始発列車で慣らされていた体は、もう通勤ラッシュ仕様に塗り替えられていた。乗り慣れてきた別路線。ここに馴染みの顔は、もちろんいない。淡々と繰り返す行きと帰り。ただ"消費"するだけの時間。本来は、そういうものだ。そう、あの時間が特別であっただけ。一年間の、不可思議な30分間。
その日、異動元の上司から連絡が来たのは突然で、「新しい担当者への引き継ぎを1週間だけお願いしたい」と言われた。戻るつもりはなかったけれど、義理もあるし、自分の締めくくりとしても悪くない。ふと脳裏に浮かんだのは、眩く輝く車窓と、左半身の温かみ。
季節は初夏。乗らなくなってから忘れかけているが、確かこの時期になると、列車に乗り込む時間帯には日はもう上がっていたような気がする。その時にはもう、向かいの席から隣に座っていた。当時のぎこちなさを思い出すと、つい目が細まる。
あの春に去って以来、隣に座るという関わりを繋いだ関係性――名刺に書き残したメールアドレスで、彼とは連絡を取り合うようになった。肩しか交わしていなかったのに「お世話になっております」から始まるお堅いビジネス文書が送られてきたのが、コミュニケーションの始まり。それだけで人となりが分かった気がした。そして、もっと知りたくなった。文字から声へ、声から表情へ、交わすものは次第に増えていった。やり取りの堅苦しさは今やもう消えて、その隣にずっといたいくらいの居心地の良ささえ覚える。
何も言わずに行こうと思った。
駅の構内を抜けて、始発列車のホームへと降りる。早朝の空気は相変わらず澄んでいて、肌をひやりと撫でた。あの頃と同じ列車、同じ時間。変わらない朝が、そこにはあった。
車両に乗り込むと、まだ数えるほどの乗客しかいない。たった1年しか共にしていなかったが、それは懐かしい顔ぶれ。そして、目で探すまでもなかった。彼はそこにいた。前と変わらない定位置。1両目の、3列目のシートの左端。少し前かがみにスマホを見ていて、気配にはまだ気づいていない。思わず頬が緩む。
なぜだか、もったいない気がした。変わらず空けられている、右隣りの席。俺はいつも、ここから始まる一日が、ずっと楽しかった。
そっと彼の隣に腰を下ろす。シートのクッションは微かに沈み、彼の動きがわずかに止まる。気付いた。顔は伏せられたまま、変わらないスマホの画面が、ただ揺れている。
無言のまま、列車が動き出す。懐かしい緊張感。何も話さない、話さなくていい。あの頃と、同じ。
心地良い車両の揺れ。車窓はうねり始めて、もうすぐカーブで強めの揺れがやって来る。それに合わせて俺は左隣にちょっかいをかける。前よりも少し強め、わざとらしく肩の重みを預ける。もちろん、眠ってなどいない。それは意図的ないたずら。
少しだけ、肩が跳ねるのが分かった。気付いていないふりをして、前よりも深く体を預けた。まるで自分の温もりごと伝えようとするかのように。そうすると、ふふっと息だけで笑った彼は同じだけの重みを返してきた。
朝焼けが差し込む車窓に、並んだ二人の姿。
窓越しに、彼と目が合った。
声を出さないままに、「おはよう」を目で送る。彼の目が僅かに緩んで、窓の向こうで柔らかく笑っていた。
その大きな瞳がいろんな色を映すのを知っている。その口は少し早口で、同じ時間でも俺よりの何倍もたくさんの言葉を紡ぐのを知っている。いろんな表情を見せるのを知っている。その頬が淡く染まるのを、知っている。
でもこの時間は、これだけでいい。これだけがいい。1週間、期間限定の、特等席。
駅ももう中間地点。物足りなくなってしまった俺は、もう少し、いたずらを続行させた。
相変わらず両ひざの上で揃えられている二つの手。俺がそこに視線を落としていることに、彼はまだ気付いていない。
人差し指で、右の手の甲をついとなぞった。明確に跳ねる体。ぴくりと緩んだ小指を奪って、隣り合う足の間で絡めとる。
自分でやっておきながら照れに襲われ始めたが、解かれない指にその距離が許されたように感じて、胸の奥が、静かに火照っていく。
きゅっと握り返された指。このまま絡めた指を解かずに、終点まで行ってしまえたら。
30分間、月曜から金曜までの5日間。…150分しかない。ついくだらない計算をしてしまった。
今日は火曜だから、残り90分。
1週間経って、俺がまたここを離れた時、他の誰かが彼の隣に座ることになるのだろうか。
嫌だと思った。
小さなやり取りでも十分幸せだと思っていたが、どうやら違うようだ。
薄々は気付いていた。だってこんなこと、俺は友人にはしない。
言葉を交わさない分、気持ちは浮き彫りになった。
…もう一歩踏み込ませてもらえないだろうか。
しかしそんなことを自覚してしまうと、俺はぎこちない隣人に逆戻りした。
肩に頭を寄せた1年前のあの日はどこへ行った。あの時なぜあれができたのか問いたい。
でも、離れがたい。だから、また肩を寄せた。
彼はいつも同じ分だけ、重みを返す。少し離れた二倍の量、寂しさが増す。落とした目線の先、ゆるく握られる手の甲にどうしても目線がいってしまう。またその温度を、触れて知りたい。
水曜日。もう中間か。いつもならここからは適当に消化試合だが、今週はそうではない。もう今日が終われば後半だ。
引継ぎが長引いてくれないかなどと間抜けなことを考えるが、新任は優秀で、残念ながらその希望はかなわないだろう。
この日、これまで一度も寝落ちしたことのない彼が、初めてかくんかくんと船を漕いでいた。
俺の緊張感は彼に伝播して、絶対に寝てはいけないと何度も体勢を立て直していた。しかし生理的な現象には抗えない。
”欲”なのか、それに見せかけた”優しさ”なのか。
募る寂しさから少し頼ってほしくなった俺は意図的にとんと肩をぶつけてみた。そうすると、その合図に彼は一瞬固まった後、途端解れた緊張感に体を緩ませて安心したように身を預けてきた。
無防備な寝顔。俺のこの緩んだ顔を見られなくて良かった。こちらの様子が知られない状況に胸をなでおろす。
しかしそれも束の間だった。急こう配のカーブ、反動で揺れた体、肩にこてんと頭を乗せられる。
これは過去に自分もやったやつだ。まったく同じ展開。あの時は思い切り肩を借りて熟睡を決め込んでいた。こんなにとんでもないものだとは、思っていなかった。もう死にそうだ。
列車のカーブで、少し強く体が傾いた。
シャツ越しの温もりと、車両のきしむ音。
緊張と、ほんの少しの幸福感。それだけが、そこにあった。
柔らかな洗剤の香りで心臓が跳ねる。首に触れる髪が柔らかくて、すうすうと健やかに眠る寝息に、体が硬直する。
じわりと汗が滲む。ただ寄りかかられているだけなのに、ここまで緊張している自分に痛々しさまで覚えてしまう。
「寄せられる頭に同じものを返したい」と「頼むから早く起きてくれ」。
“欲”と”不安”が、胸の中でぐるぐると渦を巻く。
車窓の向こうに目をやった。空は、すっかり朝の色だ。
そしてわずかに、”不安”に混ざった”欲”が勝ってしまった。
もうすぐ乗換駅に着く。起きる様子は一向にない。
このまま立ち上がったら感じが悪すぎる。揺すり起こすのは忍びなくてしたくない。でも、どさくさに紛れたように手を繋ぐというのもポリシーに反する。俺はしたいことは隠れずに起きている時にやりたいタチだ。…できるだけ。
これだったらギリギリポリシーに反していないだろうと謎のルールのもと、頭を軽く寄せて、再度合図を送ろうとしたその時だった。
伏せた瞼を押し上げた彼は俺の乗換駅だと気付いたのか、焦るように思い切り頭を上げた。それが側頭部に直撃した。
割といい音が鳴った俺たちは、お互い頭を押さえた。ラッキーイベントと呼ぶには間抜けな様相。つい吹き出して笑う。さっきまでのドキドキは何だったのか。笑いで歪む口元を押さえて乗り降り口を出る間際、同じく笑いを堪えた笑顔で手を振る彼の姿を見た。
もうそれだけで、あと二日どう過ごすかは決まった。
木曜日。昨日の頭突きで距離感は元に戻った、ように見えた。
早朝には似つかわしくない駅のホームのリズム音。階段を下りる足音が妙に軽快で、己の浮かれ気分がそこに出ている気がした。
先に座っている彼と目が合う。朗らかに向けられた笑顔はいつもより和らいでいて、小さく手を振るその手一つに心が揺さぶられる。
しかし、乗り込むくらいの距離になった時には、開いていた手は萎れていき、顔は笑ったまま汗をかき、瞳は左右にうろついた。
首から上って来る赤面に気付いた時には、彼はもう下を向いてしまって、視線が合うことはなくなった。
黙って隣に腰を下ろし、リュックをぎゅうと抱きしめて顔を埋める姿を横目に見る。後頭部が「見ないでください」と言っているようで、胸にこみ上げる。
そういうのをやめろ。
いつまでも振り向かないその首の赤さが愛おしい。
もう、言葉にしてしまいたい。その顔をあげてほしい。こっちを向いてほしい。
喉の先まで出かけているこの言葉を伝えた時、どういう顔をするのだろうか。
もうあと二日間しかないことは、彼は知らない。言っていない。
何となく、この1週間は始発列車以外のやり取りはしていないからだ。この時間だけに目を向けないと、もったいないから。
これだけでも満足だけれど、今日は首だけ眺めて終わるのだろうかとふうと息をついたとき、リュックに埋まっていた頭をあげられて真っ赤な顔はパッとこちらに向けられた。
そこにあるのは不安そうな顔。俺のそれがため息だとでも思ったという感じだった。
「嫌わないでください」に移ろった顔に、否定するような笑顔を返す。嫌うわけがないだろう。
交わり続ける目線に、その距離を詰めたくなる。その空いた手を捕まえたい。
目線は絡めたまま、とんと肩を寄せる。ちらと下に目くばせをしたその先、意図を察した右手は手のひらを上におずおずと開いた。
ゆっくりと、開かれた右手に開いた左手を重ねる。
はずだった。
人一人いない小さな駅、いつもは誰も乗ってこないドアから一人の乗客が乗り込んだ。
表面だけ触れた手のひらは弾かれるように離れていき、互いの懐に収められた。
でも、もうそれだけで終わりたくなかった。一度引っ込んだ左手に喝を入れて、逃げていった右手を捕まえる。びくりと跳ねた体もそれを拒否することはなく、握った手を隠すように体を寄せた。
でももうそれ以上はいっぱいいっぱいで、お互い何もできなかった。
このままでは終わらせたくない――そんな気持ちが胸を突き動かす。
1週間は、こんなにも早いものだったか。あっという間に金曜は訪れた。
実は引継ぎ作業はもう終わっていたが、何とか問題がないか懇切丁寧に洗い出して、無事課題を見つけて今日またこの列車に乗ることができている。そんなところまで気付いてさすがと言われたが、その実理由はここにしかない。
来週から俺はまた通勤ラッシュ仕様に戻る。
俺はもう隠すことはせずに左隣のその顔を覗き込んだ。
もうこの距離で一緒にいられることはないのだ、見納めといったら大げさだが最後に一目焼き付けておきたい。
覗き込まれた隣人は前を向いたままの顔を真っ赤に染め上げて、「どうしよう」を顔面に貼り付けている。彷徨う視線は定まらずに困っていてそれさえも名残惜しい。ゆるゆるになった頬を一度しめ直して、腕を組んだ。さて、どうしようか。肩を寄せる。
中程まで来て、残り10分ほど。ポケットの中でスマホが震えた。
画面に目を落とす。件名だけで十分だった。
来週から、元通り。
「了解」とだけ心の中で返して、スマホを仕舞う。
顔を上げた瞬間、彼の体がびくりと逸れる。一瞬の間を置いて、そっと視線だけが戻ってくる。
何かを探るように――けれど、どこか申し訳なさげに。
……見えたのか。伝わったんだな。
心の中で上司に礼を言う。たぶん、今だ。
しかし詰めようと思った距離を、先に詰められた。左の手首をきゅっと握られる。
横にあるのは、真っ直ぐ前を見つめて、唇を巻き込んだ顔、首から耳まで、真っ赤に火照っている。一切こちらを見る気配はない。
握られていた右手が静かに緩む。羽根でも掬うような動きで、冷えた指先が手の甲に触れた。
震えた指が左から右にすいとなぞった時、全身に痺れが走った。背筋が跳ねて顔を見ても、目線は合うことなくその指は滑り続ける。
くすぐられているのかと思った。
手の甲を走る、くるりと回るような指の流れ。とん、と置き直されるその指が文字を描いているのに数秒遅れた。
そしてその4本目の線がなぞられた時、足の先から頭の先までがちりと固まって、耳だけが隣の微かな呼吸音を拾っていた。
列車はホームに滑り込み、ドアが開かれた。焦るように何度も肩を叩く手の感触だけは分かる。でも動けなかった。
その愛を表す二文字で、俺は一駅乗り過ごした。
2025-05-13