俳画セッション 子規以前の句
やはらかに人分け行や勝ち角力 高井几董
几董は江戸中期の俳人で髙井氏。寛保元年(一七四一)京都生まれで蕪村門の中心的俳人。
この句のポイントは「やはらかに」の上五にある。
相撲に勝った力士が観客でごった返す通路を悠々と引き上げてゆく。現代の大相撲では警備が厳しく、引き上げていく通路には関係者以外は立ち入れないが、おおらかな当時の相撲見物の雰囲気が想像できる。勝った力士の自信と誇りに満ちた姿を「やはらかに」の言葉で表現したのである。
力士の紅潮した肌や息遣いまで見えてくる。さらに唇をかみしめて引き上げる敗者までもが見えてくる。この力士は番付で言うと三役や横綱であろう。堂々とした体躯でありながら肉体も「やはらかい」のである。
几董の句風は対象の本質をその所作からわかりやすく表現することであり、現代の我々にも学ぶべき点は多い。
さてこの絵、発想を変えて金太郎ときた。相撲で言うと上手ひねりかうっちゃりか。これも俳句鑑賞の面白さなのだ。熊と相撲を取った金太郎は熊を投げ飛ばした後どんなポーズをとったのだろうか?
伝説では金太郎は成長して坂田金時になり、足柄峠で源頼光と出会いその力を認められて家来になるのだが、実在の人物なのか架空の物語なのかはっきりしていないらしい。
(鑑賞 遠藤酔魚/絵 森下山菜)
俳画セッッション 子規以後の句
秋の雲立志伝みな家を捨つ 上田五千石
幕末の勤皇僧、釈月性の詩、「男児志を立てて郷関を出ず 学若し成る無くんば復還らず・・」を思い出した。
希望に満ちた門出の文句は悲壮感も漂って、男子のこころを大いにくすぐる。この青春性は近代、とくに明治初期や戦後の時代に盛んにもてはやされとか。今の若者にはピンとこないかもしれない。
家から自立するためのじめじめした確執はあったにせよ、このダンディズム、鑑賞子は大いに好みである。
明治も早い時期、正岡子規はかぞえで十七歳、四国松山を出て上京する。司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で、「――万里の波濤をこえ、東都へゆく。と、子規は船中で述懐している。後年、ひとびとが日本からアメリカへゆくよりも距離感は大きかったであろう」。「その上京の志は、のちの文学者子規からは逆算できない。どうやら文学青年の上京といったものではなく、この少年は天下でもとりにゆくようなきもちでいた。明治初年の気風であろう。」と書いている。
とはいえ、家は捨ててもふるさとへの甘酸っぱい思いは残る。あの啄木は、「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きに行く」と。そして家を捨てた蕪村も、「故郷春深し行々て又行々」と詠う。
さて掲句は、「春の雲」ではなく「秋の雲」である。
俳人の青春への悔恨も含んだ感傷を詠み込んだ句であろう。こころに響く秀句。絵は、子規でなく龍馬。
(絵・鑑賞 森下山菜)