現パロ。35歳独身男性の二人。
ある遊びをきっかけに、二人で思い出の小学校まで足を運ぶ話です。
金曜夜、いつものごとく「ただいま」と合鍵で訪ねてきた男は、勝手知ったるというように他人様の冷蔵庫に持参してきた酒とつまみを仕舞っていった。
「あ~なめろうがある、僕かっちゃんのなめろう大好き」
「お前に作ったわけじゃねえわ」
「またまたぁ、この家どうせ僕以外に誰も来ないだろ」
「来ないんじゃねえ、呼ばねえだけだ」
「光栄ですねぇ」
適当に買ってきた総菜と安い発泡酒で飲むのが定番だった20代はとうに過ぎた35歳独身の男二人、週に一度の宅飲みは手作りのつまみとあらゆる酒に様変わりした。
健康重視とは名ばかり、単純に簡単なものだったら自分で作ったほうが美味いことに気付いただけだ。
「それはかっちゃんの腕が良いだけなんだよなあ」
鶏つくね、なめろう、枝豆の浅漬け、自家製メンマ。昆布締めがなくて残念とほざく我が儘な幼馴染は王道の唐揚げとポテトサラダを持ってきた。
「家が近いとおかずのおすそ分けができて良いね」
「普通こういうのは幼馴染でやらねえんだわ」
「幼馴染だからやるんだろ」
食べる前に早々に風呂に入り、置いたままいつまでも持ち帰らない部屋着に着替える。これは完全に帰らないコースだ。どうせ今日も勝手にクローゼットから客用布団を引きずり出して使うのだろう。どこまでも舐め腐ってやがる。
「今週もお疲れさまでした」
「ん」
もはやグラスも交わさない乾杯をして、互いのペースで酒を進める。
普段職場の人間とも飲みには行かない俺が唯一酒の場を共有するのがこいつであることには自分自身でも些か疑問ではあるが、一ミリも気を遣わずに雑に扱えるので多少入り浸りすぎな気もするがそれもまあ良しと許している。
もはや周りには彼女がいるのだと思われているが、断じてそういう仲ではない。こいつはただの幼馴染、言うなれば腐れ縁だ。
「最近どうなの仕事は」
「なんもねえな、部下に入った嘱託社員が若干扱いづれえってくらいか」
「あ~お互い気を遣うやつだ。僕、今日の朝やっとリテイク終わって納品済んだとこ」
「相変わらず作業が見積りの範疇超えてんだよなあちゃんとしろ」
一緒にいたのは大学までだ、職種はばらばら。新卒時代は互いに必死すぎてしばらく顔を合わせることもなかったが、生活リズムが安定してからは再びだらだらと飲む関係がずっと続いている。
出久も俺も恋人がいる時期もあったが、恋愛なんてもはや面倒、結局この関係が一番楽だと落ち着いてしまった。
「ずっと美味しいな君の料理…僕の嫁に来てよ」
「ざけんなどっちかっていうとお前が来る方だろうが。あときめえ冗談やめろ」
「かっちゃんが結婚したら僕泣くかもしれないな」
「俺は泣かねえいつでも結婚しろ」
「絶対君のほうが陰で泣くタイプだろ。わかってるんだよ僕には」
35歳独身の男二人、深酒はせずに日も跨らないうちに寝る支度をする。夜更かしはしないのではない。もうできないのだ。
テーブルの片付けも歯磨きも済ませ、案の定客用布団を引きずり出して家主より先にうつ伏せになった出久は、スマホとにらめっこしては変な顔をしていた。
「何してんだ」
「あ、ちょっと来て来て、かっちゃんもこれやってみて」
自分の隣をぽんぽんと叩くそこにあぐらをかいて画面を覗く。何やってんだこいつ。
「Googleストリートビュー?」
「そうそう、これ、ここ覚えてる?」
「…ああ、あの公園か」
「そうそれ。それでさ、ちょっとこのまま目的地まで行ってみようとしたんだけど、行けなくて」
「は?どこに」
「小学校。全然たどり着けなかった。どこここ?って感じ」
何をやっているのかわけわかんねえから聞いてみたら、要約すると「公園からGoogleストリートビューだけで小学校まで行けるか試してみたら全然行けなかった」とのことだった。
「雑ァ魚。小学生の足で徒歩…20分くらいだったろ、そんなん楽勝じゃねえか」
「ええ?じゃあかっちゃんやってみてよ、絶対たどり着けないよ」
言ってから気がついたが徒歩20分って小学生にしたら長くねえか。あの時は最高気温が30度くらいだったけど、今は40度だぞ。絶対に死ぬ。…最高気温で年齢を感じるとは。
スタート地点を公園に戻される。ほらやって見せろと言う隣に同じくうつ伏せになり、渡されたスマホを左手に受け取る。
「懐かしいよね、この公園こんな小さかったっけ?」
「ガキの頃はでっかく見えたのにな。行くぞ」
「うん」
まずは出て右、直進だろ。ここは車道が広くて通り抜ける車のスピードも速くて、怖かったのを覚えている。次の三叉路で右に曲がって社宅沿い…と思ったらそこは狭く薄暗い舗装のない道に変わっていた。
「あ?進めねえのかここ」
「ね、僕らの時もほぼ雑木林に食われかけてたけど、なくなっちゃったのかねえ」
20年以上も経てば、なくなるものもあるか。ここの雑木林でよくカブトムシやらクワガタを捕っていたな、しかしこれももはや足も踏み入れられないのだろうか。少し気になってきた。
まあ進めねえなら仕方ねえ、回り道だ。来た道を戻る。
「…なあ」
「ん?」
「なんでこんな突拍子もねえことやってんだ、おもしれえから良いけど」
「あー」
「なんかちょっと、ノスタルジックな気分になってしまいまして」
そう笑った出久の目尻には、年相応の笑い皺が浮かんでいた。 ずっと幼く見える顔にも年齢の重なりが見えて、改めて35年の付き合いの長さを感じた。
「職場で同い年の人がいるんだけど、この間娘さんの運動会行ってきたって話聞いて。僕たちももうそんな年齢の子どもがいてもおかしくないんだよなあと思ったら、そんな時からずっとかっちゃんが隣にいたなあって、懐かしくなっちゃった。それで、今僕らの小学校どんなんだろうって」
「あーまあ、そうだな」
「ていうか僕らの時って運動会、秋だったよねえ。最近は春なんだよ知ってた?」
「流石に知っとるわ」
スマホの画面に目を戻す。
俺らはこの公園の反対側の戸建てに住んでいたが、通学路が一緒だったからここの社宅には友人が多くいた。
今になって思う。同じ会社の人間ばかりが集まったこの社宅という建物。子ども側だった時には知らない苦労があったんだろうな。親側は、さぞ付き合いが面倒だろう。親になったことねえから、実際のところわかんねえが。
とりあえずこの社宅を回り込むしかない、すいすいと指を進めていく。
ここの駐車場も、なくなったんだな。よく車を陰に使ってかくれんぼしていたが…すげえ迷惑だったろうな。危なすぎる。
「お」
「あ」
何度も何度も通った駄菓子屋がまだそこにはあった、が…これは閉まってるのか?シャッターは降りている。でも脇には真新しい車。これはどっちなんだ。
「ここのおじさんすごい優しかったよねえ、あの時40歳くらいだったから、今もう還暦超えてるのか…時の流れこわ」
「お前が100円玉握って100円のアイス持って行って買えてなかったの今でも覚えてるわ」
「消費税知らなかったんだってば!わかんないだろこの時は税抜き表示だったんだから」
「…まだ営業してんのかこれ」
「ええ、気になってきた…行きたいな…」
まずい、俺までノスタルジーに侵食され始めた。この遊びは危険だ、郷愁を誘われる。
一旦仕切り直しだ。この駄菓子屋の右を抜ければ、社宅の向こうに行けるんだ。そうしたら元のルート。よし、こっちの道は大丈夫そうだ。
左手に先ほどの廃道路になった雑木林を確認して、右折してしばらく直進だ。
「…こんな景色だったか?どっかに信号あったはずなのに全然出てこねえ」
「僕もここら辺から怪しくなってきたんだ。ここの直進一番長いけど…確か馬鹿でかい家の脇の坂道まで真っ直ぐなはずなんだよ」
「…やべえもうわかんねえ」
「ほら~わかんないだろ、僕と同じ場所で挫折してるじゃん」
「産業道路は危ないからって通学路住宅街にされてたけど、そのせいで余計分かんねえ」
「競輪場が近くにあるじゃん、だからお母さんにこの日はさっさと帰ってきなさいって言われてたなあ。今なら意味わかるよ」
「うちも」
「…親って、すごいよね」
「…そうだな」
「僕らわかんないけど、子どもを持つって大変なんだろうな」
親の話になってくると、これはもう軌道修正できなくなるぞ。やめろ、楽しく飲んで健やかに寝るはずだろ、しんみりしてないで早く寝ろ。
「うちお母さんまだ元気だけどさ、この先のことよく考えたら…かっちゃんが一生で一番長く隣にいることになるんだな」
「絶交される未来は一ミリも考えてねえんか平和ボケが」
「いや結婚ならわかるけど絶交って小学生じゃないんだから。君、心まで20年前に戻っちゃったのか」
肩越しに笑うその笑顔にさえ、懐かしさを覚えてしまう。
大人になっても、こんな年になっても、こいつはずっとこう笑う。
確かにこいつが隣からいなくなることは、考えたことなかったな。
「…ずっと仲良くしてねかっちゃん」
「やめろそういうの」
「ふふ、それでさあ、かっちゃん、もう僕気になっちゃって」
いや、もうこれは。考える余地がない。
こんなもん、選択肢は一つだけだろうが。
「明日空いてっか」「明日暇?」
思わず、ふは、と笑い声が重なった。
廃道路に駐車場に駄菓子屋に、通学路。気になってしまったら、もうそのままにしておけない。
ルート検索に出てこない、もう俺たちしか覚えてない道にもう一度立って、その景色を見てみたい。
そうと決めたら話は早い。今度こそ健やかに寝て明日朝一であの公園から「リアル・ストリートビュー」だ。
***
「まあ迷っても、最悪マップあっから」
「わあ、大人〜」
「そんでこれだ、熱中症対策に帽子とスポドリ、タブレットにネッククーラーな」
「わあ、お、大人〜」
35歳独身の男二人、公園から小学校目指して倒れて運ばれでもしたら言い訳に困る。生命の危機は、何も物理的なものだけじゃない。
公園現地集合の方がノスタルジー溢れるだろうが、東京都内、なぜか互いのマンションが徒歩3分圏内だ。
だったらわざわざ別々に行かなくてもいいだろと、最寄りの駅まで1時間半、二人並んで電車に揺られる。
そこまで距離はないとはいえ、東京から遠ざかるほどに、寂れていく駅施設。
ゴムの剥がれかけた階段に、掴みたくない手すりのエスカレーター。見聞きもしない地元の広告。
一応ターミナル駅なのに、主要路線と別れると別格の閑散具合。
「もうこのローカル感が懐かしいよね」
「車両まんまだな、設備投資の差を感じるわ」
「嫌な大人になったもんだね〜これぞノスタルジーだろ」
埃くさい古びた車両、誰もいない静かなホームに降り立つ。まだ公園にも着いていないのに、改札を潜るだけで懐かしさがこみ上げる。駅舎は全面改修されているが、駅舎の目の前に生えるこの大きな杉の木。ガキの頃よりは小さく見えるが、改修してもこれはずっと残されてたんだな。
「駅舎、瓦屋根だったのに綺麗になったもんだなぁ」
「な」
「改札に駅員さんいたのっていつくらいまでだっけ?手でパチンって切ってもらうやつ。…あれ、これ歴史の話?僕らの時もう自動改札だったっけ」
「いやまだあるわ、JRでも地方行けば無人どころか切符入れる箱だけとかあんぞ。つうか若者ぶってんじゃねえ来月お前も同い年なんだよ」
「3ヶ月間若者ぶってどうするんだ、そうじゃなくてさ」
「昔は電車で煙草を吸えましたよねとかそういう類いの話だろ」
「そうそう、もう自分の時にどんなだったか忘れちゃったよね」
雑草と放置自転車だらけの荒れた駅前は、綺麗なロータリーに。そして、出久と二人小遣いを出し合ってジャンプを買っていた個人経営の書店は、人の入らない美容室に変わっていた。
なくなっちゃったねと笑う声に、思い出すことまでお揃いだなと苦笑してしまう。
中学校は駅の目の前だったからストリートビューもなにもない。面白みはなく、思い出消化は一瞬だった。
それよりも気になるのはその先右手だ。
「なあ、今日終わったらここで飲んで帰んぞ」
「ダメな大人だよ僕らは、酒の場に敏感すぎる」
「ここ家族連れでは行く場所じゃねえもんだからな、20年以上経った今日ここで初めて入るってのも乙なもんだろ」
「君公園のこと忘れてるだろ」
忘れてねえよ。
なんならちょっと切なくて涙腺緩みそうになってるのを誤魔化してるくらいだわ。
こういう事やったことあるやつがいたら、肩組んで飲みに行きてえ。こんな始まる前から思い出の化石みてえな場所で、しかも共有できるやつが隣にいて。
これだけしんみりしちまうものだとは思わねえだろ。
「わ、わーーー…」
「こんなんだったか…?」
まだ両手で歳を数えられる頃に遊んでいた公園は、この広げた両腕に収まりそうなサイズ感になっていた。
何度か塗装し直された末に放置されたであろう遊具と、雑草で茂っている砂場。ブランコが、滑り台が小さい。
「かっちゃんよくここから靴飛ばししてただろ、ブランコ乗ってさ。友だちの中でも誰よりも遠くに吹っ飛ばしてたなぁ、あれ何の遊びだったんだろうな」
「覚えてねえ」
「あれかなぁ、”すごいな”って思って見てたから僕は覚えてるのかな。今考えると靴飛ばしてるだけなのに」
「恥みたいなネタを出すんじゃねえ」
「そんじゃ行くか」
「うん、はい」
リアル・ストリートビューのスタートライン。
「私たちは熱中症にならずに不審者にならずに、小学校まで無事たどり着くことを誓います」
何とも締まらない選手宣誓をして、汗をかいたペットボトルで乾杯した。
「本当になくなっちゃってるな…」
「やっぱり回り道か…あっちぃのに」
雑木林に食い尽くされた廃道路は、もはや心霊スポットのようになっていた。
つうか社宅の脇なのにこの管理でいいんか?まあ、いいか。予定通り、回り道だ。
「僕ここの社宅の子に苦手な子いたなぁ」
「は?そんなんいたんか」
「ランドセルにこっそり砂とか虫とか入れられてさ。あの時はそこまで思わなかったけど、今なら大問題だよね」
「なんで言わねんだよ」
「めちゃくちゃ仲悪い訳でもなかったからさ、友だちどうしの小さな悪戯みたいなものに思ってたのかもな。感覚の麻痺というか」
初めて聞いた、そんな嫌がらせの話。
聞いてたなら百倍返しにしてやったのに。
「そうやってするだろうなと思ったからだよ」
「なんも言ってねえ」
「言わなくてもわかるよ。かっちゃんは昔からそうだからな」
少し黙る回り道。しんみりにしんみりを重ねられて、言葉が詰まってしまった。
跡形もない社宅の駐車場の奥、最初のお目当てでやっと声が出た。
「…やっぱりそうかあ」
「もうやってなさそうだな」
スマホで見た景色と変わらない、シャッターがきっちりと閉まった元駄菓子屋。看板は外され、もうそこはただの民家だ。
かつては鮮やかな赤だった屋根付きの古びた自販機。今ではすっかり色あせ、朱色に近いくすんだ色になっていた。ラインナップが旬を外していて、それだけが少し心を救ってくれるようで、それがまた切ない。
「おじさん、お子さんいらっしゃらなかったもんね」
「だな、お祖母さんとやってたし後継ぎもなかったんかもな」
まるで自分自身に突き刺さるような事実。
自営業でもないから感じることがなかったが、名字が途絶えるとかどうとかは思ったことないけど結婚しないってのはこういうことでもあるんだよな。
小さな頃、入り浸っては面倒を見てもらった。その対価には遠く及ばないが、この先コンビニもないのでお礼代わりに予備のお茶を買ってそこを立ち去った。
擦れて消えかけの「スクールゾーン」の路面標識。
広く感じた通学路は、大人の体にはやけに狭く、そして低く感じた。二人並ぶと邪魔でしかないので、縦列で進む。
「かっちゃんもうここらへんで詰んでたよね」
「信号あったはずなんだよ。そこであいつが事故ったから覚えてる」
「ああ、自転車大破したのになぜか無傷だったやつか」
「生まれて初めて怖えって思ったな。そこの家のおばさんに通報してもらって」
「かっちゃん小さい頃からちゃんと対応してたよな…偉いよ…」
あ、あれじゃない?と背後から指差された先、ひっそりと佇む弱い明滅の青信号。
マップでは見つけられなかったのにそこには確かにあった。
「よし、ゴールだ。ここからはわかんねえ」
「潔いね。じゃあ直観に頼ってとりあえず直進だな」
不審者情報で配信されないようにサクサクと歩く。後ろを歩く出久がマップを見て、ちょこちょこと立ち止まってはルートを確認していく。
確かでけえ坂道があったんだ。そして馬鹿でかい家が。それさえあれば、少しはわかる。
ただその坂道が、ない。あれだけでかくて広い坂道見たらさすがに思い出す。
「今どこだ?」
「現在地は分かるけど…坂道はどこかなんてマップじゃわかんないからなあ」
「何か他になかったか…何か…」
たぶん住所をぶち込んでルートを見さえすれば、GPSを辿って住宅地のどこを通っても最終的には小学校に着ける。最近は本当に便利だ。
ただやりたいのはそれじゃない。俺らが見たいのは、通学路だ。
「逆算すっか」
「小学校から?下校途中、何か覚えてる?」
そう、登校じゃなくて下校から逆算する。
確か…思い出すのは視界の左端に映る綺麗なチャペル。見知らぬ花嫁が、鐘の鳴る中幸せそうに歩いていたことを思い出す。
教会、教会…教会が左端に移るところで、たしか右折していた。なら。
「ここだ。この教会をはす向かいに見てたから、この道を通ってたはずだ」
「ここか。それでもここからは結構遠いな…その間はどこを歩いてたか…あっ」
「なんだ」
「あれだよ、僕らのお母さんたちが言ってたやつ」
──競輪場が近くにあるじゃん、だからお母さんにこの日はさっさと帰ってきなさいって言われてたなあ
「遊歩道だ、遊歩道歩いてたわ。新聞持って鉛筆耳に挟んだおっさんたくさんいたとこ」
「そうそう!だとしたら遊歩道はここだから…」
「ここの接骨院の前通ってたよ。僕捻挫した時ここ来たんだ」
──ピンときた。
だんだん、面白くなってきた。
相変わらず今のこの景色には覚えがねえが、お互いの記憶を拾ってルートを割り出していく。
たぶん、これは合っている。俄然やる気が出てきた。直進だけだと思ってたけど、左折挟んでたんか。
そして馬鹿でかい家だと思っていた場所は、行ってみたら民家ではなく立派な介護施設であった。
「僕、教会なんて覚えてなかったなあ」
「たまたまだわ。俺も接骨院なんて知らねえ」
だだっ広くなってきた道、縦から横に並び歩く。出久は何だか楽しそうで、足取りが先ほどよりずっと軽くなっていた。
「何笑ってんだ」
「いや、何かさ。ずっとおんなじ道通ってきたのに、同じものを見てたところもあれば、全然違う場所見てたりもして。面白いなあと思って」
「かっちゃんのこと何でも知ってるとか思ってたけど、今さらこんなところでわかんないこと出てきて、楽しい」
「…あっそ」
「うん」
これは、逃げ水だろうか。
茹る頭が見た蜃気楼か。
──広い坂道を見た時に、遊歩道を見た時に、隣に立つ男の小学生の姿がそこに見えた。
1学期の終業式、朝顔のプランターを両手に抱えて一生懸命歩く1年生。ピカピカの黒いランドセルに、首に引っ掛けた紅白帽。擦りむいて絆創膏を貼られた膝小僧。
ひょこっと俺を覗く顔は、ずっと一緒だ。
「…紫」
「え?」
「お前の朝顔、紫だったわ」
きょと、とした表情が一気に綻ぶ。
「よく、覚えてたね」
「かっちゃんは、青だったよ」
***
もはや汗だく、頭はフラフラ、校銘板を前にしてついにゴールだと膝に手を着き大きく息をつく。
「あっっっっぢぃ…」
「うわぁ、本物だ…」
昨晩画面越しにはたどり着けなかった、23年ぶりの6年間通った学び舎。
閉まっていると思っていた校門は開いていて、グラウンドでは白熱した少年野球の試合が繰り広げられていた。
ピッチャーの投球を弾く軽い音、活発な掛け声の中にスパイクが土を噛み、舞い上がる土埃のにおい。
うだるような暑さの中、よくあんなにも動けるな。俺らなんてただ炎天下を歩いてきただけなのに、Tシャツを色濃く染めて息を上げている。
─懐かしいな。
大人の足でも遠かった。よく6年間頑張って通ったもんだ。
さすがにもう戻りたくはないが、この年になると輝くような時間だったように思う。
しかしこのご時世、校内には入らない、覗かない、写真も撮らない。
35歳独身の男二人に求められていることは、いつの日かここに子どもを送り出すことではない。そう、コンプライアンスのみ。
「前は真夏でも鶏とかうさぎ小屋とかそのまんまだったけど、この暑さでそれやったらやべえだろ。今どうしてんだろな」
もう温くなったお茶を煽って隣を見たら、出久はグラウンドを遠くぼうっと眺めてしゃがみ込んでいた。紅潮する頬は郷愁による感動か、それとも熱中症か。
「…何してんだお前」
額を膝にすっぽりと埋めて、頭を振る。そのうちすんと鼻をすする音が聞こえてきて、いよいよ焦り出す。こいつ泣いてんのか。
「おい、体調悪ぃんか」
「悪くない…」
「いや悪くねえなら起きろ、不審者に見えっから。宣誓したろうが」
誰に届けるでもないような独白を寄こした出久は、へらりと笑っていた。
「あのさ、小学校なんて行ったら、ちょっと「僕何してるんだろ」って思うかなって思ったんだ」
「あ?そんな気の迷いで誘いやがったんかてめえコラ」
「あっううんそっちじゃなくて、人生の話。同僚の子どもの話とか聞いて、何をだらだらと過ごしてるんだとか、ちょっと思っちゃって…」
「別に結婚してるから子どもがいるからどうとかないけど、どうしても考えちゃうじゃないか。いろいろ」
まあ、わかる。
そうだな。俺だってたまにそんなことを思ったりする。ババア本当は孫見てえんじゃねえの、とか。
泣くなやと同じくしゃがみこんだら、出久は逆にこちらを覗き込むようにして目を細めた。
「でも、全然違った。今楽しくて、今日ずっと、びっくりするくらい楽しくて…もうずっと、僕の人生は楽しかったって、今気づいた」
「君のおかげでずっと楽しかったんだ、僕」
「かっちゃん、僕とずっと一緒にいてくれてありがとう」
「そりゃ結婚しちゃったら、一番とは言わないよ。二番目でもいいけど…ああでも子どもができたら二番目とかないけど…でも、もしそうじゃなかったら」
「これからも、ずっと僕の幼馴染でいて」
得られなかったものに目がいくのは、誰だってそうだろう。
まさに、そんな年齢なのだから。いや、そんな年齢なんてものは、きっと一生、いつだってそうなんだろう。
結婚するにもしないにも、家族を増やすにも増やさないにも、自分で選んだ道でさえも、たまに後ろを振り返ってしまう。
選ばなかった方の選択肢に何も思わないなんてことはない。
きっとそれは一生そうだ、分岐点のたびに思うことだろう。
でも。
お前の存在は、人生において自分で選べないものだ。
選べないものに恵まれるだなんて、最たるラッキーだろう。
こんなことお前には言わないが、俺の人生に、お前みたいな幼馴染がいてくれてよかった。
いつかお前が結婚したら、さすがに俺だって弁えるが、それまではお前の一番近しい部外者でいさせてほしい。
どっこいせと年を感じる掛け声で、そろそろ不審者になるから立てと雑に腕を引っ張り上げる。
一生、その願い聞いてやる。だから、お前も俺の言うことを聞け。
「じゃあ俺が死んだら葬式に呼んでやっから、お前が死んだら俺を葬式に呼べよ」
「いいね、幼馴染枠か」
「そんなもん、お前しかいねえわ」
じりじりと肌を焼かれて、もう感動モードもお開きだ。このままだと同時に搬送されて物理的にも社会的にも死ぬ。
「とりあえず、クソ暑ィから駅まで戻っか。はい達成達成」
「だね。もう産業道路で真っ直ぐ帰ろう、住宅街疲れた」
「涼しいところで飲みてえがどうすっか、さっき言ってた駅前のとこで飲むか?」
「あ〜いいね。…いいんだけど、酒入れた後で家まで遠いのだるいんだよな」
「わかる」
「じゃあやっぱり…かっちゃん家だな」
「あ?んでだよ帰れやてめえ何泊すんだ」
「そんなこと言って、僕帰っちゃったら寂しがるくせして」
「ねえわ」
「材料費全部出すからさあ。今日のネタで飲まずにどうするってんだよ」
「…こんなこったろうと思って、仕込んどいたわ」
「何を?」
「昆布締め。昨日文句言いやがったからな。酒もお前が出せよ」
「おっけーです、そんでさ、かっちゃん」
「高校いつ行く」「高校も行きたい」
これは実際に私がやったことを二人にやってもらいました。(変なことばかりしています)
姉と妹がいるのですが、三人とも小学校までたどり着けずに、「じゃあ実際に行ってやろうぜ」と当時住んでいた駅に集合してこの遊びはスタートしました。
本当に小さい頃の記憶なんてものはあてにならず、私たちはたどり着けずに暑さに負けて「学校より飲み屋の方が楽しいだろ」と酒を飲んで終わりました。
なのでその代わりに二人には頑張ってもらいました。
いつもそうですが自分が書きたいものを自由に好き放題に書いています。今回も二人に歩いてもらえて楽しかったです。読んでくださった方、ありがとうございました!
2025-06-17