済々黌 宇野東風回想録

済々黌 宇野東風回想録

明治45年の創立30周年記念 多士に掲載されている「回想録 宇野東風氏談話」の概要を原文のまま書き写した.当時の五年生(古庄逸夫,江藤輝雄)が筆記したものである.

宇野東風(旧名茂)は同心學舎の生徒として,後には教師,舎監として済々黌の成長を見続けてきた.氏の率直な気持ちを表した部分は太字カラーで示した.なお,適当に句読点を付けたり,改行した.また,漢字変換の過程で新旧漢字が混在した.

今回済々黌創立三十年祝賀会を催さるるは,誠に欣賀に堪へない事である.それにつけても井芹黌長が二十五ヶ年勤續せられて,一意専心に黌の教育を掌り,學校の隆盛を計て居られるのは,實に感謝に堪へぬ.独り黌長のみならず, 他の職員各氏も,十五年以上十年以上の勤続といふ方が多敷で, 熱心に一致共同して,校務に勉励せらるるといふ事は,校の為めをも慶すべ き事だと思ふ.

古人も「一 年の計は穀を植ゑ,十年の計は樹を植え,百年の計は徳を種う」とあるが 如く教育といふものは,短日月の間に功績の表はれるのではなく,餘程歳月の力を待たねばならぬ.尻をかかへて,転勤々々といって行くのみては,教育の實蹟をあぐるのは六ヶ敷(難しい). 然るに本黌に於てかくの如き長年月勤続職員諸氏が多くして一意専心盡粹せらるるのは,実に慶すべき事で.又學校創立者にしても大いに感謝せねばならぬと思ふ.

三十年と云へば,経過して見ると,實に一瞬間の夢の様であって,又天地の悠久なるに比すれば,誠に言ふに足らぬ様であるが. 然し五十年の人生から言ふと,實に長いものであって,最早や創立発起人も,過半数以上物故せられて, 現に残って居る人は, 極少敷である,其の中に,私は幸福にも生存して,此の日出度い祝賀式に遭遇するといふ事は、 衷心欣慶に堪 へぬ次第である.

さて我済々黌は,三十年前に突如として起つた者であるのかと思ふ者があるなら,其は誤りである.尚ほ遡りて済々黌の前身ある事を研究せねばなるまい,例を引くには甚だ恐縮であるが,我が日本帝国は神武天皇の大和椻原の宮に,御即位になった時から始まつた様に考へて其の以前に遠く神代のあった事を忘却するのと同様である.

我日本の歴史を説く人は, 必ず神代に遡ぼつて,我國の起源を研究すると同様に, 我済々黌は今の魏然たる校舎が輪奐(建築物が広大でりっぱなこと)の美を極めて居るのを見て,創立當時からかくの如く宏壮なものであったと思ふ者があつたら其も亦誤である.実際,三十年以前済々黌の神代とも云ふべき,発源時代から,今日まで其の変遷の跡を通観して見ると,実に懐舊の情に堪へない次第であ る.

今其の記憶の大略を述べて見るならば,明治十年の兵燹(へいせん,戦争による火災)の為に,全市焦土に化して,熊本の形勢は一変すると仝時に,人心も亦大変革を来し, 文武の事にたづさはりて居た舊藩の士族は, 或は農商に帰して, 殆んど咿唔(いご,本を読む声)の声は絶ゑ, 學事を説く者はない形勢であったから,故佐々克堂先生が大に憂慮し,子弟教育の忽(おろそか)にすべからざる事を説き, 同志の人を集め, 學校設立の挙を謀られたが,素より皆貧窮士族の子弟のみにて資金のあらう筈もなく,依て父兄より貰い得たる,或は一圓,或は五十銭といふ零砕(れいさい,極めてわずか)の金を集めて, 基金となし,夫れに各郡の長に任ぜられて居た先輩の給料の中より,多少の寄附を仰いで建てたのが,二間ばりに三間の二階附藁家で高田相撲町の今天理教會のある場所であった.

それに附属して二枚じき位の炊事場を,漸く設立し,同心學舎と称して, 開校したのが十二年十二月八日であった. 而して寄宿生が僅かに八名,私は其中の一人であつた.所が反封側に立つ人は,之を見て「又佐々が謀反の卵を拵える」というて, 大いに罵倒した者である.然し學會の方では,専心一意,世評を顧みず勉強した結果,翌十三年になって,追々と世間の人も同情を表し,子弟の教育を依託して來る者が増加して来た為めに,校舎の狭隘を告げ, 増築の必要が生じた.其の時も資金の餘裕がある譯もなく,最初と同様に,無理算段して,新築の力はないから,川尻町にあった古家の賣物をとき取つて,移転すると云ふ事になつた.其の時は費用のかからぬ様に,生徒が荷車を輓いて材木,瓦を運搬し,建築の際も, 柱立て, 壁塗りまで,皆生徒が其の労を取つた.かくの如く,自力を以て建設しに校舎であると,一層愛校心が生徒間にも強くて,只今の様に,地方税から多額の金を以て,建築した校舎に出入する生徒諸君が, 校舎を愛するの念とは一種異なる点があつたと思ふ.

其後田尻彦太郎,一 條轟先生達が,観光社といふ汽船溝會社を興された.時に其の先生達の發起で,汽船会社が士族授産の為に,一家の利益を計ると云ふ事は,勿論なれど,其の副業として,県下の教育に従事せん為めに,起した社であるといふ事で,遂に同心學舎の教育の事に同情を表し,三間ばかりに七間の校舎を増築してくれられた,それは十四年一月に落成した.其所で始めて學校の体裁をなしたので,同心學校と名称を改め, 職員も略手揃ひとなつた.

是迄は創立以来,生徒からは一銭も月謝をとらず又授業を掌る人も,義務で擔當の學科を授けられたのであるが,茲で従前の通り生徒の月謝は取らぬが,教師には僅かに,手当をやるといふ事になって,其れも観光社の方から,工夫して支給する事になつて居た. 此の時分は,縣下の子弟のみならず,他県からも學校の模様を聞いて入學を乞ひ來る者評があつて生徒全数,百名許にも及んで居た. 學科は読書,作文, 数學の三科,其れに支那語,朝鮮語位で,今日の普通科に比して,餘程単純なものであつた. それが十五年に至つて,又其の學校を改めて済々黌といふ名称をかかげて,教育すると云ふ事になったので, 多少組織の点に於ては前後異なる点があるけれども,生徒は以前同心學校時代の人々で,一日も門戸を閉ぢて,書生の出入を止めた事はなく,又教育の主意も創立當時の同心學舎時代から、 同心學校となり,又済々黌に改まっても,終始一貫して,何等の変化を來した事はない、 依りて済々黌の歴史を尋ぬる人は,遠き以前に遡って, 研究せねばなるまいと思ふ.

然し済々黌となって,始めて組織も完備したのであるから, 丁度神武天皇の即位を以て.,日本紀元と定め玉ふたのと同様に,今日創立記念に三十年と起算せられたのは,尤も至當な事と信ずる而し乍ら,其の以前の同心學舎, 同心學校時代を忘却しては宜敷かるまいと思ふ.

其の後 多少の盛衰を経て,明治廿四年に至り, 九州學院普通學部といふ事に改まつた.

當時熊本市内に,故有吉立愛氏の法律學校, 故津田静ー氏の文學館、 高岡元眞氏の春雨黌,中村六造氏の文學精舎等が,獨立して居った.時に当時の済々黌長,故木村弦雄先生, 此等の人々と,両晤(面会すること)の序で,各自擔當(担当)の學校を合併し,協心同力して,一層教育の盛大を計っては如何といふ問題が起り,何れも同意 を表せられしも, 退いて各自擔當の學校の事情を顧みれば,種々の困難なる点ありて,實行するに至らず. 時に当時の本縣知事松平正直氏, 右の事情を聞知せられ,右校の校長若くは代理者を官邸に招き, 五校合併の事を相談せられた.茲に於て前講再び起り,遂に實行するに至ったが,獨遺憾なりしは,中村氏の文學精舎のみ,遂に之に漏れたのであった.


依っ て他の四校を合せて九州學院と称した.然るに校舎の位置は依然舊來の儘にして, 唯名称を九州學院醫学部(春雨黌,同文學部(文學館),同法學部(法律學校),同普通學部(済々黌)と改称した.

此時,済々黌といふ名称を廃したのは,實は私は大変不賛成であった.是迄創立以來古き歴史を以って居て,宮内省へも済々黌の名を以て通り,恩賜金をも戴 いて居る其の光榮ある名に別れると云ふ事は遺憾千萬な事であつたが,大勢止むを得ず, 縣下教育のために,實は泣いて之に従ったのである.

又廿六年に至つて,校舎の狭隘を感じ,県庁の許可を得て,藪の内元師範學校跡の地所建物, (今の高等女學校の所)を借り受けて,是に移転した.そして,廿七年に至って,我普通学部のみ九州學院より分離して,本縣知事の管理に属せしめ,名を熊本 県立尋常中學済々黌と改めたのであった,此に至り元の済々黌の名に復するは,喜ばしけれども,是迄私立にして全権を我が手に有し居たるを,県知事の管理に 帰せしめ, 職員任命の権を擧けて,知事に委することは,恰も是れまで苦心惨憺して愛育せし,吾が兒を他人に附與すると,同様にて,誠に遺憾に堪へないのであった.

時勢の己むを得ざるものありて,暗涙を呑んでこれに従うた.此の事に關しては,故木村先生の記述せられたせ意見書が存して居るから,今私は 委しく述べ ません.


か く屡変遷を経て,遂に明治三十三年四月,現在の校舎に移って,かくの如く全國屈指の盛大なる學校となって來たのである. 此の如くして多年の間, 本校の教育を受けて卒業した生徒諸君が、 非常に多数にのぼって, 名自各方面に亘って、其れ其れ奮闘して居らるゝ所を見ると,此の古い歴史を有する済々黌の教育が,帝國に多大の貢献をなした實蹟の著しくあらはれたのだと 思はれて,最も欣賀に堪へざる所である.

夫れで本黌が最初高田原に建設せられてから屡変遷に遭遇して今日の盛況に達したのは恰も人が母の胎内より出で世間の風に吹かれ幾多の辛苦艱難を嘗めて成 長発達し一個壮者となったやうなものである壮者が強なる体躯となれば其の上に猶また増大になることのなきと同様本黌も亦校舎の規模の上にては更に拡張発展 の余地はあるまいが内容の点に就きては或は猶ほ研究すべき除地がないとも限られます斯く申せば少し當局の黌長始め職員諸彦に対し失禮の様だが,聖人孔子で すら三十而立つと云はれサテ其後追々進歩して不惑とか知命とか耳順とか漸次に経験を重ねて終に矩を踰えざるに至られたのであります.依て本黌も亦茲に今日 の盛大なるに甘心ぜず益々内部の改善を謀大勢の趣く處に随伴して天下に後れを取られざるやうに力められんことを希望して止まないのである.聊か此の盛典に 際し記憶を喚超し疎畧なる經過を思ひ出つるまゝに御話しましたが別段御参考となるべきものもなく只慙愧に堪へず失敬なることまで申土げ恐縮の次第である.

済々黌万歳