読書の秋ということで、前号に続いて「人生の店仕舞い」の時期や趣に近いとされている句をめぐって、また妄想をはたらかせてみると、
春を病み松の根つ子も見あきたり(西東三鬼)
これは、有名な「水枕ガバリと寒い海がある」(1936年発表)によって、「私は、私なりに、俳句の眼をひらいた」(「俳愚伝」)と宣言した作者(1900~1962年)の最期の一句(没年作)といわれているもの。32歳の時に作句を始めた作者は小さい頃から病魔に取りつかれ、大患に罹った最中に「暗い死」を見て俳句開眼すると、新興俳句の諸俳誌で斬新奇抜な作風をもって精力的に活躍したが、やがてその「戦争俳句」が治安維持法に抵触し、以後五年あまり沈黙。終戦後、「私の俳句は、戦前のものとはちがっていた。新しい俳句は、静かな死の影をともなっていた」と述べて、「死が近し端より端へ枯野汽車」と詠ったが、戦前戦後での作風の違いはともあれ、「眼をつぶりさえすればいつでもありありと現出した」「死の淵を覗き見る」習性は最期の句まで変わらなかったように思える。自ら顧みて「わが一生は阿呆の連続」(「神戸」)と語った「性格の中の阿呆性」という宿命の根から解放されることを願っていたのかもしれない。
高熱の鶴青空に漂えり(日野草城)
作者(1901~1956年)は新興俳句運動の旗手として、「けふよりの妻と泊るや宵の春」から「うしなひしものをおもへり花ぐもり」まで、新婚初夜から曙までをフィクション仕立てにした、いわゆる「ミヤコホテル」十句(1934年)を発表して物議をかもし「ホトトギス」から除名されたが、戦後死の前年に高浜虚子に許されて同誌へ復帰したらしい。戦前はエロス性の作風でセンセーションを巻き起こした詩人も、戦後は長い闘病生活の中で日常の悲喜に句材を求めたようだが、かつての自由奔放の翼を失った身を病床に横たえながら、目に染み入るような蒼穹の美に安心立命を得ようとしていたのかもしれない。
何処やらに鶴(たず)の声聞く霞かな(井上井月)
芭蕉を崇敬した、放浪漂白の詩人として知られている作者(1822~1887年)が詠ったこの鶴のほうはなにやら自由奔放な感じがする。「北越魚人」と号しているので生まれは新潟あたりだろうから、あるいは遠い記憶の中に古典に描かれたその姿形が刻み込まれていたのかもしれない。「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」(山部赤人)。あるいは、乞食生活同然のわが半生を受け入れてくれた信州伊那谷住民に対する謝辞として、「刈りかけし田面の鶴や里の秋」(芭蕉)の記憶を新たにしたものかもしれない。