コラム② 誰もがやるべきことをしている不特定多数の一人 (2022年5月 執筆:H)

 これまでの活動を通じて、自分の名前が出る限りでしか動かない人が一定数いることに気がつきました。なかには、被害者や被害事実を自分の業績の材料にする人も、(社会活動・政治活動・研究上のもの問わず) 相当数います。

 多くの時間を費やした労働に対し、名前を出して、評価や承認を求めるのは自然なことです。とはいえ、どこまでそうしてよいかは、ことの性質にもよると思います。

 学術環境におけるハラスメントやレイシズムの問題には、現実の被害者がいます。本研究会の活動の一部として、研究以外の社会活動も行っていますので、そうした現実の被害者から、さらに利益を得るような行為は極力ひかえるべきだと思いました。

 一番良いのは、改善のために率先して動く専門職があり(①大学の専門教職員、②ジャーナリスト、③法律家、④海外にあるような教育省(文科省)の担当部門などに加えて公益団体)、プロフェッショナルとしての倫理と正当な評価のもとで従事することだと思いますが、今はそうした職業上の活動が十分ではないようです。

 そうした状況下ですと、各人が自分の職分をこなしているだけでは、残り続ける不正があります。安全な場にいる人々こそ(だけ)がそうした不正を変えられることを踏まえると、自分の分を守る人が、不正な構造を維持しているという見方もできます。

 自分の名前が出なくても、学術環境から何らかの利益を得ている人全員が少しずつ寄与するべきものがあると思います。もし川で溺れている人がいたら、誰も見ていなくても、自分の名前が人に知られなくても、助けに行くのは、自然なことです。学術環境の改善は、溺れている人の救済と比べて、喫緊・短時間/蔓延・長期的な活動という程度の違いはありますが、同様にごく自然に着手することではないでしょうか。私も、「誰もがやるべきことをしている不特定多数の一人」として、そうした当たり前の寄与をしています


[補足]参加メンバーになってくださるという方は、お名前を出すかどうかはご自由にご判断いただければと思います。名前を出すことで、自分の周りの人達と連帯していくきっかけにもなるというメリットもあります。