現パロ。
高校2年生のかっちゃんの夏休みに起こる、不思議な出会い。
「あっっっっっぢい…」
木々の隙間を抜けた日差しが、沓脱石に光の雨を落としている。
蝉の音がうんざりするほど近い。じわじわといくつも重なって、潮騒のようだ。
縁側に足を投げ出し、仰向けに寝転がる。
ひんやりとした畳が、汗ばんだ体の熱を少しだけ逃してくれる。
今、この広い家には、自分一人しかいない。
ここにあるのは、かすかに揺れる木々のざわめきと、蝉の声と、自分の呼吸音だけ。
まるで、ここだけ世界が切り取られたみたいだ。
麦茶が入ったグラスは汗をかき、氷が解けてカランと音が鳴る。
「クソ、エアコンの効いた部屋行きてえ…」
額に手の甲を当て、深いため息をついてひとり呟いた。
こんなところに、2週間もいるなんて。
「夏休み、おばあちゃんの家に行くからね」
「あ?」
「部活の休みと被るでしょう。今回は勝己も一緒に行くからね」
「もう高2だぞ。俺は家にいるから勝手に行ってこいや」
「おばあちゃん、あまり体調良くないみたいなのよ。勝己ももうほとんど会ってないんだから、たまには顔を見せてあげないと」
実家に残って同居している叔父から、昨晩祖母が入院したと連絡を受けた。
幸い大事には至らなかったが、準備や見舞で人手が欲しいそうだ。
家が遠いこともあって普段任せきりにしてしまっているから、せめてまとまって休みが取れる夏休みくらいできるだけ代わってあげないと、と母に言われてしまえば、拒否権などないに等しい。
さすがにそこまで情の無い人間ではない。
祖母の家は斜面が急な雑木林の中にある。
草木が生い茂り、ほぼ森のようなものだ。
そんな雑木林を降りていくと、15分もしないで海岸に出る。
山も海も楽しめるような、いわゆる別荘地と呼ばれる場所に家は建っていて、幼いころは虫取りや海水浴と遊ぶにはうってつけの場所だった。
しかし延々と続く坂道などは年を重ねるほど体に響き、買い出しなどはいつも叔父が車を出していたようだ。
曲がりくねった車道をショートカットするような一直線の道もあるがそれは神社のような急な長い石階段。
高校生の俺でも、登りたいものではない。
じゃあちょっと足りないものを買い出しに行ってくるからと母に留守番を任され、冒頭に戻る。
「外に出ても良いけど、その時は連絡して。日が暮れないうちに戻るようにするのよ」
そんな言葉とともに預けられた古びた鍵を、手で弄ぶ。
心配しなくても、こんなところに遊ぶ場所なんてねえよ。
そういえば冷蔵庫にアイスが残っていたかもしれない。
頭だけ起こすと、縁側に投げ出した足元にひょろりと長い尻尾が見えた。
なんだ、あれ。
ゆらゆらとゆれる尻尾の主がひょっこり顔を出す。
白に墨を落としたような、まだら模様を持つ大きな猫。
猫はひょいと縁側にあがり、にゃあと鳴き勝己の足にすり寄る。
……この家って猫飼ってたか?
もうずっと来てなかったからわからない。それとも野良か。
それにしても人懐っこい猫だな。
勝手知ったるというようにのすのすと寄ってきた猫は、勝己の顔を覗きこむようにしてもう一度にゃあと鳴き、手に頭を擦りつけた。
動物は嫌いではない。
撫でてほしいのかと思って親指で耳元を柔く撫でると、すり寄ったと思えた猫は勝己の手に持つ鍵をかぷりと咥えた。
手から鍵が抜ける。
「あ?」
手から家の鍵を奪った猫は、あなたにもう用事はありませんと言わんばかりに、しれっと踵を返して帰っていく。
立ち去っていく猫の後ろ姿をしばらくポカンと眺めていた。
しかし、はっと我に返る。
がばっと起き上がり、急いで靴を引掛け追いかける。
「っっざけんな、このクソ猫っ……!!」
付かず離れず、時折振り返っては自分の姿を確かめながら逃げる猫。
「舐めやがってクソが!!」
舌打ちしながら、急斜面を駆け降りていく。
こんなクソ暑い昼間に草むらで猫と追いかけっこなんて、馬鹿みてえなことさせやがって。
曲がりくねった坂道を駆け下りて、海岸線に出る。
猫は海に面した大きな通りをしばらく走り、左に曲がって住宅街の細道にするすると入っていく。
そういえばスマホを置いてきたままだった。
このまま道に迷ったら厄介だ、早く捕まえなければ。
立ち止まった途端に噴き出る汗。
は、は、と上がる息。
顎からぼたぼたと落ちる雫を拭う。
右、左といくつかの曲がり角を経て立ち止まった猫は、小さな木造建築の引き戸を器用に開けて、するりと中に滑り込んでいった。
曇るガラスに古びた木目。ひっそりとした佇まいは、あまり人を寄せ付ける雰囲気ではない。
何かを商う店だろうか。
……ここの飼い猫か。いい加減にしろよ。
少し立て付けの悪い扉をガラガラと引き中を覗いてみると、狭い屋内には陶器、磁器、茶器や絵画のようなものが並んでいる。
「骨董屋……?」
静まり返った店内に、客の姿は見えない。
というか客は別にどうでもいい。あの猫、どこに行きやがった。
大股で奥に歩き進んだ大きなガラス棚の向こう、覗いた先、店の人間と思われるやつの足元でぐるぐると喉を鳴らしてうずくまる猫がいた。
やっと見つけた、このクソ猫。
「おい、てめえが飼い主か。盗んだ鍵返せや」
猫を撫でていたのは大きな緑色の目の青年。
声をかけた途端、口を開け驚いたような顔を返す。
幼くは見えるが同じくらいの年齢じゃねえか。
ここの子どもか?なんで喋らねえ。
「黙ってんじゃねえ、お前の猫か知らねえがそいつが俺の鍵取ってんだよ、おら返せや」
ずんずんと近づき屈んで首をわしっと掴む。
するとさっきまでの追いかけっこは何だったんだというほど、猫は素直に咥えていた鍵を掌に返してきた。
立ち上がり顔を上げると、目の前の男は相変わらず無言。
俺に何かを言いたそうにしている。
喋りたけりゃ口を開けばいいだろうが。
文句の一つでも言ってやりたいがまた無言を返されるだろう。
もういいわと舌打ちをして店を出ようとすると、背後から声がかかった。
「ハク、まさか本当に連れてくるとはなぁ」
──誰だ。
振り返った先にいるのは、俺に似た色素の薄い髪色に、深い青色の瞳の男。
何だこいつは。
同じくらいの歳の男が2人と、1匹の猫。
いきなり訳のわからないもの達に一気に囲まれた。
ハクと呼ばれた猫はにゃあんとひとつ鳴き声をあげ後ろに立つ男の方へ行き、抱き抱えられる。
「君、今そこの彼に話しかけていただろう」
「それが何だっつーんだよ」
「やっぱり。見えるんだな、彼が」
「あ?」
「ハクに連れてこいと言ったんだ。彼のことを助けてあげられるようなやつをって」
「……何の話だ」
白黒の猫は、男の腕の中でぐるぐると喉を鳴らし気持ちよさそうに目を閉じている。
「君に見えているそこの彼は、生者じゃない。いわゆる幽霊というやつだ」
「は」
「砂浜で呆然としていたところを、さっき僕が拾ってきたんだ」
「いや犬や猫じゃねえんだぞ何だそのノリ」
やべえ。
話が通じない奴らに囲まれてんじゃねえか。
こんなところさっさと出るしかねえ。
「まあ、信じられないよね。じゃあこれならどうかな?」
猫を抱いた男は、はい、と右手を翳した。
緑色の目をした男はおずおずと近づき、そっと左手を出す。
何が始まったんだと思いながら、その様を見た。
ちゃんと、見ていたはずだ。
ただ、重なるはずの二つの手は、触れることはなくするりと透り抜けた。
「……は?」
「分かってもらえたかな?」
何を見せられてるんだ。
──すり抜けた?
どういう事だ。訳がわからない。
「君もやってみる?」
「やらねえわ!」
何にせよ、ここがおかしい場所なのは変わらない。
鍵さえ取り戻せればもうこんな店に用はない。
「どうでもいいわ」
吐き捨てて猫を抱えた男の脇をすり抜けて帰ろうとした時に、背後から「かっちゃん」と呼ぶ声が聞こえた。
「かっちゃん、びっくりさせて、ごめんね?」
誰だ。
俺はお前を知らねえぞ。
なのに何で──俺の名前を知っている。
でも、その前に。
「てめえ喋れんじゃねえか!!シカトしやがってざけんじゃねえこのカス!!」
「ごごごめん!!びっくりしちゃって!!」
「こっちのセリフだわ!!てめえらまとめて何なんだクソが!!全部仕組んだってか!!」
「仕組んだことについて否定はしないよ、でもまさか本当に素直に追いかけてくるとは思わなかったから」
「殴られてえのか…」
「も、物間くん、煽らないで…」
訳のわからない連中にされた訳のわからない説明を噛み砕くと、この物間という男はこの骨董屋の孫で、ハクと呼ばれる白黒の猫は店主の飼い猫らしい。
琥珀から取って「ハク」らしい。心底どうでもいい。
物間は、人間ではないもの、いわゆる幽霊と呼ばれる類の者を見ることができるそうだ。
そして今日たまたまそこの砂浜でぼうっと立ち尽くしていた幽霊を連れて帰ってきたとのことだった。
──幽霊ってそんな気軽に連れてこられるもんなのか。
そして物間にほいほいと連れて来られたのが、緑谷出久という人間。
いや人間じゃない、幽霊だ。
幽霊自体初めて見たが、こんなに緊張感のない幽霊っているんだな。
物間と話すコイツの姿は、ただの友だち同士にしか見えない。
「そんな訳で手伝ってくれないか、君には緑谷くんの未練を取り払って成仏させてあげてほしい」
「何がそんな訳だ。何で俺なんだ、別に見えりゃ誰でも良いだろが」
「ハクには、緑谷くんを助けられる人間を連れて来いと言ったんだ。あと幽霊を見られる人なんてそんないるわけないだろ」
「適当かつ消去法かよ」
「ごめんね、かっちゃん、巻き込んじゃって…」
「そう思うなら解放しろ。俺は関係ねえ、勝手に成仏しろや」
じゃあなと吐き捨てて、今度こそ店を出る。
もう日が落ち始めている──これは完全にババアにぶん殴られコースだ。
これからあの坂道をまた登るのか。
うんざりとした気分で、土臭く割れた舗装の中、重い足を進めた。
「何でいんだてめえ!!!!」
朝起きてすぐ、枕元に緑谷が立っていた。
朝にも出るのかよ、普通夜じゃねえか。
「うう……ごめんね、かっちゃん……」
「……んで、ここを知ってんだよ」
「物間くんが、ハクに聞けば教えてくれるって。それで、連れてきてもらって……」
「どうなってんだおれの個人情報……」
当たり前のように猫もいる。
俺はずっとこいつらに付き纏われるのか?
明らかにしょんぼりしている男。
仕方なし事情を聞いてみる。
「それにしても何で俺なんだよ、俺はお前のこと何も知らねえんだよ。何で俺だ」
「それが僕もよく分からなくて」
「ただ、君がかっちゃんという事だけは、覚えてるんだ。昨日君に会って、それだけ思い出したんだ」
「他の記憶は?なんか覚えてないんか」
「それがさっぱりで……そもそもいつどこでどう何で死んだのかも、覚えてないんだ」
「何か未練とか、あったんじゃねえの」
「そう、それが分かんなくて、海でぼーっとしてたら物間くんに声かけてもらったんだ」
「ゆるゆるだな……」
緑谷という男曰く、物間は幽霊は見えるけれど、干渉しすぎると体に支障をきたすらしい。
普段からいろんなものが見えるというのは、堪えるものもあるのだろう。
あと、面倒とのことだった。
明らかに後者が強いだろうが。
「お前、何だっけ、緑谷出久か」
「うん、でも、デクって呼んで。なんか、デクがしっくりくる」
「じゃあ、デク」
「はい」
どうせ2週間やる事もないんだ。
短い期間だ、暇つぶしがてらこのゆるふわな幽霊に付き合うことにする。
無視したところで、ずっと付き纏われてるだろうしな。
「とりあえず、成仏させれば良いんだな?」
「うん。お願い、します」
「2週間な。それまでに成仏できるか分かんねえが、俺がここにいるのは、2週間だ。それが過ぎたら、東京に戻るから」
「分かった」
ありがとうかっちゃんとほほ笑むデクに、ゆるい幽霊だなと可笑しく思う。
とはいえ、幽霊を成仏させるなんてした事がねえ。
何したら良いんだ。未知すぎる。
「とりあえず、ここら辺いろいろ回ってみっか。何か思い出す事もあるかも知れねえし」
「うん、ありがとう」
とりあえずは突っ立ってた海岸だ。
靴を履き、石畳を降りていく。
観光地とは離れた、静かな海岸だ。
デクは、静かに海を眺めていた。
「何も分からずに、ずっとここに残り続けるのが、寂しいんだ」
「自分が何者かも分からないまま、どれだけの時間を過ごすのかと思うと、辛くてさ」
笑っているけれど、その笑顔にはわずかに苦しさが滲んでいた。
「まあ、いろんなとこ行くぞ。遊びに行くようなもんだと思えばいいだろ」
「ありがとう、かっちゃん」
そこから俺は、デクと持てる限りの時間を共にした。
水族館、映画館、図書館、人気のカフェ。
名物の干物や温泉饅頭。
縁側でスイカを食べて、釣りをして。
「あんた1人で何してんの」
ババアに至極尤もな突っ込まれを受けたが、こっちは必死だ。
デクが何か思い出さないかと、思いつく限りの場所に足を運んだ。
しかしデクは何ひとつ思い出さず、そのたびにごめんねと零す。
「でも、何だかかっちゃんデートをしてるみたいで、すごく楽しいな」
いやお前は楽しいかも知れねえけど、こっちは1人で延々ぼっち遊びマスターだ。
ただその言葉になぜだかむず痒さを覚えて、「何言ってんだ」と適当に流しておいた。
数日が経ち、いよいよ無理なんじゃないかと諦めかけていた時。
そういえばと思い出す。
もうすぐ、花火大会だ。
海岸から見える大輪の花火、キラキラした目で見上げ続けた幼少期を思い出す。
あいつに見せたら、喜ぶだろうか。
そんな気持ちが一瞬思い浮かんで、慌てて打ち消した。
普通に「成仏させるためのもんだ」で伝えればいい話だ。
なのになぜか、どう声をかければ良いかわからない。
デクは俺のことしか覚えてないから、言い出さなければそのまま終わりだ。
何も知らず、見ることもない。
でも。
適当に、そう適当に。
「明後日の夜、海岸行くぞ」
軽く伝えて、それに「うん」とだけ返される。
「でも夜?何しに行くの?」
「……花火大会あんだよ。そこが一番よく見えるから、見に行くぞ」
途端、花が咲くように綻ぶ顔。今までになく、デクは喜んだ。
「花火大会……行く、行きたい!!」
──もしかしたら、何か思い出せるのか?
思い出したら、その時デクは、未練も消えて姿を消すのだろうか。
少し遠慮がちに、覗き込む顔。
「……かっちゃんって、浴衣持ってる?」
「聞いてみねえとわかんねえが、たぶん、ある」
「かっちゃんの浴衣姿、見たいな」
「それ着て、一緒に見たい。……良い?」
「……まあ、あれば」
「うん、楽しみにしてるね」
まるで彼氏が彼女に言うようなセリフだ。
言われる側になるとは思わなかった。
クソめんどくせえとブツブツ言いながら、箪笥を漁る。
「あんたなんで浴衣なんて探してんの、ずっといろんなところ歩き回ってるけど、たった2週間なのに恋人でもできたの?」
茶化すババアの言葉に「うっせえ」と流し、二棹目の箪笥に手をかけた。
花火大会当日。
祖父が残した濃紺の浴衣に袖を通し、物間の家を訪ねた。
当日の夜までの楽しみだと、物間の家で待っていたデクは、引き戸を開けたと同時に駆け寄り、目を輝かせた。
「かっちゃん、格好良い!!浴衣、すごく似合うね」
「こんなん誰が着ても同じだろ。さっさと行くぞ」
「そんな事ないよ、自分のカッコよさを自覚してない人はこれだから困る」
「すごく、格好良いよ」
「……どォも」
「どうでもいいからイチャイチャしてないで早く行けば?こんなところでモタモタしてたら、始まっちゃうんじゃないの」
じゃあ楽しんで、と追い出すように扉を閉められて、海岸まで歩く。
ここの海岸は春夏にサーファーが少し来るくらいで、ほとんど人がいない。
静まり返った砂浜でたった2人、側から見たらたった1人、打ち上がる花火を見上げる。
コイツが現れなかったら、俺が見る事もなかっただろうな。
よく晴れた夏の夜空、次々と大きな花火が咲く。
口笛のような打ち上げ音が連れてくる、大きな破裂音。
そしてぱらぱらと霰が散るような音。
その一瞬が、その後の静けさを連れてくる。
「綺麗だね」
「……そうだな」
いつもはぺらぺらと話すデクが、今日はやけに静かだ。
打ち上がる花火を見上げる横顔は微笑んでいるが、どこか寂しさを帯びている。
「楽しいな。すごく、幸せだ」
「そうかよ」
「でも、ちょっと、つらいかも」
「何か、思い出したのか」
「ううん、何も。こんなに幸せなのに、思い出せない」
「今すごく君に触れたいのに、触る事もできない」
「手を繋いでみたい。あと肩にもたれてみたり」
「それができなくて、苦しいな」
「かっちゃん、花火綺麗だね。連れてきてくれて、ありがとう」
俺は何でかうまく答えられなくて、「ン」とだけ、ぽつりと返した。
ふと隣を見やり、デクの姿に違和感を覚える。
「お前、体」
「え」
「……あれ、何これ……」
今まではっきりと見えていたデクの体が、少し、透けて見える。
デクの体越し、広く続く海岸線が見える。
「未練が、無くなってきたって、こと……?」
本来なら、良い事だ。
そのために、これまでずっと歩き回ってきたのだから。
なのに、言えなかった。
「成仏できそうじゃねえか、良かったな」なんて言葉は、とてもじゃないが、出せなかった。
「あんたいつまでも遊んでないで、いい加減おばあちゃんのお見舞い行くわよ」
無理やり車に乗せられて、病院に向かう。
忘れていたが、このために来たんだった。
「僕は、良いや。ここで待ってるね」
いつもずっと隣に着いてきたデクは、パッと離れて、病院の外で待っていると言った。
まあ喜んで行く場所でもないし、気も遣っての事だろう。
「じゃあちょっと、待ってろや」
触れるはずもない頭をポンと撫でて、母親の背を追って歩く。
俺はその時のデクの赤く染まる顔を、見ることはなかった。
病室にいた祖母は、元気そうだった。
「大袈裟なふうに見えるけど、大丈夫よ」
「ひさしぶりに顔を見られて、おばあちゃん嬉しいわ」
ニコニコと笑う笑顔に、小さい頃よく遊んでもらった事を思い出す。
久しぶりに見るその顔はずっと皴が濃くなっていて、どれだけ長いこと顔を見せてこなかったか思い知る。
それに少し後悔したが、今日、来て良かった。
「窓の外でね、よく小さい子が遊んでるのよ。それを見て、ああ勝己が小さかった頃もここで遊んでたなあって、懐かしく思ってたわ」
「随分、大きくなったねえ」
「……まあ、もう高2だからな」
祖母としばらく過ごしたのち、駐車場に止めていた車に乗り込む。
外で待っていたデクは、同じく車内に戻り隣に腰を下ろす。
「おばあちゃんと、たくさん話せた?」
「まあ、そうだな。元気そうにしてたわ」
「そっか、良かった」
出久がふと、顔を向ける。
すんと鼻を嗅ぎ、不思議そうな顔をする。
「かっちゃん、なんか、この匂い……」
「んだよ、くせえってか」
「違くて。なんか、この匂い、ずっと昔から、知ってる気がする……」
出久の体は、透けている。
あの花火大会の日から、もっと。
東京に戻るまで、あと2日。
デクの身体は、じわじわと透けていって、輪郭さえぼやけてきた。
「成仏って、もっとこうすっきりと、思い残すことなんかありませんって、なるかと思ってたな」
相変わらずのヘラヘラ顔。
まさに消えそうな奴の言うことじゃないだろう。
「満足してっから薄まってるんじゃねえのか」
「もう2日しかねえが、付き合ってやる」
「行きたいところとかはもうないんだけど、未練は残しまくってるな、って」
「あんだけ歩き回って残る未練ってなんなんだ、欲深すぎんだろ」
「ほんとにね。未練、すごい残ってるよ。むしろ増えた」
「何で増えんだよ」
「だって、かっちゃんに、会えなくなる」
「消えちゃったら、もう一緒に遊んだりできなくなるから……」
「どんどん欲張りになって、困っちゃうね」
笑っているけど、全然取り繕えてねえ。
隠せねえなら、そんな寂しい顔、見せんじゃねえ。
「海、行くぞ」
その晩、俺の枕元に座っていたデクを連れて、家を抜け出した。
最初に歩いた海岸へ行く。
夜中の海は、昼間の明るく優しい空気とは真逆だ。
そこにあるのは寄せては引く波の音だけ。
どこまでも続く、深い闇に飲み込まれそうな海に、恐ろしさまで覚える。
サクサクと砂浜を歩く、一人分の足音。
もうほとんど、デクは見えない。
「結局、間に合わなかったな。明日には、俺は東京だ」
「そうだね。2週間も、僕に付き合ってくれてありがとう」
「力にはなれなかったけどな」
「そんな事ないよ」
落ちる、わずかな間。
その沈黙を、デクが破る。
「ねえ、かっちゃん。僕一つだけ、思い出したんだ」
「僕、一度だけ、君に会った事がある」
──は、何だそれ。
「いつだ、いつ会ってた」
「そこに行けば、まだ間に合うかも知れねえ」
「いやもうこんな夜だよ。それに、ぼんやりとしてて、どこだかはよく分からないんだ」
「でも、かっちゃん。これだけは、思い出した」
「かっちゃんは僕に、『元気になったらまた遊んでやるよ』って、言ったんだ」
いつだ。いつ会った。
全然、思い出せねえ。
──俺はいつ、お前に会っていた?
「かっちゃんごめん、僕もう、消えるみたいだ」
「待て、行くな」
「訳もわからないまま出て来たくせに──またこんな訳の分からないまま、どっか行くんじゃねえ」
「無理っぽいなぁ」
笑う声さえ、もうぼやけていく。
デクの姿はもう、見えない。
「かっちゃん、最後に、感覚だけで良いから」
「ぎゅって、してくれる?」
「僕は最後に君に会えて──本当に良かった」
空気に滲んで声さえ消えていくデクを、その空気を、抱きしめる。
「……かっちゃん、かっちゃん、こわい」
「消えたく、ないよ」
「デク」
しゃくりあげる、泣き声だけが聞こえる。
すすり泣きながら嗚咽を残し──それでもデクは笑う。
「ありがとうね」
「また、会えたら──僕と、遊んでくれる?」
涙で視界が滲む。
デクが、霞んでいく。
「笑ってろよ」
「ぜってえ、俺がまた、遊んでやる」
「かっちゃん、ありがとう」
「大好き」
もう、声も何も、聞こえない。
東京に帰る前日。
デクは、俺の目の前から消えた。
翌朝、物間に会いに行った。
昨夜デクが消えた事を伝えると、「そっか」とだけ返ってきた。
「最後、緑谷くんは笑ってたかい?」
「いや、大泣きの未練タラタラで帰ってったわ」
「そんな成仏の仕方あるのか……君何したんだ彼に」
「何もしてねえわ、むしろ礼を貰っても良いくらいだ」
なぁんと足元に寄ってきた猫の頭を撫でる。
そもそもお前のせいで、俺は巻き込まれたんだぞ。
「だから俺はお役御免だ、夕方には東京に帰る」
「そうか、残念だよ」
「それにしてもさ」
猫を抱きながら物間は言う。
「そもそも、緑谷くんは、爆豪くんのことを何でかっちゃんで覚えてるんだ?」
「ここでは名前さえ、言っていなかったじゃないか」
「高校の同級生は、君のことをそうやって呼ぶのかい?」
「いや、高校の奴らはみんな名字だ」
「かっちゃんなんて呼ばれてたのは、ずっと小せえ頃の話だ」
「なら、緑谷くんの中にある君の記憶は幼少期の頃なんじゃないのか」
「会った事があると言われたんだろ、何か接点とかは思い出せないか?」
「……ねえな。遊んだ記憶もねえ」
「東京で暮らしてたと言っていたもんな、静岡にはお祖母様しか暮らしてないのだろう?」
「そうだ、生まれてからは、ずっと東京だ」
2人で頭を捻る。
でもまあもう緑谷くんがいなくなってしまった今考えても仕方ないかと、解散になった。
「それにしても、あれだけ面倒を全面に出していた君がそんなに気にかけるなんて、不思議なものだな」
「……頭にずっとモヤモヤが残って、気持ち悪ぃんだよ。それだけだ」
東京に帰っても元気でね、と言う声と猫のにゃあんと鳴く声を背中に片手をひらりと上げて、店を出る。
大通り、昨日デクと話した海岸が見える。
あれだけ掻き回しておいて、あっさりと帰りやがったななんて思いながら、ゆっくりと歩く。
未練タラタラでありながら、デクはなぜ消えたのか。
何がきっかけでそうなった?
最初のきっかけは、花火大会。
でもあいつは、何も思い出せないと言っていた。
その次は、何だ。
確か…病院だ。
あの時何かなかったか。何かいつもと違う点は?あいつは何か言ってなかったか。
その時、ふと、思い出した。
「なんか、この匂い、ずっと昔から、知ってる気がする……」
──病院?
あの独特な、消毒液のような匂い。
昔、あいつは病院にいた?入院でもしていたのか。
でも俺は入院なんか、した事ねえ。
ここでも接点は見つからない。
「遊んでやるなんて、どこで言ったんだ」
独りごちて、あ、と立ち止まった。
もしかしたら──あの時かも知れない。
時間がねえ、早く確かめないと。
緩んでいた足で、土を噛む。思い切り、走り出した。
急な坂道、馬鹿みたいに長い石階段を駆け上がる。
肺が引き攣りそうだ。ぜえぜえと息を乱し、汗が噴き出る。
玄関を勢いよく開けて、居間の奥の箪笥を漁り出す。
「あんた朝いきなり出ていったと思ったら何してんの!今まで何してたの!」
怒るババアの声は無視して、奥まで手を伸ばす。
「あった」
引き摺り出した手にあるのは、大きな洋菓子の空き缶。
それを開けると、古ぼけた白黒写真から俺がまだ幼かった頃のカラー写真まで、たくさんの写真がぎっちりと詰まっている。
大きなアルバムも沢山あるが、途中で管理が面倒になったのだと昔祖母が空き缶に写真を入れていたのを思い出す。
俺が生まれてからだから──カラー写真だ。
適当に分けて、一枚一枚捲っていく。
隣に母が屈み込んで、「あんた何探してんの?」と問う。
「写真、探してんだ。俺が小さい頃の」
「病院の外で撮った写真が、あったはずなんだ」
じゃあそれならと、二人写真を探し始める。
「そうねえ、懐かしいな」
「おじいちゃんが昔骨折して入院してた時にしばらく通ってたんだけど、あんたは暇だからって外で他の子どもたちと遊んでたんだよね」
「医者の世話になりすぎだろ」
「歳取ったら当たり前でしょうが」
「ああ、これじゃない?ほら、この壁昨日見たのと同じ」
差し出された、いくつかの束。
受け取り、一枚ずつ隈なく確認していく。
なかなかそれといったものが出てこずに焦る。
「あ」
最後の3枚ほどを残して、捲る指が止まる。
柔らかい緑色の髪と、大きな目。
6人で映る写真の中の右下、ちょこんと座る子どもの姿があった。
覚えてないけど、そこにいた。
思わず、頬が緩む。
顔、全然変わんねえな。
「どの子探してたの?この子?」
「かわいい子だねぇ、あんたこの子が好きだったの?」
「そんなんじゃねえ」
「あんたはやんちゃでずっと走り回ってたけど、入院中の子もたまに外に出たりしてたから、その時の子かもね」
そういえば、祖母も病院でそんな事を言っていた。
お前、ここにいたんだな。
「ちょっとあんた、何で泣いてんの」
自分でも気づかぬうちに零れた涙は、ぽたぽたと写真を点々と濡らしていた。
物間には、幼い頃の写真の中にデクを見つけたとだけ、メッセージを送っておいた。
その後俺は東京に戻り、淡々と残りの夏休みを消化していた。
東京だって静岡と変わらないくらい、茹だるような暑さだ。
抜け殻になったように、ぼんやりと日々を過ごした。
夏休みの課題も早々に終え、淡々と部活に行き、クーラーの効いた部屋でだらだらとソファに沈んでいると、物間からメッセージが届いていた。
「緑谷くんについて、分かった事がある」
ピクリと体が動いたが、にわかに上がった気分はすぐにゆるゆると下がっていった。
デクの事が分かったからって、意味はない。
だってもう、あいつはいなくなってしまったのだから。
あの未練タラタラで消えていった、柔らかく笑う顔を思い出すと、胸が締め付けられる。
もっと早く思い出して、少しでも楽しませてあげられていたなら。
返事をするよりも先、「ちょうど東京に行くから、会って話したい事がある」と続けてメッセージが届いた。
まあ、知らないよりは知った方が、この心の枷も外れるかも知れない。
「いつなら会える」と返信し、日取りを決めた。
物間との待ち合わせ、指定されたのは新宿御苑だった。
季節分かってんのか。
「何が嬉しくて真夏に野外だよ」
「綺麗だろ、感動の再会にピッタリじゃないか」
「ざけんな熱中症になるわ。お前はずっと骨董でも眺めてろや」
「カフェとかより、外の方が良いと思ったんだ」
「もう着くから、奥の植物園の側にあるベンチで待っててくれよ」
「人呼んどいて遅刻とは良い度胸だな」
猫が物間に似てるのか物間が猫に似ているのか知らねえが、振り回すのは相変わらずだな。
ベンチにどっかり座って、首を垂れる。
風も吹かない。
脳が茹る。
じわじわと汗をかく。
早く来いや。
足元に、ピタリと立り止まる靴が見えた。
やっと来たか。
「おせえんだよ」
立ち上がり顔を上げて、硬直した。
「かっちゃん、……久しぶり」
何でこいつがいるんだ。
死んだんだろ、この前目の前で消えたじゃねえか。
どういうことだ。
「……何してる」
「お前──何でこんなとこいんだ」
「会いたく、なっちゃって」
声が出ない。
状況を飲み込めない。
瞬きを繰り返し、眉間に皺が寄る。
もしかして、成仏しきれなかったのか。
会いたくなったって、そうじゃねえだろ。
声に出す前に、デクが先に口を開いた。
「僕、成仏したくてあそこに残っていたんじゃなかったんだ」
「かっちゃん、僕、死んでなかったみたい」
「……意味がわからねえ。どういう事だ」
「ううん、生きてるってのを説明したことないから、難しいな」
消えてから、気がついた。
お世話をしている気になっているだけで、自分にとってそれがどれだけ貴重な時間だったか。
お前が消えてから、どれだけお前に会いたくてたまらなかったか。
しかしその気持ちは確かだが、今目の前で起こっているこの現実に、理解が追いつかない。
頭を振って、地面を見る。
──生きてるって、何で。
俺は幻覚でも見ているのか。
「かっちゃん」
何か温かいものが、腕に触れる。
「かっちゃん、顔、上げて」
顔を上げた先、同じ目線の先にデクの顔があった。
触れられた腕には、確かに感触があった。
「かっちゃん」
「あのね、じゃあ、手出して」
デクが、ひらりと左の手のひらを俺に向ける。
呆然と、言われるままに、右の手のひらを上げる。
その右手に、出久は左手を合わせる。
二つの手は入れ違うことなく、ぴったりとくっ付いた。
「……は」
「ふふ、僕もびっくりだよ」
何が起きたんだ。
あるはずのない感触が、温度が、ここにある。
手のひらから、出久の脈が伝わる。
「……説明しろ。どういう事だこれは」
「僕もよく分からないんだけど……この前、目が覚めたんだ」
「目が覚めたら、病院にいた。
「僕、ちょっと身体が弱くて…それで倒れてから2週間、意識不明だったみたい。ちょうど、かっちゃんと過ごしている間だ」
「心配をかけてごめんね。…僕、死んでなかったよ」
照れたように笑うその顔は、ずっと見てきた顔。
信じられない。
そんな都合の良い事ってあるのか。
震える手で、デクの手を掴む。
合わせていた指を滑らせて、絡めて握る。
そこにある感触を確かめるように、親指で一本一本、なぞっていく。
デクが、ここにいる。
「信じてくれた?」
体の力が抜けて、地面に膝を落とした。
同じようにしゃがんだデクの肩に両手をつき、額を肩に預ける。
ぐりぐりと頭を押し付けると、「痛い痛い」と笑う声が耳元で聞こえる。
じわじわと滲む涙が、デクの肩を濡らす。
寄せた頭にこてんと乗せられたデクの頭の重み。
本当に、ここにいるんだな。
肩に乗せた手を滑らせて背中に回し、ぎゅうと締め付けると、同じ強さで抱きしめ返される。
初めて嗅ぐ匂い。
柔らかくて、優しい匂いがする。
トクトクと鳴る心臓が心地良い。
涙が、頬を伝う。
触れられなかったあの時の分まで、しっかりと体温を感じたい。
「……あっちいな」
「はは、熱中症に、なっちゃいそうだな」
すべてを物間に先読みされた気がして腹が立ったが、誰の視線にも邪魔されずに気が済むまで目の前の男を抱きしめられるのも、肩を震わせ涙を流せるのも、人気のないこの場所でと言ったあいつの采配のおかげと思うしかなかった。
「正直、全然信じられねえ」
「わかる」
「わかるじゃねえ」
目の前の顔を掴んで、引き伸ばす。
「かっひゃんいひゃい……」
「散々振り回しやがって。お前いい加減にしろよ」
「ごめんて……分かんなかったんだよ僕にも……」
頬を引っ張られて眉を八の字にしたデクの顔を見て、肩の力が抜ける。
緩む瞼、両頬に添えた手を緩め、ふわりと撫でる。
「生きていてくれて、良かった」
デクも、頷き、笑う。
「世の中何があるか分かんないもんだなぁ。たぶん、どうしても君に会いたかったんだ」
「ねえ、かっちゃん。僕元気になったよ」
「元気になったから……遊んでくれる?」
「お前覚悟しろよ。今度は俺がお前をどこまでも連れまわすからな」
「なあお前これ、オールマイト好きなんか」
──え?
「これ、俺も持ってる。レアカードじゃねえか」
──あ……うん、僕も好きなんだオールマイト
「お前、いつもここで寝てるけど、外では遊ばねえの。友だちは?」
──先生からは、まだダメですって言われてるんだ。だからずっとここで寝てる。あんまり学校も行けなくて。遊ぶ友だちは、いないんだ
「ふーん。じゃあ、俺とカードゲームやろうぜ」
──良いの?外で遊んだほうが……楽しくない?
「別にそんなのはいつでもできるし。俺じいちゃんの見舞いで来てるんだけど、暇なんだよな」
『かっちゃん、外でボール遊びやろう!サッカーやろうぜ』
──……あの、僕は大丈夫だよ。もう寝ないといけないから。気にしないで
「……じゃあ、友だちいねえなら俺が友だちでいいだろ」
「これお前の名前だろ?何て読むんだ?みどりや……でく?」
──いずく、いずくだよ。
「……デクでも良いだろ。よしじゃあ、お前はデクな」
「デク、早く、元気になれよ。そうしたら、みんなで遊べるから」
──……うん、ありがとう
「ここからは見えないかもしれないけど、もうすぐ花火大会もあるんだぜ。うちの近くの海からよく見えるんだ。すっげー綺麗なんだ」
「元気になったら、花火も見られるだろ。連れてってやるよ」
──花火、僕見たことないんだ。見てみたい
「じゃあ、また今度な」
──うん……あの、話しかけてくれて、ありがとう。早く良くなるように、がんばるね
「ああ、デク、ちゃんと元気になれよ!花火も見に行こうな」
「元気になったら、また遊んでやるよ」
初めて書いたファンタジーものです。書き始めて3作目のもの。
物間くんに出演してもらいましたが、不思議な雰囲気に合っていて彼で良かったなんて思いました。猫は、昔飼っていた子をそのまんまに出しました(5匹飼っていました)
場所は静岡の伊東です。静岡の場面を書くときは、いつもここをモデルにしています。元実家なのですが、とてもいい雰囲気で大好きでした。
切なくて、でも胸に残るような、優しい物語が書けていたら良いなと思います。
この話は、本当に気に入っています。
読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます。
2025-01-26