プロヒーロー勝己とプロヒーロー(教師)出久のお話。
倦怠期です。
僕の恋人は、格好いい男だ。
大体何でもできて、常に先回りの男。
余裕があって、媚びない群れない靡かない。
幼少期から何かと関係性にもつれはあったけれど、不思議なことに今は交際関係にある。
そんな彼と寝食を共にして、もう何年目か。指折り三本目あたりで、まあどうでもいいかと数えるのを止めた。
年々少なくなる口数。でも別にそこは苦でも何でもない。
むしろ、そのほうが楽だ。
職種が被っていることもあって、相手のことは聞かずとも把握しているから毎日新鮮に報告する内容もないし。頭の先から爪の先まで知りすぎていて、もっと知ろうという気も生まれない。
だから、もうお互い、あまり話すこともない。
同棲して何年経っても、常時初恋のままな関係もあるだろう。
ただ僕らは、もはや同居人よりシェアハウスに近い。
「おはよう」と「おやすみ」より、「久しぶり」が多い。これは生活リズムが違うせいもあるけれど。
初めこそ休みが被るたびに肌を合わせては互いの愛を確かめ合ったけれど、今では休息最優先。それぞれのタイミングで起きて、寝て、食事も一緒にとったりとらなかったり。ソファはすっかりひとりの体温の形に沈んでいる。
ひとつ屋根の下、することはバラバラだ。
先週の交際記念日も、僕は仕事帰りに小さなケーキを買ってきた。カットされた苺のショート。冷蔵庫の奥に入れたまま、結局その日も翌日も食べることはなく、気づけば賞味期限のシールが色あせていた。
箱を開けると、生クリームは乾き、苺の先端は少し黒ずんでいた。僕は黙って蓋を閉じ、ゴミ袋に押し込んだ。
もう、そこに不満もなにもないんだよな。
別にかっちゃんが何してても良いし、僕がすることにも何も口出ししてこないのも楽だし。
触りたいとも、触ってほしいとも思わない。誘われて嫌でもないけど、お互い“処理”で終わりそうな気がする。誘われないけど。
でも“恋人”って、そういうものだっけ?
全然不満はないけど、むしろ持ち前の先回りで生活は楽なんだけど、“恋人”ってなんだっけ?今の僕らって、どんな関係に値するのだろうか。
「いったん、離れてみる?」
「なにが」
「僕らが」
「ああ」
ひさしぶりに、正面から顔を見た気がする。
淹れた二人分のコーヒー、揃ってマグカップに口をつける。湯気が、平熱の頬の温度を上げる。
「別れるじゃねえんだな」
「僕別に君の事嫌いじゃないからね」
「とりあえずって感じか」
「うん」
僕の提案は、拒否されることはなかった。
一口啜って、頷きを返される。
「じゃ俺が出てくから、ひとまず部屋決まるまでには荷物まとめとくわ」
「僕発案なのに君でいいのか」
「お前の方が片付けるもん多いだろ」
コーヒーは半分ほど残されたまま。
ふと窓の外を見ると、陽が傾きかけていた。カーテンが揺れるたび、外の光がテーブルを斜めに切った。
「部屋探しするから」
そう言って、5分も経たずにかっちゃんはリビングを出ていった。
一人口に含むコーヒーは、口の奥でじわじわと苦味だけを残した。
即断即決の男は、多忙にもかかわらず1週間も経たずに新居を決めてきた。
さっさと手続きを進めて帰ってきたかっちゃんは、その日から片付けを始め部屋にこもることが多くなった。少ない段ボールにすっきりとまとめられた後もあまりリビングに顔を出すことはなくなって、顔を見ることもほとんどなく、共用のクローゼットから衣類は減り、食器棚には揃いのものはなくなった。
「じゃあ飯は適当にすんなよ」
かっちゃんは半月待たずに家を出ていった。なぜか机一台だけを残されて──その引き出しに何が入っているのかは、まだ開けていない。
もともと余裕のある部屋を借りていた。でも、一人暮らしを二人でしている状態だったのに、かっちゃん本人がいなくても、存在感が消えていくだけで一回り以上も家が広くなった気がした。
静かに生活する人だったから、いるかいないかもわからなかったのに。それでも、足音一つ消えるだけで、部屋の空気の密度まで変わった気がした。
朝起きて淹れる、一人分のコーヒー。
先に出るときはカーテンを開けておいてくれていたのを、薄闇のリビングで知る。空調が常に適温だったのも、彼の調整だった。
カリカリに焼いたベーコン。スクランブルエッグは作り立てだから、いつもラップに包まれていたそれよりもふんわりとしていて温かい。
少し物足りないと思ったら、かっちゃん、いつもチーズを混ぜていたんだな。そういえばたまにほうれん草も入っていた。明日から、僕もそうしてみよう。
いつも通りの時刻に家を出て、いつもと同じ列車に乗る。
変わらない職員室、教壇。授業は順調、似たような弁当を食べて、雑務も終えて、帰りも同じ列車。
僕の生活は、あまり変わることはなかった。
平日も土日も、お互い自由にしていたから生活リズムも変わらない。
洗濯物や洗い物は当然一人分減るけれど、溜めずにちゃんとしていた人だったから誤差の範囲。買い出しの量と食事の量はしばらく慣れずに作り置き生活みたいになってしまったが、かっちゃんが長期の出張のときは大体そんな感じだったからこれも普段通り。
向かいが空席の食事も少なくなかったから、寂しいとは感じなかった。
返されない「ただいま」を、今でもうっかり言ってしまうくらい。
……豆板醬と甜面醤、もう減ることもないのに癖で買ってきてしまった。僕辛いの、苦手なのに。冷蔵庫を漁り、ちょうどよく賞味期限が近づいた豆腐とひき肉で麻婆豆腐を即席で作る。そしてちょうどよく山椒はない。なんて半端な。
辛いものが好きだから、一生懸命に覚えたんだ。今では好きで食べるくらいには、よく作った。自分のためだけに作るのは、今日が初めてだった。味はきっと、彼に出したときのほうが良かった。湯気の向こうに、掠れた笑い声が聞こえる。
「……あれ」
食器棚の奥、片割ればかりの中に見つけた、たったひとつ揃いの食器。
奮発して買った錫のペアグラスは、同棲して一番最初に揃えたものだ。
晩酌で使うためだけにお酒を買ってくるくらいにはお気に入りだったのに、忘れていってしまったのか。
いや、忘れたんじゃなくて、もう、要らなくなったのかもな。
光にかざすと、まるで中身が空っぽの僕みたいに透けて見えた。
自分仕様の甘口の日本酒は、なめらかで繊細な飲み口。
ひと口含んで、喉を滑らせる。
ついたため息は、余韻を味わうことのない深く沈み込むようなそれ。
逃げ、だったのだろうか。
互いの関係性に疑問を持ったのなら、一度話し合った方が良かったのだろうか。
何となくダラダラと続いているだけのような関係性を整理したくて、提案した。
でもそれで、合っていたのだろうか。
かっちゃんは、話し合いを拒否するような人じゃない。頭ごなしに否定する人でもない。
今でもちゃんと好きだし、ずっと尊敬している。
──僕別に君の事嫌いじゃないからね
……嫌いじゃないからねって、何様のつもりだったんだろう。
僕が一方的に決めた形になってしまったが、それでも反対はされなかった。もしかしたら、それが答えなのかもしれない。でもそうだったら、それもしっかり言う人だ。
かっちゃんは、どういう気持ちで賛同したのだろう。
駄目だ。後悔に思考が引きずられる。でも、考えることをやめると本当に終わってしまう気もする。
明日はカツ丼にしよう。好きなもの食べて、一旦自分の中を整理しないと。
ただ寂しくなっただなんて、そんな簡単な結論を確認するだけなら二人でいてもできたことだろう。寂しいだけなら、こんな提案しないはずだ。
僕はかっちゃんと、どうありたいのか。
一人で揚げ物って、だいぶ面倒くさいけど。かっちゃんが作る方が何倍も美味しいからって、自分の好きなものなのに任せきりだった。だからなんか、一人でカツ丼作って食べてみないと──
結局のところ、答えなんて鍋の湯気の向こうにしか見えないのだろう。だからまずは、揚げ油を温めるところから始めてみよう。
「たまり醤油……?」
濃口醤油と薄口醤油があるな、までは知っていた。どう使い分けていたのかはわからないけど。でもキッチンをよく見てみると、僕の知らない調味料がたくさんあって、かっちゃんの作る料理のぜんぶが美味しかった理由のひとつをここで早速知ることとなった。
そんなの簡単レシピには出てこないんだけど、と思って「カツ丼 たまり醤油」で検索したら、本格的な作り方の方でヒットしたので、たぶん使っていたんだろう。
昆布も削り節も、何種類も揃っているんだけど、カツ丼だとどれを使うんだ。
昆布締めだけは、聞いたから知っている。たった一度だけど覚えている、羅臼だとクセが強いから利尻の方がまろやかで、お前の舌にはそっちが合うと。
そんなところまで、ネットには載っていない。というか、いつも食べていたレシピは、かっちゃんしか知らないから。だからまずは、自分の調べたとおりに作るしかない。
かえしを作って、出汁をとって、玉ねぎを切る。
肉の下準備さえ、僕は検索しないと分からなかった。僕は揚がればなんでもいいだろうなんて思っているけど、たぶんかっちゃんは筋切りから全部やっていたのだろうな。
バッター液を作って、小麦粉をまぶした肉を浸けて、生パン粉。
160℃の油って、どれくらいだ。この肉の厚さだと、何分だ?
すべてが手探り状態で、何も見ずに淡々と作っていたかっちゃんがいかに僕の好物を作り慣れていたか、よく分かった。
揚げ始めたあたりからは、忙しなくてあんまり覚えていない。
僕の作ったカツ丼も一般的には美味しいのだろうけど、かっちゃんの作ったものとは全然違っていた。
僕の作ったカツ丼は、卵がやけに固くて、甘さが浮いていた。かっちゃんのはもっと柔らかく、出汁の香りでごまかしのきかない味だった。
何が、どこから違っていたのか。なんかたぶん、最初から違っていた気がする。
そう思うと無性にかっちゃんの味が懐かしくなってしまって、どうしても再現しなければと思ってしまって、でもそれを知っているのは彼だけだしと、離れて最初に取る連絡が「カツ丼の作り方」という、極めて最悪の彼氏の振る舞いをした。
『置いてった机の引き出し、左手の一番上開けてみろ』
返ってきたメッセージの通り引き出しを開けてみたら、なにやら一冊のノートがぽつんとそこには置いてあった。
直後、お見通しのように着信がかかってくる。怒っているのだろうかと恐る恐る応答をタップしてみたら、スマホの向こう側の声はずっと穏やかで柔らかかった。
「今の今まで見てなかったんかよ」
「何か勝手に見るのも悪いなって」
「机だけ残していったのに何も察しねえ鈍感野郎が」
ノートを開くと、一番最初のページにあるのはカツ丼のレシピ。
さらに捲ってみると、僕の好きなメニューがひとつずつ細かに記されていた。
「予想通りで笑ったわ」
「予想通り?」
「食事が変わるのが一番、生活の変化実感するからな」
電話口の向こう、すべてを見透かされているようで、少し呆れたような柔らかい笑い声に途端目じりが滲んでいく。
「……小麦粉じゃなくて、米粉なのか」
誤魔化すように今日の失敗を自嘲すると、返ってくるのは「そォだよ」と楽しそうな声。
たまらずに、本来最初にすべきだった問いかけを投げる。
「か、かっちゃん、……元気?」
一瞬、通話越しの空気が沈黙に沈んだ。
一拍置かれた間。変わらずに穏やかな、ちょっとぶっきらぼうな声。
「元気だわ。少なくともお前みてえに食には困ってねえ。お前は」
「今、ちょっと、泣きそう」
「は、素直だな」
「……別にいつかけてきても怒らねえから、その中のどれか作ってみろ」
「そんで俺もちゃんと考えるから、お前も満足するまで、考えろや」
通話は終了し、ぎゅうとしゃがみ込む。
机ひとつしかない空っぽの部屋には、もうかっちゃんの匂いはない。
少し埃っぽい、ひんやりとしたフローリング。閉まったままのカーテン。
作ってみよう。もらったレシピ、ひとつずつ。彼の味に、及ばなくても。
雑に答えを出さずに、しっかり気持ちの整理をつけよう。
ノートに零した雫は、丁寧に拭う。
何枚にもわたる手書きのレシピは、迷子になった僕のための地図みたいに見えた。
レシピの行間に滲む体温に、今も変わらず僕を想ってくれる証を見つけた気がした。
当たり前だけど、貰ったレシピ通りに作ったところで、到底かっちゃんの味には近づけない。それでも、初日のカツ丼よりはだいぶ“好きな味”に寄せられているのが、嬉しかった。
ナポリタンって、ケチャップ2段階だったんだ。
豚の角煮、赤味噌入れてたのか。
カツ丼の削り節は、サバとカツオだった。2種類って何??
ずっと一緒にいて気づいてなかったけど、あの人の本職ってなんだっけと思うくらいには、かっちゃんのおかげで僕の舌は肥えていた。
そうして半分くらい作ってみて気がついた。このレシピ集に、ないものがある。
「ちょっとはできるようになったか」
「随分マシだけどかっちゃんの味にならない」
「んなもん当たり前だろうが」
「かっちゃんこんなにいろいろしてくれてるの、知らなかったな」
かっちゃんのレシピを試すようになってから、食後によく電話をするようになった。一週間に一度だったそれは、三日に一度、二日に一度と、次第に狭まっていく。初めこそうまくいかなかった部分をご教授いただいて終わりだったが、合間に雑談が入るようになり、シフトで夜空かない日以外は、もうただの雑談さえ日課になっていた。
「かっちゃんのくれたレシピなんだけどさ」
「なんだよ」
「なんか足りない、って思って」
「そんなに書いてやったのに文句か」
「違うよ!そうじゃなくて」
「そうじゃなくて」
もしかしたら、ただの自惚れかもしれない。
でも、確実に、足りないものがある。
「かっちゃんの好きなもの……ひとつも書いてない」
「麻婆豆腐とか、いっこも、ない」
電話口の向こう、返事が来たのは5秒遅れ。
まるで、優しく撫でられるような声色。
「そんなもん、当たり前だろうが」
「それはお前が好きなもののレシピなんだから、俺の好きなもん入れてどうする」
「半月で書けるだけ書いたんだから、充分だろ」
確かかっちゃんは新居が決まってからも、荷造りが終わってもリビングにほとんど顔を出さなかった。
半月で、書けるだけ──
これは、かっちゃんが僕と一緒にいた時間の、記録。
息が、できなくなった。
「……かっちゃん」
「終わったんか、考えんのは」
「うん、終わりました」
「じゃあ、明日、行っても良いか」
「うん。待ってる」
「ん」
「晩ご飯、食べないで、来て」
「……わあった」
久しぶりに会う恋人をパシリにするつもりはなかったが、スーパーに行く時間がなくて材料調達をお願いしてしまった。マイナス地点からのスタート、両手に下げた荷物は切れかけの調味料まで分かられていたのか、完璧な把握と補充だった。
「すみません……」
「ほんとだわ」
ばこんと開けた冷蔵庫の中、手際よく仕舞われていく食材。手伝おうと近寄ったら、こっちはいいから調理器具を出せと指示を飛ばされた。
「最初の方は、何でも一緒にやってたな」
「うん」
「あれは時間の無駄だった」
「言い方……」
「冗談だわ」
割と広めの台所でも、体格のいい男二人が並ぶとぎゅうぎゅうだ。そんなことを思い出すのは、何年ぶりだ。
「でもあれだわ」
「なに」
「洗濯物の畳み方がお前ので慣れてたから、こっちもしばらく違和感あったな。ポストもお前のが頻繁に見てくれてたから、当たり前のように出張で家空けてたらだいぶチラシ溜まってたりして」
「あれ地味にだるいんだよな」
「だから別に、俺にぜんぶ押し付けてたとかじゃねえから。たまたまお前が気づいたのがわかりやすい料理だっただけで」
「お互い近すぎて、見えなくなってたんだろ」
隣に立つ横顔、三か月も経ってないのにもう何年も彼に会っていなかったような気がして、久しぶりに間近で見る笑顔が強張った胸の奥を解いていく。
一人ずっと立ち続けたここは、こんなに狭かっただろうか。
息を吸えば、同じ空気の温度まで懐かしい。
並べる二人分の料理、こんなに賑やかなのは、久しぶりだ。
片割れだらけのちぐはぐな食器の中、唯一揃いの錫のグラス。
これが同じ卓に並ぶのなんて、いつが最後だっただろうか。
テーブルの脇、ぼうっと止まる手に、横から口を入れる。
「かっちゃん、それ忘れていっただろ」
「どれ」
「グラス。大事にしてたのに、ここにあったから」
傾けて撫でる指は穏やかで、笑う目じりはほんの少し寂し気だった。
ぽつりと、言葉が零れる。
「だからだろ」
「え」
「なんも残さなかったら、本当に忘れられんだろうなと思ったから。嫌がらせ」
「だから今日も、ここに置いて帰る」
「気に入ってたから……捨てられてなくて、良かったわ」
喉が締まって、縮こまる。言葉が、詰まる。
そんな顔、出ていく時だって、しなかったじゃないか。
「……僕、もう、い、要らなくなったのかなとか、思って」
「要らなかったら最初から捨てていくわ」
「わ、忘れちゃったのかな、って、思って」
「だからそうやって、居座ろうとしてた」
本当は、もっと後に言おうかと思っていたけれど。
今言ってしまったら、せっかくの料理も冷めてしまうから。
でも、今じゃないと。
今じゃないと、駄目だ。
もうほとんど残ってない酸素をぜんぶ使って、今日一番言いたかった言葉を吐き出す。
「かっちゃん、かえら、ないで」
「ごめん、なさい」
「離れようって言って、ごめん」
「簡単にそんなこと言って、ごめん」
「寂しい……」
二人にいたときでもできたであろう簡単な選択は、結局一人にならないと僕はできなかった。
君とどうあるべきか、どうありたいか、散々考えてきた。
いろんな選択肢を並べて、比べて、それでも。
たどり着いたのは情けないくらい、ひとつだけだ。
――君と、一緒にいたい。
頬に伸びてきた大きな手は、親指で目じりをゆっくりと拭った。
横をすり抜けて向かう冷蔵庫、かっちゃんが取り出したのは、白くて四角い箱。
テーブルに置かれたのは、あの日僕がゴミ袋に押し込んだ、ケーキの箱。
「ごめん、出久」
「食べもしないで、それさえもそのまんまにして、放っておいて、ごめん」
「買ってくれた出久に、捨てさせてごめん」
「ぞんざいにして、ごめん」
「一人でいんの、もう、キツい」
雫が一滴、頬に落ちた。
「俺も、寂しい」
「ここに、帰り、たい」
両腕を、思い切り首に回す。
ぎゅうと締め付け、背中に回して締め付け返されるその体温は、もう忘れてしまうほどに、ずっと触れてこなかった温度。
震える背中は息をするたびに引き攣って、互いの首を濡らす。
もう二度と手放したくなくて、ここにいてほしくて。どこにもいかせまいと、指が必死に掻き抱く。
泣きながら抱き合ったあと、しばらくして、鼻をすする音ばかりが部屋に残った。
息を整えて、互いに目を逸らし合いながらも、テーブルに置かれた箱が視界にちらつく。
かっちゃんはぐっと涙を拭い、ぶっきらぼうに言った。
「……食うぞ」
「捨てんのは、もう無しだ」
二人で箱を開けると、白いクリームのショートケーキ。
スプーンを渡されて、けれど手は震えてうまく刺せない。
「おら、口開けろ」
がさつに差し出されるスプーンを、泣き笑いのまま受け止めた。
「ふは、……おいしい」
「はい、かっちゃんも、あ」
「……甘ェ」
涙の味が染みるクリームの甘さに、思わず頬が綻ぶ。
「かっちゃん、来年も、ケーキ一緒に食べよ」
「それで、かっちゃんこれも、レシピに入れてよ」
「……甘いのは専門外だわ」
嘘だ。君だったら、ケーキだって完璧に再現できるだろ?
僕も君のために、辛い料理を研究するから。
とりあえずは、もう冷めてしまった料理を食べよう。
忘れないように。
今度こそ二人でちゃんと、書き込んでいけるように。
「Buzz」という一ミリも救われないお話を書いた直後に、「優しい話書きたい…」と思ってこの話を書きました。
どんな話でも感情移入して書くので、中盤あたりからもうちょっと泣きながら書いていました。書いて良かったです。
料理は本当に愛情そのものですよね……
お読みいただき、ありがとうございます。
2025-08-16