避暑のため近くの図書館に出かけたら、以下のような辞世の句らしきものがまた目に止まったので、懲りずにまた妄想をはたらかせてみると、
たらいからたらいへうつるちんぷんかん(小林一茶)
露の世は露の世ながらさりながら(同)、
花の陰寝まじ未来が恐しき(同)
何やらぺらぺらめくっていたら、作者一茶(1763~1828年)の辞世の句は上記の三つもあるらしい、あるいはそのほかにもあるのかもしれない。一般に「辞世の句」といっても、本人が生前に辞世の句と称して何句も詠んだものかあるいは本人自体には皆目そんな意識もなかったのか、だったらと同僚や弟子や好事家など後世の人間が気をきかしてそれなりの理由や思い込みから決めつけたものか、事情はさまざま推測できるだろうから、「辞世の句」とか「最後の句」がいろいろあっても当然かもしれない。
上記の句のそれぞれの意味は広く知られているので説明も不要であろうが、一番目の句は、「ちんぷんかんぷん」という、難解な漢語を振り回す訳知り顔の道学者を揶揄した当時の流行語を使って生成消滅の生の不条理を詠ったものか。二番目の句は50歳のとき帰郷した信州の地で再婚した妻との間にできた娘の死を悼んだものといわれており、文人歌人の常套句の「露の世」などで断ち切れぬ思いが「さりながら」と深い嘆息の果ての反発として漏れ出たものか。三番目の句は、西行の「願わくば花の下にて~~」などと格好づけも叶わぬ自らの死の恐怖と生への妄執を赤裸々に吐露したものか。
いずれにせよ、どの句からも、その軽重はともかく、生に対する呪詛めいたものが漏れ聞こえてくるような気がしないでもない。作者は幼い頃に母を亡くして継母に育てられたが十代で江戸へ奉公に出され、その後俳諧修行と生活のため諸国を転々とし、その間その後の遺産相続争いなど多年にわたる苦難の体験が、反骨の実存としてこれらの句々に結晶したといえなくもないであろう。後に「滑稽風刺」の俳人などと評価形容されたのは、作者からしてみれば不本意だったかもしれない。
一片のパセリ掃かるる暖炉かな(芝不器男)
これは作者(1903~1930年)の死の前年の秋、句友たちが病床で開いた句会で披露されたものらしい(そのときの席題が「暖炉」との由)。作者は高浜虚子にその才能を見出され「ホトトギス」にも投句していたようだが、結婚の翌年発病し明くる年の2月に26歳で夭折とのこと。瑞々しいパセリにわが身の悲運を仮託したのであろうか。パセティックな旋律が、あまりにもパセティックなトレモロが伝わってくるようである。