エッセイ: 誰が大学の汚れ仕事を今しているのか?/するべきか?――M.ウォルツァーの議論から 

Michael Walzer, Spheres of Justice: A Defense of Pluralism and Equality, Basic Books, 1983.『正義の領分』(山口晃訳、而立社、1999年)から引用。日本語訳は一部邦訳書から変えています。


●「辛い仕事 hard work」とは何か

 世の中には、「やりたくないけれど、誰かがやらなくてはいけない辛い仕事」があります。病人や高齢者の介護、ごみ清掃や屠殺業、危険な炭鉱労働などが典型的な例です。政治哲学者のM.ウォルツァーは、これらを「辛い仕事 hard work」(一部は「汚れ仕事 dirty work」[p.174 (268頁)])と呼び、以下の特徴をあげています(p.165[255頁])。

  ・人々が望まない仕事

  ・仕事の結果として別の負の影響がある

  ・社会的に必要

  ・やる以外に代替選択肢がない

これら特徴は、大学で生じているハラスメントやレイシズムという、嫌悪を催す加害者の具体的言動を詳細に聞き取り、それに対処せねばならない仕事にも、一部条件を付けた上で当てはまります。

●辛い仕事の標準的解決――「地位の低い人々に配分する」

 辛い仕事は誰が引き受けているでしょうか。「地位の低い人々に押し付けることで解決」が当たり前conventionalになってしまっている、とウォルツァーは観察しています。そのような仕事配分がなされているところでは、「ネガティブな財はネガティブな人々に見合っており、その者達に押し付けるという単純な等式化」(p.165[256頁])が成り立っています。

 では、「地位の低い人々」とは誰でしょうか。そのコミュニティ外の「異邦人」、典型的には外国人労働者です。コミュニティ外に押し付けない場合は、典型的にはコミュニティ内の「異邦人」である女性です。 


    女性は[...]男たちが軽蔑する仕事を行い、男たちをさらに報酬のいい仕事に解放するのみならず、市民的行動や政治へと解き放つ。 (....doing the work that men disdained and freeing the men not only for more rewarding economic activities but also for citizenship and politics)(pp.165-166[256頁])


この状況は、自分の博論に本来時間を割くべき女性院生が仲間の被害を無視できず、あるいは性的問題が極めて苦手な女性であっても女性という理由でハラスメント相談を任され、仕方なしに「男性が多数派の大学内で主に男性教員が起こしている問題」の後始末を負担することによって、他の大学関係者を、もっとやりがいのある研究・論文執筆、教育、政治、「報酬のいい仕事」へと解放している現状にも当てはまります。

そこで解放された側の人々(大学関係者)の、汚れ仕事をする仲間への態度はどのようなものでしょうか。ウォルツァーは、「目を逸らす」「距離を置く」ことだと言います(p.176[271頁])。


●それでいいのか――「平等な社会」だったら

 以上の不当な配分・態度は、「女性が女性を無償で助けて当然(たとえ原因が男性や男性支配的組織でも)」という、暗黙の、往々にして無意識の文化が浸透している不平等な社会で見られます。しかし、ウォルツァーが指摘する通り、平等の者達からなる社会においては、「『誰が汚れた仕事をするのか』という問いは特別な力を持っている」はずです(p.174[269頁])。以上の議論が合理的に理解可能ならば、「誰が辛い仕事をするべきか?」という問いは、押し付けている側に不当な配分を見直すよう、押し付けられている側には不当な配分を拒否するよう、促しています。

●考えるヒント――「尊重される正当な仕事」を創る

 今まで偏った負担を引き受けていた「地位の低い人々」である「学内地位の低い女性たち」が、もう辛い仕事をやらないとなると、必要な仕事――いなくならないハラスメント教員を規制し、安全な学術環境を維持し、被害者を救済すること――は、誰がやるべきでしょうか?

 ウォルツァーの議論からは、「正当な仕事として尊重する」という示唆が得られます。つまり、汚れた仕事は、それが正当な役割の一部で、報酬がある時、より容易に耐えられ、また、人々の尊重を受けるものです(p.180[280頁])。たとえば、要介護の方の排泄介助の仕事は辛いものだと私達は知っていますが、看護師の方はプロフェッショナルとして、日々処理しています。その姿を私達は見て、「自分にとってしんどいことを忍耐強く効率的に行っている」と、自然な尊敬の思いを抱きます。そして、専門職として、きちんとした報酬を得るべき仕事をしているのだと認識しています。

 同様に、大学で生じる性的な加害行為の対処は辛いものですが、そうしたセクハラへの対応をする専門職が給与を支払われていれば、私達は、彼ら・彼女達の仕事を尊敬し、また、専門職としてきちんとした対価を得て、必要仕事をしてくれている必要な存在として、平等な関係でいられす。そうした仕事は、研究者が苦労しながらも実験によって成果を出すこと、教員が一定のストレスを抱えながらも学生を指導することと、尊重される仕事である点では、同等です。

 ですから、私達に必要なのは、大学がハラスメント対応をする専門的ポジション・制度を作るために予算を割き、実行に移すことです。現状、ほんの一部の大学で、ハラスメント専門の教員・職員を雇用しています。しかし、ほとんどの大学はそのような体制をとっておらず、到底対応が十分とは言えない状況です。その理想状況が実現していないのだから――もし以上のウォルツァーの議論に沿った推論が正しければ――現実世界私達は構成員として辛い仕事を公平に分担するか、早期に専門職雇用が実現するよう、できることをするべきでしょう。もし、今後も女性が「辛い仕事」を引き受けるとしたら、あくまで男性と同じ(※)互いに尊重し合える平等な構成員として、同じ分だけのはずです。

(2022年5月19日 K執筆)

※ 本エッセイでは、「仕事を正しく割り振るdistribution」という見方が中心になっていますが、「これまで負担・被害を被ってきた人は、負担・被害を被っていない人のように割り振られない」という、埋め合わせ compensationの見方もあります。埋め合わせ的見方からは、過去害を被ってきた人が将来の負担を負わないという結論導くこと可能で。また、本エッセイでは構造の問題の焦点を合わせて、男性と女性一般論を前提としていますが、個々のケースに焦点を合わせる場合、男性が被害を受ける一方で女性が「辛い仕事」をしないことも当然あります。そのような場合にも、この議論は性別を捨象して当てはまります。

謝辞――本エッセイに関して、T氏からコメントを頂きました。