5時2分、当駅始発の、始発列車。
僕がいつも乗る列車だ。
薄明けの中煌々と照らされる車内、乗客は数人。いつもの面子が、いつもの場所に座っている。時たま見ない顔が現れるとすれば、オール明けの大学生の集団か、大きなキャリーを引いた旅行客くらいだ。他は変わらず、話はしないが顔見知りのようなもの。
僕も他の乗客と同じく、定位置に座り発車を待つ。
冬は寒さも厳しく真夜中の暗さだったが、この季節にもなるとようやく”朝らしさ”が見えてくる。ドアが開閉するたびに凍えるような季節も過ぎ去り、嬉しい限りだ。
僕が始発列車に乗る理由は、まず第一に満員電車がこの上なく苦手だからだ。皆殺伐として周囲に配慮はなく、当たり前のように体をぶつけたり、降りる乗客優先のところ出口を占拠したり。そういう人間の垣間見える汚さで、勤務開始から心が磨耗することに、耐えられなかった。
そしてもう一つは、僕の会社は完全フレックス制で、いつ勤務開始していつ勤務終了するか、完全に個人に任されているからだ。何なら間に何回でも何時間でも休憩が取れるので、仕事の合間を縫って遊びに出かけたりもできる。
始発で出社すると当然終業も午後イチになる。実質毎日午後半休だ。これが最高なのだ。帰りの列車もガラガラで、行きも帰りものんびりとストレスなく通勤ができる。
朝眠いのだけが欠点だが、これは慣れてしまえば何のことはない。
他に挙げるとするならば、早寝過ぎて夜に賑わうSNSを追えないことくらいか。まあ僕は発信することもなく閲覧専用。細々とやっているだけなので、これも何のことはない。
そんな感じで、僕は毎日始発列車に乗る。
4月の頭から、変わらなかった面子の中に新顔がやってきた。このタイミングだ、転職とか異動とか、新入社員とかそんなものだろう。ただ若々しいが初々しい雰囲気はないので、新入社員の類ではないな。しっかりとした、大人の空気を身に纏っているのを感じる。
スタイルの良い体にフィットした濃紺のスーツ、しっかり磨かれた革靴、それらは彼の華やかな顔によく似合っていて、ハイブランドであろうビジネスバッグも解釈一致だ。僕は機能性重視でリュックだけど、僕にはこれが似合うと思うから別に良い。
隣の座席まで埋めるように足を寛がせたりしないのも好感度が高い。
広々と使わないとそのプライドが傷つくのだろうなと言わんばかりに主張してくる奴らを、僕は勝手に「スペースコンプレックス」と呼んでいる。
まあそんな事はどうでも良くて、僕は対面に座るようになった彼を何となく気にするようになってしまって、次第に彼のことを目で追うようになっていった。
緋色の瞳は、乗換駅までじっと伏せられている。始発列車に乗ると美しい朝焼けを毎日拝められるが、彼の瞳はそれと同じような鮮やかさで美しい。人を穿つようなその切れ長の鋭さも、ここでは穏やかなものに変わる。実際人を穿っているかはわからないが、人目を引く眼差しがそのように見えるというだけだ。これはただの比喩。
スッと通った鼻筋も薄い唇も、この人のためにあるのだろうなというほどにあるべき場所に収まっていて、均整のとれた美しい顔だ。
まさに、サラリーマンでいるには勿体無い逸材。
決してじろじろと眺めたりはしないが、 ふとした時にその格好の良さがどうしても目に止まってしまって、申し訳なく思いつつもこうやって眺めてしまうのだ。
特段何もしないので、こっそりと思うだけはどうか許してほしい。
ある日、いつもよりも長くその綺麗な目は伏せられていて、普段の乗換駅に到着する直前まで彼は起きなかった。
大丈夫かな、寝過ごしか?それとももしかして、今日はこの先の駅まで乗るのだろうか。知りもしない対面の乗客に、つい心配顔を向けてしまう。
起きて。もうすぐ着いてしまう。
とてもじゃないが、知りもしない人間が「もうあなたの駅に着きますよ」なんてストーカー紛いのことを言えるはずがない。
せめて、じいっと、目線を送る。そんな事をしても、気付くはずもないのに。
と思っていたら、乗換駅到着の直前で彼はぱちりとその赤い瞳を開いた。
そして、初めて目が合った。
偶然起きた、たった数秒の視線の交わり。
それでも明確に、彼も僕もお互いの目をしっかりと捉えた。
座席に預けていた背を離して席を立った彼は、降りる間際再び僕に視線を配った。そしてそのまま、流れるように乗り降り口から吐き出されていった。
たったそれだけで、僕は彼のことが今まで以上に気になるようになってしまった。あまりにもチョロすぎて、自分でもびっくりした。
それから彼とは、乗換駅に着くたび目線が合うようになった。それは僕が見てるせいもあるのだろうけど、彼からも確実に見られている。だから、今さら下手に目線を外せない。
何となく、瞼だけの会釈をした。あまりにも見ててすみません、の意味を込めて。
そうすると、彼はふわりと目を細めて、笑うような視線を返してきた。
少しだけ、息が詰まった。
目線だけの挨拶はしばらく続き、そこから名も知らぬサラリーマン同士の、アイコンタクトのみのコミュニケーションが始まった。
ある朝、大きなキャリーケースを持った旅行客によって彼の定位置が埋められていた。
いつも先に来て座席に座っている僕は、それを見て残念でならなかった。これでは、彼がどこか違う席に座ってしまうかもしれない。そんな些細な事にしょんぼりしている自分に驚く。
そうしていると後から彼も乗り込んできてそこで立ち止まり、僕と同じような反応を見せた。
その姿を見て、「やっぱり彼はどこかに行ってしまうのかな?」と僅かに目線をやると、少しその場で考えた素振りを見せた彼は、空いた車両の中、なぜかひとつの空席も開けずに僕の隣に座ってきた。
口には出さなかったが、え、と心の中で声が出た。
なぜ。彼のパーソナルスペースは大丈夫なのか。まさかそんな事も言えず、発車時刻になりいつも通り列車は動き出す。
いつもだらりとやり過ごしていた30分はその景色をガラリと変え、時間はあっという間に過ぎて、彼の乗換駅に到着した。右半身は、緊張でいつの間にか凝り固まっていた。
降車間際、彼と目線が合う。
すぐ上にある彼の姿を見上げると、少しイタズラっぽい顔を見せて、その後すぐにしれっとした顔でホームに吐き出されていった。
これは、何だったのだろうか。少なくとも、僕の顔は認知されているのだと今日分かってしまって、途端に恥ずかしさが顔を出した。
その日から、彼は対面には座らずに僕の隣に座るようになった。
特に何も話す事はない。ただ隣に座るだけ。その度に僕は緊張していたが、日を重ねるうちに緊張は解れ次第に慣れていき、僅かに触れる右半身も気にならなくなってきた。
しかし一体これは、何なのだろうか。「ただ毎日列車で隣に座る人」とは何か別の…いや、僕たちをラベリングする形容詞はなさそうだ。
とある朝、いつものように隣に座った彼は、頭をカクンと脱力させ、しばしの眠りに落ちていった。
毎朝こんな時間だ、疲れも眠気もあるのだろう。心の中でお疲れ様ですと呟きながらぼうっとスマホをいじっていると、列車が揺れたその時に僅かに触れるだけだったその距離がなくなり、彼の無防備な上半身の体重は僕に寄せられた。
その密着に途端「どうしよう」が頭の中を駆け巡り、同じ男同士なのに心臓は跳ねて、ただその体温を預かるばかりになった。眺めていたスマホの文字が、何も頭に入って来ない。
緊張を解すために何か気を紛らわすものはないかと頭はぐるぐると回り、何故か、かの青春ドラマの教師が教壇で語っていた「人という字は人と人が支え合って生きている」などと訳のわからない台詞が頭に浮かんだ。
そのうち、頭までコテンと乗せられて、もうパニック寸前だった。
そしてその時気がついた。
普通に隣の人が眠って寄りかかっても、僕は何も思わない。何なら少しその距離が嫌だなとまで思ってしまう。
なのに今これだけ焦っているという事は、僕が隣の彼に何かしら特別な感情を抱いているということなのだと。そして、この時間が続いたら嬉しいとさえ思っている。これは本当に困る。話したこともない人に、こんな感情を抱くなんて、正気じゃない。
ただ、だからといって押し返せるほど、僕は意志が強くはない。どうか少しでも僕の肩で休んでくださいなんて気持ちの悪いことを考えながら、その重さを受け入れた。
とは言えだ。もうすぐ彼の降りる駅だ。しかし相当疲れているのだろうか彼は全然起きない。すうすうと寝息を立てて、もうぐっすりだ。
いやかわいいとか思うな。理性、ちゃんと仕事しろ。大学生の青春ドラマの終電シーンじゃないんだぞ。
でも、どう起こすべきか。隣だと目配せができない。覗き込んだら不審者確定だ。だからと言って、体を押し返すのは忍びない。バッグであろうと、意図的に触るのも無理だ。
どうしよう。困った。こういう青春の経験値はない。有識者に問いたい、どうすべきかを。
考えに考えて、一番嫌われないで感じも悪くない無難な選択肢を選んだ。
肩に寄せられた頭に、ほんの少しだけ、自分の頭を寄せる。ほんの少しだけだ。まるで自分も寝落ちたかのように装って、コツンと頭で合図を送る。お願いします、もう死にそうなので早く起きてください。
ありがたい事に、それで彼は起きてくれた。ぴくりと意識を取り戻し頭を上げ、ふわりと体は元の位置に戻り、体温も体重も離れていく。少しだけ名残惜しいが、彼が乗り過ごすよりマシだ。
背中を背もたれから離し席を立つ時に、侘びるかのように軽く会釈をされた。僕にそれは軽く首を振る。気にしないで、という意味を持たせてにこりと笑ったら、同じものを返された。
翌日からは寝たり寝なかったりで、僕は何度か彼の枕役を担ったが、その内、最初は触れる事もなかった肩と腕のそこに、僅かな重さを感じるようになってきた。
これにはさすがにどうしたのかと動揺して、目だけで隣を覗った。すると彼は最初しれっと前を向いていたが、ひょいと僅かに顎をこちらに向けて首を傾げた。そして「わざとやってますけど?」と言うような無言の目線を返してきた。悪意でもふざけでもない、きょとん、というような顔。正直これをやられて落ちない人間はいないと思う。今の彼は何だか、懐き始めた猫のようだ。
完全に絆されて、思わず僕もそっと体を寄せた。ただ彼とは違って僕は取り繕う事はできない。唇を引き結んで、目線を、そっと床に落とした。
じわじわと熱くなる頬。彼から寄せたのだ、どうか僕のこの一歩も許してほしい。
彼はこれをただ受け入れた。
そうしてその日から、平日30分、何だか恋にも似た感覚を味わいながら、お互い少しずつ体を寄せ合って、列車の心地良い振動に揺られる日々が続いた。
無言で身を寄せ合う不思議な関係になって、夏が過ぎて、秋が過ぎて、冬も終わり、もう一度迎える春の始まり、いつもの始発列車、隣に座る彼が徐にコテンと頭を寄せてきた。
わりと強めの"コテン"。一年前のあの日と同じ――けれど、どこか違う。
どうしたのかと驚く。眠くなったのかな?とそのままにしてふと顔を上げると、キラキラと朝日が反射した車窓に、彼と僕の二人の姿が映った。
彼の目は、開かれていた。
車窓越しに、目が合った。
心臓が、ドッと鳴った。そのうちにどくんどくんと波打ち、僕の全てが彼に伝わるほどに呼吸が早まる。車窓越し、僕を見る彼の顔から目が離せない。
僕を僅かに、見上げている。肩に乗せた頭を、猫のように摺り寄せられた。
今日が一番、彼に振り回された気がする。呼吸が浅くなる。でも、その瞳に僕が今抱えているやましいとも思える気持ちを、預けてみたいと思った。
ギシギシと軋むように首を落として、その頭に自分の頭を重ねた。堂々とは正反対。自分でも笑えるぎこちなさだ。
でも、そんな事どうでも良くなってしまった。ダサいなんて知るか。もうしたいようにした。
始発列車で良かった。人がいたらこんなことできない。
重ねられた二つの頭。みんな眠る車内。誰も僕たちのことなど見てやしない。
甘い雰囲気になるかと思いきや、ふ、と笑った彼は、割と容赦なく頭を上げ、僕の顎はその頭突きを喰らった。
これはいったい何だったのだと意図を測りかねて顎をさすっていたら、彼はポケットから手のひらサイズの四角い紙を取り出した。
あれは、名刺か。
僕の前に揃えられた両手の甲の上に、彼は名刺をそっと置いた。手のひらを返してそれを掬い上げた瞬間、横を向くと、初めて真正面から顔を見つめられた。
にこりと微笑まれる。その瞬間、僕の時間だけが止まった気がした。
声を掛けたかった。でも列車は無情にも、彼の乗換駅に滑り込む。
「じゃあな」
音のない唇の動きと、小さく振られた手。
それだけで、胸が痛いほど跳ねた。
彼は、そのまま振り返らずに、ホームへと消えていった。
その日以降、彼が同じ始発列車に乗ることはなかった。もう僕の隣に座る人はいない。
きっと、異動か何かだったのだろう。それで、名前も知らなかった僕たちの関係を、名刺というかたちで繋いでくれたのかもしれない。隣に座る、という関わりの代わりに。
今夜、この手書きのメールアドレスにメッセージを送ることにした。
一年間一緒に通勤した、見ず知らずの人。どんな文章を打つのか、どんな声で話すのか、それを知るのは、きっとこれからだ。
2025-04-26