現パロ、ダークファンタジー。
小学校6年生の出久くんのお話。
”生”だけが、救いではない。
坂の上に建つ「裕福」を絵に描いたようなその家の父親は、ほとんど家にいなかった。
広い庭の脇にある駐車場はいつもがらんどう。稀に車が居座ったとしても、それはほんの数時間。
そして家に住むのは母親と一人の息子だけ。
母親は、息子を名前で呼ぶことはない。
「出久」という音は、この家で響かない。この家での息子の名前は「あんた」だ。
この父親が息子と最後に会話をしたのは、2週間前だ。父親の言葉は、まるで誰にも向けられていないようだった。
「いってらっしゃい」という言葉に返事がされたことは、一度もない。
帰ってきても、「お帰りなさい」と言われることもない。
「あんたがいなければ、私はここから出られるのにね」と、毎日呪文のように言われ続ける。
出久はこの家で、誰にも手をつけられないまま残された負債だった。
「顔が似てるあんたがいると息が詰まるんだよ」と母親は感情を込めることなく鍵だけを渡した。その鍵を首に掛けて、いつも足を運ぶのは3軒先の小さな空き地。
人通りのないその場所は、児相に目を付けられないから通報されずにちょうどいいらしい。いつまでもそこにいろとよく言われるので、言う通りにここにいる。
呼ばれることのない己の名前を忘れないように、ここに居つく猫に「出久」と名付けてはその名前を呼んでいた。
猫だけが、出久の目を見て、話しを聞き、話しかけてくれる存在。家族よりも、家族だ。
この柔らかな温もりだけが、出久の生きる手綱だった。
一瞬の出来事だった。
出久の膝の上でぐるぐると喉を鳴らしていた猫は、まるで何かに呼ばれたように起き上がり、そこからひょいと飛び降りた。
ととと、と歩いて空き地を飛び出した先、猫が振り向いた右手からアスファルトを強く擦るブレーキ音が高く響いた。
ドンと、車体とぶつかる鈍い音。
道路脇に転がった猫は無機物のようにもう動くことはなく、猫を撥ねた黒い車は足早にその場を走り去っていった。
「…いずく」
茫然と立ち尽くす。
しとしとと次第に頬を打ち始める雨粒にも気づかないくらいに、その亡骸をただ眺めていた。
ついさっきまで手の中にあった温もりは、一瞬にして消えた。
道も何もない場所から、雨音に混じって、誰のものとも知れぬ足音がぽつりと響いた。
いつの間にか現れた、横たわる猫の横に佇む、黒い影。
出久の目には、どうしてか、それが見えてしまった。
普段なら見えないもののはずなのに――と、自分でもそう思った。
黒い影は膝を着き、猫の頭を撫でる。表情は見えないが、その動きはひどく穏やかなものだった。
そうすると、もう動かないその白黒の体から、何かキラキラとした、薄く光る魂のようなものがふんわりと浮かび上がる。
さく。
手に持つ黒く長い裁ち切り狭のようなもので断ち切られたそれは、すうっと空に立ち上がって消えていった。
「おつかれさま」
空を仰いで行く先を眺めるその顔は、どこかこの世のものとは思えないほど、優しくて、綺麗だった。
怖いとも、悲しいとも違う。けれど、どうしようもなくその人から目が離せなかった。こんな人は、見たことがなかった。
しばらくそこに立ち続ける彼を見つめていると、それに気づいたように視線を落とされる。
「お前の猫か?」
低く掠れた、でも優しい声。出久は、ぎこちなく首を横に振る。
「…お兄ちゃん、誰?」
出久の問いかけに彼が返したのは、無言だった。しかし温度のない表情には、僅かに優しさが滲んでいた。
「俺はこれが仕事なんだ」
「…濡れちまう前に、埋めてやれ」
もう、そこにはいなかった。
瞬きの間に、彼は出久の前から姿を消した。
その晩、泥だらけで帰宅すると、舌打ちだけを返された。
冷えた浴室でひとり、汚れを洗い流す。
雨の中、スコップも何もなく固い土を掘り進めたその手は血が滲み、爪の間中に土が詰まっていた。
唯一の家族の亡骸は、空き地の隅にひっそりと埋めた。出久にはお小遣いなんてものはなかった。だから、添えられるのは脇に咲いていたタンポポだけだった。
手を合わせて、「ありがとう」を伝える。
明日から出久は本当に独りぼっちになる。
出久が玄関に向かうと、母親が安らぐ顔をするのは知っていた。
目を向けられることは一度もないが、自分が母親を喜ばせてあげられるのは、ただ家を出ることだけだ。
誰にも返されない「行ってきます」を、今日も投げかける。
みすぼらしいお墓を見ると寂しさに襲われるから、あの日から何となく空き地には行けなくなった。
人目に付いたら通報されるから公園には行くなと言われている。交番も、目を付けられるから近づくのは許されない。
新しい居場所を探して、出久は日が暮れるまで歩き続ける。
道端に咲く名も知らぬ花を摘んだ。あの日タンポポしか供えられなかったから、今日はこれを置いて帰ろうと思った。
暮れ初む空を渡る烏の群れ。出久がどこか遠くに消えた時、あの父親と母親は喜んでくれるだろうか。
沈む夕日を背に線路沿いを歩く。
踏切の遮断機は下がったまま人溜まりを吐き出さずに溜め込んで、信号機の赤はいつまで経っても消えることなくチカチカと明滅し続けている。
走り抜けていくはずの列車は脇の線路にとどまり続け、中の乗客は皆、線路下を覗いていた。
蠢く人だかりの中、忙しなく動き続けている警察官と列車の車掌。
記者会見のような大量のフラッシュ。たくさんの人が手に持つスマートフォンが向けられている先には、ブルーシートが敷かれていた。
ブルーシートの端から覗くのは、まだ新しい白いスニーカーだった。
怒号と冷やかしの声が混じる泥ついた空間。その中に潜む、一つの黒い影。
誰に止められることもなく遮断機を越えてブルーシートの脇に膝を着いた黒い影は、あの時と同じ黒い裁ち切り狭を手にしていた。
さく。
途端、出久の耳はすべての音を置き去りにした。
「また、会えた」
たった一つ聞こえる、遠ざかる彼の足音。
逸る胸を押さえ、必死で追いかける。
すぐそこにある悲劇は、もう他人事になった。
人混みを離れた道の脇、足元から影が消えていくその裾を掴んだ。
「お兄ちゃん」
振り返った顔に表情はなかったが、その中に僅かばかり、虚を突かれた色を見せた。
消えかけたその足は立ち止まり、何もない数秒の間が空く。
「…お前」
「お兄ちゃん」
「…どこ行くの」
彼はやはり、出久の問いかけに答えることはしなかった。
しかし、出久の中に、「無関心」に塗り潰され続けた「関心」が、再び芽生えた。
出久の姿を瞳に映してくれていた存在は、今はもう土の中で眠っている。
だから今出久の姿を見てくれる存在は、世界中にもう目の前の彼しかいないのだ。
「今日も、お仕事してるの」
「何の、お仕事してるの」
ぎゅうと離されない出久の小さな手を一瞥し、彼は淡々と答えた。
「役目を終えたものを、空へ還す。それが俺の仕事だ」
出久の探し物は、「居場所」から「彼」に変わった。
彼に会いたい。彼の「関心」が欲しい。どうすれば、彼の瞳に自分が映るのか。
彼は今、どこにいるのだろうか。
彼のそばには、必ず「死」がある。彼に会うには、「死」が必要だ。
―「死」に、近づかなければ。
死と隣り合わせの場所。
最初に思い浮かんだのは、病院だった。
皮膚科や眼科では意味がない。あそこに「死」は、訪れない。
市内で一番大きい総合病院。
病院の裏手でうずくまり、じっと地面を眺める。
看護師の笑い声と救急車のサイレンが、上から落ちてきた。
窓から聞こえるその声に、終わりが訪れてくれないかとただ念じる。
死んでほしい。死んでほしい。誰でもいい。そうしたら、彼に会える。
病院への訪問は、日課となった。
しかし何日待ってみても、彼が訪れることはなかった。
―今日は来てくれるかも。
昨日もそう思った。けど、来なかった。
それでも明日もまた、来てしまう気がする。
場所を、変えてみた。
葬儀場の外で、出棺を遠く眺める。
金網に手を掛けて、駅のプラットホームで立ち尽くす人を探す。
それでも彼に出会えることはなかった。
車の行き来が多い十字路、ガードレールの傍で信号の点灯をぼうっと眺める。
信号無視の多さに気づいただけで、どの車も出久を置いて走り去るのみだった。
気づいた時には、知らない大人たちが周囲にいた。背後から声が掛かる。
「あの子ですか」
「毎日ここに来て、学校にも行けていないんじゃないですか」
警察官でさえ、こちらを見てはいない。
―目を付けられるから、交番の近くには行くな
母親の言葉が、脳裏に蘇る。
ひゅ、と喉が詰まった。
「毎日毎日…何してたんだよ」
「あんたのせいで、変な目で見られたじゃない」
突き飛ばされた暗い部屋の中、膝をつく。
がちゃりと、鍵が掛けられる音がした。
もう、この世界の誰からも必要とされていないのかもしれない。
自分が生まれた時、両親はどんな想いで「出久」と名付けたのだろうか。
ふと、窓に目をやった。
窓に止まったハエが、ずっと羽音を立てていた。
静かに手を伸ばして、ティッシュで押し潰した。
あの黒い影の羽音とは、似ても似つかなかった。
深夜、焼け焦げた匂いで目が覚めた。
薄っすらと部屋は靄に覆われて、窓の外、燃え上がる大きな炎を見た。
母親の眠る寝室から、物音がしない。様子を見に外に出ているようだった。
今しかない。
音を立てずに靴を履き、庭を回って塀をよじ登り、外に飛び出した。
野次馬に紛れて周囲を見渡す。
こんなに大きな炎なら、確実に「死」はそこにある。
煤の匂いに騒ぐ心を押さえて、じっと待つ。
パチパチと細かく爆ぜる音のその先。
炎の中、黒煙に混ざって浮かび上がる黒い影。
影は2階から滑り落ちて地面に溶け込み、人の形を成していった。
いた。
いた。
目の前、数メートル先。
ずっと待ち望んだ、黒い背中。
消防車をすり抜けて歩く姿に、出久は涙が滲んだ。
仕事を終えてすうっと姿が消えるその間際、行かせまいと彼の腕を引き止めた。
「会えた」
「お兄ちゃん」
焦がれに焦がれて、ずっと会いたかった人。
目尻からぽたぽたと雫が落ちる。
出久を見下ろす美しい赤は、揺らぐことはない。温度のない声が鼓膜に響く。
「お前が俺を探す理由は、なんだ」
彼の瞳の中に自分が映っている。それだけで、出久の胸は満たされる。
「お兄ちゃん、だけ、だったから」
「僕は、誰からも見られない」
彼は、何も答えない。それでも出久は構わずに話しかけ続ける。
「お兄ちゃん、どうすれば、会える?」
いつまでも掴んで離さない出久の震える腕を見て、しばしの沈黙ののち、彼は静かに口を開いた。
「…俺は帳簿にある名前の命を、還すだけだ」
「じゃあ、誰か死ねば、会える?」
「そこに「死」があるのなら、俺はそこに行くだけだ」
「じゃあ…僕が死ねば、お兄ちゃんは来てくれる?」
微かに熱を灯した希望に、出久は縋りつく。
しかし、そこでこれまで僅かにあった出久に向ける温度が、彼の目から消えた。
「お前の名前は、帳簿にねえ」
「そうやって俺に近づこうとするなんてくだらねえことは、考えるな」
「お前が大事に抱いていた猫の命は、そうやって捨てるほど軽いもんだったのか」
ぐっと、息が詰まる。彼に会う前、家族よりも、何よりも大事だったあの温もり。
思い出すと、張り裂けるくらいに痛むから、思い出したくなかった。
ぼたぼたと、溢れる涙で頬を濡らす。
「でも、僕は誰からも、見てもらえないんだ」
「お父さんは、もうずっと帰ってこないし」
「お母さんも、僕を見たくないと言うし」
「いずくも、もういなくなっちゃって」
「僕は、どこにもいないんだ」
「なんで僕は、生まれたの?」
「死んでもお兄ちゃんに会えないのなら…生まれてきたくなんて、なかった」
「…お父さんなんて、…お母さんなんて、…だいきらいだ」
ぼくをころしてください
おねがいします
おねがいします
崩れ落ちた膝。潰れて消えそうな声を零して、足にしがみつく。
何度も何度も繰り返される懇請に、彼はしゃがみ込んで目線を合わせ、出久の顔をそっと掬った。
その顔は、どこか鏡を見るようであった。
見つめる眼差し。濡れた頬を拭う親指。そこに温度はなかった。
彼は脇から黒い帳簿を取り出し、そこに筆を走らせる。
そうすると出久の体から、あの猫と同じようにきらきらと光る何かが浮き出してくる。
右手に構えられた、黒く長い裁ち切り狭。
「…ありがとう、お兄ちゃん」
さく。
沈黙の後、彼は小さく、しかし確かに言った。
「行くぞ。……出久」
「うん」
黒い影は小さな光を抱えて、夜の闇に消えていった。
2025-05-09