故郷やよるもさわるも茨の花
雪とけて村一ぱいの子ども哉
小林一茶は不思議な俳人だ。蛙や雀などの小動物に暖かい眼差しを向けたかと思うと、人生の辛苦を激しく詠う。詩人の宗左近氏は「一茶とは、何よりもこの世の人間としての愛と悲しみがはげしすぎた詩人です」「不幸の原因は、一茶自身の思想にあるのです。その文芸観、俳句観の新しさ、いわば近代性にあるのです。そこが、芭蕉や蕪村とこの上なく深い違いなのです」(『小林一茶』)とその近代性に注目している。一茶の寂しさは現代にも通じるものだろう。荻原井泉水は「芭蕉は自ら独りを求めて、独りの清境に徹しようとした。(略)一茶は(略)いつも他から独りぼっちにされて、人恋しがっていたのである」(『一茶随想』)と書いている。
一茶は国民的俳人でもある。朝日新聞の「いちばん好きな俳人」(二○一二年四月二八日)によると、芭蕉に肉薄し二位に位置する人気である。因みに三位以下は子規、蕪村、虚子、山頭火と続く。
古里、信濃柏原
一茶の古里は信濃柏原。越後国境にほど近い北国街道の宿場である。冬は雪に埋まり寒さが厳しい。夏は野尻湖の玄関口になり、善光寺方面に抜ける道もある。柏原宿場は加賀藩・大聖寺藩などの参勤交代の宿所でもあったので、一茶の歌心もこの街道文化に影響されたに違いない。
北陸新幹線で東京から長野へ。三両編成のワンマンカー、しなの鉄道に乗り換え約三十五分、色づく山山と線路ぎわに揺れる芒を眺めているうちに黒姫駅に着く。改札口を出ると 蟻の道雲の峰よりつづきけり の大きな句碑が出迎えてくれが、駅前には書店と古びた旅館がぽつんと建つだけで人影はない。
駅から、ゆるやかな坂道が真っ直ぐに小高い小丸山公園まで延びている。両側の商店は小さな店が点在するだけだ。この道が「やせ蛙まけるな一茶ストリート」、蛙のプレートと頬杖を持った一茶の座像が掲げられている柱が両側に続く。路傍にも転転と石の句碑が建つ。すっかり一茶一色だ。
駅を振り帰ると、今日は雨雲が裾野までたちこめているが、初夏に訪れたときは、駅舎に覆い被さるように黒姫山が迫り、その右には妙高山が霞んでいた。黒姫山は穏やかな丸い山だが、妙高山はごつごつした稜線が聳え立つ。一茶の命に対する優しい眼差しと、生活に向けられた厳しい視線を象徴しているような眺めだった。
一茶記念館、俳諧寺、一茶の墓
駅から十五分、小丸山公園の中に一茶記念館、俳諧寺、一茶の墓がある。一茶記念館は鉄筋コンクリート二階建ての近代建築で、昭和三五年に開館し、平成一五年に新館となった。玄関前には、「おのれ住める郷ハ」で始まる「おらが春」真蹟拡大の碑が建つ。内部は一茶の生涯と文学資料、手製の行李・愛用の硯・頬杖、薬の注意などのメモ書きが残る諸国道中地図、江戸時代の一茶の評価を示す「俳人番付」などが展示されている。文化八年の「正風俳諧名家角力級」には堂々東前頭六枚目に上がっている。継母や弟との遺産相続を偲ばせる「一茶・弥兵衛取極一札」「一茶・弥兵衛熟談書付」等が展示され、一筋縄ではいかない生活人・一茶の姿が伝わってくる。
記念館のすぐ裏に一茶像と俳諧寺があり、傍らに三二歳のとき長崎で詠んだ 初夢に古郷を見て涙かな の句碑。俳諧寺は明治四十三年、地元の方々が中心になって建てた小さなお堂「一茶俤堂」で、一茶が晩年に俳諧と浄土真宗の両立を兼ねて「俳諧寺」と号したことに因むという。「俳諧寺社中は、《四時(四季)を友とし造化にしたがひ、言語の雅俗より心の誠を》尊ぶ作品を作ることをモットーとした。」(矢羽勝幸「国民詩人一茶」一茶記念館)。かつては一茶の俳諧仲間であった東京谷中の本行寺の住職・一瓢の彫った一茶像も安置されていたそうだ。格天井を見上げると、ここを訪れた俳人などのサインが掲げられていて、『ひねくれ一茶』の著者である田辺聖子氏の揮毫もある。
俳諧寺の後ろは明専寺の墓地で、奥まっ高所に一茶一族の墓がある。地面は落葉が敷物のように重なり、募石には花束と一緒に団栗が数粒供えられていた。俳諧寺を下る途中に 是がまあつひの栖か雪五尺 を刻んだ、コプラが鎌首をもたげたような大きな句碑や、ここを訪れた山頭火の碑がある。一般道路まで降りて少し進むと明専寺。一六七三年創建の古刹で、構内に 我と来て遊べや親のない雀 の句碑が建つ。明専寺の和尚は、一茶と弟の財産争いの和解の場に立ち会うなど一茶と係わりが深かった。毎年十一月には一茶忌法要が営まれる。
一茶の旧居、終焉の土蔵
寺の先の国道十八号線、昔の北国街道を右折する。本陣跡を過ぎる。幼いころ本陣を世襲する中村六左衛門の塾で学び、晩年には中村一族と師弟関係をもつと同時に庇護も受けた。一茶の旧居はこの先の街道沿いである。自動車の往来が激しい。一茶の家は山深い農家だと勝手に想像していた筆者は、これはちょっと意外だった。
一茶は継母とのいさかいから一五歳で江戸に奉公に出された。二五歳ごろ葛飾派に入門し、宋匠としての生活に希望が見えるようになった。しかし、門人の家を転転とする生活は依然として苦しい。三九歳のとき父の死。継母・弟との十数年におよぶ骨肉相食む財産争い始まった。五十歳、柏原定住を決意し、翌年、弟と「熟談書付之事」を取り交わす。家を半分に仕切り、菊(二八歳)と結婚 五十婿あたまをかくす扇かな。江戸俳諧引退記念にまとめた『三韓人』の序文には、夏目成美の記す一茶の帰郷の事情が載っている。
ようやく柏原に戻った一茶は、北信濃の宋匠として充実した俳諧生活を過ごす(『七番日記』(四八歳から五六歳)、『おらが春』目出度たさもちう位也おらが春 (五七歳)。しかし、私生活上の悲劇が次々に襲う。最初の妻とは死別、二番目の妻とは離縁。掌中の珠、三男一女には、生後二年もたたないうちに、次々に先立たれた。 露の世は露の世ながらさりながら。自らも二度中風で倒れ、やっと手に入れた家も六五歳のときの柏原大火で焼失し、小さな土蔵が残っただけだった。
昭和三二年、国の史跡となった土蔵は、草葺平屋一室の粗末なものだ。暗い土蔵の中を覗くと、入り口に囲炉裏があり、その奥は寝間兼居間のような空間になっている。やけ土のほかりほかりや蚤さわぐ。大火から五ヶ月後、文政十年(一八二七)十一月一九日、一茶はこの土蔵で六十五歳の生涯を閉じた。翌年、四月、待ち望んだヤタが生まれたが、その子の顔を見ることはなかった。一茶の終焉は『一茶翁終焉記』(門人西原文虎)にまとめられている。
土蔵の街道寄りに、弟・弥兵衛の屋敷の復元がある。こちらは、堂々たる茅葺寄棟造二階建ての家だ。弥兵衛は持ち高一四石の上農で村の有力者になり、その息子は幕末に村役人もしている(『俳人一茶』小林計一郎、角川文庫)。屋敷の前には、十四年ぶりの帰郷のときの感慨を詠った 門の木も先ずつゝがなし夕涼 の句碑が建つ。街道を渡ると柏原の鎮守の森、諏訪神社。一茶三回忌に弟などにより建立された 松陰に寝てくふ六十よ州かな の碑がある。あの遺産相続の争いを思うと、ほっとする風景だ。
「小生は、“定住と漂泊”を身にしみて承知した。そして“漂泊”の態を一茶に承知し、そのとき一茶が頼りにした“社会”を、自ら捨てようとした山頭火の“放浪”、捨てざるを得ない所にまで追い込まれてゆく井月の“放浪”を理解するようになる(金子兜太『小林一茶』あとがき)。
今回は曇天で何も見えないが、五月の空には、土蔵から黒姫山の全貌が美しく、一茶の古里は明るく伸びやかな風景だった。しかし、ここが一面の雪野原になったとき、一茶のあの苦渋に満ちた作品が生まれたのかもしれない。
参考文献
宗左近『小林一茶』集英社新書
矢羽勝幸「国民詩人一茶」『一茶の生涯と文学』収、一茶記念館
小林計一郎『俳人一茶』角川文庫
嶋岡晨『小林一茶』成美堂出版
金子兜太『小林一茶』岩波現代文庫
荻原井泉水『一茶随想』講談社文芸文庫
田辺聖子『ひねくれ一茶』講談社文庫