済々黌(私が通った創立75周年頃)

済々黌(私が通った創立75周年頃)

今年(2014),済々黌は創立132年になる(明治15 (1882) 年,前身の同進學舎は明治12 (1879)年開校).熊本県下では,熊大薬学部1885年(明治18年) より古い歴史を持っている.私は黌の歴史の中間点を過ぎた頃に在籍したことになる.

前稿で紹介したように,済々黌が軌道に乗るまでの道程は平らなものではく紆余曲折があった.

明治24年の五校合併で済々黌の名が一時消えた時,また公立移行の時の想いを,明治45年5月26日の創立30周年記念式典で,宇野東風(宇野哲人の兄) が語っている.諸手を上げて賛成したわけではなく,実は泣いて大勢に従ったと述べている.その気持ちの背景を知るためには黌の歴史を知る必要があり,30周年記念多士(明治45年発行)に書かれている「済々黌歴史」の部分(全28頁)を読み直してみた.

黌の前身である同心學舎,同心學校時代には設立発起人,寮監として,また國漢文の教師であった宇野東風氏(在職期間 明治14年1月ー明治30年)としては,建学の精神が希薄化されることを危惧したと思われる.そのことは半世紀以上経過した頃に具体的に表面化することとなった.昭和40年代大学進学率の低下が指摘され,その原因のひとつに教員の質的問題も取り沙汰された,そのような時期,同窓会支部では問題を打破するには私立に戻す以外に手はないという意見まで聞かれた.宇野東風は「転勤々々といって行くのみては,教育の實蹟をあぐるのは六ヶ敷(難しい)」と書いている.教員のサラリーマン化を予見したのであろう(詳細は宇野東風回想録).

私が済々黌高校へ入学したのは,明治45年の30周年記念式典から約半世紀後の昭和30 (1955)年である,曽祖父(明治33−35年島崎村村長)が熊本隊の一員として,佐々友房等と共に西南の役で戦ったと聞かされていたのが動機のひとつである.入学してみると剛毅木訥の気風は巷の噂以上に残っていて,汚れた黄線入りの学生帽をかぶり,通学は高下駄であった.合格発表後の説明会は黄壁城本館2階の講堂で開かれたが,いきなり「貴様らこの講堂を何と思っている,ここは天皇陛下がお立 ちになった場所であるぞ」と怒鳴られた(注 昭和6年昭和天皇行幸).

昭和33年卒業アルバムの黄壁城(1階 管理棟,2階 講堂),昭和36年に改築された

さらに,講堂の左上部の壁に掲げられている「三綱領」を「読んでみろ」とも要求された.怒鳴ったのは3年生(応援団員?)で,教員はそれを当然のような顔をして見ていた.入学当初は少々びっくりしたが,高学年になると,済々黌出身の教員とそれ以外の教員とでは明らかに教育力に違いがあることを知ることとなった.

三綱領は以下のように読むが,その意味については時代,立場によって都合がよい解釈をされたこともある.

倫理を正し 大義を明らかにす

廉恥を重んじ 元気を振ふ

知識を磨き 文明を進む

終戦後,三綱領の内容(特に「大義」について)が進駐軍軍政官に問われたことがあったが,幅広い解釈の仕方でうまく切り抜けたという話は有名である.しかし,昭和30年になっても,進駐軍のお達しで日本古来の武道は禁止され,体育は球技だけであった.戦中時の教育方針が進駐軍の意に沿わなかったことが原因と聞かされた.部活に於いても柔剣道は正式の部ではなく同好会の形式で実施されていた.私は父の影響もあり,友人の誘いで弓道同好会を立上げ,巻藁を射る練習を開始した.学校側としては弓道同好会を作れとは言えないので,生徒の自発的行動として黙認してくれたと思っている.

皆,球技にエネルギーを注ぎ込んだおかげで,野球,水球,ハンドボールはそれなりの成績を残している.中でも野球は清水町に駐屯していた米軍キャンプ(現在自衛隊)の野球チームと対戦し,大男をキリキリ舞いさせた選手達は昭和33年春の選抜で全国優勝を成し遂げた.今考えると,柔剣道禁止令がもたらした当然の結果と言えそうである(私見).済々黌水球部はインターハイで何回も優勝しているが,プールは深く底に足が届かなかった.入学後の体育の時間に,鉄製の飛び込み台から頭から飛び込むことを強要された.飛び込み台の高さは3メートル程度だが,身長が加わるので,プールが小さく見え恐怖のため飛び込めない同級生もいた.そこでも先輩達が新参者の度胸をチェックするかのように高見の見物をしていた.

西山中学校では兎狩を経験していたので,「伝統の兎狩」を楽しみにしていたが,立田山周辺の開発のため,既に中止されていた.運動会,マラソンは伝統行事として開催された.創立時の規則(眼鏡,襟巻,手袋,日傘禁止,毎月5里以上の遠歩)を踏襲したものと聞かされた.マラソンは八景水谷の方へ向かうコースであった.正門を出て北へ250m位走ると九州女学院が在り,その前を走るときは三綱領通りに元気を振るって走ったものである.マラソンの後,女学院の方で手を振っているというので,我々も2階からトレパンを振ったところ教師に見つかり,大目玉をくらった.

服装,挨拶の指導は徹底していた.長袖のシャツは禁止,着用が見つかったらハサミで切られて半袖にされ,卒後時に返却された.朝礼時に私語していた先輩が体育の教員にビンタされるのを見たことがあるが一発ではなかったのには吃驚した.

私は中学校まで日曜学校に通っていたが,教会は男女交際の場であり,軟弱と見做されるという噂があり,日曜学校へは通わなくなった(考えすぎだったかもしれない).当時,各クラスに女子が数人いたが身内的存在であり,他の女子高生となると話は別であった.生徒によっては,女子高の生徒との交際問題等で,先輩でもある教師の指導に反発を感じた者もいて,卒業が決まった時点で黄壁城の正面玄関バルコニーに上り小便をした友人がいた.私のこの文章を読んだら,俺のことだと思ってくれるはずであるが,我々の世代はIT卒業生?が多く永久に伝わることはないと思っている.

創立百周年記念焼酎の瓶に描かれた制服の変遷 通学 競走 藪の内時代,剣術 兎狩 操練 通学 高田原時代

創立百周年記念焼酎の瓶に描かれた制服の変遷 現代(男女共学),夏服 教練 夏服 野球 黒髪時代

卒業アルバムでも下駄履き 本人の許可を得ていないので少しぼかした.女子はまともな服装

授業で印象に残っているのは,漢文である.遅刻すると罰として詩吟を唸らされた.国鉄や私鉄で通学していた友人は汽車や電車が遅れると大変だった.私は島崎の奥(三賢堂近く)から徒歩と市電で市内を縦断する必要があり遅刻には気を使った.一家で新屋敷の薬局へ転居した後は遅刻の心配をすることはなかったが,代わって進路の心配が待っていた.実家の薬局を嗣ぐためには化学,生物を勉強して薬学部へ進む必要があるが,体質が合わず,物理だけを勉強した.部活も物理班に属して趣味の真空管を使った5球スーパーラジオやステレオアンプの制作に没頭した.混信のないスーパーヘテロダイン受信方式や一本の溝に左右の音を録音するステレオレコードが実用化された頃であり,それらの原理を理解するための勉強で授業は二の次の生活が続いた.趣味にエネルギーをつぎ込み過ぎたため,成績が落ち職員室に呼び出されて説教された挙句,「そんなに好きなら吉田黌長のラジオの修理をしろ」と言われ校内の官舎に伺ったことがある.担任も私の進路は薬学部向きではないことを意識していたが,親が知り合いの富永先生や近くに住んでいた高群先生に薬学部進学を頼んでいたようである.最終的には薬学へ進んだが,薬剤師業を避けて大学院へ進学し研究の道を選んだ.助手になった時,米軍ジェット機九大計算機センター墜落事件に遭遇し,大学紛争が勃発した.研究どころではない数年間が到来したが,その間コンピュータや単結晶X線解析の勉強をする時間に恵まれ,物理への回帰が実現した.

卒業後に熊本に住むと出身高校を意識せざるを得ないローカルな社会が存在するが,20年間熊本を離れたため,高校はひとつの通過点という意識が強くなり,ほとんど意識しなくなった.母黌の様子は,時々九州大学薬学部へ進学してくる後輩から聞く程度になってしまった.そのなかに「済々黌は4年制です」と言う学生がいた.その意味を訊くと,ガリ勉ではないからほとんど浪人するのだという応えが返ってきた.昭和57年,熊本大学へ異動した途端,高校同窓会(正確には同期会)からコンタクトがあったが.愛校心旺盛な同窓生と同次元で話を合わせた行動をするには機を逸した感が強い.

県下の高校を取り巻く教育環境の変化は,子供の高校受験の際に知ることとなった.それは高校の伝統を考慮するようなものではなかった.子供の高校受験では,トップから◯番までは熊本高校,◯から◯◯番までは済々黌という中学側の指導が当たり前のように行なわれていた.その指導を無視することができる余地はほとんど存在しなかった.大学進学率(平成23年)を見ると一目瞭然である.熊本高校では,入学当初は医学部志望が100名程度,最終的には50名程度になり,実際その程度が入学している.東大を始め旧制大学クラスを入れると150名程度になる.一方,済々黌は大きく差をあけられ,熊本高校の難関大学進学組の次のクラスに相当する学生が多いことが分かる.熊本県は他県と比較しても1校集中が顕著である.大学で入試関連業務の一環で追跡調査を行うようになってから,中学校のトップクラスが1校に集中するより2,3校に均質に分散した方が県全体としてはプラスではないかと考えるようになったが,いかがだろうか.福岡県では,久留米大附設高校のほかに,九州大学へ100名以上送り込む高校は3校,70名程度の高校も3校位存在する.

そのような教育環境の下でも,入学後の生徒の自発的な考えで済々黌の伝統はそれなりに受け継がれているようである.

創立百周年記念焼酎(25度,美少年酒造) 外箱はかびているが,酢には変化していなかった.