寒雨時近くの図書館に出かけたら辞世の句の類いが載ったものがあったので、興味本位にめくってややまた妄想をはたらかせてみると、
夢返せ烏の覚ます霧の月(上島鬼貫)
これは作者没年の1738年(78歳)の句とされている。被害者の遺族が加害者に向かって「子供を返せ」とかあるいは「沖縄を返せ」とかの叫び声からすれば、「返せ」の言葉は只事ではない。いったいどんな夢だったのか。作者の先祖は奥州平泉の藤原家の武士のようなので「藤原の栄華の夢を返せ」の意という威勢のいい解釈もあるようだが、十代の頃から親しんでいたといわれる俳諧の士が500年以上前の栄華の幻を今はの際の高齢に詠むというのはいかがなものか。ここは、病との闘いの苦痛からやっと解放され、何やら気持ちのいい極楽の夢でもみていて今度は成仏できると思っていたら、突如カラスの声で叩き起こされた生理的心理的不快感を訴えているとみるのが自然ではないだろうか。こう何羽も鳴かれてはたまらない。月もなにやら恨めしい。それが句の「まこと」と想像するのだが。
夢比較ではないが、俳聖の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」は、西行ら「古人」への思いしきりに、また旅して俳諧道を極めたいという現世への執心か。もっとも、最後の句は前句より後の死の三日前に詠んだ(1695年10月9日)、以下の句と言われている。
清滝や波に散りこむ青松葉(松尾芭蕉)
滝行には病平癒の願いもあるようだが、十月の枯れ葉ならぬ青々とした松にわが身を託して永遠の生命水と一体化してよみがえる、その詩魂詩想によって死を克服しようとする気魄がほとばしったものか。
芭蕉の同時代人で1693三年に52歳で亡くなった戯作者井原西鶴は時に一日千とも万ともの作句をしたと伝えられているが、その最後の句とされているのは「浮世の月見過ごしにけり末二年」。自分は「人間五十年」だと思っていたのに、それより二年余計に長生きし欲の人間界を観察してきたがもう結構と、潔く達観したものか。
春の山屍を埋めて空しかり(高浜虚子)
1959年3月30日、死の十日ほど前の作と言われており、季節からして西行の「願わくば花の下にて春死なん~~」の歌が思い浮かぶが、春爛漫に骸とは色即是空、花鳥諷詠の精髄の哲学を詠った気がしないでもない。