月の海ただしろしろと鯖火燃ゆ
忘れゐし罪に怯える盆提灯
前天草俳壇主宰・平野卍先生から句集『戸島』をいただいたのはもう随分昔のような気がする。まさに光陰矢の如し。先生は平成二十六年九月、九十八歳の天寿を全うされた。筆者は生前、何回か励ましのお言葉をいただいたが、お目にかかる機会はなかった。今はただ、全ての頁から「天草」が匂い立つ、懐かしい句集によって先生を偲ぶばかりである。
これまでに数回天草を訪れたことがある。最初の訪問時には、鬼塚金剛・現天草俳壇主宰が天草全島を案内してくださった。その後も、金剛主宰の援農、御母堂の法事などで訪れたし、妻と長崎・雲仙・島原・天草・熊本・阿蘇をドライブしたこともある。いずれも遠い昔のことである。
島原・天草から先ず思い浮かべることは、切支丹と島原の乱のことであろう。天草が、異国情緒・切支丹文化の地として一般に知られるようになったのは、明治四十年、与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、平野万里、吉井勇の五人がこの地を旅し著した『五足の靴』、北原白秋詩集『邪宗門』、木下杢太郎戯曲『南蛮寺門前』などによると言われる。「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法」(『邪宗門』)。
『戸島』の頁を捲っていくと、切支丹に関連した数句があることに気付いた。先生は仏教の僧侶だが、宗教者として切支丹農民にも深い思いをお持ちだったのだろう。
原城址
炎天の十字架真白し原城址
原城はいうまでもなく島原の乱の主戦場。元は有馬家の居城であった日之江城の支城である。周囲4キロ、海と低湿地に囲まれた天然の要塞で、日暮城とも呼ばれた美しい城だった。その後、徳川幕府の切支丹禁制が始まり、切支丹大名有馬晴信は岡本大八事件により甲斐に流され刑死、嫡子直純は一転して切支丹を弾圧したが、慶長一九年(一六一四)日向へ転封し、信徒がこの地に残される。二年後大和五条から松倉重政が入部し森岳城(島原城)を築城し、寛永七年(一六三○)嫡子勝家が相続した。島原城の築城に伴い、一国一城令により原城は廃城となった。
寛永一四年、松倉重政・勝家二代にわたる過酷な年貢の取り立てと切支丹弾圧に生きる術を失った島原の農民・切支丹・有馬家牢人たちが蜂起する。天草からは、関ヶ原に敗れ領地を没収された切支丹大名小西行長に代わって天草を治めていた唐津藩藩主・寺澤堅高(富岡城)の施策に抗する人達が島原勢に合流する。この一揆の性格・経過については膨大な資料と、優れた文学作品があるのでここでは触れないが、一揆勢の善戦虚しく最後は知恵伊豆こと松平信綱率いる幕府軍の猛攻の前に老若男女三万人弱(島原領二万五千、天草領三千弱)が殺されたといわれる。平成四年から実施された原城跡の発掘調査により、手製の十字架・メダルなど多数の遺品が発掘され、新たな知見も集積され、死者数や、生き残った人の数については異説もある。
一時は攻略に手を焼いた幕府の要請により、キリスト教国(新教)オランダ船が海から砲撃を行い、塹壕のなかの急造小屋に身を寄せていた切支丹農民たちを血で染めた。オランダはその後南蛮貿易の利益を独占することになる。いつの世も国際政治はご都合主義で非情なものだ。
筆者が原城址を訪れた当時は、城跡と言うよりも畑もある長閑な丘陵の印象だった。三十メートルほどの断崖が海に落ちる高台の本丸跡には、白い台座の上の大きな十字架が強い夏の日を浴びて輝いていた。右手で天を指す凜々しい四郎像の側らには、西有馬郡の民家の石垣に埋もれていたといわれる苔むした天草四郎時貞の墓石がある。ロザリオが掛けられた傍の案内板には、なぜか、南無妙法連…と墨で書かれていた。ハライソ(天国)を信じ、キリスト教国(旧教)ポルトガル船からの援護を希求しながら倒れていった切支丹農民の悲しみが、夏日に焼かれたこの丘全体を真っ白にしている。原城跡は昭和一三年、国指定史蹟となったが、因みに、ローマ・カトリック教会は、彼らを「殉教者」とはしていない。
「いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、百年を刹那に縮め、血の磔背にし死すとも惜しからじ」(北原白秋『邪宗門』)。
切支丹の墓碑
海は紺ザビエルの墓夏兆す
漆黒に耶蘇墓そびえ秋夕焼
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、マラッカで入信した日本人ヤジロウの案内で天文一八年(一五四九)鹿児島に上陸した。ここから日本におけるキリスト教布教と殉教の歴史が始まる。かつて筆者は、マラッカ海峡を見渡す高台のセント・ポール教会を訪れたことがある。筆者の洗礼名はこの聖人に因むからだ。この教会には、日本布教後、中国布教を目前にして熱病に倒れたザビエルの聖骸が、インドのゴアに移送される前に安置されていた。列強の植民地争奪戦の中で放置され、壁だけ残った教会堂の前には、大きなザビエル像が両手を広げ海峡を見つめていた。
島原半島を南に下ると切支丹の墓碑が点在する。現在百余の墓碑が確認されているそうだが、いくつかは、島原の乱蜂起の中心地であった布津や有家の切支丹史跡公園に集められている。長方体の墓石を地面に並べただけの公園は、農地の中にひっそりとあるので、その傍らに十字架がなければ通り過ぎてしまうほど質素だ。天草本渡市の殉教公園には宗徒軍・唐津軍双方の戦死者の遺骨を納めた千人塚など立派な墓地が整備されているが、島原半島の鄙びたな墓碑はさらに感慨深い。
墓碑は地元の安山岩を長方体に切り出したもので、背面に花十字、表面にポルトガル式綴字のローマ字で、名前と没年を刻んだ「類子慶長十二年三月二十四日」の墓碑など貴重なものもある。「類子」は「ルイス」だろうか。これらは、まだ切支丹文化が栄え、信仰の導きのままに生きられた時代のものであろう。秋の夕焼けを背景にした逆光の墓碑は、後の悲劇を予感させながら、漆黒に佇んでいた。
南九州市の川辺町にはザビエルの墓と伝えられる墓石があり、「天外傳和尚」と刻まれているそうだ。
談合島と天草四郎
鯉のぼり談合島を覗きみる
有馬セミナリヨ(神学校)が建てられ、四人の大正遣欧少年使節が活版印刷を携えて帰国した南蛮文化の港・島原半島の口之津港からフェリーに乗って天草に渡るとき、船のガイドが沖合に浮かぶ小さい島を指し、「島原の乱のとき島原側と天草側の首謀者が蜂起の談合をしたのでこの名前があります」と案内していた。帰京後、石牟礼道子『アニマの島』の頁を捲ってみると、その島に両者が集まり、まだ十代半ばだったジェロニモ益田四郎を総大将に決定する場面がある。天草切支丹館のパンフにも「天草四郎時貞命名の島」とされている。談合島の本名は湯島といい、原城と天草・大矢野島の中間に浮かぶ周囲一里の小さな島である。大矢野島には、小西行長の牢人が隠れ切支丹として暮らし、後に島原の乱の天草側の中心となるが、四郎の父益田甚兵衛もこの一人であった。母は洗礼名マルタ。四郎は容姿端麗、神童の評判高い子であったが、司馬遼太郎は「すでに神父がいなくなって久しいこの地方で、五人の隠れ切支丹は、非正規ながらも神父を一人立てる必要があると思ったのではないか」(『街道をゆく』十七)と述べている。湯島は太古より社を祀る聖なる島であった(飯島和一『出星前夜』)から、この舞台としては相応しい島であったろう。
その後、天草一帯では農民たちが次々に切支丹に立ち返り、再受洗し、蜂起の一方の中核になっていくのである。大矢野島の丘には、鯉幟がこの小さな島を覗きこむように高く泳いでいる。蜂起の成就を祈っているのだろうか。あるいは逆に、幕府側の監視の目だったのか。
隠れ切支丹
麦秋や隠れ念仏折檻図
隠れ切支丹の「おらしょ」のCDを聴いたことがある。オラショは祈りを意味する切支丹用語だが、低音の男声が海鳴りのように重なりながら迫ってくる。聞き取れる言葉はサンタマリアだけでその他の意味は全くわからないが、閉めきった隠れ屋の中で、厳しい取締りに耐え、必死で唱えている祈りの声。島原藩の弾圧の酷さは想像するのもおぞましいものだった。平野先生は折檻図を見たとき低くうめくようなオラショを心の耳で聞いただろうか。ふと目をあげると黄金色に輝く麦畑がどこまでも続き天国に届いている。隠れ切支丹の末裔だろうか、農夫が静かに農作業をしている。こんな美しい大地の上で、なぜ人はあんなにも残酷になれたのだろうか。
最後に不思議な句を見つけた。隠れなし転び七人秋桜 この転び七人とは誰なのだろう。コスモスがゆったりと揺れている荒野の中、転んでしまった七人にはもう帰る場所もないのか。逆にコスモスのように、風に逆らわず揺れながら生き永らえていくのだろうか。堀田善衛は『海鳴りの底から』で、原城の中から幕府軍に内通し、そのため生き残った陣中旗の作者・西洋絵師山田右衛門作を描いた。評論家・平野謙は「もし三万七千人という厖大な人数のなかに、ただ一人俘虜となった山田右衛門作という背教者がいなかったならば、おそらく筆者はこの長編を書こうと思いたたなかったのではないか」と評した。右衛門作のその後については様々な説があるようだ。
かつては右衛門作がただ一人の生き残りとされた記述が多かったが、原城の決戦を前に、かなりの人々が密かに城を離れて行ったという別の物語もある。昔、ポケット一杯に入れた石を裏道に捨てながら落人となり生き永らえた者には、心に刺さる物語ではある。
参考文献
堀田善衛『海鳴りの底から』(新日本文学全集30、堀田善衛集)集英社
石牟礼道子『アニマの島』筑摩書房
飯島和一『出星前夜』小学館
五人づれ著『五足の靴』岩波文庫
司馬遼太郎『島原・天草の諸道』(街道をゆく17)朝日文庫
森禮子『キリシタン史の謎を歩く』教文館