俳画セッション 子規以前の句
うかうかと生きてしも夜や蟋蟀 二柳
二柳は江戸中期の俳人で、八十歳の長寿を保った人である。
蟋蟀と書いてきりぎりすと読む。きりぎりすはこおろぎの古名で、秋の季語だがこの句の季語は「しも夜」。季重なりなどと早合点してはいけない。蟋蟀も自分もついうかうかと長生きをしてしまったなあ。もう霜の降る季節になってしまったよと自嘲する作者なのだ。蟋蟀は鳴き続け、自分は俳諧にうつつを抜かし、気が付いたら寒い冬。しかしこれでめげる様な二柳ではない。だったら春まで、夏が来るまでお互い生き抜こうと開き直ったのかもしれない。世の常識人よ笑わば笑え、俺は俺の道を行き、百までも生きてやろう、ましてこうならないよう周囲に気を配り、勤勉に生きなさいと教訓めいたことを言う気などさらさら無いのだ。俳諧は人生訓などとは無縁なもの。「うかうか」に騙されてはいけないのだ。翁の面のように底知れぬ微笑を湛えた生き方こそ俳人の生き方なのだ。
(鑑賞 遠藤酔魚 / 絵 森下山菜)
俳画セッション 子規以後の句
白き巨船きたれり春も遠からず 大野林火
春は実に待ち遠しいものだ。
季語にも、「春待つ」「春隣」「春近し」「春まぢか」「春を急ぐ」「春遠からじ」いろいろと用意されている。この「春遠からじ」は、春から一番遠い印象があるね。まだまだ寒い冬の最中である。
作者の大野林火は横浜の人。そういうまだまだ寒い時期に、横浜の港に真っ白な巨船が入ってきた。何万トンもある外国の豪華客船である。世界中を巡っていち早く横浜に春を運んで来たのに違いない。そういえば空も海も明るくなって、いくぶん春の気配がしたものである。
この句を読むと、暖かいところに旅に出たくなるね。暗い北国に住んだゲーテも、陽光の明るいイタリアに憧れた。大好きな彼の「イタリア紀行」を取り出す。積み上げた一切をかなぐり捨ててアルプスを越えるゲーテ。彼の弾んだ気持ちに触れて、さらに旅情が高まる。体が動かなくなる前に、南イタリアかギリシャ、豪華客船じゃなくて格安ツァーででも行ってみようじゃないか。
横浜は港の見える丘公園の向かいのフランス山にこの林火の句碑があるそうだ。海外旅行の前にとりあえず吟行かな。
ところでこの絵の背景の雲、意外に気付いてもらえないのだけど。
(鑑賞・絵 森下山菜)