神 徳冨猪一郎

1.平和は日本だけである

2.空腹国と満腹国

3.国民戦線・人民戦線はどうして起つたか

4.ファッショはデモクラシーの息子,共産主義とは兄弟

5.ヒットラーの出現と独逸国民

6.ムッソリーニの出現と伊太利

7.英国と各国との関係

8.フランスとロシアの握手

9.スペインの人民戦線と国民戦線

10.ロシアは世界の脅威,平和の撹乱者

11.我国はファッショも共産主義も必要ない

12.皇道精神を発揮して両戦線に當れ

そのような時代,文人は戦争遂行に協力させられ,彼女も例外ではなかった. Wikipediaには次のように書かれている.

村岡花子 - Wikipedia

第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、戦争遂行に協力的な姿勢を取った。また、市川房枝の勧めで婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力(その一方、婚外子への法的差別撤廃には反対した).クリスチャンとして活動した.

ドイツ婦人の忍耐 童話家 村 岡 花 子

最近、 数名のドイツの婦人方と話す機会を得ました。 この人々は千九百十四年から十八年までの世界大戦当時,ドイツにゐて銃後の守りを完全に盡して来た経験を持っていましたので,その方面の體驗をいろいろと聞いたのでずが,近頃,このくらゐ感激したことはありませんでした。

K夫人は大戦當時,十七才のうら若いお嬢さんでした。 まだ女學生でしたが,小學校の教師の試験に合格して、田舎の小學校で男子の先生の場所が空席になってゐるのを補充するため、 学業を中途にして赴任しました。そして午前は小學校の低学級を受持ち、午後はその子供達を教室から送り出すや否や,託児所の方へ駆けつけて,終日外に働く母親たちが残して行く幼兒の保護に當り夜は夜で村の娘達を集めて編物の指導をするといふ活動振でありました. あまりの激務にとうとう健康をこはして, 家へ帰られ静養しなければならなくなりました。昼も夜も寝床についたきりの娘さんを母親は心の限り看護するのでしたが,どうも力がつきません。病人は衰弱するばかりでした。それもその筈,一番必要な滋養食が摂れなかったのです。

疲労しきって倒れた病人の食物が毎日々々黒パ ンを薄く切った上にトマトの輪切りをのせそれに鹽をパラリと振つかけたものだけなのです。 それを娘さんのお母さんが毎日作るのでしたが、現在のK夫人、 当時のお嬢さんはその時の事を語られるのでした。

「母が毎日パンを薄く切り、トマトをのせ鹽をふりかけながら、 涙をぽたぽたその上に落 してゐたのが、 今でも眼に見える様です。「鹽小量,涙数滴を黒パンの上にそゝぐ」といふ献立でした。涙をかけた病人料理なんて,あの戦争の時以外には食べられないものですね。 私は寝台の上から母のその涙を眺めては貰ひ泣きをしてゐました」

又,もう一人のD夫人は語りました。

「これも戦争中でずが、 或る時、 鰯の様なお魚の鹽漬が一人に一尾づ つ貰へ る切符が廻って來ました。 私の家は三人家族でしたから三尾貰へるわけです。

嬉しくて嬉しくて,もうその数日前からいろいろと料理法を考ヘて居りました。 殊にその前夜などはまるで遠足にでも出かける様なはしゃぎやうでした.

三尾貰へるのだから,一つはその儘鹽漬にして置いて長く食べよう,一 つは細かくきざんで野菜と煮込んで・・・・あとの一つはかうして,あゝして、といろいろ様々の計画を立てたものです。

さて配給の當日になりました。何時もの通り店の前には長い長い行列です。 前を見ても後を振返っても人ばかり,いつになつたら自分の番になるのかと心細くなります。 それでも,やっとの事で私の番が来ました。 ところが,ちやうど、 私の前の人でお魚はなくなってしまつたのです。

私の順番になつた時には、樽の中はからつぽ、いくらのぞき込んでも一つもありません。その時の悲しさ,情なさ・・・・お恥かしい事でずが、私はその時ばかりは何のことも外には考へられませんでした.

長い長い間、 お魚の匂ひさへかいだことの無かつた所へ三尾の鹽漬のお魚が手にはいると聞いた時の家族の喜び,その人達の喜も空しくなるのだと思つた時,恐らく戦争中にあの時ほど食糧の事で失望した時はなかったでせう」

近頃耳にした事でこの話ぐらゐ私に異様の感激を與へたのはございません。

この苦しみを祖国の為に堪へて来たドイツ婦人達の前に、 私は頭の下る思ひが致しました.同時に我々日本婦人も祖国の為には如何なる試練にも堪へ得るものにならねばとの決意を堅くしたわけです。

この冊子を編集した熊本市立高等女学校の校長(井島政吉)は,ドイツに関する話題を取り上げた理由を次のように書いている.

不肖往年世界大戦後の欧州視察の途次,足一たび独逸の地を踏むや,到る處に敗戦国の惨状を目撃したのである.而して現時同国の興隆の道程を思ふ時吾人の範とすべき幾多の事例あるを考へ,独逸に関する二三の実話をかかげて特に読者の参考に資するのである.

花子は日本基督教団の教会員であり,積極的に戦意高揚の文章を書くのはためらったと思われる.ドイツ婦人の話を紹介しながら,日本婦人の心構えを二行だけ述べている.やがて配給も満足に実施できない耐乏生活が招来することを感じとったのだろう.「近頃耳にした事でこの話ぐらゐ私に異様の感激を與へたのはございません」と一見大げさに書いている理由はその辺にあると見做すことができそうである.

花子は,1932年から1941年の9年間,NHKのラジオ放送「子供の時間」の中の「子供の新聞」コーナーに出演している.上の短文は,放送内容を誰かが文章にしたのではないかという印象がつよい(私見).

彼女は,放送を終える際,毎回「一週間経ったら,またお話しましょうね.では皆さん,ごきげんよう,さようなら.」と言って番組を終えたとのことである.ところが,次回放送日に,太平洋戦争が勃発し,子供向けに戦意高揚するには,女性より男性の声が適しているという番組責任者の判断によって番組を降ろされ,「またお話しましょうね」は実現しなかった.現在,朝ドラが尻拭いをしているのである.

その後,戦争が本格化し,言論統制の下,彼女の愛する文学が敵国のものであったため,本格的活動の再開は終戦を待たねばならなかった.我家の書棚にも,断捨離を免れた,読み込まれたアン関連の文庫1〜10巻が揃っている.

「學校から家庭へ」に掲載されている各記事の詳細は省略した.目次から読み取ってほしい.憲法解釈変更が議論されている現在,そこに書かれているようなことを繰り返さないためにも歴史に学びたい.

参考資料

熊本市立必由館高等学校

1911年(明治44年)4月 - 「熊本市立実科高等女学校」が開校.

1922年(大正11年)4月 - 「熊本市立高等女学校」と改称.

1949年(昭和24年)4月・「熊本市立高等学校」

1959年(昭和34年)4月・ 商業科が「熊本市立商業高等学校(現・千原台高等学校)」として分離独立.

2001年(平成13年)4月・「熊本市立必由館高等学校」

平成23年(2011)創立百周年を迎えた.

校地は旧熊本藩家老・米田家下屋敷跡である.

明治憲法起草者である 井上毅 ゆかりの土地でもある.

平成元年(1989年)採釣園,旧邸庭園の改修竣工


昭和12年12月28日「學校より家庭へ」第23号 皇威八紘に輝く 熊本市立高等女学校 井島政吉(校長)

国会図書館近代デジタルライブラリーに公開されている本を引用しました。

(2014.6.18)