エッセイ

「被害者であること (victimhood)」の主観/客観性と相対性

 2023421日(文花子

 


「だれでも苦しんでいる人は、自分の苦しみを知らせたいとつとめる――他人につらく当たったり、同情をそそったりすることによって――それは、苦しみを減らすためであり、事実、そうすることによって、苦しみは減らせる。……だれにもつらく当たる権限をもたない人の場合、その苦しみは、自分の中に残って、自分を害する。」シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(田辺保訳、ちくま学芸文庫、15頁)

 

 

 「私は被害者意識が強いかも」「あの人は被害者特権を振りかざすタイプだから…」といった、「被害者/マイノリティだからこその〇〇」に、違和感を覚えることはないでしょうか。自分自身が被害を受けたり、継続的な剥奪状態にあるとき、「私だけがこんな目に遭っているのに誰も理解してくれない」とネガティブな想念捉われてしまう時もあるかもしれません。逆に、被害者から要求され続け、「なぜあの人にいつも配慮しなければいけないんだ」と怒りや負担を感じるときもあると思います。

 こうした、「被害者であること(victimhood)」が自己嫌悪や他者嫌悪などの問題を引き起こしてしまうとき、どう対処したらいいでしょうか。ケースバイケースで、唯一絶対の処方箋などありませんが、私達は何らかの指針が必要になる場面に日々出くわしますこのコラムでは、「被害者であること」の、①主観性と客観性、②相対性を確認することで、言葉の整理、そして言葉に規定される考え方の整理をしたいと思います。

①「被害者であること」を評価する際の複眼性(主観客観性


 人によって物事の見方が違うのは当たり前のことですが、「被害とはこれだ」という認識に違いがある時、とりわけ問題を引き起こしがちです(※1)。あなたが「自分は被害を受けました」と言って、周りがその通りだと認める場合は、認識の相違で揉めることはありませんが(例:被害を申立て、それが公的機関に認定された場合)、そうではないこと往々にしてあります。


※1 社会現象(問題や被害)の認識については、客観的指標をもとめる客観主義と、 それが社会的に構成されたものだと捉える社会構成主義(social constructionism)の対立がありますが、ここでは後者の立場として参照、J.K.ガーゲン『社会構成主義の理論と実践』(永田素彦・深尾誠訳、ナカニシヤ出版)

 他人から見て「この人は被害者だ」と認識していても、本人はそう認めないパターンや、逆に、本人は「酷い目に遭った!」と思っていても他人が「そんなの被害のうちに入らない」と認めないパターンがあります。こうした自認と他認が一致しないとき、誰の認識を優先すべきか・どのような手続で決めるは一概に言えません。しかし、「被害者であること」はスティグマになり得ますので、前者のパターン、つまり本人はそう見られることを望まない場合、あるいはすでに乗り越えているので被害者意識が希薄な場合、本人の認識を尊重した方がよい場合が多いと思います(ただし、被害を受けた直後「否認」という心理的防衛機制がありますので、他人が「君はもうそのこと気にしてないんでしょ」と押し付けることには要注意です。被害者に味方したいと思う人は、その人の自己認識が変化することも念頭においた方がいいでしょう)。

 後者の、他人が被害を認めないパターンは、より問題を含みます。害の深さや程度は結局本人しか感じられないことですので、他人がそれを認めないことが本人に対する不当な評価でありえます。本人に対して「そんなのは大したことはない」「もっとひどい目に遇った人も耐えて頑張っているんだ」といった、二次加害も生じがちです。また、被害者は、加害者環境に迎合的になり、他人の認識をそのまま内面化することで、自身の被害を矮小化して認識してしまい、適切な処置をせずに傷が悪化する場合もあります。


 他方で、被害者性の認定は、ケアや補償等の社会的コストの根拠になるので、すべて本人の言う通り受け入れられない場面も当然あります。本人の勘違いであることがありますし、様々な辛い経験を通じて、後天的に被害を過剰に感じる性状をもつ場合もあります。こうした場合、周りの人が、主観的被害者性をどの程度認めるかは、その人との関係・場次第です。たとえば心理療法士はクライエントの認識を否定しないのが基本ですし、家族や近い関係にある人であれば、辛い時期にある本人の全てを受容した方がいい場合もあるでしょう。他方で、大学関係者や知人程度の関係性であれば、不合理で過剰だと感じられる被害主張を、そのまま受け入れにくい時もあります。

 そこで、被害者の話を聞く立場にある人は、被害者がおかれた状況の困難さを踏まえつつも、複眼的に被害者性を捉えることが重要になってくると思います。被害者に合わせすぎると、自分自身の感覚を押し殺すことになりますが、自分に合わせすぎると、被害者の特殊事情から目を背けがちです。「被害者意識が強い人、常にどこでも被害者性を主張する人」に対しては、長期的に相手が治癒すること視野に入れ相手を完全に拒否してしまわない一方で、共感や同調をし過ぎて自分の良識が崩されないよう、距離を置くといった対応がありえます。

誰が被害者で、誰が加害者であるかは、時と場によるのであって、人によるのではない(相対性)

 

 ある場面では被害者である人が、別の場面で加害者であることはあります。「被害者が加害者になりやすい」一面もあります。というのも、被害者はマイノリティの問題提起者であるため孤立しやす、無理解を継続的に経験することによって敏感になり、攻撃的になるファクター自体はありま(※2)。また、「被害者であること」が、他人に対する非難を合理化するため、被害と自己免責が結びついて絶対正義のような考え方へ極端化すると、加害の自覚を欠きがちです。


※2 マイクロアグレッションの蓄積的反動の理解のためには、参照、デラルド・ウィン・スー 『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション――人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』マイクロアグレッション研究会訳、 2020)。また、DSM-5 (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders; アメリカ精神医学会が発行する「精神疾患の診断・統計マニュアル」第五版では、心的外傷後ストレス障害の症状として易怒性が挙げられています。

 こうしたとき、「被害者だからこれ以上傷つけたくない」「被害者を批判したら、典型的な二次加害になってしまう」という周囲の恐れもあります。しかし、被害者のために、自分が被害者になることはありません。それは結局、負の連鎖となりますので、「被害者であっても加害をしる」という認識が正当であると思います。

 以上のような、「被害者であること」の、①主観・客観の違い、②相対性を認めることは、被害事実に伴う評価の絶対視を避けてバランスをとっていく物の見方です。一方で、自分/他人の被害者性、法的・社会的に認められなくても直ちに否定されるものではないこと、他方で、他人の被害主張を鵜呑みにせず、長期的にみたとき、被害者性を問い直す可能性を開いておくことでもあります。

 さらには、(a)被害者本人の状況を想像する、(b)他者評価にあたって中長的な視野をもつ、(c)自分の感覚捨てることはない、(d)被害者も加害しうるといった認識は、社会の中でどうしようもなく生じ、継続している理不尽に対し、被害者にも加害者にもなりうる私達が対処するときに取るべき複数の観点でもあります。


 「加害者が悪い・被害者だから許すべき」といった二分思考は、私達の正義判断を単純化し、安定はさせます。しかし、冒頭に挙げたS. ヴェイユの言葉は正・不正で割り切ることができない理不尽が害となって、被害者から転嫁・拡散されていく現実を思い出させてくれます。そこで私達に求められるのは、被害者に対する一面的非難でなく、「誰かひとりの中に害を残し続ける」とはどういうことかを、想像することではないでしょうか。