水素原子とベンゼン環の相互作用は実在する, しかし対面型は少ないという話
低分子から高分子(生体を含む)に至るまで, ベンゼンに代表される芳香環同志の相互作用が種々観察されている. 分子間の場合は分子認識の要因のひとつとして, 分子内では立体配座を決める要素のひとつになっている.
芳香環相互作用を模式化するとface to faceとedge to faceに大別することができる. Face to faceは対面した構造であるが, 実際に観察される場合は,「ずれた対面構造」であることが多い. その理由はベンゼン環の中心が負電荷を, 周邊部位が正電荷を帯びているためとされている. Edge to faceは芳香環の水素原子のひとつが, 相手の芳香環平面に突き刺さったような配向をした形である. この場合, 二個の芳香環が直交することによって, 電子不足の状態にある芳香族水素が電子豊富なπ電子雲と相互作用し安定化する.
この種の構造は,主に単結晶X線解析において観察されていて, 結晶場特有の構造ととらえる傾向があったが, 年の核磁気共鳴スペクトル(NOEを含む)や高精度分子軌道計算から, 一般的な現象であることが明らかになった. これらの相互作用は比較的に弱いものであるが, 分子同士が接近する際に配向性を決めたり, 配座を決定する役割を果たしていることも明らかになってきた.
例1 次図は,クラスレートホスト候補を検索中に見出したDiels-Alder付加体の例である.
NMRスペクトルでは, 重クロロホルム中(室温)フェンスレン環とナフタレン環が接近したAの方が多く存在する. 立体反発のみを考えると明らかにBの方が安定である.なお, 結晶構造は安定構造のAが層積し結晶化したものであり, B型の結晶は得られない.
次の例はメチル基の水素と相互作用した例である. NMRスペクトルにより55:45の存在比であることがわかった.
次図は,A, Bそれぞれを分子軌道計算で構造最適化したものである. PM6法ではCH/πの距離の実測値をほぼ再現している. A, Bのエネルギー差は0.5キロカロリー弱である.
例2 次図はBoyd等のナイトロン誘導体における報告である.赤点線で示した相互作用がある方が安定である. 立体反発のみでは理解できない例である.
以下に安定構造のステレオ図を示した.左図を左目で,右図を右目で見ると真ん中に立体図が浮き上がってくる. 見えない場合は図の間に紙片を置いて見ると見えやすい.
例3 次図のチオシクロファン誘導体では, edge to faceとface to faceの両方の構造がとれるが, 前者のedge to faceの方が安定であると報告されている. 生成熱のMO計算値では差は認められなかった.
これまでに数多くのX線解析を行ってきたが, 対面構造にお目に掛かったことはほとんどない. 一見,対面構造に見える分子配列に遭遇することはあるが, よく調べると他の要因が加わり二次的にface-to-faceの構造をとっていることが多い. 下図の結晶抱接体を見てほしい.このケースでは, 芳香環はニトロ基とアミドカルボニルが置換した電子欠如型のベンゼン環(p-nitrobenzoyl)であり,対面構造による安定化は期待できないと思われる.
上図とは違った角度から見ると,p-nitrobenzoylの水素とインドリンのベンゼン環との間にedge to faceの相互作用が存在する
抱接されたゲスト分子のベンゼンは,ホスト分子との間で.上下左右でedge-to-face相互作用により補足(固定)されている.ホストの芳香族はインドリン環のベンゼン部位である.
純粋な対面構造が少ないのに対し, edge-to-face構造は分子内, 分子間を問わず数多く遭遇する. 蛋白などの生体高分子においてもedge-to-face構造が主とのことである. π系と相互作用する水素は芳香環水素に限らず, 上で紹介したようにアルキル基の水素原子でも認められ,CH/π相互作用と呼ばれ, 西尾氏によりウエブ上でデータベース (List of papers relating to the CH/pi hydrogen bond) 化されている. CH··X (O, N etc) 型の弱い水素結合の範疇に入れられている.
このような弱い相互作用をしている会合体,およびそのエネルギーを個人PC上で半経験的分子軌道計算を用いて調べることができる時代になったことも注目に値する. PM6系のソフト開発と研究者には無償提供を続けているStewart先生に敬意を表したい.
注) face-to-faceはスタッキング, edge-to-faceはTスタッキング等と呼ばれることもある.
参考資料
1) Masashi Eto, Koji Setoguchi, Akiko Harada, Eri Sugiyama and Kazunobu Harano, Tetrahedron Lett., 1998, 39(52), 9751-9754.
2) Boyd, D. R.; Evans, T. A.; Jennings, W. B.; Malone, J. F.; O Sullivan, W.; Smith, A., Chem. Commun. 1996, 2269-2270.
3) Schladetzky, K. D.; Haque, T. S.; Gellman, S. H., J. Org. Chem. 1995, 60, 41084113.
追加資料(2022.10.20)
1) Non-hydroxylic Clathrate Hosts of [4+2]! Cycloadducts of Phencyclone and N-Arylmaleimides. Recognition of Aromatic Guests (フェンサイクロンと N-アリルマレイミドとの [4 + 2]! 環化付加から得られた非水酸基 クラスレートホストによる芳香族ゲストの認識) . J. Chem. Soc., Perkin Trans. 2, 1161–1169 (2002). 吉武康之,三坂淳一,瀬戸口浩二,安部正樹,川路智浩,衞藤仁,原野一誠
2) Carboxylic-acid clathrate hosts of Diels–Alder adducts of phencyclone and 2-alkenoic acids. Role of bidentate C–H•••O hydrogen bonds between the phenanthrene and carbonyl groups in host-host network. (フェンサイクロンと 2-アルケン酸との Diels–Alder 反応より得られたカルボン酸を有する クラスレートホスト.フェナンスレン環とカルボニル基の間に働く二座の CH/O 水素結合 がホスト間ネットワーク形成に果たす役割). Org. Biomol. Chem., 1, 1240–1249 (2003). 吉武康之,三坂淳一,安部正樹, 山﨑雅俊,衞藤仁,原野一誠
3) Clathrate formation of Diels–Alder adduct of phencyclone and acenaphthylene. Key role of CH/! and bidentate CH/O interactions of the phenanthrene ring in construction of host framework. (フェンサイクロンとアセナフチレンとの Diels–Alder 付加体のクラスレート形成.フェナ ンスレン環による CH/! 相互作用や二座の CH/O 水素結合がホスト格子形成に果たす重要 な役割)
Tetrahedron, 68, 3566–3576 (2012).
安部正樹, 衞藤仁,山口幸輝,山﨑雅俊,三坂淳一,吉武康之,大塚雅巳,原野一誠
(2014.5.10) 追加(2022.10.20)