プロヒーロー勝己と教師の出久くんのお話。
新月の夜、明治の文豪の言葉を借りて愛の言葉を伝えあいます。
月の見えない夜が、一番よく見えることもある。
普段より背伸びをして予約した小料理屋、二人分の席。
相対する空席はすでに埋まらないことが確定していて、その椅子は荷物置き場として代わり役を務めている。なかなか予約の取れない店だ、せっかくなので一人で酒と料理を楽しむことにした。
直前の緊急出動要請に、今頃目を吊り上げて飛び回っているだろう。箸置きさえ下げられた広々とした卓は、一人分の食事では埋まらない。不要と化した小皿をわざと使って目を賑わわせたが、胸の奥は却って空いてしまった。
おつかれさま、と心の中で呟いて、花冷えの日本酒を舌で転がす。瑞々しくて爽やかな初鰹の旨味は辛口のものと相性が良い。
交わされるはずだった「美味しい」は、喉の奥で丸まる。
箸の数ほど募る思いは、咀嚼して自慢に変えようと決めた。
今夜は空の主役が訪れない日。そこにいて当たり前の存在が今日だけは姿を隠す。いつもたいして見もしないくせに、その姿がないと寂しいものだ。
ビルに囲まれた夜空の向こう、星のまたたきに君の姿を探してしまう。
今夜は快晴。雲もなく澄んだ空気、あの弾ける橙の光が、さぞ似合うだろうに。
しかしここは管轄外だ、いるはずもない。諦め悪くうろつく目線につい口角が上がる。
お洒落を気取るつもりはなかったが、今夜伝えられたらと思っていた。詰まる言葉にアルコールと雰囲気が味方してくれると思っていたから。しかしこれはどうやら、自力で頑張れとのことらしい。
でももう今夜は気張る必要がない。下ろしたての固い靴音に柔らかい鼻歌を乗せる。美味しい日本酒と料理で浮ついた体は足取りを軽くして、一人歩く帰路をほんのり明るいものにさせてくれた。点々とする街灯を追いかけて、もうすぐ自宅のマンションだ。帰ったら、嫌がらせのようにメッセージのひとつでも送ってみようか。
荷物をソファの脇に下ろして、まだ体に馴染まない新品のジャケットを脱いだ。借り物のように感じられたスーツもネクタイも革靴も取り払いゆるい部屋着に着替えると、温かな脱力感に襲われて、眠気に思考が攫われていく。本日の戦闘は終了だ。途端酒が回る。
ふらつく足元、さっさとシャワーを浴びてベッドに沈んでしまおうと思ったその時、肩が跳ねた。視界の隅を照らす眩い何か。
チカ、と一瞬の光が目の前で弾けた。
雑にサンダルを引っ掛けてベランダに出た体は一気に熱を帯びて、ぼやけた視界は輪郭を取り戻していく。戦闘服はもう脱いでしまったのに、まさかこんなところで。
「美味かったかよ」
夜空に爆ぜる火花が、己が抱える思慕の情を照らした。
「鰹が…あと日本酒」
「楽しんでんじゃねえか」
まさか。
今君がしているその顔を、つい先ほどまで僕もしていたんだ。
今日、君のために準備した、きらきらとした装飾語を重ねた美しい言葉たち。
スピーチの練習がごとく繰り返し繰り返し反芻させていたのに、大事に伝えようと思っていたのに、舞って散る花火のように一瞬ですべて消し飛んだ。口から転がり出たのは、今日もっともふさわしくないたった一言。
―月が綺麗ですね
「…朔日だぞ」
「今夜は、主役交代ってとこだろ」
「酔ってんのか」
「ううん」
会いたくて会いたくてたまらなかった人が、こんな一番格好悪い時に来てしまったが、もうどうでもいい。今夜必ず決めると思っていたのに、真っ先に思い浮かんだ愛の言葉が推敲もせずそのまま滑って出ていってしまったが、それも別にいい。頬も緩み切って緊張感など露ほどもないが、君さえいれば何でもいい。君がいるだけで、飛び上がるほどに僕は嬉しい。
背中に回された腕は強くその体は熱かった。この火照りは君と僕、どっちのせいだろう。それも、どうでもいいか。
酔っ払いへの苦言に、今日初めての本音を吐く。
「酒くせえな」
「君がいなくてさみしかったんだ」
肩に額を預ける。
返事ちょうだいとねだったら、耳元で囁かれた低く掠れた声。
―死んでもいいわ
くたばって仕舞えじゃなくて良かった。
明治の夜には、星がよく見えただろうか。あの時生まれた光がここに差すのは、まだ随分先の話だ。
今夜から、静かな幕が上がる。
2025-05-27