幾たびも雪の深さを尋ねけり
椎の実を拾ひに来るや隣の子
東京上野駅の隣に鶯谷という粋な名前の駅がある。改札口を一歩出るとそこは東京でも有数な「愛」のホテル街になっていて、一人では歩きにくい所だが、邪念を払って十分ほど行くと子規庵がある。かつては根岸の里と呼ばれ、上野台地の崖下の地を意味し、加賀屋敷の黒板塀がつづく閑静な住宅地として知られ、文人墨客が侘び住まいする土地だったはずだが、いつからこんなラブな街になったのだろうか。子規庵を訪ねてきた同年配の方が「子規も驚くだろうな」と呟いていたが、好奇心旺盛な子規のことだから結構面白がったかも知れない。因みに根岸子規会は「根岸前田邸近傍図」を作成し、当時の俤を伝えている。前田邸を挟んで、碧梧桐の家も示されていた。この町の変遷については研究文献が多数あるのでそちらをお読み下さい。
病床六尺
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない」(『病床六尺』)。病に倒れてから、ここは子規にとっての全宇宙であった。子規は明治二十五年二月から三十五年九月十九日、絶筆三句を残し三十四歳十一ヶ月で他界するまで、この地で母八重、妹律に守られ病苦に苛まれながら、俳句と短歌の革新のために命を燃やした。
当時の建物は、昭和二十年四月十四日の空襲で土蔵を残し焼失したが、寒川鼠骨らによって、二十五年六月に再建され、二十七年東京都文化史蹟に指定された。碧梧桐の絵によると、総坪数五十五坪の敷地に二十四坪の木造平屋だったようだ。 庭には鼠骨翁の 三段に雲南北す今朝の秋 の句碑が建つ。
鶯横町
子規は根岸の地に根を下ろした。「居士が根岸に居を転ずるようになったのは陸羯南翁の関係である。(略)はじめて居士の入った家は、現在の子規庵ではない。(略)羯南翁の門前にあった家だというから、万事その配慮を得たものであろう(柴田宵曲『評伝正岡子規』岩波文庫)。子規は羯南の主宰する日本新聞社に生涯勤めることになる。この転居について子規は河東可全・碧梧桐宛の葉書に「小生表記の番地へ転寓、処は名高き鶯横町。鶯のとなりに細きいほり哉 実の処往復喧しく(レールより一町ばかり)ために脳痛をまし候。鶯の遠のいてなく汽笛の音(略)高浜氏へも御報奉願候」(前記書)としたためた。レールとは近くを通る現在のJRのことである。また「我が草庵の門前は鶯横町といふて名前こそやさしいが、随分険悪な小路で、冬から春へかけては泥濘高下駄を没するほど」(『病床六尺』)で、「鶯横町はくねり曲がりて殊に分かりにくき処なるに尋ね迷ひて空しく帰る俗客もあるべしかし」(『墨汁一滴』)とあるから、子規にとっては必ずしも快適な環境ではなかったようだ。現在も細い道が迷路のように走っていることはかわらない。この迷路を通って漱石等が庵を訪れて来た経路図が作られている。
「根岸八十二番地子規草庵のあった所は、旧加州藩の下屋敷(筆者注:加賀藩前田家の御家人長屋)、古い黒板塀を廻らした広い廓内に、別墅の建物を中心に、多少有名であった庭園さへ築造されて、(略)其の一つを居士が借り住んで居ったのである。人通りの少ない、薄暗いような淋しい町で、鶯横町の名に背かず、笹の垣根もあれば、家々の庭木も生い茂って、森の中の町とでも言ひたいやうな、其癖真の田舎でもなく、さりとて都会の色合ひも薄く、静かな中に何となく一種の色気を持って居る所の所謂市隠の住むべき里町であった(復本一郎『俳句の発見』NHK出版、寒川鼠骨「根岸物語」引用)。
我に二十坪の小園あり
ブロック塀に囲まれた門を潜り、玄関を開けると左に妹律が使っていた小さな部屋があり受付がある。右は母堂の部屋と台所で、現在は常設展示室になっている。展示室には明治三十二年の縁側に座る子規の写真や母堂の写真、日本新聞社員だった二十七歳の精悍な子規や日露戦争従軍記者時代の写真、子規庵句会写生図などが展示されていた。
奥に進むと、庭に面して床の間のある八畳と、病床であり終焉の間でもあった六畳の部屋が並び、大きな硝子戸のある縁側の外は糸瓜の棚や草木の茂った庭が見渡せる。「我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控えたり」(小園の記)。「この頃まで病室の南側は障子で、庭を見るにしても、上野の山を望むにしても、一々障子をあけてもらわなければならなかったが、(明治三十二年)十二月十日に至り、ここにガラス障子を取付けることになって、病床生活に一大変化を生じた」(前記『評伝正岡子規』)。六畳の間には、伸ばせなくなった左足を入れるため上板を四角くくり抜いた愛用の座机が置かれている。
縁側から庭に出る。「この簾を透かして隣の羯翁のうちの竹藪がそよいで居る。花菖蒲及び蠅取撫子、美女桜、ロベリア、松葉菊及び樺色の草花(碧梧桐がもってきた盆栽)、黄百合、美人草、銭葵、薔薇、そのほか庭にある樹は椎、樫、松、梅、ゆすら梅、茶など」(『病床六尺』)と子規は六月の夕方の庭を描いている。筆者が訪ねた晩秋には大きな糸瓜が軒先いっぱいに垂れていた。庭の一角に、昭和二年鼠骨の提案で建てられた土蔵(子規文庫)が空襲に耐え残っている。ここには子規の遺愛の書物・遺品・遺墨などが納められていたそうだ。その側らには絶筆三句碑文が建っている。この碑は子規没後百年を記念して平成十三年九月十九日に建立された。
をとゝひのへちまの水も取らざりき
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
「九月十八日朝、子規は最後の俳句となった三句を作った。(略)この句で、子規は自分を死者(仏)に見立てている。厳粛な辞世であるにも拘らず、この句は俳諧味を帯びている。仏が痰をつまらせるという、いかにもそぐわない諧謔である。子規は、三行に分けた句の一行を書くごとに間を置き、書き終えると投げるように筆を捨てた。間を置いて次の句を書き、やはり投げ捨てるように筆を置いた。そして最後の句を書き、いかにも疲れ切ったように筆を投げ捨てた。律は画板を障子にもたせかけ、皆に子規の三句が読めるようにした」(ドナルド・キーン『正岡子規』新潮社)。翌九月十九日未明死去。
中村不折と書道博物館
子規庵の向かい側は、書道博物館である。東京都指定史蹟の本館には中村不折記念館が併設され、中国を中心とした漢字の歴史を一望できる石碑・刻石など書道コレクションが展示されている。書家であり、『我が輩は猫である』『野菊の墓』などの挿絵画家でもある不折と子規の出会いは、「余の始めて不折君と相見しは明治二十七年三月頃の事にして、その場所は神田淡路町小日本新聞社の楼上にてありき」「後来余の意見も趣味も君の教示によりて幾多の変遷えお来たし、君の生涯もまたこの時以後、前日と異なる経路とりしを思へばこの会合は無趣味なるが如くにしてその実前後の大関鍵たりしなり」(墨汁一滴)と子規は記している。このとき「小日本」の編集主任だった子規は挿絵画家を探していた。子規が唱えた「写生文」は不折から学んだ西欧画論の写生の影響が大きいと言われているが、子規の『草花帖』などの絵は不折から贈られた絵具によって描かれそうだ。
「根岸の里へようこそ」と書かれたプレートが続く商店街の店先には、子規庵保存会の手により子規の句の短冊が貼られている。「笹の雪横町に美しき氷店出来の事」(病床六尺)と記された老舗豆腐料理店笹の雪前には 水無月や根岸涼しき篠の雪 舜(朝顔)に朝商ひす篠の雪 の直筆の句碑がある。
子規庵の近くには昭和の爆笑王、林家三平師匠の「ねぎし三平堂」があり、少し足を延ばして三ノ輪には碧梧桐の墓(梅林寺)や樋口一葉記念館もある。さらに、平成十八年上野公園開園百三十周年を記念し、公園内の野球場で 春風やまりを投げたき草の原 の句碑の除幕式が行われ、「正岡子規記念球場」の愛称が披露された。
帰り道、豆腐の湯気を浴びながら、子規の短い一生に思いを馳せた。小西甚一筑波大学名誉教授は「世人は、ともすれば、子規の俳句革新を写実精神の振興のみから論じたがる。しかし、わたしは、それよりも、かれが『俳句は文藝なり』と提唱したことを、ずっと重視したい」(小西甚一『俳句の世界』講談社学術文庫)と記している。
子規庵の庭の片隅に記念品販売所があり、子規の著作が置かれている。筆者は笹乃雪豆腐使用と銘打った「子規山脈」という和菓子をお土産にした。パッケージには、子規を頂点とする俳人・歌人・小説家などの山脈が連なっていた。
参考文献
ちくま日本文学『正岡子規』筑摩書房
正岡子規『病床六尺』『墨汁一滴』岩波書店
柴田宵曲『評伝正岡子規』岩波文庫
河東碧梧桐『子規を語る』岩波文庫
復本一郎『俳句の発見 正岡子規とその時代』NHK出版
坪内稔典『正岡子規』岩波新書
ドナルド・キーン『正岡子規』新潮社
小西甚一『俳句の世界』講談社学術文庫
今泉恂之介『子規は何を葬ったのか』新潮選書